20131203

 芸術というのは、聞き手がもうすでに知っていること――もうすでに聞き手のされこうべのなかにおさまっていること――を抜けめなく利用して、聞き手に細部(ディテール)を埋めさせるものである。ウィルヘルミンと聞けばその子は金髪に決まっているし、されこうべといえば肉や皮はきれいに落ちているにちがいない!
 どんなメッセージについても受け手のなかにこのような準備態勢がととのっていることこそ、あらゆるコミュニケーションの必要条件である。この本とて、読者がすでにその9/10を知っているのでなかったらちんぷんかんぷんだろう。
 それはともかく、人と人とのあいだでかわされることばや物語についていえることは、生き物の内的組織化についてもいえる。DNAやホルモンや成長制御物質が何を告げるにせよ、それは胚発生上のさまざまな出来事や、その生物の最終的な解剖学的・生理学的成り立ちに関する無限の詳細(ディテール)のうちごくわずかなものをカバーしているにすぎない。発達途上の体組織は、DNA(および環境)の提示する条件文にしたがった場合のしかるべき反応、つまり結句(then 文)を知っていなければならない。そう考えれば、カバーできる部分は当然まばらになってくる。動植物の形や反応がパターン化され反復的であるのはいうまでもなくこの理由による。重復性(冗長性)は、かぎられた構造的情報で複雑な問題をカバーするための経済的な方法なのである。
グレゴリー・ベイトソン+メアリー・キャサリンベイトソン星川淳吉福伸逸・訳『天使のおそれ』より「織地のなかの構造」)



夢。父と弟の三人で久米島にいる。認識上は久米島であるのだが、じっさいは見も知らぬ土地である。父の運転する車でむかったらしい。とちゅうで道路の真ん中に突っ立ちなにやら書き記されたダンボールを頭上にかかげている男を見かけた記憶がある。ヒッチハイクだったらしい(と、ここまで書いて思い出したのだが、(…)はヒッチハイクのことをハイジャックといっていた)。畳敷きの日本家屋の縁側に出ると庭先がすでにビーチで、真っ暗な遠浅の海のむこうがわに工業地帯の明かりが見える。無数に点在する明かりのもっとも近い位置にあるのは駄菓子屋らしい。あそこなら時給1500円で雇ってくれるらしいぞと父が言うのに、むちゃくちゃおいしい話じゃないかと思う。要するに店番である。であるならば内職もし放題だろう。と、考えているところに弟があらわれて、あそこの駄菓子屋で雇ってもらうことになったと唐突に告げる。先回りされてしまったかとがっかりすると同時に、弟がとうとう動きはじめる日がきたのかといくらか感慨深くもなる。それから、弟はこの島に住み着くことになるんだろうかと思う。
夢。刑務所の敷地内で発展した活気ある町にいる。町には(…)さんと(…)さんが住み着いているらしく、じぶんはどうやら彼らに会いにここまでやって来たものらしい。ところせましと軒を連ねる青空市の真ん中で三人でなにやら立ち話をしている。ひとの往来が激しい。(…)さんのそばには五六歳の男の子が常にひっついている。血縁はないらしいが、なんとなくずるずるといっしょに生活するようになったのだという。そろそろこの町を出るころだとわかっちゃあいるんだけれども刑務所図書館がなかなか便利なものだからねえ、という言葉を契機に、架空の大図書館の図像が次々に展開されていく。(…)さんはインタビューなどで目にした顔写真とピンクの猫ちゃんのアイコンが合成された顔で、(…)さんは年上のおしゃれな男性という認識だけが確実で具体的にはなにひとつ像を結ぶことのない顔でそれぞれ表象されていた。
夢。商店街らしい細い道筋を集団でぞろぞろと歩いている。先頭に立つのは若いのか老いているのか、美しいのか醜いのか、さっぱり判然としない女である。渡りきるのに五歩も必要としない小さな交差点にさしかかるたびに女は律儀にたちどまり、集団のほうにふりかえると、手にした鉈を水平におおきくふりきって後続のものらの首を刎ねる。首の刎ねられたものたちは交差点を渡ることが許されるらしく、すでにここにいたるたびに何度となく首を刎ねられてきた記憶がこちらにもある。女は非力らしく、鉈のひとふりできれいに首を刎ねることがなかなかできない。二度三度にわたってくりかえしふるうこともあれば、まだ首の皮いちまいでつながっている者をめんどくさいとばかりにそのままにしておいたりする。