20230104

大江 (…)もっと散文的に自分の体験を言いますと、死がどういうことかについて、六十歳を過ぎてからはもう、考えなくなっています。五十代くらいまでは、死への恐怖に根ざして私はそれを考えていた。これから死ななくてはいけない、死は恐ろしい、この恐ろしい死はどういうものなんだろう、と常々考えていた。ところが七十代になった今は、どう自分の中を探ってみても、死の恐ろしさについて考えていないんです。もちろん死ぬ間際になったら恐ろしくて泣き叫ぶかもしれませんよ。しかし今は、死の恐ろしさは私の主題じゃない。それよりも、死について考えることができる、ということが面白いという気持ちになっている。
古井 僕もそうです。そして、そういう気持ちになっている自分をなんとも不思議に感じます。
大江 ええ。死について考える材料も十分にあるし、そこは文学をやってきたことのおかげで、死について考える手法もわかっている。このままいけば、自分は死について自分にできるだけのことはちゃんと考えて死ぬことができるだろうと思います。そのための期間として、自分の老年を考えれば、それはそう悪くはない。
大江健三郎古井由吉『文学の淵を渡る』)

 ここを抜き書きしていて、そうか、そういうもんなのかな、とちょっと安心した。磯﨑憲一郎が佐々木中との対談で、老人たちはみんなちゃんと死んでいける、みたいなことを語っていたのを思い出したり——と、書いたところで過去ログを検索してみたところ、2016年10月13日づけの記事に該当箇所が引かれていた。

佐々木 (…)つまり、「自分の死後の世界」というものは厳然としてある。しかしこの世界の外にあるのではない。それは天国でも地獄でもなく、「ここ」なんだ、まさに「この世界」が「私の死後の世界」なんだ、ということです。これは耐えがたい苛酷な事態ではある。けれども、よく考えると当然のことでしょう。耐える耐えないの問題では実はない。普通のことなんですよ。
磯崎 僕が考えていることもそういうことなんです。ただ、たまに思うんだけど、ちゃんと人間は生きていればそういうふうになっていくじゃないかと思うわけ。老人を見てると脂が抜けてくるじゃない? 草木を愛でるようになってくるじゃない? 「真夜中」のエッセイに書いたんだけど、五六年前に新宿に用事があってまだ小さかった娘を連れて昼飯を食べていた。そしたら隣に座っていた老夫婦がなにげなく「今が一番いい時期ね」とおばあちゃんの方が僕に言った。僕は「どうも」とか言って、道で会うといい人だから(笑)。
佐々木 僕も道で会いたいです(笑)。
磯崎 だけどそのときに「うっ」と思ったのはさ、老人っていうのは人生で最もよい時期を過ぎた後の生を生きているわけじゃない? それって耐え難くつらいはずなんだよね。絶対に自分にはもう人生の最もよい時期というものがこれから先にはないということを受け入れながら生きているということ。受け入れられなくて生きている人は最後までいるんだろうけど、ただ人間は死んでいけるということ。死んでいけない人なんていなくて、みんな、ちゃんと死んでいけるんだよね。
佐々木中『砕かれた大地に、ひとつの場処を』より「文学と藝術」)

 しかし死というのは、あらためて考えてみると、それこそ最大の去勢であるな。不在を認識可能にする言語の力を手に入れた人間がその力とともに引き受けなければならない認識の試練。そういえば、むかし、『死を悼む動物たち』という本を読んだことがあったが、あれって結局、どういうふうに結論づけられていたんだっけ? 動物が死を認識しているという明確な根拠のようなものはたしかなかったと思うのだが、なんせあの本を読んでいたのは不安障害を発症した直後であり(それこそ(…)やサンマルクカフェであの本を読んでいる最中に軽い発作が出てあわてて店を出た記憶がある)、正直中身をろくにおぼえていない。



