20221209

 折よく学校視察で地区の指導者が視察に来る場合は、一人一人の服装はもとより、学校全体の外観まで、早くから準備を始める。これまで一度も掃除されなかった隅まですっかりきれいに掃き、学校の標語の赤い文字を再度塗り直し、トイレは通常よりもきれいにする。地区指導者が授業参観に来る場合は、生徒は前もっておさらいし、教師は前もって質問を提示し、内容をよく説明し、質問に答える生徒を選んでおく。そして答えを準備し手を挙げる者を決めておく。終了したあかつきには皆が安堵のため息をつき、評定が光栄ある結果となれば、教師は昇級を夢見て喜び合う。
 最大の過失は全体の足を引っ張ることだった。みんなの栄誉になることは黒板ニュースに書き出され、赤い花が添えられる。私は一年のクラスの黒板ニュース係を担当した。このニュースはいつも栄誉に満ちていなければならない。地区の指導者が視察にきた、学校が栄誉を勝ち取った、クラスメートが合唱コンクールで賞を得た、作文コンテストでも優勝した云々。栄誉なニュースがない場合は、人への親切や善行を記す。目の不自由な人が通りを横切るのを助けた、おばあさんを家まで送っていった、誰それが腹痛を起こしたとき、クラスの誰それが雨の中を背負って帰った等々。
 これは現実を創造するのに必要なプロセスである。困難をテーマにした作文、つまり「最も意義ある一つのこと」「喜んで人助けをしたこと」「ある忘れがたき事」などについて書くにはどうしても想像力がいる。事件にはそうめったに出くわすものではない。ましてや毎回そう都合よくいくわけがない。クラスで十五人が目の不自由な人に道路を渡してやり、十人がおばあさんを家まで送っていった。同級生の大半は夜半に発熱した母親を背負って一人で病院に行った。また、父親が食事や着るものを節約して自分が勉強できるようにしてくれた等々、作文の授業ではしょっちゅうこういった奇妙な現実が現れた。そのうちのいくつかは紙の上だけの真実だった。小さい頃から捏造を学び始めれば、それをマスターするのはいとも容易いことだ。
(郝景芳/櫻庭ゆみ子・訳『1984年に生まれて』)



 10時半起床。(…)くんから微信が届く。「茜さす」という枕詞を辞書で調べたところ、例文として『万葉集』収録の和歌の一節「日は照らせれど」「君が心し忘れかねつも」が表示された。その意味を知りたいという。いちおう解説しつつも、これは古語であるからいまはまだ覚える必要はないと伝える。
 歯磨きしながらニュースをチェックする。コロナのワクチン、最後に射ってから一年以上経過するし、中国国内ではmRNAワクチンを接種することができないのでブースターも不可であるし(中国産mRNAワクチンうんぬんという話は結局どうなったのだ?)、現状ほぼノーガードなわけだが、この状態で感染すれば、なんぼ弱毒化しているオミクロンといっても高熱でしんどい思いをする可能性もけっこうあるわけで、となるとやっぱり解熱剤だけでも用意しておきたいな、カロナールが欲しいなと思う。で、カロナールの成分をググるアセトアミノフェン。中国語では? 对乙酰氨基酚。コピペして淘宝の検索バーにぶちこむ。すると市販薬がずらりと表示されるわけだが、そのなかに見覚えのあるパッケージがひとつある。きのう(…)がくれたやつだ。なーんだ、(…)がくれたのはカロナールと同じやつだったのか、だったらだいじょうぶだ、と安心する。しかし(…)がくれたやつをあらためて確認してみると10錠きりで、成人は一回につき1錠か2錠を一日三回服用せよと説明書きにはあるから、これは二日分か三日分しかないことになる。なので、追加で多めにポチっておく。もしかしたら来学期、熱で苦しんでいる学生らに分け与えることだってあるかもしれないし。ついでにポカリも買っておく。大量のペットボトルを快递まで引き取りにいくのはさすがにしんどいので、水に溶かして飲む粉末のやつ。しかしマジでフルオープンに舵を切ったのだとして、これからも切り続けるのだとして、そうすると、来学期の高校や大学はなかなかの地獄絵図になるんではないか? 8人部屋の寮で暮らしている学生のあいだで感染拡大しないわけがないのだが、中央はそのあたりのことをどう考えているのだろう。この一週間の電撃的な変わり身を見るかぎり、締めるときは締めて緩めるときは緩めるみたいな、ある意味どっちつかずのなあなあともいえるがそれはそれで理に適っているところもあるだろうそうした調節の舵取りを、これから先中央がやっていけるようにはとても思えない。どんなかたちであれ、まだまだ波乱はあるだろう。
 自転車に乗って第四食堂へ。また西红柿炒鸡蛋面を打包する。帰宅して食す。ほんまクソうまい。食後のコーヒーを用意し、(…)さんにもらった菓子をついばみながら、今学期の時間割を見直す。冬休みが前倒しになった上に補講がけっこうな数あるため、来週以降なかなかきつい、24日までは相当過密スケジュールになる。年内に「実弾(仮)」第三稿をあげることができるかどうか、なかなかあやしくなってきたな。

