20131205

スコットランド語には、「運命 fate」とか「夢幻郷 faery」と同語源で、それまでわからなかった多くの真実が明らかになる高揚状態をさした「(死の直前の)神がかり fey」ということばがあって、民間伝承ではそのフェイにかかった人には超自然的な智や千里眼がそなわるとされている。これは、死の絶対的確信によって誘発される心の状態をあらわすことばとして、じつに的確なものといえる。死が間近に迫り百パーセント確実で、時間かせぎもかなわないようなとき、新しい鮮明さでもってものごとをみることが可能となって、心は高く舞い上がることができる。この状態は欲望衝動から解放された結果であり、仏教でいう「無執着」はほぼこれにあたると思われる。ウィリアム・ブレイクのことばをかりると、眼に邪魔されずにみることができるようになり、成功と失敗、恥辱と虚栄の幻想がかき消えるのだ。だれもが死の瀬戸際にいたとしたら、羨望などありえまい。
グレゴリー・ベイトソン+メアリー・キャサリンベイトソン星川淳吉福伸逸・訳『天使のおそれ』より「無垢と経験」)

このあいだの脳科学者のもそうだったけれどもこういう記述に出くわすたびに『忘我の告白』の21世紀バージョンを編まなければならないんでないかという使命感のようなものをおぼえる。



10時起床。12時より発音練習。勉強をしている途中でなぜか筋トレについて長々と検索してしまって、というか最初は腰痛を改善させるための方法はないものか、腰痛持ちでも可能な背筋のトレーニングはないものかみたいな目的であったはずが、胸も腹もそこそこひきしまっているのにどうしてじぶんの身体はこうもひょろい見栄えなのかという自問の結果として導き出された僧帽筋三角筋の圧倒的な貧弱さ、この貧弱さを改善するためにもっとも効果的なトレーニングとはなにかというアレへと焦点がずれこみ、シュラッグというトレーニングがどうもよいらしいぞと、このトレーニングによってうまくいけば肩こりとも無縁でいられるらしいぞと、最終的にそのようなすばらしい見通しを得るにいたったのだけれどシュラッグにはダンベルが必要で、(…)に自重トレーニングの本をもらってまだ二ヶ月も経っていないように思うのだけれど早速やつの好意をうらぎることにしておすすめのダンベル教えろと(…)にメールし、返信に添付されていたリンクをいちいちウェブブラウザのほうに手打ちで打ちこんでそして注文した。20キロ×2セットのものである。重さは調節できる、大は小を兼ねる、ゆえにどーんとでかいブツを注文するにいたった。たぶん6000円くらいした。
おもわぬショッピングにより完全に集中力が途切れてしまったのでマルタイラーメンに胸肉とわけぎをぶちこんで喰らった。とにかく食事の量を増やさないといけない。かといって好き放題食えるほどふところ事情のよろしいわけではもちろんないし、食えば眠くなり作業効率の落ちることを考えるとためらわれるところもあるというか、作業効率を最優先した結果一日ほぼ一食の生活が数年続いたわけなんだけれどもそれで体調崩しているんだから元の木阿弥だともいえる。
どうせこんなふうにずれこんでしまったのであるし今日はいつもとちょっと時間割を変えてみようという雪崩式のアレがまた働いたのでそのまま筋トレすることにして、いつもの懸垂とあとは自重トレーニングの本にのっていた背筋を鍛える負荷の軽いトレーニングみたいなのを試してみた。腰痛だからといって背筋をかばってばかりいても話にならないだろうしもうかれこれ二ヶ月ほど念入りにストレッチして食生活も改善してそれでもなかなか良くならないんだったら新たに別の方策をとるしかないわけで、それで安静にするのではなくてむしろ動かしてみるというアレから試してみたわけなのだけれど、トレーニング終わりにはやっぱりそれ相応に腰が重くだるくなる。これが単なる筋肉疲労だったらまあいいのだけれど腰痛の悪化した結果だったりしたら最悪というほかない。
