20131227

 点描法の絵のように日々が流れていく。点はラリっていなくて意識のしっかりとあるときだ。
中島らも『バンド・オブ・ザ・ナイト』)



10時起床。おもてにある水場で歯をみがいていると日射しの色に染め抜かれた空気をひっかく白い描線が目につき、おもわず手のひらをのばして確認してみたのだったが、雪ではなく雨だった。ここ数日の作業疲れのためか腰痛がやや悪化しているらしく、尻とも太ももの付け根ともつかぬ右側に重くだるくにぶいものがわだかまっており、五本指でつかんでもみほぐそうとすると激痛が走る。しっかり運動して作業中はアーロンチェア使って、それでこれなのだから、なにも対策していなかったらいまごろどうなっていたんだろうとおそろしい。とにかくひとより体のつくりが安いのだから、気を抜けない。ひとの三倍は念入りに自己配慮しなければいけない。
ストレッチをしたあとにパンの耳2枚とコーヒーの朝食をとった。今日が金曜日であることについて遅いとも早いとも思うことができない。日付の境目の感じられない一週間だった。起きている間にすることといえば死ぬほど読み返した原稿を相手に重ねる推敲ばかりで、時の指標となる食事と睡眠の間隔も乱れに乱れたのだから、時の喪失というのはある意味で当然の帰結である。同じ一日をループしているというのはすこし違う。暦が失われることによってはじめて姿をあらわす絶対的な一日を、境界線が失われた結果地続きと化したひとつらなりの一週間を、機械のように単調な誠実さで過ごしているというのがいちばん実感に近い。
16時「A」の推敲がひとまず終わった。あとは残された難所ふたつをどうにかするだけである。ここにきて館の描写に新しい突破口を見出すことができたのだが、慎重に判断しなければならない、ただものめずらしさに目がくらんでいるだけなのかもしれない、暫定的な解といずれのほうがしっくりくるのか、残された時間をとおしてじっくり検分しなければならない。
この冬いちばんの寒さかもしれないと思ったのは暖房を入れているにもかかわらず足下が冷えて仕方ないからでスリッパを履くだけじゃとても追いつかない冷気がいちいちきびしい。足の裏にホッカイロでも貼りつけたい気分だ。おもてに出ると冬の雨で風も吹いているしとにかく寒い。あまりの寒さにいつものスーパーに出かけるのが億劫になってしまって徒歩2分の近所にある別のスーパーで買い物をすませることにしたのだけれど馬鹿みたいに高い。こんなところで毎日野菜を買っていたら食費がどれだけあっても足りやしない。野菜は結局もやししか買わなかった。そのもやしだっていつもの店で買えば半額ですんだ!
帰宅してから玄米とスーパーで購入した胸肉のからあげと豆腐と厚揚げともやしを酒と塩こしょうとこんぶだしとごま油で蒸し煮しただけのクソものぐさなディナーをとった。雨降りだったのでジョギングはお休みすることにした。明日は出勤日なので本来なら仮眠をとるべきではないのだけれど「A」の難所にだけはどうしてもけじめをつけておきたかったので15分ほど眠って脳みそを洗濯した。30分間眠ると起き抜けに体のだるさを覚えるが、15分間眠ると起き抜けにシャブでもキメたんでないかというレベルの爽快感をおぼえる。シャワーを浴びて部屋にもどりストレッチをした。
20:45「A」推敲再開。0時半に終了。一瞬で時間が過ぎ去ってびびった。いよいよ瀬戸際だ。ぎりぎりだ。焦慮がぐいぐい前景化してきた。これぞ年末という気がする。かといって年末は毎年〆切りに追われているのかといえばそういうわけでもないはずで、これはおそらく人生でいちばん追いこまれていた「絶景」推敲時の印象があまりにも強烈にきざみこまれてしまっているからだろう。ある種のトラウマみたいなものだ。この日((…))のことはきっと一生忘れない。文頭に?や!が来ないように文章をいじっていたおかげで難所が四つに増えてしまった。BCCKSのエディタは文頭にこの手の記号が来ないようにする程度の処理機能くらい備えておくべきだ。まがりなりにも出版サービスを名乗っているのだからこういう校正上の常識に対応していないとかはマジで勘弁してほしい。ものすごくイライラする。とはいえ鳥影社のヴァルザー本とかちょいちょいこの手のミスがあったりするのだけど。
なにかをつくりだそうとするときひとはじぶんが天才でありじぶんにしか作れないものがあるはずだという思い込みをたとえほんのわずかであっても必ず抱くわけだが、そのなにかを完成させるためにはひとは当初のその自信が単なる思いこみであったことを痛感しみずからの傲慢を思い知り苦渋を舐めつくす必要がある。完成は多かれ少なかれ挫折というかたちをとってしかあらわれない。なんちゅうきびしい世界だ!神でさえこの世界を創造しそこねた!

大広間はいたるところに設えられたランプによってくまなく照らされており、尽くされたひかりはまばゆく、蠅の影の忍びこむ余地もないほどだったが、本来ならばこのうえなく豪奢な印象をともなうはずのそうした可視性も、さしもの生きた墓場のような館のしずけさのうちにあっては逃げ場のどこにも見当たらぬ不気味にはなやかな閉塞感、死角のことごとくが漂白されたおそるべき八方ふさがりとしてうらがえしに結実するほかなかった。

この「さしもの」の使い方ってやっぱり誤用の域になる?「しずけさのうちにあっては」に係っているんでなくて「館のしずけさ」に係っていると見なせばぎりぎりセーフなんでないかと思わなくもないんだけどいま麻痺してるから正常な判断ができない!日本語の文法にくわしいひとマジで助けて時間がない!!