 10時半にアラームで起床。しばらく寝床でぐずぐずする。歯磨きしながらスマホでニュースをチェック。(…)から微信が届く。medical checkの件だろうと思ったのだが、そうではなかった、関係各所にたずねたところ、there are no more regulations about entering Chinaだということがわかった、だからもし冬休みに日本に帰国するのだとしてもめんどうくさいあれこれに巻き込まれることはない、と、だいたいにしてそのような内容。正直いまさらであるというか、そんなことはとっくに理解しているというアレであるのだが、いちおう礼を言っておく。フライトは変わらず少ないままであるしチケットの値段もまだ以前のように安くなっていないだろうから冬休みはこっちで過ごす、おそらく次の夏休みには帰国することになると思うと続けたのち、ところでmedical checkの件はどうなったのか、明後日の朝clinicに向かう必要はあるのだろうかと質問したところ、visa centerに確認してみるのでちょっと待ってくれという返信。
 トースト二枚を食す。食後のコーヒーを二杯たてつづけに飲みながら、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年1月4日づけの記事を読み返し。『〈責任〉の生成ー中動態と当事者研究』の内容をまとめつつ、じぶんの考えもぐちゃぐちゃに混ぜこんでいるっぽい以下のくだりがなかなかおもしろかった。初出は2021年1月4日づけの記事。

帰宅後、國分功一郎/熊谷晋一郎『〈責任〉の生成ー中動態と当事者研究』の続き。クソ面白い。ほぼ全ページに付箋を貼っているので抜書のことを考えるとけっこうしんどい。第二章まで読み終えたが、ここで語られている内容を精神分析の用語や文学の用語で換言したり補足したりもできそう。
まずスピノザ由来の概念であるところのコナトゥスというものがある。これを熊谷晋一郎は「恒常性の維持」とパラフレーズする。主体は基本的に「恒常性の維持」を目指している。これは精神分析の用語でいえば、快感原則ということになるだろう。緊張(刺激)をなるべく避けるという傾向。
主体は常に予測している。予測したものと到来したものとの差を予測誤差という。予測誤差は緊張をもたらす。それはコナトゥス(恒常性の維持)をおびやかすものであり、一種の傷である。到来したものが予測したものと大きく違った場合、それはおそらく精神分析的な意味での外傷となる。しかるがゆえに主体は予測したものと到来したものとの誤差を常に調整し続けることになる。調整することで予測誤差を最小にしようとする。傷を避けるようになる。
現実の出来事はそのひとつひとつが特異的であり、〈これ性〉を帯びているものであるが、定型発達者はそれらを容易にパターン化(カテゴライズ)して処理する。特異的なものを一般化し、出来事を物語化し、現実的なものを象徴的なものとして、いわば低い解像度で処理する。つまり、到来したものと予測したものの誤差を、その解像度の低さでうやむやにし、「同じ」もしくは「近似」として処理する。その処理のシステムを仮に学習とした場合、学習をもっともブーストさせるのはやはり言語ということになるだろう。言語の習得(象徴界への参入)とは、既成の共有可能なカテゴリー(伝統的な知)のインストールと同義である。この場合の定型発達者とは、精神分析でいうところの神経症的主体にひとしい。
この文脈で去勢をどのように考えるかという問題がある。妥当なものとしては、伝統的な知と引き換えに、高い解像度を失い、出来事のひとつひとつを特異的に体験することができなくなることという理解がある。くりかえしになるが、これは分裂症的主体に対する神経症的主体の特徴とほぼ同じである。しかし、出来事を出来事として、特異的なものを特異的なものとしてそのまままとめあげることができず(物語化できず)、たえず責め苛まれるようにして生きているのはむしろASDであり、これは自閉症的主体の特徴といったほうが適切であることが当事者研究によって明らかになりつつある(この点については松本卓也も『症例でわかる精神病理学』で、ドゥルーズのいう分裂病者はむしろ自閉症者に近いというかたちで指摘していた)。
