20221210

 大学では私は多くのサークルを経験した。それらのサークル活動は、観光で見た景色みたいなもので、たとえ名残惜しくてもさっと身を翻して辞めてしまったものだ。曲芸クラブでは漫才を習った。けれども私がやると自分から笑ってしまいお話にならなかった。アニメ同好会にも入ったが結局ひとり宿舎にこもってアニメを見るほうを選ぶことになった。ロック協会にも入り、大勢でMIDIミュージックフェスティバルを見に行ったが、フェスでも特にいいと思ったバンドはなく、串焼きの売り手と派手な衣装で眠そうにしていたバンドメンバーを目にしただけ。目の周りを黒く塗ってレザーの上下をまとった若い子らが犬の鎖に白菜を縛りつけ、地面の上でそれを引っ張りながら行ったり来たりしていた。
(郝景芳/櫻庭ゆみ子・訳『1984年に生まれて』)

 最後、笑った。



 10時半起床。歯磨きしながらスマホでニュースをチェック。「防衛省、世論工作の研究に着手 AI活用、SNSで誘導」(https://nordot.app/973917552334143488)という記事。

 防衛省人工知能(AI)技術を使い、交流サイト(SNS)で国内世論を誘導する工作の研究に着手したことが9日、複数の政府関係者への取材で分かった。インターネットで影響力がある「インフルエンサー」が、無意識のうちに同省に有利な情報を発信するように仕向け、防衛政策への支持を広げたり、有事で特定国への敵対心を醸成、国民の反戦厭戦の機運を払拭したりするネット空間でのトレンドづくりを目標としている。
 中国やロシアなどは「情報戦」に活発に取り組む。防衛省は、日本もこの分野の能力獲得が必要だと判断した。改定される安全保障関連3文書にも、情報戦への対処力向上を盛り込む。

 なぜ、「説得」の努力を惜しみ、「誘導」という方法をとろうとするのか。このニュースについてはそれがすべてだろう。結局、連中にとっての国民とは、家畜でしかないというわけだ。
 あと、ワールドカップクロアチアがブラジルにPK戦で勝ったという報道も見た。それからアルゼンチンがオランダ相手にここもやはりPK戦で勝利したという報道も見たのだが、この試合はなかなかすさまじかったらしい。一試合でイエローカードが17枚にレッドカードが1枚出たという。そんなことありえるのか? 十年以上前、(…)に誘われて生まれてはじめて『ウイニングイレブン』をプレイしたとき、スーファミの『バトルサッカー』のノリでスライディングしまくったせいで開始5分でレッドカードを喰らったのを皮切りに、その後もカードを連発で喰らいまくってしまって最終的にはどんだけラフプレーをしても審判が容易にカードを出さなくなったのを記憶しているが、あの試合でも17枚は出なかったのでは?
 一年生の(…)さんから微信。手作り餃子の写真。母親と一緒にこしらえたという。やりとりしながらトースト二枚を準備して食す。食後のコーヒーを飲んでいる最中、(…)先生から微信。明日の16時までにオンラインで行う期末試験の問題と使用するアプリの情報を担当者に送信せよという通知がいま突然届いたという。あいかわらずめちゃくちゃすぎる。ありとあらゆる通知がすべて不意打ちと化す社会だ。こういうこともあるかもしれないと、こちらは昨日のうちにテスト問題と提出書類の作成はほぼすませておいたわけであるからいいとしても、(…)先生のように子育てしながらの教員もいるわけであるし、さらにいえば、考试の科目を複数担当している教員もいるわけであって、そういう事情をもうちょっと考えてやれよと毎度思う。まったくもってやさしくない。
 きのうづけの記事の続きを書いて投稿する。ウェブ各所を巡回。(…)さんがブログで言及していた「盲視」という現象、これに近い実験をどっかで読んだ気がするなと思う。『ニューロラカン 脳とフロイト的無意識のリアル』(久保田泰考)だったかなと考えたところで、いや、そうじゃない、『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』 (ジュリアン・ジェインズ/柴田裕之・訳)だと思い出した。過去ログを検索したら該当箇所が引いてあった。2020年12月7日づけの記事。

