20221230

古井 僕は罪に関してはこんなイメージを持っています。
 人は何をやっても、やった後からその行為が黒々とした罪になる。だけど、いつもその黒々としたものから、無垢のごとく抜け出てくる、その連続だと思うんです。これもまた罪なのかもしれないが、とにかく、人はそうやってその都度救われて生きていると思うんです。
 ところが、文学者、詩人、小説家は、その罪から常に無垢になって抜け出てくるという人生の反復に異議を唱えるわけではないけれども、少なくともその仔細を書きとめようとする。すると、書くことによって罪が固定する。無垢になって抜け出てくるようなところはめったに書けるものじゃないから、負債ばかりやたらにふやす生涯をしていることになる。これを最後に何とか清算したいという気持で常にやっているわけです。
 それはできなくてもいいとは思いますが、ただ、そうして見ると、小説家が最終的に狙っているのは、いつぞや大江さんの短篇集について書かせていただいたときに、「聖譚」という言葉を使って、あるいはご迷惑になるのかなとも思ったのですが、「聖譚」がどこから根差してくるかその源、あるいは、聖譚を既に踏まえて、一種の奇跡の起こるいきさつか、でなければせめてその結末だけでも書こうとする小説ではないか。
 これは作家の意志の問題ではなくて、小説を書くことに常に内在している。小説というのは、どんなに暗澹とした解決不能なことを書いても、おのずから形が聖譚に寄っていくという楽天的なものを内在させていると思う。今の世の作家として、これを早めに引き受けると非常にみっともないことになる。ぎりぎりのタイミングで引き受けるかどうか。
 実際にそんな料簡がなくて、およそ正反対の感情で小説を書いていても、書き込んでくると、どこか聖譚めいたものに収斂してくる。
大江健三郎古井由吉『文学の淵を渡る』)



 10時半起床。(…)からHow are you? と微信が届いている。なにか用事かなと思い、I’m goodと応じたのち、体調はよくなったかとたずねる。体調はmuch betterであるが、家族全員がCOVIDになったというので、ほとんどの教員や学生、その家族がすでに感染してしまったようだと受ける。やりとりはそれきり途切れたのだが、あとになって思った、ひょっとして彼女はこちらが昨日モーメンツに投稿した内容を見て、コロナになったと勘違いしたのではないか? それで体調をうかがう連絡をよこしたのでは?
 歯磨きしながらニュースをチェックする。ヴィヴィアン・ウエストウッドの訃報。きのう記入した成績表をあらためてチェック。鉛筆の下書きを消しゴムで全部きれいにしてからリュックサックにいれる。街着に着替え、マスクを二重にし、外出。おもては晴天。自転車に乗り、端っこのほうがわずかに開いている南門を抜け、老校区へ。外国語学院に到着。教員らしい姿をちらほら見かける。階段をあがって三階の教務室に向かう。扉が閉まっている。鍵もかかっている。なんとなくそんな気がしていた。
 すでに昼休憩に入っているのだろうかと思い、(…)先生に微信を送る。教務室が閉まっていたのですが、いつであれば開いているか知っていますか、と。元来た道を引き返す。第四食堂に立ち寄ってどんぶりメシを打包する。食堂のなかでメシを食っているのは制服を着た守衛のおっさんばかり(五人か六人ほど)。学生らしい姿は一人きり。
 帰宅。(…)先生から返信が届く。(…)先生がいま教務室に到着したらしい、と。すぐにまた出張るのもめんどうなので、午後にあらためて出直しますと応じたところ、提出はやはり来学期でいい、(…)先生もコロナでいまきついらしいのでという返信。いや、逆にいえば、感染した状態でいま教務室にいて、こちらを含むほかの教員とやりとりするつもりだったの? と思う。まあ、いまの中国では感染者も普通に出勤しているようであるし、というか医療関係者なんてむしろ政府から陽性であっても出勤しろと強いられているくらいなので、そういう考えになるひとが出てきて当然なのか。中国の労働環境、ふつうに日本以上にブラックであるところが多いし(なんせ996が流行語になるくらいだ)、有給だの補償だのそういうアレが皆無な現場も多々あるので、労働者自身むしろ陽性だろうと率先して出勤するみたいな話もけっこう聞く(そうしないと手取りが減ってしまうので)。
