20131216

コントや四コマ・マンガには「起・承・転・結」または「序・破・急」という鉄則があります。面白くないコントを書くためには、この鉄則を遵守しなければなりません。なぜなら、形式の完璧さこそが内容の空疎を鋭く浮き上がらせてくれるからです。
中島らも「頭の中がカユいんだ」)



10時半にいちど目覚ましで起床し小便をしにおもてに出たが、部屋にもどるなりもうあと30分と二度寝したその時点でおそらくそうなるだろうとうすうす予感はしていたものの次にめざめると15時だったので決めた、日曜日の夜にひっかけるのはもうやめにしよう、そのせいでいつも月曜日は半日損するはめになっているのだ。歯をみがきストレッチをしてからウェブを巡回しつつパンの耳2枚とコーヒーの朝食をとった。2杯目のコーヒーを飲むときにパンの耳を追加でもういちまい食べた。昨日づけの日記を書いてアップすると18時だったのでぶつくさやりながら買い物に出かけた。帰宅してから懸垂と腹筋をした。それからストレッチをしてジョギングに出かけた。おもてに出てアキレス腱をのばしているとクレー魔がちょうど部屋から出てくるところにはちあわせた。クレー魔は自転車にのってさっそうとどこかに出かけていったのだが、ちょうどトイレのあたりで乳母車を押して歩いていた大家さんとすれちがい、こんばんはと声をかける大家さんにたいして返事のひとつもせずにそのわきを自転車の速度を落とすことなく去っていった。なんて感じの悪いやつだろうと思った。大家さんが不憫だった。大家さんはトイレの戸をあけると電気のスイッチにむけて手をのばしたが、指先はかろうじて届かず、なのでこんばんはと声をかけてからかわりにスイッチを押してあげた。今日はお風呂にあたたかいお湯をためていますのでどうぞお入りくださいというので、いまからおもて走ってくるんで帰ってきたらまた入らせてもらいますと応じた。それからいつもの5kmを走った。
帰宅してからシャワーを浴びて湯にも浸かった。アイシングするのがいよいよしんどい季節になってきた。部屋にもどってストレッチをしたのち原稿をプリントアウトした。22時だった。ジョギングでたっぷり汗を掻いたからなのか、コーヒーではうるおせない身体の乾きをおぼえたのでコンビニに出かけてポカリを買った。身体の警告には素直にしたがっておくにかぎる。ついでにおにぎりもひとつ購入した。鮭と明太子とまぐろとで迷ったのだが、成分表示のタンパク質の含有量を精査した結果、鮭とまぐろが同値で残り、カロリーをより多く含んでいるまぐろが最終的にウィナーとなった。近所にあるコンビニで買い物をしたのはとてもひさしぶりであるような気がした。太った女性店員をひさびさに見かけた。(…)が滞在していたころはほとんど毎日、朝と夕方の二度にわたってこのコンビニを利用して2Lのミネラルウォーターを購入していたのだが、そのときもっとも接客してもらう頻度の多かったのがこの店員さんで、以来ひとりで店をおとずれるたびにこいつあの白人と破局しやがったなと思われているんだろうななどと考えてしまう。
帰宅してから「A」の推敲にとりかかった。1時に早くも沈没した。5/38枚。序盤の難所ふたつに取り組んだだけ完全にで力尽きてしまった。いったいいつになったら正解を掴むことができるんだろうか。逆にいえば難所以外はもうほとんど手を加える箇所もないというか、あるとしても読点の位置と漢字の開きとルビくらいだったりする。漢字の開きについてはほぼ定まりを得つつあるしルビをふるかいなかにあたって参照する基準もすでにうちたてた。なんとしても年内に脱稿したい。でないとこのままずるずる春先くらいまで延々と続けてしまう気がする。どうしてここまで病的に文章にこだわってしまうのかわからない。読む側としては崩れた構文のリズムであったりおさまりのわるい主語と述語の接着であったり時制の落ち着きなさであったり読点の打ちかたであったりそういうもろもろもさほど気にならないというかこんなもん何ら本質的なアレではないとたやすく看過できてしまえるのにことじぶんが書く文章となるとそれが途端にできなくなる。病気だ。病気としかいいようがない。じぶんの書く文章は緊張してびくびくしているようなところがある。なにひとつミスは許されないぞという強迫観念に首をしめられているような息苦しさがときおりのぞきもする。
玄米と納豆と冷や奴ともずくと胸肉を水菜とトマトとおくらといっしょに酒と塩こしょうで蒸し煮したしょうもない夕飯をかっ喰らったのちなにもかもうまくいってくれない現実から逃避すべくクソしょうもないインターネッティングに二時間ほどたっぷり浸ってしまってダメだいつものネガティヴが(神門)。
それからふとおもいたってダンボール箱をひっかきまわしムージルを取り出し、布団のなかにもぐりこんでからとてもひさしぶりに「ポルトガルの女」を読みはじめた。最初の5頁ほど読んだところでダメだと思い本を閉じた。「A」は、「ポルトガルの女」というおそるべきテクストを前にしてびびって吠えまくる弱い犬の饒舌な鳴き声でしかない。この域にはとても達せない。小説の神髄はすべてこの短い物語のなかにある。もつれや吃りや蹴つまずきといった読み進めるこちらの目をくじかせる違和感をふくんだすべての操作が、文句のつけようのあるはずもない完璧な精度でなしとげられている。200数十枚にまたがって書き連ねられている「A」というテクストよりも、「ムージルポルトガルの女』をなにがなんでも読みなさい」という一文のほうが文学史的にははるかに有意義だ。なぜこのおそるべきテクストを手本に小説を書こうなどと思いたちそしてじっさいに200数十枚も書きつなぐことができたのか、ほとんど恥知らずなまでにおのれの力量を誤算していたのだ。子供だ。子供の甘い思い込みと世間知らずの自負心が「A」を書かせた。