20230103

大江 (…)秋声のも、現在に生きてる短編だと思います。この小説も、「私は又た何か軽い当味を喰つたやうな気がした。」というので終わる。これも、外国の小説ではあり得ないですよ。一行感想を述べて終わる。しかもその感想がなかなか重層的で、煮ても焼いても食えないものですね。
古井 日本の短篇読者がよく忖度してくれるわけですよ。この一行から逆戻ししてまた読んでくれる。
大江 それが日本の短篇小説をやっかいなものにしてる原因でもあると思いますよ。捨て台詞とはいいませんけど、最後に一行の文章で、自分の感想を示してひねってみせる短篇が多いんですよ。
大江健三郎古井由吉『文学の淵を渡る』)



 10時半にアラームで起床したが二度寝してしまい、次に目が覚めると昨日と同様正午だったので、おいおいとなった。歯磨きしながらスマホでニュースをチェックし、たまっていた洗濯物をまとめて洗う。それからトースト二枚の食事をとり、コーヒーをたてつづけに二杯飲みながら、きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、2022年1月3日づけの記事を読み返す。以下のくだりで笑う。

朝方、顔と頭のかゆみで目が覚めた。季節外れの蚊に喰われたようだった。確認してみると、頭部だけで合計五箇所くらい喰われており、手のひらで頭をなぞってみるとボコボコで、範馬勇次郎にボコられたガイアみたいになっていた。

 あとは以下のくだり。初出は2020年1月3日づけの記事。「S」執筆中のころ。

小隊長と拝み屋を同一人物とするというアイディアを不意にひらめいた。採用するかどうかは不明。しかし現時点では小隊長が単なる厚みのない悪役として終わってしまうので、『神聖喜劇』の大前田がそうであるように、彼には彼の理があるところを作中でやはり示したい、そういう厚み=リアリティを持たせたい、というか元々そういうつもりでこの彼を登場させたはずであるのに、うまくそういう方向に持っていくことができなかった。ここはやっぱり改稿ポイントだろう。小隊長関連のエピソードをひとつ追加するのだ。彼を「キャラ」から「人間」に作り変える。キャラクターが矛盾した行動をとったとき、非一貫性のふるまいに出たとき、ひとはそこに「人間」を、「魂」を見る傾向がある。ということは逆にいえば、決まり文句としての「矛盾するな!」「首尾一貫しろ!」に象徴される、ほぼ無批判的に正しいとされたうえで世間に流通し幼少期からひとびとにインストールされている価値観——すなわち、イデオロギー——が意味するところは、われわれに「人間」をやめて「キャラ」になれという圧力以外のなにものでもないことになる。ゆるキャラアニメの国。めでてえな。

 一年前の今日は、現三年生の学生ら十数人と一緒にレストランで夕飯を食べた日でもあった。もうずっと以前のできごとであるような気がするのだが、たった一年前のことなのか。以下、その食事会の帰路。

裏町付近のパン屋にたちよってあずき食パンを買った。買い物をしているうちに男子学生だけ先に去った。これも中国と日本の違いとしてよく感じるアレなのだが、たとえば同じ帰路の途中、こうやってパン屋なりカフェなりに立ち寄って食い物や飲み物を持ち帰りをしようとすると、待ち時間などせいぜい二、三分でしかないだろうに、その店に用のない人間はさっさと先に帰ってしまうのだ。たぶん中国には「連れション」という文化もないのだろうと思う(日本でもいまやほぼ存在しないというか、大学に入学してまもないころ、ラウンジでだべっている際に小便がしたくなったので、その場にいた人間に「便所いこーぜ」と誘うと、いやひとりで行けよと言われて、え、マジで、もしかしてあの別に小便したくなくてもとりあえず便所についていくというのはローカルルールだったのと驚いたわけだったが)。