分裂病的主体を去勢の適切になされていない主体であるとする前期から中期にかけてのラカンの理解にしたがってみるとき、去勢の理解とはすなわち、自閉症的主体という四つ目の主体があらわになったいま(そしてその主体が従来分裂症的主体として理解されていたものにきわめて近いことがあきらかになったいま)、分裂症的主体をどう理解するかという問題になる。図式的になってしまうことをおそれず仮説をたててみるなら、自閉症的主体と神経症的主体を両極端とするその中央に分裂症的主体を位置づけることができるだろう。解像度が高すぎるがゆえに出来事を物語化しそこねる自閉症的主体と、解像度が低すぎる(出来合いの知に全面的に依拠している)ゆえに過度に物語化してしまう神経症的主体のあいだで、刃の雨のように降りそそぐ出来事の特異性によって傷つけられることもなければ、全体主義的に容易に短絡する物語のなまぬるい一般性によって「規格化」(これは自由の対義語である)されることもなく、独自の知の履歴(真理=症状)を蓄積しつづける主体。中途半端であること。そしてみずからの症状=真理とうまくやっていくこと。出来事の特異性を生きるのでもなければ、物語の一般性を生きるのでもなく、特異的な物語(主体の真理=症状としての物語)を生きるということ。
去勢の問題のほかに享楽の問題も残っている。ひとはコナトゥスにしたがって(恒常性の維持を目的として)生きる。そしてそのために常に予測誤差を修正し、外傷を呼び込まないように学習を重ねていく。ただ、そのようなコナトゥスを裏切るものとして死の欲動があると考えることもできる。死の欲動とは主体の死にむかう傾向である。学習の集積、予測誤差の履歴こそが主体であると考えた場合、主体がみずからの死をもとめるとはつまり、それらの集積と履歴をリセットをもとめることであるといえる。神経症的主体にとってそれは伝統的な知を排除(アンイストール)するということであり、自閉症的主体のほうに向かうことを意味する。調整を重ねてきた予測/カテゴリー/パターンを大きく逸脱したもの(現実的なものとしての享楽)に触れることで、コナトゥスをおびやかしみずからに外傷を与えること。それは別の言い方をすれば、奪われた特異性=出来事を取り戻そうとする動きである。
予測(カントのいう想像力)。それがまず人間のベースにある(これは時間がまず存在するというのとほとんど同義かもしれない)。外部から到来する出来事をひとつひとつ外傷として傷だらけになりながら受け止めつつも、パターンとカテゴリーを特異的に学習していく特異的な主体が、言語を習得し、他者の世界(象徴界)に参入し、去勢される(特異的なその予測誤差の履歴——個性的な傷跡?——を失う)代わりに、すでに大枠のできあがったパターンとカテゴリーを一挙に得る(個性的な傷跡を、一様の傷跡で上書きする?)。主体はしかし同時に、コナトゥス(快感原則/生の欲動)にあらがうように、失われた特異性を求めようともする(死の欲動)。

 今日づけの記事もここまで書くと時刻は14時半だった。作業のあいだはBlake Millsの『Mutable Set』をききかえしたり『Heigh Ho』をあらたにダウンロードしてきいてみたりした。去年きいた『Notes With Attachments』(Pino Palladino & Blake Mills)がすばらしかったので。『Heigh Ho』のほうはあんまりしっくりこなかったが、『Mutable Set』のほうはすごく丁寧に作られているなという感じ。ボーカル不在のインスト曲のほうがいいと思うけど。