 交連切断術を受けた患者に行なう検査に次のようなものがある。被験者は半透明のスクリーンの中央に視線を固定する。スクリーンの左側に映し出されるスライド写真は、前述のように右半球でしか見えず、それを言葉で伝えることはできない。しかし被験者は、口では見えていないと言いながら、右半球が司る左手を使ってスライド写真と呼応する写真を指さしたり、映っている対象を選び出したりできる。右(劣位)半球だけに見えるこのような刺激は、連結部分が切断されているため、右半球の中に閉じ込められたままで、右半球はその刺激について言語野のある左半球に「告げる」ことはできない。右半球がこの情報を持っているのを知る唯一の方法は、左手を使って対象を指すようにと右半球に指示することだ。右半球はこれを難なく実行できる。
 二つの異なるものが同時に一瞬、視野の右と左に映し出された場合——たとえば、「ドル記号($)」を左に、「疑問符(?)」を右に映し出した場合——今見たものを左手を使って、手もとを見ずにスクリーンの下で描くように言うと、被験者はドル記号を描く。しかし、今、手もとを見ずに描いたのは何だったかと尋ねると、彼は疑問符だと言い張る。つまり、一方の半球は、もう一方の半球が何をしているのか知らないのだ。
 また、何か物の名称、たとえば「消しゴム」という単語が、視野の左側に映し出されると、被験者は左手だけ使って、スクリーンの裏に置かれた様々な物の中から消しゴムを選び取れる。だが、消しゴムを正しく選んだ後、彼に、スクリーンの裏で握っている物は何かと尋ねると、左半球の中にいる「彼」は、右半球の口の利けない「彼」が左手につかんでいる物が何なのかを答えられない。同様に、「消しゴム」と口頭で言われたときも、左手は消しゴムを選び取れるが、言語半球(左半球)は、左手がいつ答えの消しゴムを見つけたのかわからない。当然、以上のことから私がすでに述べたとおり、両半球とも言語を理解できることがわかるが、これまで右半球がどれぐらい言語を理解できるか見定められたためしはない。
 さらに、右半球は複雑な説明を理解できるということもわかった。視野の左側に「髭を剃る道具」という言葉を映し出して右半球に見せると、左手はかみそりを指し、「汚れを落とすもの」と映し出すと石鹸を指し、「スロット・マシンに入れるもの」では二五セント硬貨を指す。
 また、このような被験者の右半球は、言語半球(左半球)が理由をまったく理解していなくても、感情的に反応を示すことができる。たとえば、特徴のない幾何学模様を無作為に一瞬ずつ視野の右側と左側に映し出し、左右それぞれの半球に見せるようにする。その際、不意打ちで裸の女性の写真を左側に映し出し、右半球に見せる。すると、被験者(正確には被験者の左半球)は何も見えなかった、もしくは、ただ光が一瞬見えただけだと言う。しかし、そう言ったそばから、顔を赤らめたり、にやりとしたり、くすりと笑ったりという行為が、言語半球の証言を覆す。なぜ笑うのかと訊かれても、言語半球(左半球)は想像もつかないと答える。ちなみに、こうした表情や赤面は、顔の片側だけに限られない。脳幹の奥深くにある連結部分を通して反対側にも伝えられるからで、感情の表現は大脳皮質が担っているのではないのだ。
(ジュリアン・ジェインズ/柴田裕之・訳『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』 p.144-145)

 『ニューロラカン 脳とフロイト的無意識のリアル』(久保田泰考)をなんとなく思い出したのは、たぶん以下の記述をぼんやり連想したからなんだろう。2021年9月20日づけの記事。

