20131210

 たとえば、或る人殺しがいるとします。それは、法的・道徳的に非難されますが、同時に、それは趣味判断の対象です。映画や小説では、しばしば犯罪者やヤクザが主人公となります。人々は、日常では嫌悪するはずなのに、映画や小説では、彼らを支持し、自己同一化したりします。これは美的判断です。その根拠を、カントは「無-関心」性に求めました。それは、道徳的・知的関心を括弧に入れることです。人がこのような映画や小説を楽しむというのは、――あるいは時には、現実の事件に関してもそのような見方ができるということは、――実は、そのように文化的に訓練されたからです。
 漱石は『文学論』の中で、こういう例を挙げています。シェークスピアの『オセロ』という劇で、有名な悪役のイアーゴーという人物が出てきますが、怒った観客が俳優を射殺した事件があったそうです。その観客は、それが演劇であることをわきまえていなかった。しかし、それが芝居であることをわきまえるには、なかなかの文化的訓練がいるのです。その証拠に、今でも、テレビの俳優などを、彼らが演じた役の通りの人物だと思いこむ人たちが大勢います。犯罪者をヒーローにするのは怪しからんという人は今でもいますし、また、事実、映画や小説の真似をしたりする人もいるわけです。漱石は、さらに、裸体画を例にあげています。裸体画を、性的な関心を括弧に入れて見ることは、当初は難しかった。漱石自身もかなりショックを受けたのではないか、と思います。
 くりかえすと、カントは、美的判断を、関心を括弧に入れることにおきました。ある物が芸術であるか否かは、それについての諸関心を括弧に入れることによってのみ決められる。その物が自然物であろうと、機械的複製品であろうと、日常的使用物であろうと、関係がありません。それに対する通常の諸関心を括弧に入れてみるということ、そのような「態度変更」が或る物を芸術たらしめるのです。これは少しも古い考えではありません。たとえば、デュシャンが「泉」と題して便器を美術展に提示したとき、彼は芸術を芸術たらしめるものが何であるかをあらためて問うたのですが、それはまさにカントが提起したポイントの一つでした。それは、芸術作品は、物を「関心」を括弧に入れて見る態度において成立するということです。
 しかし、さらに重要なのは、括弧に入れるだけでなく、その括弧を外すことを知っていなければならないということです。このような括弧入れは、芸術にとどまりません。産婦人科医は、妊婦を美的に、あるいは性的に見ることを括弧に入れる訓練をつんでいます。また、外科医は、手術のあとで、血の滴るビフテキを平気で食えるほどに、美的・道徳的関心を括弧に入れるような訓練をつんでいる。そもそも、近代の科学は、物を、道徳的・美的な関心を括弧に入れて見ることにおいて成立したのです。それは自然科学だけでなく、マキャベリ政治学もそのように成立しています。それは、あることを政治的に判断するには、それを道徳的に見るのではなく、それが結果において何をもたらしたかという観点から見ることだという考え方です。あとでいうように、これは「政治的責任」という視点をもたらします。
 しかし、同じような認識が、なぜ倫理に関して行きわたっていないのでしょうか。人々は、道徳的な領域が独立してあると思っています。しかし、そんなものはない。先に述べたように、われわれは物事を判断するとき、認識的(真か偽か)、道徳的(善か悪か)、そして、美的(快か不快か)という、少なくとも、三つの判断を同時にもちます。それらは混じり合っていて、截然と区別されません。その場合、科学者は、道徳的あるいは美的判断を括弧に入れて事物を見るわけです。そのときにのみ、認識の「対象」が存在するのです。美的判断においては、事物が虚構であるとか悪であるとかいった面が括弧に入れられる。それは自然になされるのではありません。人はそのように括弧に入れることを「命じられる」のです。たとえば、デュシャンの便器は、美術館に出されているがゆえに、人はそれをアートとして見ることを強いられるのであって、道路においてあれば、そんなことはありえない。だから、ここにも暗黙に「命令」が存在するのです。
 しかし、人はそのことになれてしまうと、括弧に入れたこと自体を忘れてしまい、あたかも科学的対象、美的対象がそれ自体存在するかのように考えてしまいがちです。倫理的領域に関しても同じです。それは、認識的な、美的な次元を括弧に入れるところにのみ成立するのです。通常、人は、人間はさまざまな原因に規定されているが、同時に自由な選択もあるのだと考えています。それに比べると、カントの考えは両極的に分かれています。彼のいうアンチテーゼは、一切の自由を認めていないし、テーゼは逆に、自由を認めている。しかも、カントはそれらが両立するというのです。この謎を解く鍵は、カントが美学に関して述べたことにあります。すなわち、括弧に入れることと括弧を外すことです。われわれは、このような態度変更を学ばなければならない。
柄谷行人『倫理21』)



