20221212

「あたしのこと誰かから聞いてるでしょ?」彼女は言った。
「うん、少しだけ」
「ほんとは大したことでも何でもないのにさ」気軽な口調で彼女は言った。「最初っからこうなるのはわかってたからね。どんなこと聞いたの? お妾さんになって捨てられたって? 実際その通り」
 彼女の口元に嘲るような笑いが浮かぶのを私はじっと見ていた。相変わらずだった。誰がどう言おうと我が道を行く、のだが、同時にまず先手を打って防御線を張る。みんな内心そう思っていながら仄めかすだけで明言しないことがあれば、自分でその水泡を突き刺すことを選ぶのだ。他人のほのめかしは最大の屈辱だった。林葉にとって誇り高くいることは何よりも重要なことだった。
(郝景芳/櫻庭ゆみ子・訳『1984年に生まれて』)



 9時に設定してあったアラームで一度目を覚ましたが、いっぺんの躊躇もなく二度寝した。で、10時起床。歯磨きしながらスマホでニュースをチェック。明日以降itinerary codeが廃止されるという情報に触れる。さすがに驚く。このスピード感はなんやねん、と。マジでアクセルベタ踏みでフルオープンに向かうのか。集団感染して集団免疫こしらえろみたいなあたまなのかもしれんが、これだけ人口の多い国であるし家畜を含む野生動物との距離が近い国であるし(もっともこのあたりはコロナ以降かなり厳しい措置がとられているようだけど)、だったら変異ウイルスも今後またバカバカ出てくるだろうから、なかなかそううまくことは運ばないんじゃないだろうか。
 日語閲読(三)の追試用問題用紙と関係書類をプリントアウト。街着に着替えて寮の外に出る。自転車に乗って地下通路まで移動。おもては今日も晴天。手袋を忘れてしまったので手が冷たい。キャンパス内を歩く姿の半分以上がおっちゃんおばちゃんになっている。たぶん事務員らだろう(中国語では彼女らのことも老师というわけだが)。学生は院試組以外ほぼ全員帰ったはず。
 地下通路の手前に自転車を停める。階段をおりる。前方を(…)さんそっくりの女子学生が歩いている。本人かもしれないと思う。なにか用事があってまだ大学に残っているのでは? 階段をあがって老校区に出る。外国語学院の前を素通りしてそのまま先に歩いていく(…)さんそっくりの後ろ姿を見て、いややっぱり別の学生だと思いなおす。外国語学院は閑散としている。階段をあがって三階に移動する。もしかしたら閉まっているんじゃないだろうかと思うが、教務室の扉はわずかに開いている。この部屋の扉は、あれはたぶん蝶番か何かが壊れているからだと思うのだが、中にひとがいるときはいつもくちゃくちゃの汚いハンドタオルを噛ませた状態で半開きになっている。だから遠目にも、あ、いまはひとがいるな、と分かるのだ。
 中に入る。事務員のおばちゃんがひとりいる(このひとがたぶん(…)老师だと思う)。你好! とあいさつし、クラッチバッグの中からプリントアウトしたものを二枚差し出す。問題なしとのこと。追試用ではないA案については、すでに(…)先生から転送されたものを受けとっているという。あとは期末試験の実施方式について、どのアプリを使用するかみたいな話もあったのだが、このあたりの中国語がよくわからなかった。统一とか平台とか聞き取れたのだが、たぶん、大学として期末試験を実施するためのアプリを統一するのでうんぬんみたいなアレだと思う。よくわかんないという顔をしていると、(…)先生に伝えるから彼女から聞いておいてみたいなことをいうので、オッケー! オッケー! と笑う。中国語あんまりできないんだ、申し訳ないと中国語で伝えると、こちらこそ英語も日本語もできないから申し訳ないとの返事。
 バイバイと告げて部屋を出る。地下通路を経由して新校区に戻る。自転車に乗って第三食堂の前を通る。入り口はフルオープン。しかし中の照明はついていない。今日こそ大掃除なのかな? そういえば、第五食堂の一階にあるパンの店で働いている兄ちゃんが今朝投稿したものらしいモーメンツで、今日が最後の出勤だみたいなことを言っていた。第五食堂、せめて二階だけは今学期最後まで営業してほしいのだが、どうなんだろう。第四食堂の前も通りがかる。ここは盛況。せっかくなので西红柿炒鸡蛋面を打包する。
 帰宅。クソ美味い麺を食う。食後、コーヒーを二杯たてつづけに飲みながら、きのうづけの記事を書きはじめる。スタバのまずい豆、ほかの豆と混ぜて挽くようにしたら、ずいぶん飲めるようになった。
