2013-03-01から1ヶ月間の記事一覧
おしゃべりたちのおしゃべりを、始まりと終わりについてのおしゃべりを、ぼくは聞いた、 だがぼくは始まりや終わりのことなどに言葉は使わぬ。 かつて始まりがあったのなら今だってある、 かつて老いや若さがあったのなら今だってある、 いつか完成があるの…
時間と空間とをもってわたしはその人を拡大し不滅の諸法則を融合しては、 それをもってその人をその人自身の法則にする。 (ウォルト・ホイットマン/酒本雅之・訳『草の葉(上)』) わたしが歌う一つの歌を、 (一つながら、かずかずの矛盾の糸で織りあげ…
大詩人の体内に昔ながらの赤い血が流れ、一点の曇りもない気品がそなわっていることは、彼らの自在さによって証明されるだろう。雄々しい精神の持主なら、たとい慣習や先例や権威であっても、もし自分の心にそぐわないときには、ゆったりそこを通りぬけてし…
一番ヒドい奇行は(笑)、いや、いろいろありますけど、(少年マガジンの)五十嵐記者のチンチンにラー油を塗って病院送りにしたり、バーのカウンターの上でウンコができるかという話になって、「オレはできる」といって、本当にしようとしたことがあって。…
「人間って奴あ、奇妙な機械みてえなもんですぜ!」と驚嘆したようにゾルバはいった。「パン、ぶどう酒、魚、大根なんか腹いっぱい喰うでしょうが。そうすりゃ、そいつから溜息、笑い、夢が出てくるという寸法でさあ。工場みてえなもんだ。こいつあ確かに、…
何千年もの間、春になると若い男女が、ポプラ、もみ、かし、すずかけの木、細いしゅろなどの新緑の木々の下で踊りに興じてきたのだ。彼らはこれからさき、何千年もその顔を欲望でたぎらせながら、踊り続けるであろう。踊り手の顔は変化し、くずれて、やがて…
「きみのお祖父さんは、どんな風にして死んだんだい?」 と幼い学校の遊び友達が、ある日私にたずねた。 すぐに私は伝説を作りだし、その話がうまくいけばいくほど私自身すっかり信じ込んでしまうのだった。 「ぼくのお祖父さんは白いひげをはやしていたんだ…
私には分からなかった。破壊されるものが何であるか、私にはよく分かっていた。しかしそのあとに何が建設されるか分かってはいなかった。誰一人として確信をもってそのことを分かっているものはいないのではなかろうか。古い世界は、現実のものであり、堅固…
もっとも、何が本当かっていう点になりますとね、真実ってやつは、自分を語るための言葉だけをすいすいかすめとって消してしまって、その消滅の仕組を隠しだてするための言葉ばかりを物語の表面に浮上させてですよ、結局は、話の筋ばかりが妙にしらじらしく…
けれどもこの栄光と光明との発作から、マルシアルは自分がかつて栄光を持った、栄光を所有しているのだという揺るがし難い確信を保ち続けた。人々が彼を認めるか、認めないか、それはほとんど問題にならない。彼はこのことに関してベルクソン氏の「精神的エ…
どうもルーセルはおよそのところ、大衆作家たち以外では、最も伝統的な作家たちにしか親しんでいなかったらしい。彼はつねにあらゆる藝術的ないし文学的運動から離れたところに身を持していた。若いころ、プルーストと会う機会があったが、交際を結ぶには至…
生活と言語とに共通した体系というものはない、その理由は単純で、つまり言語が、そしてそれだけが、生活の体系を形作るからだ。それこそが、その描きだす空間とともに、形式の場を形成するものだ。 (ミシェル・フーコー/豊崎光一・訳『レーモン・ルーセル…
眼差の外にある可視性。レンズあるいは飾りぶちを通してそれに到達できるにしても、そのことは眼と眼が見るものとのあいだに一つの道具が存在するということを示すためでもなければ、スペクタルの非現実性を強調するためでもなくて、遡及的作用によって眼差…
思考は自分自身の歴史(過去)を考えるのだが、それは思考が考えていること(現在)から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来)ができるようになるためである。 (ジル・ドゥルーズ/宇野邦一・訳『フーコー』) 「この本はまず、私に…
ついで、問題としての権力に関しては、思考することは特異性を放ち、サイコロを投げることである。賽の一擲が表現することは、思考がいつでも外からやってくるということにほかならない(すでに、間隙のなかに流れこみ、あるいは共通の限界を構成するあの外…
