2023-04-01から1ヶ月間の記事一覧

20230430

まず母の欲望の対象である想像的ファルス(…)が父の名の機能によって象徴的ファルス(…)となる(原抑圧)。つづいてこの象徴的ファルスが抑圧される。最後に抑圧されたファルスに変わって対象aが出現し、これを目がけて欲望はシニフィアンを換喩的に連鎖し…

20230429

こうした変遷をもう少し詳しく見ていこう。母子の共生関係のなかで何の不安もなく満足に浸っていた子どもは、ふと母親が自分ではないものに注意を向けていることに気づく。母親の欲望の対象が自分だけではないことに気づくのである。この充足状態の崩壊とい…

20230428

この自由の意味を明白にするために、大宗師篇から最後にもう一つだけ引用しておこう。 顔回が仲尼(孔子)に尋ねた。「孟孫才は母が死んだ時、泣く仕草はするが涙を流さず、心から悼まず、喪に服しているのに悲しみもしません。こうした三つを欠いているのに…

20230427

では、ドゥルーズにとって、他なるものへ生成変化するとはいかなる事態であったのだろうか。それは、他なるものを模倣することではない。他なるものになることは、自分自身でありながら、しかしその構成を分子のレベルから変えることなのだ。 俳優のデ・ニー…

20230426

(…)たとえば、人間が「化」していく現実を考えてみよう。それは、人間が、卵子と精子の結合から生を得て、諸器官が分化し、赤ん坊となり、子どもから成長し大人になるという変化でもあるし、男や女になり、老いて死ぬという変化でもあるだろう。この現実は…

20230425

このことに関しては、桑子敏雄(一九五一— )が極めて示唆的な議論を展開している。桑子はまず、現代の恵子としてトマス・ネーゲル(一九三七— )を召喚する。 こうしてネーゲルであれば、荘周に対しては、われわれは魚の感覚器官とはまったく異なった器官に…

20230424

ところで、「物化」において、まずはそれぞれの境遇(「これ」)において絶対的に自足するべきだと言った場合、一見すると、それは自同者(自己に同一の同じもの)の閉域を形成するように見える。それがなぜ、他の物になり、別の世界(「あれ」)を構成しう…

20230423

郭象は、一つの区分された世界において他の世界を摑まえることはできない、と主張する。「まさにこれである時には、あれは知らない」からである。この原則は、荘周と胡蝶、夢と目覚め、そして死と生においても貫徹される。この主張は、一つの世界に二つ(あ…

20230422

ここで考えなければならないのは、『荘子』の中には、言語への不信とは別に、ある仕方での言語に対する根源的な信があるということである。たとえば、次の箇所を見てみよう。 そもそも言は吹く風の音ではなく、言には意味があると考えられている。しかし、そ…

20230421

だが、郭象の『荘子』読解はここにとどまるわけではない。というのも、「自生独化」、「自然」、「自得」を通じて、何か別の大きな変容が想定されていると思われるからだ。それは、「無」という「存在論的根源者」を「有」から切り離したことに関わる。もし…

20230420

疎外はラカンが「強いられた選択」と呼ぶものに関わっている。それは強盗があなたに与えるような選択、すなわち「カネか命か!」というような選択である。カネを保持しようとするなら、あなたはカネと命の両方を失い、そうではなくカネを手放すなら、あなた…

20230419

セミネール第19巻で彼はこう述べている。「私は、あなた方が自分の仕事に取り組むために、[私が言うことの]意味があまり簡単に分からないようにしている」(…) (ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳『「エクリ」を読む 文字に添って』 p…

20230418

ラカンはおそらく、読者に、ストア派の哲学者クリュシッポスが示したような態度で振る舞って欲しいのだ。彼は個人教師に「私にいくつか教義を与えてください、そうすれば私はそれらを支える論証を見つけましょう」と言ったのである。ラカンがセミネール第11…

20230417

ラカンはしばしば、彼がそのような難しさをどれだけ重要と考えているか述べている。たとえば、セミネール第18巻における『エクリ』についての見解を見られたい。「多くのひとたちが躊躇うことなく私に「何ひとつとして分からない」と言っていた。それだけで…

20230416

ラカンは子どもの自我を「小さな他者」と呼ぶ。なぜなら子どもの自我は、その子のまわりの「小さな他者たち」——幼い兄弟、姉妹、いとこ、隣人——をモデルにしているからである。転嫁現象 transitivism という現象——たとえば、ある状況においてひとりの子ども…