 14時半から日語閲読(三)。VoovMeetingに一部の学生らが入ることができないというトラブル。何度かやりなおすも結果は変わらず。最終的にはホストであるこちらも接続できなくなる。これサーバーが落ちてるんだろ、中国全土でオンライン授業が実施されているせいだろと推測していると、グループチャットのほうで学生がスクショを一枚投稿。腾讯会议が落ちた! と阿鼻叫喚の図になっている微博の様子。やっぱりそうだ。钉钉を試してみましょうと学生がいう。数週間前に一年生の授業で試してみたけどダメだったんだよなと思いながらも、あらたにグループを作成する。で、試してみる。やっぱりダメ。現在利用者が多いのでうんぬんかんぬんというエラーが表示される。どうしたもんかなと思っていると、微信でも集団でビデオ通話ができると学生らがいうので、じゃあそれでちょっとやってみる? といってトライ。しかしビデオ通話は15人が限度であることが判明し、キエエエエエ! 八方塞がりや! QQだったらだいじょうぶ、(…)先生は以前QQで授業をしましたという話もあったが、こちらのQQアカウントは死んだも同然のアレでそもそもパスワードもIDもろくに覚えていないし、いまさらあらたに設定するのもめんどくさい。(…)さんからQQアカウントを二つ持っているからそのうちの一つを先生に貸しますよという申し出もあったが、もうめんどくさい! めんどくさい! めんどくさい!
 だからグループチャットを使ってテキストメインで授業を行うことにした。今日やる内容は「(…)」だったので、テキストベースでも一応成立するだろうという見通しもあったのだ。まず、短歌と俳句のルールについて説明したPDFを配布。その後いくつか実例をあげて解説したのち、よりわかりやすいものとして「(…)」というものがあると説明、こちらも実例をいくつか紹介する。ここまではPDFにも記載されている内容であるので駆け足ですませる。その後、PDFに記載されていない「(…)」を空欄付きで提示。空欄に入る言葉はなにかとクイズ方式で出す。答えがなかなか出ないようであれば、適宜ヒントも出す——という感じ。前半の説明の間、これまともにこちらの話を聞いている学生なんているのかよと不安だったのだが、後半のクイズになるとおもいのほか多くの学生から返答があり、あ、よかったよかった! となった。たぶんリスニングが苦手な学生やシャイな学生にとっては、こういうテキストベースの授業のほうが参加しやすいのだろうと思う。ふだん積極的に発言することのない(…)さんや(…)さんが今日はとてもがんばっていたし。時間になったところでクイズとして出した作品を含む「(…)」の一覧をPDFにあらためてまとめてグループチャットに投げる。で、期末試験にそなえて一首作成しておいてくださいという話もする。
 授業を終えたところで、ふたたびきのうづけの記事の続き。(…)からグループチャットに通知が届く。itinerary codeのサービスが終了する、よって明日以降はこれまでのように毎朝グループチャットにスクショを提出する必要はない、と。
 17時半に作業を中断。街着に着替えて第五食堂に向かう。閉まっている。マジか! となると、院試組が大学を去る24日まで営業しているのは第四食堂のみということになる。もしかしたらそれ以前に閉まる可能性もあるかもしれない。今後のスケジュール的にこちらも24日まではかなりバタバタするはずなので、自炊の再開はできればそれ以降がのぞましい。
 第四食堂に向かう。バスケコート手前の芝生で(…)一家に(…)! と声をかけられる。(…)の散歩中。(…)、今日もまだこちらに心を許してくれない。その場にしゃがみこんで声をかけてやると、いちおう尻尾をふりふりしながら近づいてくるのだが、しかしちょっと手を差し伸べただけで、ギャンギャンギャンギャン吠えまくる。いったいこの小さな体のどこをふりしぼればそれほどでかい声を出すことができるというのか。それでもあきらめず手を差し出したままでいると、指先をちょっとだけなめる。で、またギャンギャンギャンギャン吠える。それを見た(…)が(…)'s kissed your hand! といって笑う。実家の(…)の話をする。もう13歳なんだ、とても大きい犬で、(…)なんだけどというと、Oh! みたいな反応があるので、あ、そっか、もともとはEnglandの犬だもんなとなる。smartでactiveでよく食べるだろうというので、そうそうそう、体重も25キロ以上あるんだと受ける。canteenはすでに閉まっているようだねと第五食堂のほうを指していうと、営業しているのはNo.4 canteenだけだよという返事。南無三!

