20131204

ディテールとディテールのあいだのディテールという切れ目がある。記述の網をどんなに細かくしても、それよりもっと小さなディテールがかならず記述からすり抜ける。これはわれわれの不注意や怠慢からくるものではなく、原則的に記述のしくみ――それが言語であれハーフトーン印刷であれ――がデジタルで不連続なのに対し、記述されるものに内在する諸変数がアナログで連続的だからである。いっぽうもし記述の方式がアナログ的である場合は、いかなる量も他の量を正確にあらわすことができないという状況にぶつかる。すべての測定はつねに、必然的に近似的なものでしかないのだ。
グレゴリー・ベイトソン+メアリー・キャサリンベイトソン星川淳吉福伸逸・訳『天使のおそれ』より「織地のなかの構造」)



10時起床。パンの耳2枚とバナナとヨーグルトとクリームチーズとコーヒーの朝食。12時より発音練習&音読。作業の途中コーヒーを入れるべく水場にむかうと大家さんがひなたぼっこをしていたのでこんにちはと挨拶した。大家さんは天気の良い日によくひなたぼっこをしている。日当りのよいところに置かれた丸椅子やベンチに腰かけてなにやらチラシらしきものをめくっている姿をしばしば見かける。ひょっとすると長寿の秘訣なのかもしれない。今日はいい日和ですねと声をかけると、ええほんとにええ天気でとなぜかやたらと気恥ずかしそうな表情での返事があり、おかげで洗濯物もよく乾きますと応じれば、ほんとうにまあいつもわたし感心してるんです、どれもこれもぴんと干して、長いあいだ下宿をやってますけどこんなに上手に洗濯しはるひと見たことありません、ほんとうにまあお母さんの教えが尊いですなとあって、お母さんの教えが尊いですな、なんてすごいフレーズなんだろう! 大家さんはときどき古い小説の書き言葉みたいな言葉をごくごく自然にあやつってみせる。そこに95年の歳月を経てうしなわれた日本語の活用が垣間見える。お母さんの教えが尊いですな!
その大家さんがどのタイミングだったか、みかんを2つ持ってきて部屋にやってきたのだけれど、なぜかまたもやじぶんのことをわたなべさんと呼んだ。大家さんのなかでじぶんはたぶん七割は(…)で、二割はわたなべで、一割はなかむらになっているんだと思う。
勉強はいつもより早く15時半に切り上げた。まだまだ明るいなかを歩いてスーパーに買い出しに出かけた。帰り道に先日見つけた墓地の前を通った。落日は今日も望むことができたが、赤々とした日暮れにはやや時間が早く、うすい色づきだった。スーパーではクリームコロッケが一個60数円でバラ売りされていたので2つ購入した。たかだか5分の帰路も我慢できずに2つとも歩きながらかっ喰らってしまった。クリームコロッケ美味い。クリームコロッケは世界遺産だ。クリームコロッケを食うたびに熾烈な精子争いで一位を勝ち取り生まれてきた甲斐があったと思う。
帰宅してから玄米と納豆と冷や奴ともずくと胸肉ときゃべつとみずなをブイヨンとニンニクで蒸し煮した適当な夕食をかっ喰らった。それから布団にもぐりこんで眠気がきざしはじめるまで『トランスクリティーク』の続きをぺらぺらやっていたのだけれどその時点で時刻はまだ18時にも達しておらず、加えて比較的な温暖な一日であったからなのか、不意にいまが冬から春に移り変わる雪解けの季節であるような、日脚もずっと長くなり午後7時をまわってもまだ明るいあの時期であるような錯覚に見舞われて猛烈なワクワクがこみあがり、こみあがると同時にそれが錯覚であることを冷静に告げる声がたちあらわれ、それによってワクワクが遠い季節への憧れと感傷にうらがえりとりかえしのつかないような胸の苦しさを覚え、けれどそれでいて同時に、もう数ヶ月もすればまたあの季節がやってくるのだというかすかに性的な期待感のようなものがまた胸にきざし、せわしない感情のたちかわりいれかわりにいささか酔うようですらあった。