10時起床。歯をみがきストレッチをしたのちパンの耳2枚とバナナとクリームチーズとコーヒーの朝食。ウェブを巡回しているとダンベルが届いた。これかなり重いみたいなんでどうしますかと宅配の兄ちゃんにいわれたので、そんならちょっとここに置いてもらえますかと部屋と土間をさえぎるガラス障子をひいて畳の上にちらかっていたものをバババっと片付けてスペースを確保した。40キロ分の荷物である。金に余裕があったらチップでも払いたいくらいだ。晴れ間にちらつく小雨に目を細めながら洗濯物をほした。狐の嫁入りは美しい。ダナエのもとに降りそそぐゼウスの雨の黄金色はちょうどこんな感じだったんじゃないだろうかと思った。
11時半より「A」推敲。15時にいったん停止。単純に集中力とモチベーションが低下しているせいなのかもしれないが、思っていたよりもつまずくことなくすらすらと読み進めることができている。これまで手こずり続けていたいくつかの難所も違和感をおぼえることなく読み流すことができた。これはとてもうれしい。どれだけきびしい難所であろうと時間をかけて根気よく取り組めば完璧に近づくことはできるのだ。励みになる。ルビは原則として変わった読み方をするものにだけふることにした。常用漢字以外のものにはぜんぶふるとかするとすごくアホっぽく見える。漢字のひとつやふたつ読めなくても問題ないし読み方が気になるのだったら読み手が調べればいい。ルビをふるという行為の裏側にひそむ「教えてあげる」感がたぶん気にくわないのだと思う。
おもてに出ると冷たい風がびゅんびゅん吹いていた。大家さんの用意してくれたポットはアダプタの接続不良のためなのかなんなのか電源が入ってくれず湯があたたまらない。スーパーにむかう途中小型のクレーン車が工事現場に停まっているのを見たのだけれど車体がキリン柄にペイントされていてこれはグッドデザイン賞アスファルトの上に散りしかれた落ち葉がくるくると舞いながら移動していて風の通り道が可視化されるようであるのが例年のことながらながめていて愉快だった。スーパーではすでに餅が売られはじめていた。クリスマスソングが流れてシャンメリーも売られている。今年は何本飲もうか。
帰宅してから届いたダンベルを組み立てたのだけれど20キロというのはなかなかアホみたいに重い。もともと10キロのを持っていたので腕はそっちで鍛えることにして、とりあえず20キロ×2本を利用して僧帽筋を酷使してみた。なんとなくこのまま筋トレにがっつりハマってしまうんでないかという不安をおぼえた。これ以上ほかに割いてみせる時間など持ちあわせてなどいないのであまりハマりすぎないようにしたいのだけれど、もともとは腰痛対策のためというアレで胸肉を大量摂取しプロテインを飲みはじめてからというもの、トレーニングの内容はなにひとつ変わっていないのにもかかわらず明らかに身体に肉がつきはじめていてまるでオーバートレーニングのせいでガリガリのひょろひょろだったジャック・ハンマーステロイドに出会って地上最強の生物候補にまで成りあがった挿話みたいな面白さがある。ひょっとしたら来年のいまごろには冬場にもかかわらずみずからの筋肉を誇示するためにタンクトップ一枚でおもてに出るような気色のわるい猛者になっているかもしれない。
玄米と納豆と冷や奴ともずくと胸肉とじゃがいもを塩こしょうで味つけして蒸したのにチーズをのっけたものをかっ喰らってから40分もの仮眠をとった。それからシャワーを浴びてストレッチをし、PCをもって(…)に行こうと思ったらiTunesがバグってしまいデータがすべてとんでしまったようだったので、外付HDに保存してあったデータをインポートしなおそうとしたのだけれどこれがやたらと時間のかかる作業だったようなのでインポートを開始するだけしておいて結局PCはそのままに「A」と『映画史』だけ持って(…)に出かけた。昼の部の時点で三分の二はクリアしていた「A」の残りを片付け、それから『映画史』を読み進めた。1時近くなったところでコーヒーチケットを支払いパンの耳を受け取った。帰るまぎわに(…)ちゃんと簡単なおしゃべりをした。単位の計算ミスでダブってしまい来年は晴れて五回生になるのだという。店で働きはじめてから一年半という話をきいてまだそんなものかとびっくりし、店自体がまだ営業三年目であるという事実につづけてびっくりした。オープン前の店にペンキを塗るのを手伝いにいったあの日からまだ二三年しか経過していないというその事実がとても信じられない。引っ越しが二度あったし職場も変えたし外国にも行ったしそのような移動によって見知らぬ顔がいくつも見覚えのある顔となったしで、この二三年はそれまでの二三年とくらべて圧倒的に私生活がバタバタしているそのために、というかむしろ円町時代の四年間がほとんど狂気じみた執念で判を押したような生活を送りつづけていただけであってこの二三年のバタバタなど世間一般的にはバタバタになど入らないのかもしれないけれど、とにかくそういうアレから経過した年月と実感のこのような食い違いがもたらされるのかもしれないと思った。
帰宅してからiTunesをチェックしてみたのだけれどうもうまくいっていないようだったのでもういちどインポートしなおしたらうまくいった。最近PCの異音もどんどん派手になっているのでいつ潰れるのかとわりとけっこうヒヤヒヤしている。とても肝心なときにPCの潰れることがこれまで多かった気がするので、ひょっとしたら「A」の原稿データをあとは入稿するだけみたいなタイミングでブツンといってくれたりするんじゃいだろうなと、いまいちばんおそれている事態はそれだ。
そうしてあしたの忘年会がだんだんめんどうくさくなってきた。雨降るみたいだし。