 (…)一家と別れて歩き出す。グラウンドと接したバスケコートの金網沿いを歩く。コートを抜けた先で、食事を終えて図書館に戻るところらしい(…)さんと(…)さんのふたりに出くわす。第四食堂だけになっちゃったねと話す。院試まで残り二週間を切っている。院試の直前であるこのタイミングでコロナに罹患した学生らも少なからずいるのだろうなと思う。会場で罹患する学生らも当然多数出るだろう。
 食堂のなかに入る。以前二度か三度、打包したことのある店にいく。おかずを二品か三品指定すると白米の上にどんぶりみたいにして盛りつけてくれる店。辛くないやつばかりを三品選ぶ。要加饭吗? というので、お願いする。ほかの店でも同じなのだが、米を大盛りにするかしないかを最初に聞くのではなく、おかずをよそったあとに聞くのが中国式で、だから大盛りにしてもらうとめちゃくちゃメシの見栄えが悪くなる。今日の店でいえば、持ち帰り用の黒いプラスチックのどんぶりに白米、その上におかず、ここまでは普通なのだが、その上にさらに追加の白米がのっかることになるわけで、いまはもう慣れたが、はじめてこうした盛り付けのメシを食ったときは、本当に残飯みたいだなと思ったし、視覚が味覚というか食欲に与える影響みたいなものもありありと感じた。厨房に入っているおばちゃんの顔になんとなく見覚えがあった。向こうもこちらを見知った顔として認識しているふうだった。もしかしたらふだん第三食堂の一階か、あるいは二階の広州料理の店に入っているおばちゃんかもしれない。臨時でこっちに移ってきている?