仮眠から覚めた。寝たりなかったのでめざましを10分延長した。また覚めた。それでも18時半だった。なんという長い一日なんだろう! コーヒーを入れてゆっくり飲んだあと、19時から21時までふたたび音読に取り組んだ。それからストレッチをしてジョギングに出かけた。今日も前回にひきつづき新コースを走ることにした。旧コースの半ばにさしかかった時点ですでに脇腹が痛くなりはじめており食後は食後でこいつがあるから厄介だなと思いながら今日のところはおとなしく旧コースのみにとどめておくかと考えもしたが、こういう妥協の積み重ねがクソみたいな出来損ないを生み出すことになると知っているのでそこはいっちょう踏ん張ってやってみることにした。したら北大路通を東進したのち烏丸通を南下しはじめてまもなくのところで派手にこけた。足があまりあがらなくなりつつあるなという感触はそれまでにたしかにあったのだけれどまさか蹴躓いて転ぶことになるとはいうアレであるというかこれでもう二度目になるわけだが、足がもつれて二三歩おっとっととなったのち前のめりに倒れようとする上体の傾きを感じたとき前回転んだときの記憶がよみがえって、あのときは転びかけたというか実質転んだようなものであるのだけれど前方にさしだした両手のひらで地面を受け止めそのままクラウチングスタートを切るようにして間髪おかずに走行姿勢にもどったみたいな、あの経緯をなぞろうとする意識のようなものがほんの一瞬の間にたしかに脳裏によぎってそれでとっさに両手を前方にさしだしたのだけれど、アスファルトを叩きつける両手のひらのこうむったダメージが思いのほか大きかったのかそれとも逆境から姿勢をたてなおすには少々両脚に疲労がたまりすぎていたのか、クラウチングスタートを切るための力が不足しており本来なら四つ足状態から斜め上空にむけてぐっと伸びなければならないこちらの力が右方向に逸れてしまってその結果なにか柔道の前回り受け身にも似たやたらと見栄えのよく恰好のいいスタントマンみたいな転び方をしてしまって、さいわい周囲に人影はなかったし車も通っていなかったから良かったものの、あれ誰かに見られていたら赤面して死ねるところだったと思う。両手のひらの掌底のところがじんじんと痛くてまるで火傷でもしたみたいで、左手のほうはたいしたことないのだけれど右手のほうは擦り傷みたいになっていて、それに右膝も少し痛かったし咄嗟に無理な姿勢をとったからなのかなんなのか左肩から肩甲骨にかけての筋になにかしら負担のかかったような感触もあって、それで一気にシラけたのでのこる直線は歩いて帰ることにした。横断歩道を歩きながら、おれはなにやってんだろ、と思った。無様だと思った。惨めだと思った。生まれもったものの少なさを補うために時間の大半を自分自身に投資して、その投資の結果が三十路を目前にひかえての路上の転倒かよと情けなくなった。きめるべき恰好のまったくきまらない男がおれだと思った。Giuseppe Ielasiが終わったのでとてもひさしぶりに、たぶんSが去ってからはじめてKathy McCartyのLiving Lifeを聴いた。聴きながらとぼとぼと烏丸通を南下していると街路樹のイチョウが目について、街灯に照らされた葉の黄色とも黄緑ともつかぬ色合いをながめていると、そういえばイチョウの木を長い時間かけて描写したことがあったな、あの小説は結局ボツにしたけれども、と思い出すところがあり、すると突然気分が若やいだ。それからなんという人生だろうかと思った。こちらがどれだけ自分自身にかまけていようとも見捨てずにいてくれる友人がいて、慕ってくれる仲間がいて、そしてときには愛しているといってくれる女性まであらわれる。これはいったいどういうことなのかと思った。棒に振ったつもりでいてその実なにひとつ振りきれていない。呪いのように美しい人生ではないかと思った。そういうあれこれに全面的に陶酔しながらもそれでも頭の片隅ではまたはじまったぞわけのわからない感動が、もののおとずれがまたはじまったのだと冷静に分析するような声があり、けれどそれもだんだんとどうでもよくなってきて、冬から春にむかう時期の錯覚がひょっとしていまこの瞬間に極まったんじゃないだろうかという突然のひらめきによって止めを刺された。
