20131209

 先に私は、原因を認識するということと責任を追求することとを区別すべきだといいました。というのは、これを区別しないために、責任をまぬかれるために認識を避けるという傾向が出てくるからです。戦争責任の問題にかんして、そのようなことが起こっています。「責任」をいわれると、事実そのものを否認する人たちがおり、一方、「責任」をいう人たちは、ただ一面的に道徳的で、「原因」を問おうとしない。
柄谷行人『倫理21』)



10時半起床。歯をみがくためにおもてに出ると大家さんがひなたぼっこをしていた。湯の出ない水場に去年の冬と同様ポットを置こうかと思うというので、ぜひおねがいしますと頼んだ。これで洗い物や洗顔がすこし楽になる。みかんを四つもらった。みかんを食べるとおしっこが近くなって夜中に何度もめざめてしまうからと大家さんはいった。荷物とか届いてませんかと問うと届いてないというのでおかしいなと思った。BCCKSからのサンプル本はこれまで毎回きまって日曜日に届いていたのに月曜日の朝になってもまだ届いていない。これでは作業ができない。年の瀬ということもあって郵便局もバタバタしているのかもしれないと思った。パンの耳2枚とヨーグルトとクリームチーズとコーヒーの朝食をとりながらウェブを巡回したのち昨日づけのブログを長々と書きしるした。
14時から英語の勉強。発音練習を終えて音読にさしかかる前にほんのりときざしていた眠気を払拭するために簡単な自動筆記をした、というかなんとなく日記用のテキストファイルを開けてみたついでに余白の文字列をならべてみたくなったのでそうしたのだけれど、最近はどうにも自動筆記が詩のフォーマットをもとめているらしくておのずとそういうかたちをとることが多い。で、これまでにもわりとなにかの合間にそういった手仕事じゃないけれど自動筆記めいたことをして頭を洗濯したり時間をつぶしたり気持ちを切り替えたりすることがあったのだけれど書きあげたとたんに消去していたそういうもろもろ含めてこのブログにやはりちゃんと記録しておこうかなと思ったのは、たかだか10分もあればできる手軽なこの営みでは要するにじぶんの手癖が全面的に前景化するわけで、これらの産物を逐一記録しておくことによりたとえば一年後にじぶんの日記を読み返してみたときに、手癖=言葉遣いの変遷がとても具体的なかたちで浮き上がるんでないかと考えたからだ。というわけでこれからはどれだけ短いフレーズでも書きつけたものはすべて記録しておくことにする。BGMは(…)くんの音源(タイトル知らない)。

とうめいなままでいたいよ
しらない言葉で着飾って
さかさまに置いたきみの鏡に
とりえのない笑顔が映っている


白黒にぬりわけられた階段を
鶴のような脚をしただれかが叩いてのぼる
水の音 山の声 くさむらに忘れさられた
夢みたいな犯行の痕跡


指先からじょじょに愛がしみこんで
きみのあかぎれはもうぼろぼろだ
ずるがしこい目つきで
耳打ちされる言葉のすなおに
人称もしたたり落ちてうしなわれてしまう
切り株に腰かけて
物語の続きをこいねだる子鹿みたいに