 帰宅。メシ食す。とっととシャワーを浴び、ストレッチをし、コーヒーを二杯たてつづけに飲みながら、どうしても長くなってしまうきのうづけの記事を最後まで書く。投稿。ウェブ各所巡回。2021年12月12日づけの記事の読み返し。

 相関主義批判によって、私たち=人間と絶対的に無関係なもの、無解釈的なものの側に立つSRは、社会構築主義——をベースとする文化・批判理論——とは相容れないように思われるかもしれない。社会構築主義では、人間の様々に(とくに政治経済的に)偏った立場から事物がどのように規定されているのかを考察する。事物の本質主義的な規定が、実のところは特定の権力構造に強いられて硬化させられた規定であることを暴露し、事物の解釈を変えようとする。このように、人間の利害と事物との歴史的な絡み合いを問題とする社会構築主義は、相関主義の一形態であり、それゆえに、レヴィ・ブライアントの言葉を借りるならば、「相関主義を全面的に弾劾することには、正義と平等の名の下で苦労して達成されてきた解放の勝利の数十年を掘り崩してしまう危険性がある」。
 しかし、社会的構築の外部に立つことが、ただちに社会的構築に固有の実効性を否定することにはならない。ブライアントは、SRと社会構築主義を両立させようとし、社会的構築をもっぱら言説的と見なした上で、SRは、非言説的ないし非記号的な条件(地形や気候、資源の分布、テクノロジーの特性など)が権力をどのように編成するかという問題に注目させるものだ、と判断している。非言説的/言説的な領域を併せて考えようというわけである。しかしこれは、結局のところは、関係-解釈の外部がどのように関係-解釈に介入してくるかということであり、あくまでも関係-解釈指向的にSRを社会化しているのである。本稿ではむしろ反対に、社会をSR化するという方向での考察を試みようとしている。
 OOOは、オブジェクトの絶対的な他者性、特異性(または単独性)の擁護によって、社会構築主義に対する剰余を認める立場である。このことが、社会構築主義によって批判されるところの本質主義に対抗することにもなる。すなわち、オブジェクトは、別個に異なるポテンシャルを無限に有しているがゆえに、一般的に言って、関係-解釈の束に還元されず(社会構築主義では説明できない特異性を認める)、ましてや、何らかの特権的な規定=本質であるとされる規定の束に還元されることもない(このように本質主義が退けられる)。言い換えれば、そのオブジェクトがたんにそれであること——大まかには、固有名は確定記述には還元できないというクリプキの有名な主張と同じであると思われる——、たんにそれであるオブジェクトが複数別々にあること、OOOは徹底的に、たんなるこのことの強調に努めているように思われる。
 メイヤスーの場合についてはどう考えられるだろうか。メイヤスーは、数学的に扱われるべき世界に立脚する唯物論を標榜するにしても、そこへ主観的な領野を全面的に還元するべきであるという主張はしていない。『有限性の後で』は一種の科学哲学なのであって、主観性の学にコミットするものではない。けれども強く読めば、それは一種の消去主義として読めるのかもしれず、ならば、究極的には人間の歴史のすべても数学的な無人の世界から説明されるべきなのかもしれない。
 そこで本稿では、次のように一種の弁証法を仮設してみたい——すなわち、社会的構築の領野を存続させながら、同時にそのただなかに消去的なモニュメントを導入するのである。これは、関係-解釈のただなかで、無関係-無解釈的なものの実効性を認めることに相当する。
 このことは、秘密の、次のような二つの位置づけを問題にしている。第一に、秘密は、終わらない解釈のその焦点、解釈可能性の理念的な極限でありうる。こうした秘密は、解釈を増殖させる源泉のように機能している。解釈の増殖は、秘密の汲み取りとして秘密に関係する。最終的な解釈が定まることは決してないが、そのつどの局面での解釈が、一応の有効性を持つものとして仮固定され——また、その有効性を測る基準自体が一応のものとして仮固定され——、その状態の後に改めて他の解釈が試みられる、こうした繰り返しである。解釈の仮固定は、さらなる解釈を予定してなされる。
 そして第二には、秘密を、いくらかの解釈を施すにしても、絶対に踏み込めない岩盤のようなものとして位置づける可能性がある。第一の位置づけに対して、この場合では、解釈を増殖させることが、秘密の汲み取りとして秘密に関係することにならない。そうした絶対的な秘密のあり方を認めるのである。