 きのうづけの記事の続きにとりかかる。最後まで書き進めたところで、投稿はせずに中断。14時半から日語基礎写作(一)。前回の課題「(…)」をまとめた文集を配布して読みあげる。それから成績の基準と期末試験の内容について、資料を配布した上で説明したのち、余った時間で期末試験の練習問題。現在形と過去形、常体と敬体の変換。(…)さんと(…)さんと(…)さんがガンガン質問に答える。引っ込み思案な(…)さん、がんばっている。文法には自信があるのかも。(…)さんは教室授業よりもオンライン授業のほうが積極的というめずらしいタイプの学生。教室授業ではいつもだいたい最後尾にいるのだが、あれはたぶんルームメイトの(…)さんに付き合うかたちで仕方なくなんだろうな。寮を出る前の(…)さんと同じパターンだ。
 18時前に授業を終える。(…)さんから微信。目の手術を受ける予定なのでテストの日程を変更してほしいとのこと。了承。だいじょうぶなのかとたずねると、小さな手術であるからだいじょうぶという返事。もしかしたら整形手術かもしれない。(…)さん、たぶん一重瞼であるのだが、一重瞼でありかつファッションや化粧に興味のある女子学生は、けっこうカジュアルに二重瞼にする手術を受ける——と書いているこちらの念頭にあるのは、たとえば(…)さんであり、(…)さんであり、(…)さんであるわけだが。でも、正直、(…)さん以外のふたりについては、一重のときのほうがかわいらしかったと思う。(…)さんについては、手術を受けた長期休暇明け、最初の授業の休憩中にわざわざ教壇までやってきて、先生、なにか気づきませんか、とおっかなびっくりこちらに問うてみせたことがあった。前もかわいかったけど、今はもっとかわいいね、くらいしか言えんわけだが。
 (…)くんからも微信。ICLTAを知っていますか、と。知らん。ググったところ、どうも外国人に中国語を教える団体らしい。(…)くんはそこの「証明書の試験をしたい」らしい。つまり、中国語教師になりたいわけだ。(…)さんと同じだ。
 日語閲読(三)は考试なのでテスト問題を作成して事前に教務室に提出する必要がある。しかし突然こうしてオンライン試験になったことであるし、そのあたりの事情はどうなっているのか確かめるために(…)先生に微信。オンラインで実施する問題は事前に提出する必要なし、しかし追試用の問題は来週中に提出しなければならないとのこと。ということは追試のおこなわれる来学期はやはり対面授業をするというのが大学側のアレなんだろう。先学期末、プリントアウトした問題用紙を教務室に持っていったところ、担当の女性にレイアウトがどうのこうのと文句を言われたことがあったので(それまでそんなこと言われたことがなかったし、変更点があるという通知も受けていなかったので、こちらの落ち度ではないだろうと、近くにいた英語学科の女子学生を通訳代わりにしてそのときは突っぱねた)、(…)先生の問題用紙をサンプルとして送ってもらった。しかしPagesでひらくと、レイアウトがぐっちゃぐちゃになって原型をとどめない。Word Onlineだったらだいじょうぶだろうと思ったのだが、なぜかこちらもぐちゃぐちゃになってしまう。(…)先生はMacにつんだofficeもしくはWPSでいつも作業しているという。
 レイアウトのことはあとで考える。とりあえず日語閲読(三)のテスト問題を考える。追試は去年やったのと同じ問題でいい。そもそも追試を受けることになる学生は0人になる予定なので。オンラインテストはカンニングし放題。そして中国の学生は、というのは主語が大きすぎるかもしれないのでうちの学生はという表現にあらためるが、マジで! びっくりするほど! 罪悪感などこれっぽちも感じず! おそろしくカジュアルに! カンニングする(最近でいえば、試験をオンラインで実施することになったと通知したとき、劣等生の(…)さんはグループチャット内で堂々とよろこびを爆発させた)。オンラインテストともなれば、たとえこちらが事前にカンニングするなよといくら言い含めたとしても、そしてほかの教員たちがそうしているようにテスト中はカメラをオンにするようにと命じたとしても、いくらでも抜け道を用意してカンニングするに決まっているので、ここで必要なのは逆転の発想、カンニングを前提とする試験内容にすることにした、というかこのテストではスマホもパソコンも教科書も配布資料も使ってもよし! とぶちかますことにした。もちろん、そうしたところで高得点が取れるわけではない、そういうカラクリをしっかり用意するわけだが。
 テスト問題作成中、(…)さんから微信。パックに入ったいちごの写真付き。大連に無事到着したらしい。きのう微信で軽くやりとりした際、大連はいまいちごが旬であるという彼女に、ぼくは海鮮類もいちごも大好物だから大連にいるきみがうらやましいよと返したのであったが、そのやりとりを踏まえての自慢である。祖父母と再会できて、とても幸せとのこと。
 17時半をまわったところで第五食堂に出向いて打包。帰宅して食し、ベッドに移動して『彼岸過迄』(夏目漱石)の続き。最後まで読み終わる。変な小説だったな、これ。漱石の小説のなかでいちばん変なんじゃないか? 終盤、須永が書き送る長い手紙の中で、段落の末尾ごとに(午前七時半)とか(午前十時)とか記されていて、これはつまり、この手紙をここまで書いたところで時刻は○○時ですの意味なんだろうが、じぶんがこうして日記で書いていることと同じことやってんなと思った。以前ほど細かに時間を記録することはなくなったけれども、それでも日記を加筆するたびごとにアスタリスクを打つようにして、ここからここまではだいたいこれくらいの時間帯に書いたものであると、あとで読み返したときに理解できるようにこちらはかれこれ数年間やっているのだが、そっか、長い手紙になると同じ便宜がときに必要になってくるんだな、そういえば梶井基次郎の書簡もそんなふうだったかもしれない、のちほど加筆した部分に関してはいちいち、ここから先はあとで付け加えたところだがみたいな断りを入れていた気がする。
 デスクにもどり、きのうづけの記事を投稿。ひとつ書き忘れていたことがある。きのうづけの記事の冒頭に置いた『1984年に生まれて』(郝景芳/櫻庭ゆみ子・訳)の抜き書きを読んだとき、松本卓也がカントについて書いていた一節を思い出した。『創造と狂気の歴史 プラトンからドゥルーズまで』か『症例でわかる精神病理学』のどちらかだったと思うのだが、過去ログを検索してみてもうまくヒットしない。ただ、『〈責任〉の生成——中動態と当事者研究』(國分功一郎/熊谷晋一郎)のなかで、國分功一郎松本卓也の説明として引いている言葉がたぶんそれに近いので、代わりにそいつを並置しておく。

