2024-03-01から1ヶ月間の記事一覧

20240331

たとえば二〇〇四年の「純愛ブーム」「韓流ブーム」は、二〇〇四年の社会的コードをもって接近しなければ何故あんなに多くの読者やファンを獲得することができたのか説明できない。ブームになっているものを宣伝するときに必ず「人はいつの時代も」という表…

20240330

「わからない」こと、考えこませることは芸術にとって大事なことなのだ。難解なものばかりをありがたがった、やみくもな芸術信仰の時代がかつてあったけれど、そういうことではなく、「わからない」ことは人間を通常の安定した言葉の領域の外に連れ出す。 (…

20240329

あるいはたとえば国全体が戦争に向かって進んでいるというような大状況の中では、戦争を肯定する言葉も否定する言葉も、読者の関心を戦争に向けてしまうという機能において、同じだけ戦争を肯定してしまうことになる。自衛隊のイラク派兵に反対しても憲法第…

20240328

言葉というのは人間にとって厄介なもので、表記のうえではそれが否定されていてもあるひとつの言葉を書いてしまった時点で、完全な否定つまり消去ということはありえず、否定していてもそれが「ある」ということを前提として受け入れているということがあり…

20240327

また会おう。リチャードは裏口から外に出ると、雨のせいですべる道を慎重に歩いていった。大気は冷えていた。アリスは体の前で腕を交差し、両肘を手で抱えるようにして、戸口のところに佇んでいた。女たちは何世紀もこの姿勢をして案じてきたのだ。 (イーデ…

20240326

エミリーは昆虫の標本のあいだで三本のにんじんのスティックを食べながら、キチン質の昆虫の表皮を愛でた。キチンは哺乳類の生理機能にはなかった。もっとも、人の死後、まだ腐敗が始まらないうちに皮膚が革のように硬くなり——それがキチン状と呼ばれる——そ…

20240325

「除去が終わりました」と、ペイジが落ち着いた声で言った。ボビーは目を開けた。ペイジは畳んだタオルを持ち上げた。そこには半透明の皮膚の欠片が山のように積まれ、ところどころから切られた爪が顔を出し、山のてっぺんには大きな胼胝[たこ]が載ってい…

20240324

社会の中では私たちは、「あれをするか、これをするか」「あっちにつくか、こっちにつくか」「それを悲しむか、見なかったことにするか」という選択肢がいろいろに与えられるけれど、社会の向こうにある世界は選択肢など与えてくれず、茫洋としていて手がか…

20240323

プロパガンダ芸術家とそれを支持した評論家たちは主体的にナチスに協力したと考えるよりも、芸術について考えつづけた経験を持たなかったから、社会に広く流通している意味を芸術の中に持ち込むことしかできなかったと考えるべきなのではないか。そう考えな…

20240322

科学的思考法が無条件に前提とされている時代を生きている私たちは、ある本の中で書かれていることの真偽を確かめるためには、その本の外に広がる現実世界の中でその内容が実証されなければ「真」とは言えないという風に考えるのをあたり前としている。しか…

20240321

以前にこの連載で、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』にアウレリャノのアルカディオが何人も出てくるからといって、単行本に家系図を収録しても意味がないと言ったこととか、カフカの『城』の章ごとの出来事を並べていっても『城』に書かれていることの全…

20240320

小説の想像力とは、犯罪者の内面で起こったことを逐一トレースすることではなく、現実から逃避したり息抜きしたりするための空想や妄想でもなく、日常と地続きの思考からは絶対に理解できない断絶や飛躍を持った想像力のことで、それがなければ文学なしに生…

20240319

もちろん〝信仰〟ということだが、信仰とはそもそも肉体からやってくるのか、言語からやってくるのか。信仰とは肉体を言語に拘束させた状態なのではないか。生の感情を聖書などの言葉によって鋳造しなおした状態が信仰なのではないか。 (保坂和志『小説の自…

20240318

宗教を信じられていた時代だったら簡単だった。しかし宗教への敬意は私自身が使っている言葉によって踏みにじられている。私たちが使っている言葉は全体として宗教への敬意が失われたモードに乗っているのだから、私が一言しゃべるたびに宗教から遠ざかるだ…

20240317

これは予想というかまだ中身としては全然詰められていない考えでしかないのだが、身体と言語のきしみが小説に反響しているかぎり、小説は自我なんていうちっぽけなものでなく、人間の起源に向かいうる。 具体的な題材として〝人間の起源〟を書かなくても、身…