 街着に着替えて外出。起床してすぐに微信のミニプログラム経由でbottle waterを注文していたのだが、そいつが無事玄関先に届いていたので、まずは室内に回収。それから自転車に乗って南門へ。キャンパスに人影はない。そのために野鳥らがのびのび好き放題している。知らないあいだに軽く雨が降ったらしく、地面が濡れていたのだが、カラスよりもひとまわり小さい野鳥ら——(たぶんうた子とおなじ種族である)クソデカスズメみたいやつと尾羽の長い白黒ツートンカラーの鳥——がやわらかくなったその地面をほじくりまわしているのだ。こちらが自転車でそばを通りがかると、どいつもこいつもびびっていったん上空に逃げるのだが、その数がけっこう半端ない。学生らが所属するボランティアサークルのなかに野鳥の保護団体みたいなのがあるけれども、その活動の成果なのかどうかわからないが、こちらが(…)をはじめておとずれたころにくらべると、いまのほうがずっとキャンパス内で多くの野鳥を見かける。いや、ボランティアの成果というよりも、コロナ以前とコロナ以後の経済活動の変化によるアレが要因か? それでいえば、やはり赴任した最初の年やその翌年にくらべると、冬場の大気汚染もずっとマシになっている。当時はスマホの天気予報アプリに表示される大気汚染指数メーターみたいなやつが限界値をふりきることもあったし、夜など温泉街みたいに白いガスがあちこちにたちこめていることもあったのだが、いつのまにかすっかりきれいになった。これはやはり強力すぎるお上のひと声がきっかけだろう。中国はクリーンエネルギーの分野で覇権をとるべくそのあたりにクソ力を入れている。で、現場レベルではマジで無理のある規制を中央が地方に一方的に課したその結果として、各地で電気代や燃料代などが爆上がりして大変だったみたいなニュースを二、三年前に見聞きした記憶があるのだが、その成果もあってか、実際、少なくとも(…)にかぎっては大気汚染は圧倒的に改善された(ただし、よそはどうか知らん)。
 南門から外に出る。老校区を横断して魔窟の快递へ。ごま油と鸡精の回収が目的。棚に積まれている小包の中から淘宝の注文画面に表示されている番号とおなじ番号のシールが貼りつけられているやつを探すわけだが、なぜかこちらの注文したおぼえがまったくない文房具の入った小さな封筒のようなものの上にくだんの番号のシールが貼りつけられているのを発見した。なにかの手違いだろうかと思い、近くの棚を整頓しているおばちゃんに声をかけてみるも、わたしは店員じゃない、店員はそっち! という返事。で、そっちと指差されたほうにいくと、別のおばちゃんがいたのだが、このひとはちょっと知的障害があるひとだった。いや、知的障害ではなくただ単に顔面麻痺があるだけなのか、ちょっとそのあたりの判断がつかなかったのだが、それでふと、后街にある快递で働いていた知的障害のある女の子のことを思い出した。一年前はたびたび荷物を回収しに通った快递であるのだが、いまもまだ残っているのかどうかはわからない。いちど荷物がどこにあるのかをたずねたのをきっかけに、こちらが外国人であることを認識しており、くわえてじぶんでは荷物ひとつろくに回収できないアホという印象をもたれたのか、以後店をおとずれるとたのんでもいないのにこちらの荷物番号を確認して棚から荷物を持ってくれるようになった世話焼きの子で、彼女とやりとりするのは毎回けっこう楽しみだったのだ。
 注文したおぼえのない文具品を手にして困惑するこちらにたいしておばちゃんはなにやらいった。ぜんぜんわからなかったので、听不懂と応じると、やれやれという感じでこちらをひきつれて別の棚の前に移動した。するとそこにはたしかにスマホに表示されているのと同じ番号のシールが貼られている別の小包があった。じゃあどうしてこっちにも同じ番号のシールが貼られているんだよと思い、あらためて手にしているものをチェックしてみると、并多多という文字がみえたので、あれ、もしかして淘宝と并多多では荷物番号が重複することがあるのかなと推測した。まあなんでもええわ。
