2014-01-01から1年間の記事一覧

20140415

彼は自分をひとつの「類」と見なしていたが、それに属しているのは彼ひとりきりだった (残雪/近藤直子・訳「素性の知れないふたり」) 8時半に起きた。あたらしい時間割のはじまりである。歯を磨きストレッチをしパンの耳2枚とコーヒーの朝食をとった。そ…

20140414

新しいテレビ。 お昼を食べたあとに、マルサ電機から新しいテレビが配達された。これまでみていたテレビに妻はお酒をふりかけて、「ありがとう」といって、マルサに持って帰ってもらう。 (庄野潤三『メジロの来る庭』) ゆっくりと晩酌をして夕食を食べ終る…

20140413

夜、一日の仕事が終り、あとは、風呂に入って寝るだけというときに、妻は書斎からハーモニカの箱を取って来て居間のこたつに置く。私が二人の好きな昔の唱歌、童謡を吹き、妻が歌う。二曲目はいつも歌なしハーモニカだけの「カプリ」ときまっている。「カプ…

20140412

夕方、玄関に山田さん来ておみやげのカニを下さる。山田さんのお国は新潟で、お父さんは亡くなったが、お母さんが元気でおられる。山田さんはよく新幹線に乗って新潟へ帰る。お国からカニを送って来て、そのカニを山田さんが届けて下さるから、私たちにとっ…

20140411

(…)軍隊に労働組合がないというのは驚くべきことです。給料がないというのは……というか、厳密には、マフィアの方がずっと誠実です。かりにマフィアが諸君にだれそれを殺してくれと頼むとすれば、マフィアは諸君に大金を払います。 (ジャン=リュック・ゴ…

20140410

(…)われわれがここで検証したすべてのことは……われわれが最終的に提示するはずのすべてのことは、映画史というのは、自らの歴史をもつことができる唯一の歴史だということです。なぜなら、映画史というのは自らの痕跡をもっている唯一の歴史だからです……人…

20140409

私はいつも、映像をつくる人たちは音楽を必要としているのに、音楽家は映像を必要としていないという事実を、不思議なことと……おもしろいことと思ってきました。私はよく、アメリカ映画でであれ心理的映画でであれ、あるいは戦争シーンでであれラヴ・シーン…

20140408

(…)私が自分は観客の近くにいると感じるのは、もっぱら、私が映画を自分自身のために必要としているからです。そうでなければ、私は映画をつくったりはしないはずです。 (ジャン=リュック・ゴダール/奥村昭夫・訳『ゴダール映画史』) (…)かりにわれ…

20140407

形容詞というのは状況を判断するためのものじゃありません。でもわれわれは今、形容詞によってものごとが定義される時代にいます。文章のなかでものごとを定義するのに役立つのは動詞とか補語とかであって、形容詞は、定義するためのものではなく、ほかのこ…

20140406

(…)それにまた、法律というのは言葉でできています。映像ではできていません。映像は、法律が適用されたり、裁判官が証拠を提出したりするときにしか役立てられないのです。もっとも、無実の人が自分の無実の証拠を映像をつかって提出するという場合もあり…

20140405

私の唯一の意図は、なにかを言うことにあるのではなく、人々になにかについて語りあわせることにあります……なにかのための撮影をすることにあるのではなく、ある一定のやり方で撮影すること自体にあります。《なにかのために》ということがあるとすれば、そ…

20140404

…私が思うに、変えることが難しいのは、内容よりはむしろ形式です。つまり、形式と内容を古典的に対比して考えれば、あるいはまた、この二つの言葉を文字どおりに解釈して考えれば、形式の方が、変えるのがずっと難しいということです。人間を変えるためには…

20140403

探偵映画はなぜ……というか、人々は警察というものをあまり好きじゃないものですが、それなのに、探偵映画はなぜあんなにヒットするのでしょう? 捜査官とか刑事(ポリシェ)[あるいは「探偵」]というのはいつも、自分がしたいと思うことをしています。かれ…

20140402

私は当時すでに――今でもそうですが――、「ときにはばかでかい映画をつくるのもわるくはないけど、でもそれによって小さな映画をおしつぶしたりしてはいけない」と考えていました。それにまた、「かりにある映画ができのわるい映画とされるとすれば、それはた…

20140401

……私は二十年前はこうしたことを考えていませんでした。そして今になってこうしたことを考えるようになったのは、私がこれまでずっと、映画をつくりつづけてきたからです。つまり、一種のコミュニケーション手段のなかにいつづけたからです……矢を射る者でも…