20230415

しかしこうした啓示的な作業が間断なく永遠に続くことなどありえないことを分析家は痛感している。実際、非常に稀ではあるが、いくつかの分析では、長い間、均衡状態が続き、作業が停滞していたところに、他の迂回路が見つかるのではなく、むしろ、ほんのつ…

20230414

決して的を外すことのない、失敗しない享楽の地位とはどのようなものなのだろうか。それはまさしく、ラカンによれば、実在しない。しかしそれは、理想ないし理念として、すなわち思考によって思い描くことができる可能性として、自らを強固に主張する。ラカ…

20230413

私たちはおそらく、動物が決してしないことを行っている。私たちは自らの享楽を、そうあるべきと考える基準に照らして、すなわち絶対的な基準、規範、ないし標準に照らして判断する。基準や判断は、動物の王国には実在しない。それらは、言語によってはじめ…

20230412

ラカンはアリストテレスを論じながら、知は享楽の欠乏を動力にすると述べている(…)。生活のなかで手に入る快を、私たちは不適切なものだと感じる。この不適切さのために、私たちは知のシステムを拡張する。おそらくそれは、何よりもまず、なぜ私たちの快が…

20230411

彼の書きものには多義性、二重・三重の意味、曖昧さ、喚起的描写、謎、ジョークなどがまさに氾濫している。彼のテクストと講義は、分析それ自体が要請するような類の作業へ、すなわち意味の層を移動し、テクストをそれがまるで一連の長い言い間違いであるか…

20230410

もしシニフィアンの主体を介して享楽の主体のうちに変化がもたらされるのだとすれば、両者には何らかの収束や重なりがあるはずだと思われる。ラカンは早くから、発話においてふたつの主体が同時に生じることに気がついていた。発話は、語彙や文法をそこから…

20230409

第3章でフォルト - ダーの二項論理について議論した際に見たとおり、母の不在は、象徴化されるまでは無なのであって、まだ「喪失」ではない。不在は、それに名が与えられるまでは何らかの物事として理解されすらしない。母の不在に名を与えるにせよ、ペニス…

20230408

言語が私たちを動物とは異なるものにするなら、享楽は私たちを機械とは異なるものにする。 (ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳『「エクリ」を読む 文字に添って』 p.177) 11時過ぎ起床。快晴。歯磨きと洗顔をすませて第五食堂で打包。食…

20230407

(…)分離とは、〈他者〉の欲望からの分離、〈他者〉の欲望の最終的なシニフィアンになろうとする不幸な試みからの分離である(「最終的な」というのは、そのような欲望を完全に満足させ、治療を終わらせるという意味である)。 (ブルース・フィンク/上尾…

20230406

欲求が要求に変わる瞬間、ひとつの離接が導入される。私たちは自分自身を言語によって表現しなければならないという事実のため、欲求が要求のなかで十分に表現されるということは決してない。私たちの欲求は、他人に向けられた要望や要求のなかで、決して完…

20230405

主人のディスクールにおいては、あるシニフィアンから別のシニフィアンへの移行のなかで、主体は、一方で意味(/S)として決定され、凝固し、固着するが、他方でその存在(a)は失われ、犠牲にされる。ひとは自分の存在をいくらか諦めるよう強いられるのであ…

20230404

先に見たように、S1によって文のはじめを、S2によって文の終わりを指し示すことで、ボタンタイの図式を、意味を生みだすプロセス一般を説明するのに用いることができる(…)。文のはじめに言い間違いが含まれる場合、次のように考えることができる。分析家が…

20230403

ラカンは、精神分析にとっての問いが、いかにして知の体制と真理の体制をひとつに結びつけるか、というものであると断言する。少し先走って、次のように示唆しておこう。すなわち、私たちはここですでに、フロイトとラカンの仕事をとおして見いだされる根本…

20230402

ラカンによれば、自己意識は次のような仕方で生じる。〈他者〉が自分を見る仕方を内化することによって、すなわち〈他者〉のまなざしやコメント(それらは自分を承認したりしなかったりする)を同化することによって、人は〈他者〉が自分を見るように自分自…

20230401

ここで、そうしたシニフィアンの例として、フォルト - ダーの二項(…)を取り上げよう。フォルト - ダーは自らが示すものを、現前させると同時に抹消することに注意したい。すなわちフォルト - ダーは、目の前にいなくても母について語ることを可能にし、そ…