20131202

名前がけっして名づけられるそのものでなく、地図がけっして現地そのものでないかぎり、「構造」もけっして「真」ではない。
(あるとき列車で乗り合わせた人がピカソに、「なぜあんたはものをありのままに描かないんだ?」とつめ寄ったという。ピカソが落ち着きはらって、相手のいうことを理解できないと答えると、乗客は札入れから奥さんの写真を取り出していった。「こんなふうにさ。こういうのをありのままっていうんじゃないのかね。」ピカソは小さく咳込むとこう答えた。「奥さん、ずいぶん小柄なんですね? それにちょっと平べったいし。」)
「構造」はつねに「真理」のいくらか平板に、抽象的になったものである――が、われわれに知りうるのは構造でしかない。地図はけっして現地そのものではないが、ときには地図が想像上の現地とどうちがうのかを論じあうことは有益だ。言語を絶したもの、筆舌につくしがたいものに対して、われわれが近づけるのはぎりぎりそこまでである。ルイス・キャロルはこううたう。「いつも現地はあした、今日現地につくことはない。」
グレゴリー・ベイトソン+メアリー・キャサリンベイトソン星川淳吉福伸逸・訳『天使のおそれ』より「織地のなかの構造」)



12時起床。猛烈な尿意で目がさめた。パンの耳2枚とバナナとヨーグルトとコーヒーの朝食。マイルス・デイビスを流しながら箇条書きにされたメモを元手にここ三日間のブログを書いたのちまだ日の沈んでいない明るい夕暮れどきをぶつくさやりながら図書館まで本の返却にむかった。前を歩く中学生の男の子がひとり他人の家の玄関を前にしてたちどまりなかをのぞきこんでいる風だったので、そこを通りかかるときにちらりとのぞいてみると増税反対のポスターが門にでかでかと貼りつけられていた。男の子はその先でも袋に入った柚か何かがベンチに置かれて一袋で50円かそこらで投げ売りにされている無人販売所の前で立ち止まったりしていた。ふだんは通らない道を選んで歩いていると墓地があり、たちならぶ墓石の背景としてまばらに立つ背の高い建物と建物の間にちょうどしずむ夕陽があり、地平線に近いこともあってでかでかとして真っ赤に燃えたつようであるその深紅がどこかしらぴかぴかとしてあるのに、そうだ、落日とはこんなふうにデジタルな色彩だったのだ、と思い、エリック・ロメールの『緑の光線』をもういちど観たくなった。図書館の帰りにスーパーに立ち寄って食材を購入し、帰宅してからストレッチをしてジョギングに出かけた。当初の計画どおりコースを延長したのだが、かなり気持ちよく走ることができた。延長したコースは信号が多いせいでたびたび立ち止まることを余儀なくされるのだけれど、それがかえってリズムのよい休息になるようなところがある。歩行者信号が緑色に変わるのを待つまでの間、両脚を順番にぶらぶらさせたり重心をせわしなく左右に移動させたりしながらそんな動きをそういえば町中で見かけるランナーたちもよくしているなと思ってすこし可笑しくなった。帰宅してからシャワーを浴びてストレッチをし、たきあがったばかりの玄米と納豆と冷や奴ともずくと胸肉と春菊とえのきと水菜をショウガとニンニクと酒とこんぶだしと塩で炊いたものを喰らいつつウェブを巡回した。それから布団にもぐりこんで仮眠をとることにしたのがたしか21時半前で、21時45分にめざましをセットしたはずなのだけれど次に目がさめると2時で、またやっちまったと思ったのだけれどめざましを止めた記憶がまったくといっていいほどないのでひょっとしてスイッチを入れるのを忘れていたかもしれない。小便に立って部屋にもどってからめざましを4時にセットしなおして二度寝することにした。またもや活動時間の短い一日を過ごすことになってしまったと入眠まぎわのあやしい心地のなかでふてくされた。