帰宅してからシャワーを浴びた。トイレの前でひさしぶりにパワー型ユニットとすれちがったのだけれど女連れで、立ち去るこちらの背中越しに、やばーいなにこれトイレー嘘でしょーという声が聞こえた。やばいかもしれないが嘘ではない。ここに住んでいるのだわれわれは。部屋でストレッチをしているとさっきのひとってシャワー浴びてたのみたいなことをたずねる女の声がおもてからまた聞こえてきて、細部がごにょごにょしていてうまく聞き取れなかったのだけれどもどうもパワー型ユニットは大家さんのところのシャワーを彼女なのかfuckbodyなのか知らんがその女に使わせようとしているみたいで、たぶんだいじょうぶでしょ、問題ないでしょ、みたいなことをしきりに口にしているのが聞こえてきたのだけれど甘いな、大家さんの女嫌いっぷりを知らないからそんなクソ甘い認識を持つことができるのだ。女性に大家さんのシャワーを使わせる方法はひとつしかない。親族関係の捏造、これのみである。とかなんとか考えているときにふと、そういえばパワー型ユニットもKJも(…)が去ってからやって来た住人であるのだなという事実に思いあたり、そこではじめて彼女が去ってからの年月というものの量感を感じた。それからとつぜんじぶんがこの夏とても希有な経験をしたんではないかという認識にはっとしてめざめた。ありえそうでなかなかありえないとても奇妙でロマンチックな夏をおれは過ごしたんでないか、今後生涯をとおしておれはこの夏を折に触れては思い出すことになるんでないかと思い、いいやそれはおおげさだと一瞬考えなおしたが、いやいややっぱりおおげさではない、かなり特別なひと夏だった、きっと何度も思い返すことになるだろうと確信を強め、(…)と京都駅前のスタバのテラス席に腰かけながら、どういう話の流れだったか、たぶんあなたはこの夏のことを忘れないでいてくれるみたいなことをいわれたときだったような、あるいはあなたはこの先わたしのことを思い出してくれるのかしらと挑発的な質問を投げかけられたときだったかもしれないが、いずれにせよスタバで、夜で、夏で、むかいあって手を握りあっていて、たとえば50歳のおれは京都のあの犬小屋にまだひとりで住みつづけているかもしれない、小説はあいかわらず売れなくて金もないしまともな仕事もない、毎日腹をすかせていて頭もいま以上におかしくなっちゃって、身内にも見捨てられて友人もみんな遠のいてしまって、なにもない部屋にただひとつだけのこされた古いぼろぼろのマックを相手にそれでもカタカタやってる、パーフェクトな孤独だ、そんなパーフェクトな孤独のなかでもおれはたぶん書きつづけている、正気もわずかにたもっている、それでじぶんの人生に満足している、悪くない人生だと考えている、なぜか、毎晩眠るまえにこの夏のことを思い出すからだ、22年前の夏とても素敵な物語のなかを生きたというそのたしかな記憶のはげみがあるからだ、それがあるかぎりおれはくじけないだろう、あるいはくじけてもまた立ち上がるだろう、美しい夏の思い出があるかぎり孤独のなかで書きつづけるのもきっと苦にはならないだろう、自殺しようだなんて思わない、なぜなら死んでしまったらあんなにも美しい思い出にひたることができなくなってしまうのだから、みたいな歯の浮くような紋切り型のご機嫌取りを口にして、案の定(…)はそんなベタなアレでも、というかそんなベタなアレだからこそなのだろうけれども握ったこちらの手を頬におしつけて瞳をうるうるさせて、そういう彼女の横顔をながめながら心の半分はしらけていたのだけれどあそこで語ったあの言葉、嘘じゃないかもしれない、嘘のつもりで口にしたのだけれど化かされていたのは彼女ではなくて自分自身だったのかもしれない、そう思ってはっとした。