「お分かりになっていませんね」私は言った。「この問題がすべてのことに影響してるんです。肝心なことは、もし一切が外界のことならば、もしいかなる考えも自分自身のものではないというのなら、私に自由なんていうものがあるのか、ということです。自由を見つけたいなどというのは、ぜいたくな望みなのか、ということなんです。この恐怖は薬では解決できないものです」

國分 熊谷さんのお話を聞いていて、二つほど思いついたことがあります。
 まず一つめ。自伝的自己というのは、カントが言っていた「統覚」とほぼ同じではないか、ということです。「Ich denke(イッヒ・デンケ)」、つまり「I think」ですね。「私が考える」、すなわち「私がこれらを考えている」「これらを考えているのは私である」という表象がないと、認識が成り立たない。
 松本卓也さんがこれについてわかりやすい説明をしていて、なぜ「Ich denke」がなければならないかというと、これがないと、頭のなかの諸々の想念がすべて自分のものであると思えなくなってしまうからだというんですね。つまり、「私が考えている」がなければ、私が考えたり感じたりしていることなのに、それらが自分のものではなくなってしまう。誰かが自分のなかで語っている、考えていることになる。それらは幻聴として経験されることになります。統合失調症の場合がこれです。統合失調症の場合、「私が考える」がうまく機能していないが故に、自分の頭のなかで別の人が考えているように感じられることになる。ですから、カントだったら自伝的自己の根源的なところには、「私が考える」があると言うのではないか。

 ただ、『1984年に生まれて』から引いたくだりは、統合失調的な恐怖ではなく、もっと根源的な恐怖——という表現が正しいのかどうかはわからないが——、つまり、存在ではなく意味を選んだ主体の決定、〈他者〉の支配下で生きることを選んだ主体の畏れみたいなもんだと思う。だから、これは分裂症ではなく、おそろしくまっとうな神経症だ。
 記事を投稿後、ウェブ各所を巡回。その後、2021年12月9日づけの記事の読み返し。以下のくだり、クソ笑った。初出は2020年12月9日づけの記事。夕方、両親とそろって(…)堤で(…)の散歩をしていたときの出来事。