食事をとったら案の定眠たくなってしまったので布団にもぐりこんで20分プラス延長あと10分の仮眠をとった。めざめると18時で、今日は一日を再構成するための起点となるようなメモがまったくない状態でこの日記を書いているのだけれどそれでいてなぜ仮眠明けが18時であると断言できるかといえばそれはデスクの端に鎮座する外付けHDの上にのっかっためざまし時計の赤い針が5を指しているからで、このめざまし時計はたぶん中学入学と同時にジャスコかどっかで購入したもののはずだからかれこれ15年以上使い続けているわけで、これいま書きながらどんだけ物持ちいいんだよと爆笑してしまったのだけれど、さすがに15年も使っているとアレであるというかアラーム用の赤い針が一時間ずれていて、たとえば4にセットすると5時にベルが鳴り、10にセットすると11時にベルが鳴るみたいな反抗期仕様になっているのだけれどいずれにせよその赤い針、そいつがいま5を指したままになっているのでそうだ仮眠から覚めたのは18時なのだと合点がいった。
30分というのは仮眠にしては少々長すぎる時間で、コレこれまでも何度となく書きつけた記憶があるけれども入眠後25分あたりを境にどうも睡眠が深くなるか否かの分水嶺みたいなものがあるみたいで、睡眠持続時間が25分をこえると途端に起きるのが困難になる。今日はぎりぎり起きることができたけれども、まるで寝不足の朝の起き抜けのときのように身体を起してからも布団のうえに座りこんだまま「ああー」とか「ううー」とか喉を鳴らして脳みそが再起動するのを待つひとときがあった。それから買い物に行くことにしたのだけれど今日は木曜日で、ということは最寄りにあるスーパー、ここはやたらと値段設定が高いので通常利用することはないのだけれどただ木曜日になるとこのスーパーの敷地内に古本市がたつのでひさしぶりにのぞいていこうかなと、そういうアレでいつものスーパーにむかう道すがら立ち寄ることにしたのだけれど別段めぼしいものはなにもなかった。深沢七郎の「笛吹川」が収録されている全集本があったのだけれど全集のたぐいはかさばって邪魔くさいしもう極力本は持たないようにしたいというアレがあるのでまあいらねーやとなった。半日あれば十分に荷造りできるくらいには身軽でありたい。引っ越しをくりかえすうちに蔵書もずいぶん少なくなったけれども(ピーク時でいったい何冊あったんだっけかと思い円町の家を引っ越す前あたりの日記をばばばっと斜め読みしてみたんだけれどいまひとつはっきりしない、なんとなく700冊という印象があったのだけれど(…)くんの母君にあてて300冊ほど郵送したとあるので手元に残したものやブックオフで処分したものを考慮するとまあ妥当な数字なのかもしれない)、このあいだ本の入ったダンボールをごそごそあさっていたらなんでこんなもん残してあるんだよみたいなのがけっこうばかすか出てきて、いまならもっともっと身軽になれる。極論をいえばムージルカフカ、ヴァルザーの三人、作家単位で残しておきたいと思うのはこれくらいかもしれない。その三人にしたところで全著作が手元にあるかといえばぜんぜんそんなことなくて『特性のない男』は図書館で借りて読んだけれども別段手元に欲しいとは思わないし、カフカだって日記や手紙のたぐいは一冊も手元にない(これはちょっと欲しいけど)。唯一ヴァルザーだけは鳥影社から出ているものぜんぶと『詩と小品』があるわけで、それでもコンプリートではないだろう。マンスフィールドはあのクソ分厚い翻訳全集(これは率直にいって日本文が下手すぎて目もあてられないことになっている)がないかわりに洋書版の全集がある(ただしがさつな(…)の手によってボロボロのクッチャクチャになってしまったが)。『神曲』『ドン・キホーテ』『失われた時を求めて』『神聖喜劇』あたりも残しておきたいかもしれない(ただ『ドン・キホーテ』は上中下三段組みの凶器のように分厚く重たい一冊なのでできれば文庫版でそろえなおしたい)。バルトはもういらないかな。ドストエフスキー漱石もいいか。とかなんとか考えていたら物品整理したくなってきた。本もCDも服もいらないものはぜんぶ売り払って小銭に変えてしまってその金でコーヒーでも飲みに行きたい。今週どこにも出かけてないし大家さんといい天気ですねのやりとりをした以外はだれとも口を利いていない。