匿名的な友人が、なんかあいつ失敗しそうな気がするんだよな、とこぼすのに、だいじょうぶだって、といいながらその背中を女のほうにむけて押し出す。そこに女のふるった鉈が直撃し、勢いよく刎ねとばされた友人の首が歩道をこえて車道のほうにまでぽーんと飛んでいく。自動車に轢きつぶされていないだろうかと若干の懸念を覚えつつ、鉈をかまえる女のほうに歩みをすすめる。嫌な予感がすると思ったのも束の間、女の手によりふるわれた鉈の刃がこちらの首の左側につきささり、そこで動かなくなってしまう。がっちり肉にめりこんでしまったらしく、引っこ抜くこともできないと見える。すると女はまるでのこぎりでも引くようにしてじぶんの首をギーコギーコとやりだす。痛みはないが反射的に身体がびくりとするのに、痛くないでしょ、と女がいう。痛くはないけど、とこぼすこちらの声がすでに正常ではない。老婆のようにしわがれている。女はこちらの首にささった鉈をのこぎりのように動かすのやめて、かわりにりんごの皮でも剥くようにしてこちらの首の薄皮を三百六十度にわたって剥いでいく。一周したところでぐらりと揺らぐような感覚があったのであわてて前方に両手をさしだすと、そのうえにごろりとじぶんの首が落下する。気絶する直前のようなあいまいにぼやけでぐらつく視界のまま、横断歩道をわたって向こう側にたどりつく。
8時起床。9時間半の活動と11時間の睡眠で成り立ってしまったきのうがたいそう忌々しい。時間の無駄遣いもいいところだ。どうにかしないといけない。起き抜けのストレッチをしながら、プルーストの小説における頻出度のもっとも高い名詞と動詞と形容詞をピックアップしてそれらを組み合わせて構築した簡単な一文を『失われた時を求めて』の基軸であるとの強引な仮定を推進力として作品を読み解いていくという批評を考えたが、だれがそんな面倒くさいことをしてたまるか。パンの耳2枚とヨーグルトとクリームチーズとバナナとコーヒーの朝食。このあいだ(…)さんと会ったときに若いときはぜんぜん平気でもだいたい四十歳を境にして夜にコーヒーを飲むと眠れなくなるみたいなことを言っていてそうなったらちょっとおそろしいなと、朝っぱらからたてつづけに四杯コーヒーを飲んだところで思った。朝食で二杯、その後のウェブ巡回で一杯か二杯、次いで作業に入るところで一杯、それから作業の節目節目で三杯か四杯か五杯か、夕食後に一杯、仮眠をはさんで一日の後半戦で、これは日のスケジュールによって大いに異なるけれどもとりあえず起き抜けに一杯、それから自室で読み書きとなるとたぶん三杯か四杯、で寝るまえに一杯、となると合計でだいたい15杯前後になるわけで、そりゃもらったばかりのインスタントもひと瓶すぐになくなるわと思った。
四杯目のコーヒーをのみながら昨日付けのブログと今日付けのブログをここまで書いた。夢をたくさん見るとそれだけで一日のスケジュールが多少ずれこんでしまうがこればかりはしかたない。
11時より16時半まで発音練習&音読。ひさびさとなる英語の勉強。ずいぶんと日が空いてしまったためにかどうもやる気の出ない具合だったのだが、それでもいざテキストを開いて音源を流してぶつくさやりはじめてみればそれなりに興は乗るしきちんと続けようという気にもなる。最後の一時間ほどはけっこうぐずぐずだったが。集中力が、というか集中力の持久力が圧倒的に欠けている。このあたりもうすこし改善することができればいいのだけれど。あとは「A」だ。「A」さえ片付いてしまえば、もっと規則的な時間割に則った毎日を送ることができるのだ。S来日にむけて集中的に英語の勉強をはじめた4月以降どうにも定まりのつかないふらふらした日程のその場しのぎで日々をやりくりしている気がする。もっとかっちりした規律のもとで動きたい。前半は英語の勉強、後半は「邪道」あるいは「偶景」の執筆をベースに、なんとなく気ののらない日やイレギュラーな予定によってリズムの崩れた日には読書や映画鑑賞をあてるという具合に。今後の予定次第ではあるけれどもうまい具合にことが運びさえすればたぶん来年いっぱいで英語もそれ相応に身につくだろうという気がするし、少なくとも洋書をそれなりのペースで読めるだけの力がつきさえすれば読書と英語の勉強を兼ねての洋書購読というおそろしく効率的な営みを営むことができるようになるわけで、最低でもその段階に達するまでは退屈を耐え忍び焦慮を押し殺して英語の勉強を続けねばなるまい。