(…)最近の神経科学の知見からすれば、私たちが覚醒しているときも、私たちの脳は本当に外部の対象を見ているかどうかということは、あやしい話であるということになるからだ。動物実験では、自然な風景を見ているときの一次視覚野のニューロンの発火頻度は、まったくの暗闇の状況と比べても、わずか二〇パーセント程度しか増加しない(Fiser et al., 2004)。一次視覚野の神経活動の時間・空間的パターンは、外部からの刺激入力によってコントロールされるのではなく、すでに進行中の活動パターンにかなりの部分まで支配されているという。
 私たちのヒトの脳も、内的なニューロンの活動パターンに従って、見るべきものを見ており、見ないはずのものを見ていないかもしれない。脳が処理する視覚に関する膨大な情報のうち、外界から入力されるものはごく一部に過ぎず、残りは神経回路の自発的な活動である。私たちが知覚するもの(percepts)は、脳が感覚入力(sensory input)に基づき、その感覚(sense)の原因(cause)として、予測・推論した結果であると言うべきであって、実在する対象物の感覚データから知覚がそのつど生成すると考えるのは、神経科学の知見からしても正確ではない。
 言い換えれば、脳は見えるはずと予想されるものを見るのである。私たちが赤いリンゴを見るとき、脳はリアルタイムの視覚情報入力からリンゴという対象を構成し認識するのではなく、脳自体の自律的活動によって、「リンゴというものを見ている」という意識体験が、クオリアで織り上げられた緻密な織物のように構成される。とすれば、現実の世界においても、私たちはある意味で「クオリアの中で眠らされ続けている」のだろう。
(久保田泰考『ニューロラカン 脳とフロイト的無意識のリアル』 p.30-31)