 メシ食う。コーヒーを淹れる。きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年12月30日づけの記事を読み返す。せっかくの晴天であるし、それに春節こそが本番であるこの国ではなかなか実感がもてないのだが年末でもあるので、ひさしぶりにシーツも洗濯することにする。今日は掛け布団のシーツを洗って、明日は敷布団のシーツを洗うのだ。

 今日づけの記事もここまで書くと時刻は14時前。大掃除をするのはめんどいが、寝室のフロアにほこりだの食いカスだのが目立ちはじめているので、ざっと掃除機をかけることにする。
 済んだところで、ふたたび街着に着替え、寮を出る。自転車で(…)に買い出し。北門付近に相応の数設置されている赤字に金抜きだったか白抜きだったかのぼりをあらためて見る。やはり政府関係の会議が大学内で開催されるものらしい。それもどうやら今日がその開催日のようで、普段すかすかの駐車スペースは車でいっぱいになっているし、北門の外では車体に「公安」とプリントされたパトカーが数台停まっていた。
 (…)は前回よりも混雑している。さすがに年末であるし、相応に買い物客はいるわけだ。あるいは、都市部では感染のピークも過ぎ去りつつあるといわれる現状、すでに回復したひとびとが続々と憂さ晴らしに来ているということかもしれない。スタバの店内にもちらほらと人影がある。步步高の人出は前回とほぼ変わらず。まずは野菜売り場でトマトとパクチーとサニーレタスを購入。店の一画で、リーダーみたいなおばちゃん店員が6人か7人ほどのおなじくおばちゃん店員と向き合うかたちで、あれは研修なのかそれとも朝礼——という時間では全然ないが——的なものなのか、N95で顔を半分覆われているにもかかわらずそれとわかるような厳しい表情でなにやら訓示を垂れている。精肉売り場では今回も五花肉が見当たらず。仕方がないので鶏胸肉を五枚まとめて買う。さらに冷食の餃子をいつものように補充し、調味料売り場で生油と料理酒(レモン風味)とポン酢らしきものも買う。もともとは鸡精とごま油を買うつもりだったのだが、どちらも置いていなかったので、せめてもの味付けになればと考えてポン酢らしきものを買ったのだが——というか、調味料コーナー全体がわりとスカスカだったのだが、これもやっぱり陽性者続出ゆえに配送が間に合っていないということなのだろうか? 調味料売り場では品出しをしている店員のおばちゃんがしょっちゅうゴホゴホやっていた。これはさすがにあかんかも。うーん、いよいよ年貢の納め時か。
 セルフレジで支払いをすませて店を出る。ここのセルフレジのなにがうっとうしいって、携帯電話の電波がやたらと入りにくい位置にあるせいで、支払い用のQRコードを読み取るのに毎回アホみたいに時間がかかる点。これはふつうにクソだと思うので、早急にどうにかしてほしい。中国移动通信(China Mobile)と契約している人間、みんな同じイライラを共有しているはず。
 自転車にのって大学まで戻る。北門の守衛、今日はこちらを引き止めない。当然だ。なぜ前回、とっくに死んだはずのシステムであるitinerary codeを読み取るようにこちらに強いたのか、いまだにもってまったく理解できない。しょせんはスカトロ野郎だ。肥溜めの風呂にでも浸かって年越ししてろバカ。
 寮に到着する。門を開けて中に入ったところで爆弾魔とすれちがう。あいかわらずむっつり気味の無表情。そんなだからこちらに爆弾魔というあだ名をつけられるんだという話であるのだが、それはそうと、驚いたことに! 今日はマスクをしていなかった! 前回棟の階段ですれちがったときはN95を装着していたというのに! ということはもう感染したのか? そして回復して悠々自適のノーマスク生活を送っているのか?