英語の勉強をしている途中、不意にまたタイに行きたいと思った。というかトレッキングツアーで同行した(…)やら(…)やら(…)やらと会って遊びたいと思った。いまならあのときよりずっとしゃべれるようになっているわけであるしうまく伝えることのできなかった諸々をあらためて伝えることもできる。英語での会話がどうしておもしろいのかと考えてみるに、英語で物を考えるじぶんが日本語で物を考えるじぶんよりもずっと馬鹿だからなんじゃないかと思った。だから退屈な話題、紋切り型の言説の交換される最中にあっても、ある程度は楽しむことができる。少なくとも日本語で言葉を交わしているときよりはげんなりしたりうんざりしたりイライラしたりせずにすむところがある。というかアレか、それは単純に英語をあやつるじぶんの焦点が話題ではなくてむしろあるひとつのお題のもとで営まれる瞬間英作文にあるからにすぎないのか。うんざりするようなクリシェの交換から離れてひとり英作文のパズルに耽ることができるからにすぎないのか。となれば英語が上達すればするほど英語での会話もまた日本語でのそれのようにうんざりげんなりイライラするようになってしまうのか。すると語学が上達するのも考えものだということになる。明晰さの此岸に逃げ場はない。まずしさと曖昧さの彼岸だけがユートピアになりうるのかもしれない。痴呆の楽園、認知症の天国、機能不全の桃源郷
これ(http://japan.digitaldj-network.com/articles/18707.html)はマルティン・ブーバーの『忘我の告白』に収録されていたどんなエピソードよりもある意味では強烈な気がする。スキゾの微分的様態やクロソウスキー的な永劫回帰がドラッグの薬理作用とはまた別の科学的洞察から裏打ちされるというような。ムージルが微笑を浮かべてこっちをながめている。ひとの子よ、恍惚を知れ。
作文をしない日はその反動からかブログが長文と化す傾向があるのではないかと思った。
買い物に出かけてから懸垂と腹筋をして玄米と納豆と冷や奴ともずくと胸肉を千切りにしたキャベツと一緒に酒と塩と生姜といっしょに炊いたものを食した。それから仮眠をとった。仮眠が過眠になってしまわぬようにめざましを布団から離れたデスクの上に置き、なおかつ20分後にベルをセットした。たかだか20分にもかかわらずぐっすり眠れたような感触があるのはきちんと照明を落として耳栓を装着するためなのかもしれないが、それにしても眠気の尻尾をつかまえてから本格的に入眠するまでたぶん3分とかからないこの寝付きの良さはなんなんだろう。食後の眠気というのはたしか脳の満腹中枢を司る部位が睡眠を司る部位に近いためにうんぬんかんぬんというのをかつて何かで見聞きした覚えがあるのだけれど、それにしてもじぶんの場合はちょっとひどすぎる。どれだけたっぷり眠ってあっても食後は必ず猛烈な眠気におそわれて頭がぜんぜん働かなくなる。低血糖睡眠障害?よくわからない。使い方によってはとても便利な性質ではあるんだけれど。
起きてから柄谷行人トランスクリティーク』の続きを小一時間ほど読んだ。それから風呂に入ってストレッチをした。腰痛にもすっかり慣れた。じんましんはいつのまにか快癒した。『トランスクリティーク』を読み終えたら次は断章形式のものか日記でも読もうと思った。作文と英語の勉強の二足のわらじのその合間に時間を縫ってちびちび読みすすめるのに長編小説や哲学書のたぐいはおそらく不向きである。あるいはひさしぶりに現代詩文庫でも漁るのもありかもしれない。もうずいぶんと長いあいだ詩を読んでいない。これでも一時期は本気で小説家になるべきか詩人になるべきか迷ったこともあったのだけれど。たしかちょうど大学を卒業するかいなかの時期だ。どうして小説に舵を切ることにしたのだったか覚えていない。覚えていないということはたいした理由もなくなんとなくずるずると気づけば小説を書いていたというか書きつづけていたのが気づけば小説だったというそれだけのことにすぎないのだろう。そしてそれだけのことにすぎぬその事実にこそ深く納得すべきだ。キーボードを毎朝毎晩ひっきりなしに叩きつけるこの手この指先が小説を選んだのだ。それ以上の理由が必要か?
ぼんやり『トランスクリティーク』を眺めながら4時ごろ床に着いた。図書館の在庫検索でロベール・ブレッソン『シネマトグラフ』をサーチしたらヒットしなかったので『ゴダール映画史』とまとめてamazonでポチった。