20131212

 私は先ほど、十九世紀の文学者は、それ以前の楽天的な啓蒙主義を批判して、人間に内在する「悪」を見ようとした、といいました(二章)。啓蒙主義者は、人間の理性を信頼し、それがさまざまな迷妄を解消するだろうと信じたのです。カントも同様です。しかし、カントは啓蒙主義者とは違っています。啓蒙主義者が、あるいは、それ以前の哲学者が、人間は感覚や感情によって誤謬に陥ると見なしてきたのに、カントは理性そのものに、誤謬をもたらすものがあること、しかもそれが不可避的であることを示したのです。それが『純粋理性批判』の画期的なところです。
 人間の残酷な振る舞いは、しばしば「動物的」と呼ばれます。しかし、それは動物に失礼な言い方であって、動物はそれほど残酷になりません。動物の攻撃性は、ある限界で制御されています。人間的な残酷さをもたらすのは、むしろ「理性」に由来する観念なのです。二十世紀に生じた残虐な出来事は、すべて、「理性」に由来するのです。アドルノとホルクハイマーは『啓蒙の弁証法』(邦訳 岩波書店 一九九〇)で、「啓蒙的理性」が逆転してさまざまな悪をもたらしたという逆説を指摘しています。しかし、それはカントのいったことと背反するものではない。もし「啓蒙的理性」に盲点があるなら、それを明るみに出すのは理性以外にはないわけです。その点で、われわれは「永続的」啓蒙主義者であるほかありません。
柄谷行人『倫理21』)



13時起床。体がとてつもなく重い。ストレッチをしてからきのう大家さんにいただいた餅の残りを食ってコーヒーを飲んだ。ウェブを巡回したのちバナナを食べたり酔いの残りを吹きとばすためにコーヒーを何杯もおかわりしたりしながら昨日づけのブログを長々と書き記した。すべて終えるとすでに17時だった。外に出た。ものすごく寒かった。コートの生地越しに刃のような寒風がさしこんできた。帰宅後のジョギングに備えてまず薬物市場でおにぎりをふたつ購入して食べた。それから図書館にいった。図書館を去ってから銀行で五万円おろし、スーパーで買い物してから帰宅した。移動中はずっと音読用の音源を流しながらできる範囲でシャドーイングしていた。帰宅すると18時半だった。都合一時間ほど歩き回ったことになる。しかしこれを時間の無駄であるというふうには思えない。ひとりで歩くのはけっこう好きだ。偶景が落ちてやしないかときょろきょろする下品なまなざしとも無縁のまま、ときおりすれちがうひとの顔や家並みに目を奪われるような瞬間にそれでいて遭遇つつ、しかし基本的にはいまさら発見もなにもない馴染みの道のりをぶつくさやりながら歩く、この徒労の美学が好ましい。炊飯器のスイッチを入れてからストレッチをし、それからジョギングに出かけた。ジョギング中はとてもひさしぶりにマイブラを聴いた。ずいぶん前に出たはずの新譜も結局まだ聴くことができずにいる。シューゲイザーの名に恥じず足下をながめながら走った。5kmの道のりにもすっかり慣れた。帰宅してからシャワーを浴びた。それからストレッチをして玄米と納豆と冷や奴ともずくと胸肉とキャベツの千切りをにんにくとしょうがと塩こしょうと酒で蒸し煮したしょうもない夕飯をかっ喰らった。今日はたくさん寝たので仮眠はパスすることにしてひとまず食器を洗い終えたところで23時、「A」推敲の続きにとりかかった。「傷つけられたさかなと傷ついたまないたが/土壇場で抱き合いまきちらすスプラッタ/見くびるなよ/嘘と秘密の二足歩行で/繁華街をねりあるく小市民たち」。3時半、作業にひとまずケリがついた。あとは金土日と三日間寝かしたのちプリントアウトしたものをふたたび読み直すだけ。それでゴールとしたい。それでゴールと割り切ることのできる胆力がほしい。今日はほとんど一日中きのうの余韻のなかで試行錯誤していた気がする。昨夜の残像のなかで息継ぎする一日だった。いまこれを書きながらもジョギングに出かけた数時間前より立ち飲み屋でぐでんぐでんになっていた二十四時間前のほうがずっと身近のできごとであるという錯覚をふりはらうことができずにいる。印象の強度が時の配列をだしぬく。