 昨日と同様、『Hakimakuri Olympic』(食中毒センター/Hair Stylistics & foodman)と『Grand Voyage』(大西順子)をききながら、今日づけの記事もここまで書くと、時刻は15時だった。そのまま「実弾(仮)」第四稿にとりかかる。17時までひたすらシーン5加筆修正。ああでもないこうでもないと細部を延々と手直しし続ける。ライブハウスの音圧描写がちょっと弱いかなと思ったのでそのあたりを念入りに加筆。あと、この小説の特徴として、シーンごとに転位する語りがいったいだれの視点に則して語られているのか、各シーンの中盤まで読み進めないとわからないというのがあるなと思った。これはシーン1とシーン5で特に自覚的にやっていることなのだが、このテクニックはほかのシーンでもガンガン流用していいかもしれない。たとえば、以下はシーン5の冒頭から中盤にかけてだが、語りが孝奈の視点に立脚していることがあきらかになるまで——孝奈という固有名詞が登場するまで——けっこう長々と引っ張っている。

「次の曲、が、えー、最後、最後です」
 言葉を短く区切りながら、読点代わりにエレキギターでコードを鳴らす。余韻がひかないよう、鳴らしたそばから弦を押さえる。断ちきられた和音の直後に、文節よりもさらに短く解体された言葉が淡々と置かれていく。楽曲の合間にさしはさまれるMCは、常にそんな調子だ。歌っているときにくらべてずっと低い声でつぶやき、笑みを浮かべることは終始ない。つっけんどんで、不機嫌で、いかにも飾り気がない。けれども、その飾り気のなさこそが、そもそものはじめから意図されていたよそおいなのではないかという疑いが生じる程度には、ちらちらと見え隠れする自意識のほころびもたしかにある。
 終演を告げられた観客のあいだから不満の声があがる。心底からの不満などではなく、むしろ母親をこまらせようとする幼子のようなあまったるい抑揚の、ええー! とか、嫌だー! とか、悲しいー! とかいう約束された叫びが、前列を陣どるまばらな人影のあちこちから散発的にたつ。幼子を模してみせるそれらの声は、実際はひとつの例外もなく低く野太い男たちのものだ。水族館のように青々とした暗闇のたちこめているフロアでは、そのひとりひとりの姿を仔細に見極めることはかなわないが、ステージに立つ主役よりもはるかに年上の男たちであることは間違いない。嘲笑が鼻息となって漏れ、咥えた煙草の先端に伝わって灰が落ちる。昼間にたくわえた光をたたえてぼんやり浮かびあがってみえる真っ白なエアフォースワンの、そのつま先をかすめるようにして落下した赤い火花は、砕けもせず弾けもせずそのまま消えた。
 チケットに印刷されていた写真とおなじ、黒のミニスカートに黒のTシャツを着ているまおまおは、ステージの上でも裸足だった。くちびるは真っ赤で、首輪のようにぴったりとした黒のチョーカーをつけている。むきだしの腕には、ハートやダイヤなどの模様がちらちらみえるが、タトゥーではない。蛍光ペンで直接塗ったような色合いの、子どもの悪戯書きのようにしかみえない代物だ。
 そのまおまおが真正面を見据えながら、ピックをつまんだ右手を高く掲げた。袖が短く裁ち落とされているのでほとんどノースリーブのようになっているTシャツの下から真っ白な脇があらわになると、セクシー! という声があがった。まおまおの視線はそんな喧騒を一顧だにせず、一段高くなっているステージからまっすぐ正面に送りだされている。フロアをはさんだ対面にあるバーカウンターの、その脇にひかえているPAに合図を送っているその目が、突然、水平にさっと動いた。きつくにらみつけるような真剣なまなざしが、まばらな客入りにもかかわらずステージから離れた壁際に突っ立っている自分を非難するように向けられたような気がし、一瞬、工業高校のヤンキーにガンをつけられたときのように孝奈はうろたえた。三方向から真っ白な照明を浴びせられているステージ上からは、フロアのようすなどほとんど見えないということを孝奈は知らなかった。