20240316

小説家は、人間の身体が空間の中にあってその身体が感知するもの(A)と、自律的に動く言語の体系(B)という、まったく異なる二つの原理にまたがって文章を書いているということだ(ここに三つ目として記憶の原理というのも考えられるが、それが(A)か(B…

20240315

『ゴドーを待ちながら』の比重は、「ゴドー」でなく「待ちながら」の方にあるのだが、人は動詞や状態をあらわす言葉よりも圧倒的に名詞に反応するようにできているらしい。それが、小説に書かれていることをそのまま読むのではなく、意味を考える性癖の原因…

20240314

実際、掟は、掟の信奉者を寝かしつけるものである。我々も、法律を尊重して生活しているが、それは法律によって自分の精神の一部を眠り込ませるためである。その状態は、分析用語で言えば、超自我と自我の間柄に属する。つまりそれは一つの催眠なのである。…

20240313

我々は朝目覚めたときに、そこが夢の世界ではないことにすぐ気がつく。たった今まで真剣に夢を見ていたのに、夢だったのか、で済ませてしまう。たとえば夢の中でどこかへ行き着こうとして、どうにも行き着けないような夢を見ていたとすれば、いったん起きれ…

20240312

しかし私にとってうちの猫たちがかけがえがないのは、私が猫それぞれの個性を発見したからではない。それは逆で、かけがえがないから個性の違いが一層よくわかるようになっただけのことで、猫がもっとずっと個性の違いを見つけにくい生き物だったとしても猫…

20240311

無意識は「他者の語らい」として規定される。事実、自己が語ることがらは、物語化されており、したがってナルシシズムに浸されてしまっているから、信用できるのは他者からくる言葉だけである。ところが、他者から来る言葉だけを吐いている人間は、どう見ら…

20240310

読者は気がついているだろうか? 私はここで、自分のことを「私」と書いたり「こっち」と書いたり「読者」と書いたりしている。しかもこの段落にも「読者」という呼び名が出てきていて、前の段落の「読者」は「私」から移行してきた「読者」であり、この段落…

20240309

メロディ、主旋律というのは曲の楽器編成を離れて、いろいろな楽器によってどこででも再現することができるからポータブルで便利なのだが、そのとき、特定の楽器による現前性が失われる。音楽や美術の場合、現前性をそのまま物質性と言い換えてもまあかまわ…

20240308

「リンゴ」や「コップ」や「犬」のようには目で確かめることのできないのが「愛」で、誰かが「リンゴ」と言って犬を指差したときに、「それはリンゴではない」と指摘するようには簡単に指摘することができないのが愛で、だから愛はその人ごとに「これが愛だ…

20240307

共感覚というと、音と色を想像しがちだが、聴覚と視覚だけでなく、視覚と味覚とか、聴覚と触覚とかの共感覚(未分化)もあると考えると、文字による描写を読んでいるときに風景が頭に浮かんでくる理由も文学としての巧拙を離れた別の様相を帯びてくる、とい…

20240306

「父さんは言っているよ、おれたちが大人になるころには、何もかも機械になっているって。仕事があるのは、こわれた機械の廃棄場だけになるだろうって。機械にできないことと言ったら、ふざけることだけだ。人間の使い道は、冗談を生かすことだけさ。」 (ト…

20240305

「でもないな。おれの言うのは閉回路(クローズド・サーキット)みたいなものよ。みんな同じ周波数を出している。それでしばらくすると、ほかの波長があるのを忘れちまって、これだけが大事な周波数だ、リアルな周波数だ、なんて思い始める。ところが外部で…

20240304

今になってみれば「低地」は不愉快だと言っても、「エントロピー」を見なければならないときの心のわびしさに比べれば何でもない。この短編は新米の作家がいつも、犯さないようにと警告されている、手続き上の誤りの好例である。一つのテーマ、象徴、あるい…

20240303

高校を出て一度は農業大学に籍を置いたスティーヴだったが、一つにはあるビートニクの男に読ませられたベケットの『ゴドーを待ちながら』に衝撃を受けたこと、もう一つには父親との間が険悪で早く家を出たかったということがあって、ある日、ビショップズ・…

20240302

幼年時代のスティーヴ・ロジャースの記憶にまずあらわれるのは、母親の面影である。父は空軍のパイロットとしてイタリアでの戦役に従軍しており、母は息子を連れてアメリカ中の空軍基地を転々とした。ミシガン湖畔のフォート・シェリダンからサウス・ダコタ…