これらは三つの還元不可能な次元であり、知、権力、自己は、つねにからみ合っている。これらは三つの「存在論」なのだ。なぜフーコーは、それらが歴史的であるとつけ加えるのだろうか。それらが普遍的な条件を指定しはしないからである。知-存在は、ある時点…
言語も、光も、それらをたがいに関係させる様々な傾向(指示作用、意味作用、言語の意味性、物理的環境、感覚的な、あるいは理解可能な世界)において考えるのではなく、それぞれを自足的で、他方から独立した、還元不可能な次元において考えなくてはならな…
〈記憶〉こそは、自己との関係、あるいは自己の自己による情動の、ほんとうの名前である。カントによれば、時間は、そのもとで精神が自己に影響するような形態であった。ちょうど、空間が、そのもとで精神が他のものに影響されるような形態であったように。…
あるいはむしろ、つねにフーコーにつきまとった主題は、分身(double)の主題である。しかし、分身は決して内部の投影ではなく、逆に外の内部化である。それは、〈一つ〉を二分することではなく、〈他者〉を重複することなのだ。〈同一のもの〉を再生産する…
もし、可視的なものと言表可能なものという二つの形態の変化する組み合せが、歴史的な地層、あるいは歴史的形成を構成するのだとすれば、権力のミクロ物理学は、反対に、無形の、地層化されない要素における、力の関係を明示するのである。だから、超感覚的…
現実化-統合作用は、いかに行なわれるのか。私たちは、そのことを少なくとも半分だけ、『知の考古学』によって理解するのだ。フーコーは、言表の固有性として「規則性」を引き合いにだす。ところで、フーコーにとって規則性は、実に厳密な意味をもっている。…
権力関係は、様々な特異性(情動)を決定する差異的な関係である。それらを安定させ、地層化するような現実化とは、一つの統合作用である。つまり一つの「普遍的な力線」を引き、様々な特異性を結びつけ、それらを整列させ、等質化し、系列化し、収束させる…
私たちは、権力とは何か、それはどこから由来するか、とは問わない。そうではなく、いかにそれが実践されるか、と問うのだ。権力の実践は、まるで一つの情動(affect)のようにあらわれる。力は、それ自体、他の様々な力に影響を及ぼし(力はそれらと関係す…
〈権力〉(Pouvoir)とは何だろうか。フーコーの定義は実に簡潔にみえる。権力は力のある関係なのだ。あるいはむしろ、どんな力の関係も、一つの「権力関係」なのだ。まず、権力は一つの形態ではない、例えば国家という形態などではないということ、そして権…
真なるものは、二つの形態のあいだの一致によっても、共通の形態によっても、対応関係によっても定義されないのだ。話すことと見ることとのあいだ、言表可能なものと可視的なものとのあいだには分離がある。「われわれが見るものは、決してわれわれの言うこ…
話すことと見ること、あるいは言表と可視性は純粋な〈構成要素〉、ア・プリオリな条件であり、この条件のもとで、ある時点に、あらゆる観念が形式化され、様々な行動が現われるのである。このような条件の探究は、フーコーに特有な一種の新カント主義を構成…
しかし可視性が関わる条件を構成するものは、ある主体の見方ではない。見る主体それ自身が、可視性のなかの一つの場所であり、可視性から派生した一つの機能なのである(古典主義的表象における王の位置、あるいはまた監獄の体制における何らかの観察者の位…
「出会いは、それが確立した新しい必然性によって、はじめて正当化される。」 (ジル・ドゥルーズ/宇野邦一・訳『フーコー』よりミシェル・フーコー「監獄の誕生」からの孫引き) 言表あるいは言説的形成にとって最も一般的な条件とはどんなものだろうか。…
(…)ダイアグラムは、統合されることのない内在的原因、しかも社会的領野の全体と共通の広がりをもつ内在的原因として作用するのである。抽象機械は、この機械の含む関係を実現する具体的アレンジメントにとっては原因のようなものである。そして、力の関係…
形態は、二つの方向で言われるのである。形態は素材を形成し、あるいは組織する。形態はまた、機能を形成し、あるいは目的化し、機能に目標を与えるのである。監獄だけでなく、病院、学校、兵舎、工場もまた、形成された素材である。罰することは、形成され…