 しかし加筆修正をしていて思うのだが、これ第五稿で完成というわけにはいかんな。第七稿くらいまで重ねるかもしれん。年内の出版は無理か。

 キッチンに立つ。鶏肉を解凍しわすれていたことに気づいたので、まずカチンカチンに凍ったそいつをタジン鍋に放り込み、上から料理酒をぶっかけて、単独でレンジで2分だったか3分だったか温めた。それから米を炊き、サニーレタスとトマトと鶏肉とにんにくをそれぞれカットしてあらためてタジン鍋に放り込む。味付けは塩とごま油と調理用醤油。
 できあがったものを食う。食っているあいだ、今日の鶏肉はなぜかふわふわだな、切り方がよかったのかなと思ったのだが、途中で半生であることに気づき、ぎゃー! となった。すぐにレンジで温めなおしたのだが、だいじょうぶだろうか? ギラン・バレー症候群になってしまったりしないだろうか? ちょっと不安。そうでなくとも食中毒を起こし、明日か明後日かわからんがとにかく、発熱するなり下痢になるなりしたら、時期が時期だけに、え? これ? コロナ? 食中毒? どっち? と混乱しそう。
 食後は寝床に移動。A Good Man Is Hard To Find(Flannery O’Connor)の続きを読む。“The Life You Save May Be Your Own”を読み終えたのだが、あれ? これって“Good Country People”の姉妹編じゃない? と思った。両作とも母親と二人暮らしの娘のもとに外部から男がやってきてその娘と関係が結ばれ(かけ)るという構成。娘は障害があり(“The Life You Save May Be Your Own”の娘はdeafで、“Good Country People”の娘は義足、ちなみに“The Life You Save May Be Your Own”の男は片腕がない)、外部からやってくる男は最後にその娘を見捨てる。
 あと、“The Life You Save May Be Your Own”の男、つまり、Mr.Shiftletは、“The River”のMisfitみたいな「彷徨」の履歴を以下のように語りもする。

 He told her that he was twenty-eight years old and had lived a varied life. He had been a gospel singer, a foreman on the railroad, an assistant in an undertaking parlor, and he come over the radio for three months with Uncle Roy and his Red Creek Wranglers. He said he had fought and bled in the Arm Service of his country and visited every foreign land and that everywhere he had seen people that didn’t care if they did a thing one way or another. He said he hadn’t been raised thataway.

 あるいは以下のくだり。

 He flipped away the dead match and blew a stream of gray into the evening. A sly look came over his face. “Lady,” he said, “nowadays, people’ll do anything anyways. I can tell you my name is Tom T. Shiftlet and I come from Tarwater, Tennessee, but you never have seen me before: how you know I ain’t lying? How you know my name ain’t Aaron Sparks, lady, and I come from Singleberry, Georgia, or how you know it’s not George Speeds and I come from Lucy, Alabama, or how you know I ain’t Thompson Bright from Toolafalls, Mississippi?”

 しかし、Mr.shiftletの狂気は、Misfitよりもはるかに明確なものとして造詣されている。Misfitとgrandmotherとのあいだには論理的な会話が成り立つし、その恩寵の瞬間には神経症的主体として自己が開示されもするが、Mr.shiftletは最初の瞬間からちょっと——というか、かなりおかしい。ありていにいえば、読者の目には最初の瞬間から狂人として映じる。そしてそのような狂人に、これはオコナーがよくやる手法であるのだが、キリストを重ねる。たとえば、“He turned his back and faced the sunset. He swung both his whole and his short arm up slowly so that they indicated an expanse of sky and his figure formed a crooked cross. ”とか“He had an expression of serious modesty on his face as if he had just raised the dead. ”という直接的なほのめかしもあれば、彼の行動やふるまい、あるいは筋立てそのものが聖書のエピソードをなぞっているような気配もなくはない。
 こういう指摘、ずっとむかしに日記に書いたなと思い、不意に思い出したキーワード「なりそこねたキリスト」で検索してみたところ、2016年7月13日づけの記事がヒットしたのだが、これはたぶん当時やっていたTwitterでつぶやいた内容だ。