 それから2021年12月10日づけの記事の読み返し。

 メイヤスーは、最初の著作『有限性の後で』(二〇〇六年)において、「相関主義 corrélationisme」批判という課題を提示した。相関主義はひじょうに包括力のある概念で、メイヤスーによればそれは、カントによる超越論哲学の確立後、今日に至るまでの近現代哲学の前提にされてきたものだ。次のように定義される。「私たちが「相関」という語で呼ぶ観念に従えば、私たちは思考と存在の相関のみにアクセスできるのであり、一方の項のみへのアクセスはできない。したがって今後、そのように理解された相関の乗り越え不可能な性格を認めるという思考のあらゆる傾向を、相関主義と呼ぶことにしよう」。私たちは、私たちによって思考されている=私たちの思考と相関している存在、世界(存在するものの総体)だけを思考できるのであり(そして逆に、何とも相関しない思考だけの思考も不可能であり)、私たちによって思考されているという条件を無視して、絶対的にそれ自体がどうであるかを思考することは不可能なのである。
 そこでメイヤスーは、非相関的な世界それ自体——「大いなる外部」と呼ばれる——を思考するため、新たなる「絶対的なもの」の本性を論理的に確保する。非相関的な世界を真に対象化していると見なせる場合として、メイヤスーは、人類そしてあらゆる生命の発生以前の世界についての、数学を根本的な方法とする物理科学の言明を出発点に据える(そうした言明の妥当性を認める)。そこから、数学によって「絶対的に」思考される事物それ自体があることを確実にするため、そもそも絶対的なものに認められるべき資格とはどういうものかを再検討するのである。
 行程の要約を試みよう。『有限性の後で』は最初に、相関的な質(ロックやデカルトにおける二次性質)の様々な述定によっては左右されない、絶対的な本性=量(一次性質)へ、という方向づけを示す。本稿ではこれを、「解釈 interpretation」から分離された絶対的なもの=実在へ、と言い換えてみる(メイヤスーは語 absolutus に「分離」の意味があることを指摘している)。メイヤスーは、絶対性と「必然性」を区別する。相関主義以前の形而上学は、何らかの必然的存在者にもとづく確実な知を打ち立てようとしていた。たとえばデカルトは、神の存在論的証明でもって数学的実在を保証したのだった。必然的存在者は、この世界のすべてになぜこのようであるのかの「充足理由」があるという「理由律」(ライプニッツの定式化が有名である)の究極のアンカーである。相関主義は、必然的存在者を無効にすることによって形而上学を葬った——この世界は「事実的」に私たちにこのように与えられている。究極の充足理由は、私たちには思考不可能だ(私たちの有限性)。そうした相関主義からの脱出として、メイヤスーは、充足理由は思考不可能なのではなく、絶対的に=即自的に無である、という立場を擁護するのである。
 この世界が事実的なのならば、世界が別様でありうる可能性が示唆される。相関主義ではそうした諸可能性は、私たちの有限性ゆえに想定される(つまり、この世界がこうである理由がわからないのとペアで、この世界がこうでなく別様である諸可能性という余地が生じている)。そこでメイヤスーは、事実性概念を私たちの有限性から切り離し、絶対化することで、事実的な世界それ自体が、「非理由 irraison」で(何の理由もなしに)、別様の事実的なあり方に変化しうる、という可能性を認める(その際、世界それ自体の変化可能性が、実は相関主義の前提に潜んでいるという論法に訴える)。世界は、理由なしに発生する。新たな世界の根底もこの世界の根底も、まったくの理由なしなのである。圧縮して言えば、私たちによる解釈から分離された、絶対的に事実的な実在の、まったく理由なき=偶然的な変化性——メイヤスーはこれを「ハイパーカオス」と呼ぶ——が肯定されるのである。
 以上において私は「解釈」——相関的思考に相当する——を、「終わりなき」解釈という意味で用いている。実在に触れての絶対的な知は不可能であるという条件下で、多様な解釈が実在への不可能な漸近としてなされ続ける。基本的に人文学は、そのように営まれているものと言うことができるだろう。ここでは、解釈学的であることを人文学全般の特質とみなしたディルタイらの伝統的議論を背景に敷いた上で、ラカン精神分析理論における、欲望は到達不可能なもの、いわば「穴」をめぐって空回りし続ける、という図式を援用している。
 さて、終わりなき解釈を(終わりなきとわかっていて)続ける人文学、これに対照的なのは、実在論的な自然科学の立場である。実在論的であるならば、自然科学は、そのつどに仮説的ではあるにしても、実在に触れた知識を生産しているという自負を持つはずである。通常、探究される実在の本性、つまり諸法則は、不変であると想定されている。ところがメイヤスーの主張では、実在的法則は不変でなくなる。実在的法則が突然、理由なく多様に変化しうるのだ。
 ここで、終わりなき解釈の絶対的な外部を、〈無解釈的 non-interpretive〉と形容することにする。以上において〈無解釈的なもの the non-interpretive〉は、二段階で示されていた。第一には、実在論的な自然科学の場合で、それは、不変の実在的法則である。第二には、メイヤスーの自然科学観における、変化可能な実在的法則である。注目したいのは、実在論的な(通常の)自然科学をまたいでの、二種の変化性の対比だ。すなわち、解釈的な変化性/無解釈的な変化性という対比である。前者は、穴のような不可能なものをめぐり続ける変化性である。後者は、実在それ自体の根本的な変化性であり、この場合では、もはや穴的な審級は働いていないことになる。
(千葉雅也『意味がない無意味』より「思弁的実在論と無解釈的なもの」 p.139-142)