 こうして二種の秘密が区別される。第一には、そこをめぐって解釈が増殖する〈穴-秘密〉であり、第二には、解釈をそこで絶対的に諦めさせるものとしての〈石-秘密〉である。石-秘密に突き当たっての解釈の中断は、さらなる解釈を予定しての中断ではなく、真正の、絶対的な中断である。
 石-秘密は、いかなる解釈を施そうと無関係に、ただそこで自らに内在的に存在している、無解釈的なものである。穴-秘密は、解釈を継続させる動因であり、これを〈解釈不可能なもの the uninterpretable〉と呼ぶことにしよう。問題は、解釈不可能なもの/無解釈的なものという区別である。無解釈的なものに対しては、思考停止で対峙する——この対峙は関係形成ではなく無関係な対峙である——しかない。これを、解釈的に汲み尽くせないことと混同してはならない。
 OOOについて、オブジェクトの秘密性を解釈不可能なもの=解釈の動因(ないし超越論的な条件)という意味で捉えるのならば、OOOは、社会構築主義の継続の条件として機能するレヴィナス的な他者論を改めて強調しているだけになるだろう。人間の予想を裏切るしかたで気候変動や地震やテクノロジーなどが社会に影響を及ぼすことに注目するというのは、結局のところは、関係-解釈指向的な妥協案であるにすぎない。こうした読みでは、無解釈的なものが、社会構築主義に対して、いやもっと広く言って人文学に対して持ちうるある種の挑発性が、無難にオミットされてしまうはずである。
 むしろ、問題は次のことである。他者の秘密が社会構築主義の継続の条件としてもはや機能しないモメント、そういうモメントにおける思考停止、これを積極的に人文学によって認めることである。それは、まったく解釈できない、理由づけられない=たんに偶然的なもの、意味がないもの、つまり、解釈を本務とする限りでの人文学にできることがそこで尽き果てるモメントを、強いて、人文学のような言説で——実在論的な自然科学の側に人文学的な仕事を引き渡すのではなく——取り扱うことだ。ラリュエルの非哲学をもじって言うならば、こうして問われることになるのは、いわば〈非人文学 Non-Humanities〉であり、それと人文学との並立なのである。
 (千葉雅也『意味がない無意味』より「思弁的実在論と無解釈的なもの」 p.146-150)

 日付を見て気づいたのだが、12月12日であるというのに、だれも淘宝のセールの話をしていない気がする。みんなそれどころではないのだ。今日づけの記事もざっとメモ書きしておく。すべて片付くと、時刻は23時半。こりゃあかん、日記に時間とられすぎや。
 夜食のトーストを二枚食す。(…)さんの重慶土産をつまみながらジャンプ+の更新をチェックする。モーメンツをのぞくと、itinerary codeが明日廃止されるということで、記念にそのスクショをのせている学生らがちらほら。
 歯磨きをすませてベッドに移動する。『ほんとうの中国の話をしよう』(余華/飯塚容・訳)の続きを読み進める。この本、面白い。とにかく強烈なエピソードがただただひたすら羅列されている感じ。まとまりには欠けるし、ひとつの話題から次の話題へのつながりなんかもけっこう不明瞭だったりするのだが、常識的な観点から見れば不備や瑕疵として映じるかもしれないそうした構成上のバラバラな切断的感覚が、解釈抜きのエピソードの手数の多い羅列という力技めいた内容面にある意味しっくり寄り添っているのだ。読んでいると、ほとんどロラン・バルトの『偶景』、特にあのモロッコのパートみたいな印象を受けることもある。異国(文革期前後の中国)の強烈なエピソードが生身のままごろりと、しかも次から次へと、つまり、ごろりごろりごろりごろりと差し出されつづける感じ。
 ただ、この本、邦題のせいでちょっと損をしているんじゃないかなという気がしないでもない。一時期雨後の筍みたいに出版されまくっていた——あるいはいまでも出版されまくっている?——中国崩壊論系の書籍タイトルみたいにみえなくもないので。元ネタはたぶんティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』なんだろうけど。
 あと、やっぱり文革期のめちゃくちゃでたらめというほかないあれこれを見ていると、どうしたってラテンアメリカ文学を想起する。独裁政権下の混乱した暮らし、社会構造的にそのほとんどが畜群とならざるをえない人民らの愚かな爆発的行動力、黒であったものがある日突然白に転じるようなことがしょっちゅう起こる社会の底の抜けた感じ、とにかくだれもがでかい声で話していてあちこちを走り回っている、そういう喧騒のイメージが、ほとんど瓜二つに感じられる瞬間があるのだ。同じく文革期を生きた莫言マジックリアリズムを手法として取り入れたことにも必然性があったのかもしれない。