福音書で語られている逸話であったり歴史上の伝説的な挿話であったりの、先行する物語あるいは言説およびなかば形骸化した紋切り型のいいまわしの数々を、メタフォリックにではなくリテラルに現代に接ぎ木することで、既存の調和をグロテスクに破壊してみせるオコナーの狂人ないし狂信者たち。

短篇をまとめて読んでいると、そんなオコナーの狂人ないし狂信者たちというのは、ある意味ではなりそこねたキリストたちのようにみえる。

だからといってそれら賭けに破れたものたちを温かく見守るまなざしがそこにあるわけでもない。語られることのない彼らの勝負と敗北を歴史の闇から救うなどという甘ったるい認識は彼女にはない。むしろ、それらのなりそこねたキリストらがサタンとしてふるまうその瞬間をこそ彼女は活写する。容赦ない。

現実と適度に折り合いをつけて世俗化していたはずの信仰が、現実の変容を契機として均衡を失する。失したものが狂気に転じて登場人物の心身に宿ることもあれば、ほとんど突拍子もない終焉として筋書きそのものに介入することもある。調和の無理から生じた狂いが、登場人物か物語かのいずれかできたす。

 ほか、2018年1月24日づけの記事と2019年1月15日づけの記事もヒットしたので、それぞれ該当箇所を引いておく。まず2018年1月24日づけの記事より(これもたぶんTwitterでのつぶやきを記録したものだと思う)。

“Wise Blood”ぼちぼち読み進めているけれどもすばらしい。類型的になりがちな狂気の表象をこれ以上ないというくらいパーフェクトに、それもHazel MotesとEnoch Emeryとblind preacherそれぞれにやどる三者三様の形態で作り出している時点でまずびびる。

複数の狂気が、聖書の言葉や神学的な身振りという唯一の共通言語を媒介とすることによって相互に誤読しあい、訂正の余地のないまま各々の狂いの度合いをますます深化させていく。なりそこねたキリストどもの狂宴。

blind preacherとその娘がpotato peelerを実演販売している商人の邪魔をする場面は、神殿内にいる商売人をイエスがブチギレながら追い払う聖書のエピソードを踏まえているっぽいな。

 ついで、2019年1月15日づけの記事より。

(…)そうして途中でThe Violent Bear It Awayに移ったわけだが、O’Connorはやっぱり天才だなとあらためて痛感した。特に幼少期のトラウマから極端にアンチキリストなRayberの、キリスト教的価値観に芯まで染まっている(かつての自分自身に似ている)少年少女らを集めて脱キリスト教の手伝いをしてあげたいという願いが、彼の厭う説教師らとおなじ啓蒙のふるまいを演じてしまっている構図とか(この構図に気づいたときはハッとした、あるいは作家自身自覚して設定したものではないかもしれない)、舞台に立って説教する少女とその彼女のようすを窓の外からのぞくRayberの目が何度か合ううちにRayberが彼女との精神的なつながりを感じるようになるクレッシェンドな展開のはてに(その過程でRayberは上述した「啓蒙」の瞬間を何度か夢想する)、そんなRayberのことを神の言葉に耳をかたむけないもの(=deaf)として少女がとつぜん強烈に指弾する場面が続くというこの「容赦なさ」とか(これがO’Connorなのだ!)、おもわず文章から目をそらして天井をあおいでしまう、作家の天才を十全に味わうためにいったん休息せざるをえなくなる。Rayberは実際にdeafである。それゆえにこのとき少女の口にしたdeafという一語は二重の意味をやどするわけであるが、少女の指弾を受けたRayberがおもわず補聴器をはずしてその言葉をシャットダウンしようとするその後の展開や、そもそも彼がdeafになった理由というのが彼自身を幼いころに洗脳しまた彼の甥っ子であるTarwaterを洗脳したuncle(これはO’Connor作品にたびたび登場する狂人=なりそこねたキリストだ)による発砲であるという点を踏まえて考えると、このあたりで一気にdeafを比喩の結節点とする意味の体系が物語の底で爆発的な連鎖を遂げてはりめぐらされていく感じがして、この感じこそ二十代前半のこちらがかつてポエジーと呼びならわしたものであるのだが、しかしこうしてみるとO’Connorの小説作法はまんまじぶんと同じだなと、彼女の小説を読んでいるときのじぶんの脳の働きと「A」や「S」を書いているときの脳の働きはほとんど同じなんではないかとすらおもった。