 洗濯。今日づけの記事をここまで書くと時刻は14時半。日語閲読(三)の期末試験問題用紙をあらためてチェックしたのち(…)先生に送信。教務室の先生の連絡先を知らないので彼女に転送してもらうかたち。それから一年生のグループチャットで補講の相談。14日(水)の14時半からで問題なしとなる。その一年生の日語会話(一)の授業準備も進める。授業自体はあと二回。で、残る四回はすべて期末テストに当てる予定。その期末テストの説明用資料もちゃちゃっとこしらえる。後日また詰める。
 中国国内、北京や上海や広州あたりはやはりかなり市中感染が拡大しているっぽい。PCR検査もしなくなってしまったので、正確な感染者数も不明、検査をしていないので統計上は感染者数が減少しているということになるわけだが、人民らも当然それを鵜呑みにするわけがない。来週の木曜日に病院で健康診断を受けなければならないわけだが、平和な田舎であるからといってこの状況、全然油断はできない。というか(…)を同行させるのがちょっと申し訳ない気がする。いや、それが彼女の仕事であるし、必要書類のやりとりをこちらに任せるわけにはいかないので仕方ないのだが、それにしてもという後ろめたさはどうしても感じてしまう。ま、さすがにこの僻地であるし、大都市とは違って来週木曜日の時点ですでに発熱外来がいっぱいですみたいなことはないと思うのだが、そうだったとしてもじきに春節がやってくるわけであるし、さらにその後、中央が方針を変更しないかぎりは大陸各地に散らばった学生らの返校もあるわけだから、いやもう避けられんね、ほんまに感染すること前提でもろもろ準備しとかなあかん。(…)家最初の犠牲者はどうもじぶんになりそう。ここ数年ろくに墓参り行っとらんかったからな。しゃあない。
 17時半に作業を中断する。第五食堂へ。キャンパス内、思っていたよりもずっと学生がいた。今日は日中ずっと寮にこもっていたわけだが、その間外から聞こえてくる学生の声などまったくなかった。だからすでにポストアポカリプスになってんのかなと思っていたのだけど、そうでもない。とはいえ、第五食堂の二階は空席が目立ったし、なによりこちらが毎日利用するビュッフェ形式の店が、いつもであればグラム数に応じて値段をつけるところ、今日は10元均一だ! みたいなことをレジにひかえている肩幅の異常に広いおばちゃん? おねえさん? が言っていて、あれ? もしかして今週で終わり? 来週からはここはやらないの? と思った。モーメンツでは学生らが英語の試験が終わったことを報告していたし、となると今日もしくは明日でごっそり学生の数が減るわけで、やっぱり食堂を一部閉めるかたちになるのかも。第五食堂は残してくれ! 頼む!
 打包して帰宅。メシ食う。ベッドに移動して『「エクリ」を読む 文字に添って』(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳)の続きを読む。オンライン授業になってからというもの、マジでクソ運動不足であるというか、ろくに歩いていない——というかそもそも立っている時間もないのでは? という感じなので、もうかれこれ二ヶ月近く途絶えていることになるかもしれないジョギングにひさしぶりに繰り出そうかなと思ったのだが、いや、寒い。じゃあ、せめて散歩でもしようというわけで身支度を整え、保温杯にコーヒーを注ぎ、部屋を出る。
 一階におりる。寮の敷地内で小さな子どもらが五人ほど集まり、手にした電車のおもちゃを地面にガーガー走らせて遊んでいる。そばには母親らしい女性がふたりいて立ち話している。門を開けて寮の外に出る。手にしたコーヒーをちびちびやりながら図書館のほうに歩く。スタバで買ったコーヒー豆、マジで全然うまくない。ミルで挽いたときからそうであるのだが、香ばしさを通り越して焦げ臭い。ネルドリップでこれなのだから、ペーパードリップだったら飲めたもんじゃないんではないか。キャリーケースをガラガラさせながら歩いている女子学生の姿が目立つ。これから駅に行って寝台列車に乗るのか、あるいは早朝出発の列車をターミナルで待つつもりなのか。
 図書館の手前で右折する。湖のほうに向かう。京都時代にもこうして夜歩きしたことが何度もあったなと思い出す。特に(…)のあばら屋で(…)夫妻と同居していた頃、こんなふうに目的もなくぶらぶらおもてを歩くことがあった。あれはさびしかったのかなとちょっと思った。もう数ヶ月前になるのか、「実弾(仮)」執筆の資料を収集するため、2011年3月前後の日記をかなりの量まとめ読みしたけれど(一年分くらい?)、文学、哲学、映画、音楽——そういったもろもろをディープに共有することのできる相手がいないことに対するさびしさなのか不満なのか、そういったアレがある種の感傷をともなう調子でけっこう書きつけられていたし、夜歩きするときはたしかになんらかの期待があった。つまり、だれかにばったり遭遇することがあるんじゃないかという期待なのだが、それでいて、当時のじぶんには同居していた夫妻以外に知り合いがいなかった(当時の日記には夫妻とバイト先の同僚である(…)さん以外に登場人物がほぼ存在しない)。だからあのとき遭遇をもとめていただれかというのは、具体的な人物ではなく匿名的な存在だった。当時のじぶんはそうした透明な存在との遭遇に賭けるつもりで夜歩きしていた、少なくともそういう一面はあった。