 知らんわ。どうでもええ。帰宅後、母親からLINEが届く。弟がこしらえた(…)の写真。家族はまだ誰も感染していない模様。淘宝で鸡精とごま油をポチる。夕飯の時間にはまだちょっとはやかったので書見しようとしたところ、「ご飯を100回食べる」経由で(…)さんと(…)さんから連絡。今日は良い天気ですねの前置きについで、「先生」「今空いていますか」と続く。ビデオ通話の誘い。前回断ってしまったので了承する。
 そういうわけで16時半ごろから一時間弱三人でビデオ通話。(…)さんは自室、(…)さんは外にいる。ふたりともすでに感染したらしい。抗原検査をしていないのでわからないが、(…)さんは一昨日、(…)さんはそれ以前に発熱した、と。幸い、ふたりともそれほどの高熱ではなかったとのこと。よかった、よかった。家族もやはりみんな感染したようだが、(…)さんのところの一番下の妹(未就学児)だけは無事だったらしい。もしかしてクラスメイト全員感染したんじゃないのとたずねると、わからないがルームメイトに限っていえば(…)さんだけまだ感染していないという返事。逆にいえば、(彼女らの部屋は八人部屋であるわけだから)八人中七人が感染しているということになる。書き忘れていたが、今日の昼ごろに(…)先生とやりとりした中で、「大学のクラスメイト28人のうち、普段からグループチャットでいっさい発言しない4、5人を除いて、昨日までまだ感染していないのは3人しかいなくなりました」「みんな全国各地ばらばらですが」という話もあったのだった。いよいよもってじぶんがなぜ無事であるのかわからない。
 閲読の成績はまだ出ないのかと(…)さんがいう。成績はもう付けたのだがその成績をデータベースに打ち込む教務室の先生がコロナに感染したのだと受ける。じぶんでやらないのかというので、外教の分は教務室の先生がやることになっていると答える。成績を知りたそうにしているので、ふたりの分だけ先に教える。(…)さんは81点で、(…)さんは96点。(…)さんは一位かと(…)さんがいうので、二位だ、一位は(彼女らのルームメイトである)(…)さんで100点だと答える。
 (…)さんは途中で席を立った。そのあいだに(…)さんに最近なにをしているのかとたずねると、車の運転免許証をとるために練習したり勉強したりしているとの返事。実技も筆記もたいそうむずかしいという。(…)さんもまだ免許をとっていない。その(…)さんが茶碗を手にして戻ってくる。通話しながらメシを食うのに、いつもそうやっておもてでメシを食っているのかとたずねると、いまは電話中だからここで食べているという返事。両親の前で食べればいい、そうしてじぶんが日本語を話しているところを見せつけてやればいい、そうすれば両親ともうちの娘はなんて優秀なんでしょうと自慢に思うだろうと茶化すと、ふたりとも笑う。(…)さんにまだ食事をしないのかとたずねると、じぶんのうちはだいたい17時半ごろに夕飯を食べるという返事。けっこう遅いと続けてみせるので、いや遅くはないでしょうと受けると、農村では冬のあいだ夕飯は16時ごろにとるのが一般的だといい、それに対して(…)さんもうなずく。はやすぎる。夜お腹すくでしょうというと、その場合は夜食を食べるというので、たとえばどんな? とたずねると、开心果! と(…)さんがいう。ピスタチオのことだ。たしかに中国人、落花生とかひまわりの種とかああいうチマチマしたやつを間食としてよく食べている。
 先生は食事をどうしているのかと問われる。いまは第四食堂の一部の店しか開いていない、だからときどきは自炊している、以前は営業している店ももっと多かったのだがと続けたのち、きみたちと一緒に一度ハンバーガー食べたでしょ? 第四食堂の入り口で、で、あのあと数日経っていきなりみんな故郷に帰ることになったでしょ? ぼくね、そのあとね、ほとんど毎日、たぶん二週間くらいずっとあそこの海老のハンバーガー食べてたんだよねというと、ふたりとも「毎日!?」とびっくりする。あれ? 言ってなかったっけ? ぼくは五歳までアメリカで生活していたからと続けると、先生! また馬鹿! とすぐに(…)さんがいう。さすがにこのふたりに対してもう嘘は通じない。(…)さんは毎日同じご飯を食べるなんて耐えられないといった。こちらは全然平気だ。たぶん食事に対するこだわりがないのだと思う——というより逆か? ある意味ではこだわりが強すぎるのか? いちど気に入ったらそればかりずっと食べてしまうわけだから、これはむしろこだわりというべきなのか? しかし仮にこだわりであるとしても、それは食そのものに対するこだわりではなく、生活をパターン化し、土地を領土化しようとする、そういう種類の防衛的なこだわりだと思う。