20140331

たしかに私にも、なにかを文章の形で提出しようとすることはあります。でも私はしまいには、それにうんざりしてしまいます。いったん映画としてつくったものを、なぜもう一度、要約の形でつくり直す必要があるでしょう? 私は映画の宣伝パンフレットとか要約…

20140330

映画をつくるというのは難しいことじゃありません。だいいち、金がかかりません。いや、金のかかる映画は金がかかり、金のかからない映画は金がかかりません。それに、自分を表現し、なにかを言うためには、映像なり音なりは、より強力です……テクストよりも…

20140329

人々はドキュメンタリーというのがどういうもので、フィクションというのがどういうものかということをわかっているつもりでいます。私もまた、この二つの契機は互いに異なっていると考えているし、いくらかはその違いがわかっているつもりです。でも、これ…

20140328

映画は十二人いればつくることができます。それにまた、二人でもつくることができます。ニ、三人で始めておいて、何人かの人を集めればいいわけです。あるいはまた、そのニ、三人が互いに理解しあえなくなれば、ほかに映画をつくりたがっている人がいないか…

20140327

そして私が観客のことを考えるようになったのは、たとえば『カラビニエ』の場合のように、自分がつくった映画が興行的に大失敗におわったとき……とてつもない失敗におわったときです。『カラビニエ』は、二週間で十八人の観客しか入らなかったのです! 私はそ…

20140326

それに、私がときどきクリント・イーストウッドの映画を見にゆくのは、社会学的観点からの興味をひかれるからです。彼の映画は、すべての人たちによって見られる、アメリカの中級の映画、B級映画、ヒッチコック的映画だからです……彼はどうしようもないバカで…

20140325

それにまた、いい仕事というのはつねに、よその土地での、亡命の状態に近い状態のなかでなされるのです。 (ジャン=リュック・ゴダール/奥村昭夫・訳『ゴダール映画史』) ひとはなにかをするためには、二人にならなければなりません。あるいは……自分ひとり…

20140324

人々は、自分のかつて子供だった部分があるとき終わりを告げると、そのあとは、別のやり方でまた始めからやり直します。このことはきわめて不可解なことです。 (ジャン=リュック・ゴダール/奥村昭夫・訳『ゴダール映画史』) 10時半に起きた。頭がぼうっと…

2014323

私はたとえば、言うべきことをほとんどもっていないときにかぎって、あれこれ多くのことをしゃべってしまいます。すると人々は、あいつは言うべきことをたくさんもっていると考えてしまうのですが、でも実際は、その反対なのです。そうした場合の私は、こう…

20140322

ひとは自分にできることをするのであって、自分がしたいと思うことをするわけじゃないのです。あるいはまた、自分がもっている力をもとにして、自分がしたいと思うことをするのです。自分の映画を一時間三十分の長さにおさめなければならないのなら、歎き悲…

20140321

(…)でもこの編集(モンタージュ)という側面は、ある意味では、あまりおおっぴらにすべきものじゃありません。なぜなら、これはきわめて強力ななにかだからです。事物と事物の間に関係をうち立て、それによって人々に、事物を、状況をはっきりと見させるな…

20140320

自分自身に対する、欠くべからざる、絶対的な信頼に関して、セヴィニェ夫人の言葉――「私自身の言うことにだけ耳を傾けるとき、私は驚異的なことをなす。」 (ロベール・ブレッソン/松浦寿輝・訳『シネマトグラフ覚書』) 11時起床。雨降りの起きぬけで少し肌…

20140319

事物を習慣の外へ引きずり出すこと、事物を麻酔から醒めさせること。 (ロベール・ブレッソン/松浦寿輝・訳『シネマトグラフ覚書』) 裸に剥けば、美しくないものはすべて猥褻だ。 (ロベール・ブレッソン/松浦寿輝・訳『シネマトグラフ覚書』) 12時起床。…

20140318

芸術に対する敵意、それはまた、新たなもの、予期せざるをえないものに対する敵意でもある。 (ロベール・ブレッソン/松浦寿輝・訳『シネマトグラフ覚書』) まず、行動すること。 ロンドンの或る宝石店の金庫をギャングの一味が破って、真珠のネックレスや…

検索の神々に再会の祈りをこめて

このブログに引っ越してくるまでは、だいたい一年間好き勝手に気分のおもむくままのスタイルで記事を更新するだけしてよそのブログに引っ越す、というのをずっとくりかえしてきたので、飛び飛びではあるしじっさいによそのブログやプライベートな「日記」に…