スーパーで食材を購入しまわっていたところボジョレヌーボーという文字が目についたのだけれど価格を見たら1000円以下で、えっとなって、ボジョレヌーボーって毎年「みなのもの解禁じゃー!!であえー!であえー!!」みたいなアレで盛り上がっているくらいであるしさぞやセレブな酒なんだろうと思っていたのだけれどじぶんみたいな人間の通うスーパーにふつうに置かれていてしかも一本1000円しないとか、これとんだ安酒じゃないかとびっくりした。ひょっとしてこれ自社製品かなんかでポジョレヌーボーとかボジョレスーボーみたいなきわどいネーミングのアレなんでないかと疑ったのだけれどなんど目をこらしても正真正銘のボジョレヌーボーで、じゃあなんで毎年あんなに盛り上がっているんだ?値段のわりにとても美味かったりするのか?それともボジョレヌーボー界のなかでカーストみたいなのがあって最高級のものは馬主でもないかぎり飲めやしないくらい値が張るのだけれど最弱の三流戦士どもにかぎっていえばガスも水もないかわりに朝6時に老婆が乳母車にのせたカレーを不定期にもってきてくれるアヴァンギャルドなモーニングサービスのついているアパートに住むような人間でも買えてしまうくらいのアレだったりするのか?どうでもいいわ酒飲めないし。プロテイン飲んでるほうがよっぽどアガるわ。
買い物をすませてスーパーを出ようとしたところで視界の端を見覚えのあるパツキンがよぎったような気がし、こればっかりはもうこの夏以降どうしようもない条件反射になってしまっているのだけれどそちらのほうを見遣ると店の入り口付近で高校の制服らしいものを身につけたイモ臭い巨漢の男の子を相手に談笑しているパツキン女性がおり、一目見た瞬間にわかったのだけれど昨日ジョギングをしているときになか卯の自動ドア越しに見かけた女性と同一人物だった。そしてその顔の造りが(…)にとてもよく似ていた。体型こそもうちょっとすらっとしていて身長もこちらとそう変わらないほどあったように見えたけれども顔といい髪型といい髪と肌の色といいよく似ていて、挙げ句のはてには笑うとのぞく歯列矯正の銀色までそっくりだった。ただし彼女は日本語がペラペラだった。高校生相手にとても流暢な発音で、ありがとーそれじゃあねー、と告げて彼女は店に入っていった。きのうから奇妙な偶然の流れが続いていると思ったが、じっさいはこちらの偏執狂的なアレが偶然を見出そうとしているだけなのかもしれない。こういう自問にさいなまれるたびに芥川の「歯車」を思い出す。
帰宅してから『トランスクリティーク』の続きを少し読んだ。それから玄米と納豆と冷や奴と胸肉とじゃがいもをぶつぎりにしたのに塩こしょうをふりかけてマヨネーズをぶっかけたその上にチーズをのせたやつをタジン鍋にいれてレンジでチンしたやつをかっ喰らった。喰らいながらウェブを巡回した。食後もなおどうでもいいインターネットに小一時間ほど費やしてしまい、ああやっぱり時間割が崩れると駄目だな、いつものペースと比較できない分あせりが少なくなってどうにもだらけてしまいやすくなるところがある、と思った。それからコーヒーを入れて『トランスクリティーク』を最後まで読み進めた。次いで日記を冒頭からここまで書き記した。すでに1時半である。
シャワーを浴びて部屋にもどりストレッチをした。メールをチェックしていたところで注文したダンベルが送料だけで2000円ちょっとかかっていることを知って腰を抜かした。なんかクソみたいな買い物をしてしまった気がしないでもない。『映画史』を序文だけ読んで沈没。南無。