堤ではチワワをつれたババアふたりとすれちがった。以前もすれちがったことがある。チワワは(…)の姿を見るなり、歯をむきだしにてギャンギャン吠えはじめた。あんなに敵意剥き出しのチワワを見るのははじめてだ。そのわきを多少興奮しながらではあるもののさっと通過する(…)の姿を見て、あれ、あれいちばん賢い犬やに、とババアはいった。この子はあかん、脳味噌ちっさいからアホや、と続いた。たまらずふきだした。彼女らのやりとりをやはり聞いていたらしい母も笑った。(…)のことをアホ犬だのなんだのいうことはこちらもよくあるが、小型犬の飼い主がその小型犬全般を生物学的に全否定する言葉をごくごく自然な口調でさらっと言ってのけるのはやはり面白すぎる。年寄りのああいう酷薄さはだいたいツボに入る。(…)の祖母が、たしか動物ものの映画の予告編を見ていたときだといっていたと思うが、死んだ飼い主の中に横たわっている棺桶をのぞきこんだ主演の犬がくぅ〜んと鼻を鳴らすシーンを見て、あれま! 犬畜生でもこんな情あるんかん! と声をあげたという伝説のエピソードをひさしぶりに思い出した。

 その後、コーヒーを飲みながら、今日づけの記事も途中まで書いた。21時前になったところで作業を中断。モーメンツをのぞくと、(…)さんが中国政府に対する皮肉を投稿していた。人民日報のスクショが二枚付されているのだが、一枚目は先月はじめのころの記事で、オミクロン株を含むコロナウイルスのせいでアメリカをはじめとする世界各地で後遺症に苦しむ人々が多数いると告げている。で、それに対して二枚目は先月末の記事で、オミクロン株による後遺症はほぼまったく存在しないと告げている。そしてそれらのスクショに対して、以前は他人に宿題を写させていたが、いまは他人の宿題を写すこともできる、みたいなコメントを付しているのだが、これはたしか、武漢でのコロナ流行がおさまり、諸外国での流行が爆発しはじめていた時期だったか、海外諸国はわが国がとった対策をそのまま真似れば感染者を出さずにすんだだろうに、他人の宿題を写すことすらできないのか、と嘲笑し勝ち誇るような言説が出回っていた、それを踏まえての皮肉だろう。

 シャワーを浴びる。ストレッチをする。日語閲読(三)の期末試験A案とB案を作成する。レイアウトの崩れはPagesでどうにかなった。オンライン試験での実施となるA案については、基本的に記述式の問題のみにする。で、上にも記したとおり、あらゆる資料の使用を許可したうえで、回答がほかの学生と重複および類似している場合は減点、ネット上に存在する文章をそのまま引き写した場合は0点という基準をあらかじめ設けておく。具体的な問題は以下の通り。

(…)

 この内容であれば、カンニングしたくてもできないようなものであるし、したとしてもすぐに露呈する。採点作業がかなり面倒にはなるが、ま、それくらいは仕方ない。しかしこれ、カンニングする気満々だった学生らはびっくりするだろうな、「あの日本鬼子、やってくれたな!」と頭を抱えるに違いない。
 試験問題と同時に提出する書類も作成。すると時刻は23時。腹筋を酷使し、餃子を食し、ジャンプ+の更新をチェックする。(…)さんがまたモーメンツを更新していたが、钟南山がまたタイミングよく出てきたぞ的なメッセージとともにニュースサイトのトップのスクショをはりつけており、見ると、見出しの多くが、钟南山がオミクロンはおそれるに足らないと言っているとか、钟南山がオミクロンの症状はゆっくりと消失するものなのでそもそも後遺症と呼ぶものでもないと言っているとか、そういうのばかりで、完全にいいように使われているなという感じ。しかし钟南山といえば一度どこかのタイミングで——と書いたところでググったのだが、上海が大変だったころだ、四月だ、そのころにゼロコロナ政策を続けるのは無理だというような論文を発表して、すぐ撤回したのであったかネットユーザーがアクセスできないようにされたのだったか、なんかそういうアレがあったのをおぼえている。で、今日にいたるまで全然名前を見聞きしていなかったのだが(といってもこちらは中国メディアの報道や微博を熱心にのぞいているわけでは全然ないので、もしかしたら普通にあちこちで姿を見せていたのかもしれないが)、このタイミングで出てくるのかという感じ。あんまりにもわかりやすすぎる。わかりやすすぎるそうした動き一切が、壁の中にいる大多数のひとたちにはわからない。
 プロテインを飲み、歯磨きをし、寝床に移動。『「エクリ」を読む 文字に添って』(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳)の続きを読んで就寝。