 それにしても(…)さんはめずらしいタイプだ。これまで何度も書いてきたが、彼女は決して勉強熱心な学生ではない。にもかかわらず、授業外でこちらともっとも頻繁に交流をしたがる学生のひとりなのだ。これまでの経験上、授業外でこちらと交流を持ちたがる学生というのはだいたいみんな日本語が流暢で——というのもこちらは中国語ができないし、日本語学科の学生の前では英語を使わないと決めているからなのだが——となると、自然、勉強熱心な学生ばかりになるわけだが、(…)さんは唯一の例外といってもいいかもしれない。いや、勉強嫌いだけにかぎっていえば、(…)さんもやはりそうであったが、しかし彼女はなんだかんだで口語が達者だった。おもしろいのは、こちらの誕生日会があった日の記事にも書いたが、(…)さんのリスニング能力が普通に上昇していることで、そりゃあしょっちゅう一緒にメシを食ったり散歩したりしているのだからそうなるのも当然といえば当然なのだが、ただ勉強嫌いで基礎がしっかりしておらず語彙も限られている彼女の場合、日本語全般に対するリスニング能力が向上しているというよりは、こちらのあやつる日本語に対するリスニング能力が向上しているといったほうが正確だろう。こちらがタイ・カンボジア旅行時の後半、(…)のあやつる英語はなんとなく理解できたのに対し、旅の途中で出会ったほかの西洋人のあやつる英語はまったくもって聞き取れなかったのと同じだ(しかるがゆえに(…)はほかの旅人の話す英語をこちらのために「彼女の英語」に通訳してくれたのだった)。それと同じで(…)さんがいま聞き取りできているのは、(それほど能力の高くない学生に向けて話すときの)こちらの日本語であり、換言すればそれは、(それほど能力の高くない学生に向けて話すときの)こちらの日本語の語彙、トーン、速度、語り口、そしてそうしたものからなる思考のかたちに慣れつつあるということなのだろう。
 最後に「よいお年を!」というあいさつを教えて通話を終える。デスクを離れ、キッチンに立つ。米を炊き、鶏胸肉、トマト、たまねぎ、パクチー、にんにくをカットしてタジン鍋にぶちこむ。味付けは料理酒と鸡精とごま油のみ。レンジで7分30秒チンして食う。うまくもなんともない。
 食後、ベッドに移動する。上の部屋がまた騒がしいので「うるせえ!」と何度か叫んで黙らせる。それから仮眠。
 覚めたところで浴室に移動してシャワーを浴びる。ストレッチし、コーヒーを淹れ、デスクにて書見。『ラカン精神分析の治療論 理論と実践の交点』(赤坂和哉)の続きを最後まで読む。おもしろかった。大変良い本だった。しかし後期ラカン、サントーム以後のラカンは、研究者や分析家の間ですらやっぱりまだまだ未知のゾーンであるのだな。脚立という概念、ちょっと気になるのだが。
 モーメンツをのぞく。目の手術を受けるのでテストを延期させてほしいという連絡を以前よこした(…)さん、自撮りをあげていたのだが、やはりパッチリ二重になっていた。見慣れていないのでそう思うだけかもしれないが、一重のときのほうがかわいらしかったという印象を受ける。こちらは別に一重の女の子が特別好きというわけではないのだが、なぜか中国で一重から二重に整形する子たちの変化の目の当たりにすると、あれ? と思うことが多い(唯一の例外は(…)さんくらいだ)。今回の(…)さんにしても彼女のクラスメイトの(…)さんにしても、あるいは(…)さんにしても(…)さんにしても(…)さんにしてもそうなのだが、みんな術後は妙にパッチリしすぎているというか——と、書いていてわかった、二重瞼の幅がちょっとひろすぎるのだ、それに対して違和感を持ってしまうのだ。しかしみんながみんなああいうふうにするということは(二重にする手術といってもたぶん本来はいろいろなオプションがあるはず)、あれがいまのトレンドなのだろうか?
 懸垂をする。合間に今日づけの記事を書く。冷食の餃子とヨーグルトを食し、ひさしぶりにプロテインを飲む。ジャンプ+の更新をチェックし、今日づけの記事をまたちょっと書きたす。1時前になったところで中断し、歯磨きをすませたのちベッドに移動。“A Good Man Is Hard To Find”(Flannery O’Connor)の続きを読んで就寝。
 今日は『Darklife』(death’s dynamic shroud)、『After』(空間現代)、『fishmonger』(underscores)、『Spiritflesh』(Nocturnal Emissions)、『Last Afternoon』(Takuma Watanabe)をきいた。『Spiritflesh』(Nocturnal Emissions)はやっぱりいいな。10年ほど前、はじめてきいたときは全然この音源の良さが理解できなかったわけだが。過去日記の読み返し作業中に再発見することができて良かった。