 仮眠をとる。浴室でシャワーを浴びる。ストレッチしながらモーメンツをのぞくと、(…)四年生の(…)さんがついに感染! 「馬鹿は風邪をひかない」といういいまわしを踏まえたうえで、「私はそんなに馬鹿じゃありませんね」と抗原検査キットの写真付きで報告している。「生き残りはとうとうぼくだけになったか! お大事に」とコメントしておく。勝った! あとはだれがまだ感染していないのだろう? (…)最後の生き残りを目指してこれからも精進していきたい。
 コーヒーを淹れる。「実弾(仮)」第四稿の続き。21時から23時まで。プラス25枚で計66/977枚。懸念のシーン5を片付け、シーン6の途中まで進める。シーン6はこれまでさんざん書きなおしを余儀なくされてきた最初の難所なのでちょっと慎重にすすめたい。ちなみに作業の過程で削った記述は「ボツ」という名付けた別のテキストファイルに保存するようにしているのだが、今回、シーン5とシーン6の加筆修正作業を進めるにあたって、復刊に際する金井美恵子じゃないけれども、かつて削った記述をけっこう大量に復元した。
 作業を中断して懸垂。冷食の餃子をかっ喰らいながらジャンプ+の更新をチェックする。歯磨きしていると、すでに時刻は0時をまわっていたのだが、上の馬鹿がまた床をありえないほどどしんどしんと踏み鳴らすものだからあたまにきて、壁やドアを蹴りまくった。こうすると震動がちゃんと上まで伝わるはず。ベッドにあがって椅子を頭上に持ちあげるより手軽だ。
 今日づけの記事をちょっとだけ書きすすめたのち、ベッドに移動。A Good Man Is Hard To Find(Flannery O’Connor)の続きを読む。“A Stroke of Good Fortune”を読み終えたのだが、うーん、やっぱりこの作品はオコナーの短編群のなかでもかなり例外的だな。個人的には全然好きではない作品であるのだけれど、仮にオコナーを対象とした作家論を書くことになるのであれば、避けて通ることは絶対にできない異物という感じ。自身の妊娠を決して認めようとしない三十代の女性が主人公であるのだが、否認の身振りの極端にすぎるその程度だけみれば、たしかにオコナーの作品群に登場する狂人らの狂気に相通ずるところがあるのだが、彼女のその受難を友人はコミカルに笑い飛ばすし(その友人の登場により、オコナーの作品に通底するグロテスクな空気が一掃されてしまう、読者は妊婦の受難をコミカルなものとして読んでよいのだというある種の保証を得ることができてしまうのだが、これはオコナーに特有の「容赦なさ」とは相入れない)、最後の最後で妊婦はみずからの妊娠を認めるし、babyに語りかけさえする(そこには一種、祝福のトーンがともなう)。通常のオコナーであれば、否認の行き着く果てとして暴力的な中絶を選択したり、あるいは母子もろとも身投げするという展開にいたるのではないかと思うのだが、そうはならず、(こちらが評価しない、ぬるいほうの)キャサリンマンスフィールドみたいな結着のつけ方をする。オコナーはどうしてこれを書いたのだろう? よくわからん!