行方知れずの宛名書きが
領収書はきられず封だけきられて
子供の犯罪
錠剤にされた思い出をのみこんで
また飛ぶ


目が合ったら死ぬ
札束を数えて指を切る
上目遣いの敬語をききたい
情事はすくなく
睦言のささやきだけがほたるのように
光線となってきみの黒目をとびかう


知らないままでいてほしい
わからないやつでいたい
神秘とは無縁のせつなさから
だれのものでもない愛情が温められていくよ
きらきら泣いて
笑ってくれ


記号のスワッピングパーティーから
偶然うまれる愛のように
きみはうつくしい

ここまで書いたところで部屋の戸をばんばんやる音がヘッドフォン越しに聞こえてきたのでようやく来たかとおもっておもてにでるとまさしく郵便屋さんで、ポストに入らないサイズのメール便だったので声をかけさせていただきましたと丁寧にいってくれたので、はいどうもありがとうございますと応じてブツを受け取った。あたらしい表紙案は上々だった。tumblrで拾った画像を用いたものなので著作権的にはかなりあやしいと思うのだけれどどうせそんなに売れないだろうしまあいいや。きのう(…)くんと電話していたときにも話していたのだけれどこのブログの読者数ってたぶん多くて20人くらいでしかもそのうちの半分はたぶん面識のあるひとという割合になるとデータもなしになんとなくそう思うんだけれど、そうなるといざ本を出版しましたとなったときにわざわざコンタクトをとり金を支払ってまで購入してくれるひとがどれくらいいるのかというとまあ考えるまでもないというか、献本のぞいて10冊売れたら上等だろうというのがこちらの率直な見込みである。あとはその10冊からいったいどこまで友達の輪ならぬ読者の輪がひろがるかみたいなアレにかかっていることになるわけで、そればかりは気長に座して待つのみである。YouTubeなんかでも公開してから数年後に爆発的にヒットみたいな動画があったりするわけだしインターネットの時限爆弾にゆだねてそれはそれとしておき、期待も失望も打棄っておいてやるべきことをやり、取り組むべきことに取り組むだけである。
音読を小一時間ほどしたのちジョギングに備えてパンの耳にチーズをのせたものを二枚食べた。それから買い物に出かけて食材を購入し、帰宅してから腹筋を鍛えてストレッチをしジョギングに出かけた。スウェットにパーカーを重ねて着て走ったら思いのほかたくさん汗をかいた。腹にものを入れておくとやはりそれだけでぜんぜん走るのが楽になるという当たり前の事実をまたもや実感した。長い距離にもずいぶん慣れてきた。側頭部を滴り落ちる汗がイヤホンと耳孔のあいだにすべりこむがいなやすべての物音がくぐもり陸上を泳いでいるような気分になった。いつも走っているこのコースはいったい何キロくらいになるのだろうと思った。5キロくらいだろうかと思ってジョギングシミュレーターというウェブサービスを利用して調べてみたところドンピシャだった。このままじわじわ距離をのばしていけば来年内には週に三日各10キロを走る生活になるだろう。それ以上はたぶん距離をのばしても仕方ない。かわりにタイムの問題になってくる。
帰宅してからシャワーを浴びてストレッチをした。それから夕飯の支度をして玄米と納豆と冷や奴ともずくと胸肉をキャベツの千切りといっしょに塩こしょうとにんにくで蒸し煮にしたしょうもない夕食をかっ喰らった。30分の仮眠をとってめざめると22時半だった。食器を洗って日記のこの段落を書き記した。すでに23時をまわっている。仮眠をとるまえに計算してみたのだが、どうも作業時間というのは一日につき10時間が確保の限度なのかもしれない。睡眠が7時間として計算するとそれだけで17時間、残すところ7時間のうち1時間がジョギングや筋トレに消えるとして6時間、この6時間が買い物やら食事やら風呂やらの細々とした生活の不可避な細部によってすべて食いつぶされてしまうというのもにわかには信じられない話ではあるが、しかしじっさいに何度時間の短縮を試みてみてもこの6時間は名前のない日々の営みのうちにおのずと霧散してしまうらしいのだ(このようにして一日の節目ごとに段落をひとつずつ書きつないでいくこの日記の執筆もまた考えてみるとそれ相応の時間を占めている気がする)。来年からはじまる「作文」「勉強」「読書」の三課目はそれゆえ(最大で)5時間×2コマ/一日のリズムで転がしていくことになるだろう。
23時半より「A」推敲。一週間の間隔を置いてきよめられたまなざしで読みなおすこの瞬間がいちばん緊張するわけだが、先日ブログにも引用したしずまりかえった館の描写のくだりがやはり全然ダメで、読み進める過程で「うん?」と立ち止まってしまうあの違和感をおぼえた瞬間に一気にテンションがさがってしまった。あれだけ時間をかけたのになにひとつよくなっていない。惜しいとすらいえない。完全にその一文だけが周囲から浮きあがっている。違和感を違和感として感知しうるあいだにどうにか打開策を見つけたいのだが、これまでに何百回とくりかえし目を通している難所であるそのためにたとえ一週間か二週間の間を置いたところで二度三度と読み返せばたやすく麻痺におちいってしまい、そうなるともうなにが正しくてなにがまちがいであるのかそんなことは完全にわからなくなってしまう。すなわち手の施しようがなくなる。それがつらい。それが馬鹿らしい。それがこちらの意気を挫く。
難所で蹴躓いたまま起きあがれなくなってしまったので、そのまま不貞寝した。3時だった。ひさしぶりに金縛りにあった。あおむけで寝ようとすると十中八九金縛りにあう。