 つれづれと思い出されていくものがある。勤務中に内緒で読書できるのが絶対条件! というアレで見つけ出したAV店でバイトしながら毎日猛烈に、いまとはくらべものにならないペースで本を読み映画を観しながらも、このままでいいんだろうか? もっと外に触れたほうがいいんではないだろうか? じぶんには広い意味での経験が圧倒的に足りないんではないか? というひそかな焦りも同時に感じていたあの当時の気持ちが、とりわけ鮮明によみがえる瞬間があったのだが、あ、そっか、そういう意味でいえば、ここ十年ほどのじぶんはあの当時のじぶんの焦りに応えつづけているわけなんだなと思った。ヤクザと異国の大学。経験値稼ぎにはもってこいだ。
 ベンチではいつものようにカップルが座ってイチャついている。湖では釣りをしているおっさんがいる。それも図書館の入り口近くのけっこう目立つ場所にいる。キャンパス内の湖は釣り禁止であるが、夜、ときどきこうして釣りをしているおっさんがいることは、以前(…)さんと(…)さんと散歩したときに知った。しかしいまはあの時と違って部外者の出入りを厳格に禁止しているはずであるし、実際南門も封鎖されており、開いているのは守衛が複数控えている北門だけであるはずなのだが、いったいどうやって中まで入ってきたのだろう? 柵をよじのぼって入ってきたのだろうか? あるいは袖の下? それともキャンパス内に居住している人物? 湖面はおそろしいほど静かで、図書館の正面玄関を見事に映していた。そのまま(…)さんいうところの「恋人の道」を歩く。はるか彼方から死ぬほどダサいディスコミュージックみたいなものが聞こえてくる。広場ダンスのBGMだ。たぶん(…)公園だろう。ベンチに守衛のおっさんがひとり腰かけてたばこを吸っている。なんとなくこのおっさんがさっきの釣り人を手引きしたんじゃないかと思う。
 湖沿いを歩く。途中で立ち止まり、橋の下の浅瀬をのぞきこむ。学生らと散歩するとき、いつもここで魚をながめるのが習慣になっているのだが、今日はなぜか一匹も見つからなかった。ほとりでうんこ座りしながらひとりコーヒーを飲む。フードをかぶった黒ずくめの男がそんなこちらの背後を通り過ぎていく。
 また歩き出す。ときどき学生らしい姿ともすれちがうが、夜であるしボランティアに注意されることもないからだろう、半数以上の学生はマスクを装着していない。こちらもそれにならう。以前、国旗掲揚チームとばったり遭遇した路上に出る。ヘミングウェイの「何を見ても何かを思い出す」じゃないけど、どこを歩いていても学生との記憶がよみがえるなと思う。ただ、キャンパス内を夜歩きしている最中におのずとよみがえる姿は、やはりこの一年の間に交流した学生が大半だ。コロナ以前に深く交流した学生らの影は、キャンパス内ではなくキャンパス外を浮遊している。なんの気兼ねもなく大学内外を自由に出入りできた日々。亡霊たちはみんな抜け道だらけの柵の外で永遠の学生時代を遊んでいる。
 南門の近くに達する。池のそばにあるブロックに腰かけ、物思いした内容をスマホにメモし、コーヒーを飲み干す。それから第三食堂のほうに歩き出す。食堂の入り口が閉まっている。時刻を確かめるが、20時をいくらか回ったばかり。夜食の営業はたしか22時前まであったはず。入り口に張り紙らしきものもある。近づいて確認しなかったが、たぶん第三食堂は今日までなのだ。ほかの食堂はどうであるのか気になったので、散歩がてらチェックすることに決める。それで第四食堂に向けて歩く。途中、こちらの左隣を、黒いダウンジャケットを羽織っためがねの女子学生が、鼻歌をうたいながらスキップで追い抜いていく。周囲に彼女のツレらしき人物はいない。にもかかわらず、鼻歌とスキップ! あの自意識のなさはなんだろう! こうした瞬間を描いた小説を以前読んだなと思う。思い出せないまま第四食堂に到達する。開店している。張り紙もない。セーフ!
 バスケコートを抜けて第五食堂に向かう。その途中、思い出せなかった小説がほかでもない『S&T』に収録した断章であったことに気づき、はっとなる。そんなことがあるのか! じぶんの手でたしかに書いたはずの文章を、いつか読んだ他人の文章として記憶してしまう、そんなことが!
 第五食堂も開いている。第三食堂だけ先に閉めるかたちなのかなとおしはかる。そのまま帰宅。ものすごく当たり前のことを書くが、散歩をすると体がぽかぽかする。特に足の冷えがとれる。これがいちばんの恩恵だ。ぽかぽかした体のまま浴室に移動してシャワーを浴びる。