少なくとも、きっとそう、この夏のことは今後何度も思い返すだろうし思い返すたびに都合良く美しく磨きあげてしまうだろうし、そしてそれでいっさいがかまわないのかもしれない。美化された思い出をふところに抱えて、つらくてしんどくてどうしようもないときにふとのぞきこんでみる、愛し愛された記憶の断片を非常食のようにしてときおりつまみながら、そうしてまたますますほの暗くなっていく坑道の奥へと進んでいく、記憶の引力と関係の重力にたえずひっかきまわされ前方と後方の区別もなくしながらそれでも書く指先だけを頼りに、言葉を叩きつけるこの指先だけを頼りにして盲目的に生き抜く。生き抜いてみせる。感傷をことさら忌み嫌うことなく、ときには馴れ合いながら、使えるものはすべて使って、すがることのできるものにはすべてすがって、そうして生き、そのようにして書く。それは別段、排斥せねばならぬ生き方なんかではないんではないか。本当の泥臭さとはおそらくそんなふうにみじめで、恰好わるく、自己陶酔的で、そしてなによりそれ以外には手の打ちようのない窮地をゆくことをいうのではないか。
そうこう考えながらKath BloomのCome Hereを流しつつストレッチをして、こういう思い出の音楽みたいなのを連続でチョイスしてしまうあたりどうも今日のじぶんは感傷的だな、(…)とたびたびおとずれたなか卯の店内に彼女そっくりのパツキンがわれわれの腰かけていた席についているのをジョギングの途中通りがかりに目にしたのがまずかったのかななどと考えて、それからこのままやつとは完全に疎遠になるのだろうかと考え、いいやそれはないな、どうせ放っておいてもやつのほうからなにかしらアプローチをとってくるに決まっていると思い、だがそうした見込みがはずれた結果として見送る人物のいない空港で道化を演ずるはめになったんでないかと反論する声もまたあって、そのようにしてとくに収集がつくわけでもないものを適当に聞き流しながらメールボックスをチェックすると、その(…)からメールが、一ヶ月ぶりか、あるいはそれ以上か、とにかく届いていて、ほらコレだ!あいつはいつもこういうドンピシャのタイミングでアプローチをかけてくるんだ!と思ってとんでもないシンクロっぷりに戦慄した。戦慄しながらメールを開くと、元気にしてる?小説のほうはどう?みたいな短い挨拶のあとにURLが貼られていて、あなたはもうBefore Midnghtを観たかしらと添えられており、リンクを踏んで飛んでみると、おそらくは違法アップロードのされている動画サイトなんだろうけれども、Before Midnightがまるっと一本あがっていて、日本での公開はたしか来年じゃなかったと思って調べてみると来年1月とあり、とりあえずブラウザを閉じた。よりによって例の二曲をこうしてひさしぶりに流してくりかえし聴いているそんな日にかぎって連絡があり、それもまた楽曲に直接結びつく映画の話だとくる。なんというできすぎた展開なんだろう!三部作の最後でふたりがどうなったのか(…)はすでに目撃し、われわれの分身として見なしているらしい彼らのその結末をこちらにもまた目撃するよううながしているのだ。
と、ここまで書いたところでなにか一気にどっと疲労がのしかかってきた。メールの返信は後日にまわすことにする。今日は心がとてもせわしなかった。こういうときはいちど睡眠をはさんでちらかったものをしずかに整えてもらうにかぎる。最近は布団にくるまるのが楽しい。くたくたになって眠りにつく瞬間のあの足の先からじんわりと細胞が解けていくにつれてへらへらと痴呆的に顔がほころんでしまう感じがとても好きだ。