 ストレッチをする。コーヒーを用意し、21時半から書見。『「エクリ」を読む 文字に添って』(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳) の続き。以下のくだり、まんまオープンダイアローグではないかと思った。いや、オープンダイアローグの元ネタのひとつがラカン派であることは当然なのだが。

 満ちた発話は啓示と結びついた発話である。分析主体はこの発話により、過去や現在について話し、自分の幻想や欲望、自分が家族関係の連鎖のなかでどの位置にいるか、などについて新たな発見をなす。これらの発見は必ずしも分析家にのみ耳新しいのではなく、分析主体にとってもはじめて聞くものであり、このとき分析主体は、自分が新たな地平を切り開き、「どこかに辿りついた」という感じを持つ。
 しかしこうした啓示的な作業が間断なく永遠に続くことなどありえないことを分析家は痛感している。実際、非常に稀ではあるが、いくつかの分析では、長い間、均衡状態が続き、作業が停滞していたところに、他の迂回路が見つかるのではなく、むしろ、ほんのつかのまのあいだ啓示がひらめくといったことがある、というところだ。ラカンは、啓示が間断なく永遠には続かないことの理由を理論化しているが、それによると、患者が象徴化しようとしている現実(あるいはフランス語でしばしば言うところの「現実的なもの」)とは、かつて一度も象徴化されたことのないものであるため、この象徴化自体、骨の折れるプロセスだからである。現実が象徴化に抵抗するのだ。この現実的なものをトラウマとして理解すれば、出来事がトラウマ的である理由とはまさしく、子どもたちがそうした出来事に情動を揺さぶられるとき、誰もそれについて話す手助けをしてくれるひとがいない、ということだろう。すなわち、それら出来事を意味の織物のうちに収め、こうしてその衝撃を和らげることができないのだ。分析において患者をこうした出来事まで連れていこうとするとき、そこに言葉はない。この出来事に関するある種の記憶が残っているものの、歴史化、物語化、あるいは虚構化、とどのつまり言語化はなされないままである。第2章で見るように言語は情動に内在しているとはいえ、トラウマの場合にはつねにすでに言語がそこにあるわけではなさそうだ。後から遡って持ち込まねばならないのである。
 ラカンの指摘によると、この言語化への抵抗は、トラウマ、あるいは彼の言うところの「トラウマ的現実」の本性に属している。物理学から拝借したフロイトの喩えによれば、患者がトラウマの核心へと近づけば近づくほどに、斥力は強まり、彼をいっそう強く押し返す。ある意味、ここでラカンが私たちに考えさせようとしているのは、患者が、治療プロセスにいくらかでも望んで抵抗しようとしているわけではない、ということだ。むしろ、患者が取り組む仕事の性質そのものに抵抗はつきまとっているのである。現実的なものは象徴化に抵抗する。枠に収められていない現実的なもの——ジャン・ポール・サルトルの『嘔吐』でロカンタンが出くわした木の根のごとく、どのカテゴリーにも収まらず、いかなる象徴的文脈にも位置しない現実——が、こうした位置設定や文脈設定の作業に抵抗するのだ。象徴は、トラウマ的経験と結びついた情動のうちに内在していない。ある出来事がトラウマ的であるのは、この経験が収まるはずの象徴的ないし言語的パラメーターを、社会的文脈が提供しないかぎりにおいてである。(…)
(239-240)

「象徴は、トラウマ的経験と結びついた情動のうちに内在していない。ある出来事がトラウマ的であるのは、この経験が収まるはずの象徴的ないし言語的パラメーターを、社会的文脈が提供しないかぎりにおいてである。」なんて、まさに! という感じ。その「社会的文脈」こそが大文字の他者であり、であるから現実的なものの象徴化とは、換言すれば、大文字の他者の更新ともいえるわけで、そこにパスの残響を聞きとめることもおそらく可能であるはず。
 そういえば、このあたりのことを以前、予測誤差との二段構えで考えたことがあったなと思って過去ログを検索してみたのだが、あれこれいっぱいヒットしすぎてわからない、探し当てるのがめんどうくさくなった。ただ、『ドゥルーズガタリ<アンチ・オイディプス>入門講義』(仲正昌樹)から抜書きした一節(初出は2019年4月21日づけの記事と同年同月22日づけの記事)があらためて引かれている2020年4月22日づけの記事を読み返した2021年4月22日づけの記事に、「死の欲動(享楽)とは、なかば力ずくで成立させられている象徴秩序が瓦解する傾向であると理解できる。元来バラバラの断片である出来事(現実的なもの)が、系譜(父の名)と経験(予測誤差の体系)による出来合いの象徴秩序による歯止めを突き破ろうとする力。象徴秩序の不完全さのあらわれとしての死の欲動。」とコメントが付されているのは確認できた。で、そのまたさらに一年後の2022年4月22日づけの記事に、上のコメントに対する言及として、

 「死の欲動」というものを「元来バラバラの断片である出来事(現実的なもの)が、系譜(父の名)と経験(予測誤差の体系)による出来合いの象徴秩序による歯止めを突き破ろうとする力」および「象徴秩序の不完全さのあらわれ」としてまとめているのは、我ながらなかなかではないかと思った。というかラカン精神分析理論と熊谷晋一郎経由で知った予測誤差の理論を、それぞれ「系譜(父の名)」「経験(予測誤差の体系)」とまとめて二段構えにしているのも面白い。この場合の「系譜(父の名)」とは「経験」が最大公約数的に社会化されたものであると考えればいい(その最たるものとして「言語」がある)。

と記してあって、このあたりのことをもうすこしまとめた記述が過去ログの山の中にあるはずなのだが、前述したとおり、探すのがめんどうになったのでまたの機会にする。失敬!
 23時過ぎになったところで書見を中断する。Kindleで『ほんとうの中国の話をしよう』(余華/飯塚容・訳)をポチる。『「エクリ」を読む 文字に添って』は寝る前にベッドでうとうとしながら読むのには向いていない本なので。冷食の餃子をこしらえて食う。たまには焼き餃子も食いたいな。中国ではまだ一度か二度しか食べたことがない。食しながらジャンプ+の更新をチェックし、歯磨きをすませ、今日づけの記事も途中まで書き進める。1時前になったところで作業を中断し、ベッドに移動して『ほんとうの中国の話をしよう』(余華/飯塚容・訳)を読みはじめる。
 2時過ぎだったろうか、Kindleに表示されている文章の同じ行をうつらうつらとしながら何度も何度もなぞりなおすような頃合いだったと思うが、突然、(…)さんから微信が届いた。こんな時間に学生から連絡があるなんてめずらしい。13日までに時間はあるかという。食事の誘いだなと察し、11日であればいつでもオッケー、12日と13日は夕方から夜にかけてなら空いていると応じる。じゃあ11日いっしょに夕飯を食べにいきましょうとのこと。つまり、明日の夕飯である。パスタを食べましょうというので、(…)さんはあいかわらずシャレているな、うちの学生でパスタをチョイスする子なんてほかにまずいないもんなと思いつつ、了承。明日の16時半に北門前で待ち合わせることに。まだ(…)にいるとは思っていなかったというと、寮ではなく学校の外で暮らしている四年生はぼちぼちいるらしい。ま、そのあたりの事情がどうなっているのかは、明日また聞くことにする。お店は彼女が探しておいてくれるとのこと。好的!