 小包をふたつ回収したところで魔窟をあとに。そのまま后街をまっすぐ縦断する。やはり日に日にひとが多くなっているという印象。マスクをつけていない姿もちらほら見かけるし、つけているにしてもだいたい普通の使い捨てマスクで、N95をつけている姿は全然ない。こりゃやっぱりピーク過ぎたな。しかし以前ビデオ通話したときに(…)さんも心配していたことだが、来学期以降ふつうに教室授業をおこなうとして、そのとき仮に寮生活を送ることを余儀なくされている学生らが集団感染した場合、大学は——というかお上は、いったいどう対処するつもりでいるのだろう? 完全にいわゆる「ただの風邪」あつかいするということだろうか? 集団感染しても放っておいて集団免疫ゲット、その免疫が切れたところでまた集団感染してふたたび免疫ゲットみたいな、そういうくりかえしを前提とする日常を送りなさいというアレでやっていくつもりなのだろうか? すると、大半の学生が、教師が事務員が食堂のスタッフが、一年に二回か三回はコロナに感染するということになると思うのだが、それを前提とする働き方というのは、こちらはちょっと受け入れられないかもしれない、そうなったらもう本帰国するか? しばらく実家ですねをかじるか? 事情を話せば、もしかしたらオンライン授業でかまわないので帰国後も続けてくれというアレになるかもしれんが。

 なんにせよ、せめて「実弾(仮)」を脱稿するまではブレインフォグを回避したいというのがこちらの本願なのだ。コロナの後遺症でブレインフォグというものがあるとはじめて知ったそのときからずっと、ただそれだけをひたすら懸念しつづけているのがこちらだ。最悪そういう状態におちいってしまったら、毎晩不眠の頭で出口のない断片を書きつけていたカフカみたいに、朦朧とした状態でしか書けないものを書きつづけるしかないかと考えたこともあるのだが、しかしできれば明晰でいたい、ムージルのように澄んだ状態でなるべくいたい。
 (…)に立ち寄って食パンを二袋購入する。南門から新校区に入る。第四食堂の前を通ってみたのだが、シャッターはまだ下りたままだった。10日まで営業継続するんではなかったか? 帰路もやっぱり大量の野鳥を見かける。どいつもこいつもまるまるとふとっている。焼き鳥食いたいな。
 帰宅。(…)先生から微信が届いている。大学にまだ残って仕事をしている職員らの熱烈な要望を受けて14日まで第五食堂でランチの時間帯のみ特別営業をすることになりましたという通知の転送。しかしこちらはすでに自炊をはじめているし、朝昼兼用の食事は食パンとするリズムがすでに完成されてしまっているので、興味なし。
 キッチンに立つ。米を炊く。鶏肉、トマト、サニーレタス、にんにくをカットしてタジン鍋に放りこむ。味付けは塩と鸡精とごま油とポン酢もどき。今日もうまくできた。最高やな。食後はベッドに移動してA Good Man Is Hard To Find(Flannery O’Connor)の続き。
 仮眠をとったのち、浴室でシャワーを浴び、ストレッチをし、コーヒーを淹れる。それから「実弾(仮)」第四稿に着手。20時過ぎから23時まで。きのうづけの記事を訂正しなければならない、きのうはシーン6もすでに片付けたのだった、シーン7の途中までいじったのだった。だから今日はそのシーン7の続きから再開したのだが、完全に麻痺った、路地の風景描写でドン詰まり。まあこういうこともある。「実弾(仮)」は、何度もいうように映画的な造りをとにかく意識している。だから原則として文章には凝らないというか、凝るとしても凝り方がこれまでとはまったく異なる。はじめから言葉を単位としているわけではなく、あたまのなかにまず映像として描いたものを、次いで言葉に置き換えていくという手法をとっている。さらにすべての人物や舞台に現実のモデルを用意しているし、それぞれのシーンにBGMもある(すべてのシーンにBGMがある映画なんてうっとうしくてたまらんわけだが——その条件でうまくやれる監督なんてウェス・アンダーソンくらいしかいないだろう——このBGMはむしろ書き手のこちらに作用するものとして設定されている)。
 腹筋を酷使するあいまにジャンプ+の更新をチェックする。餃子をゆでる。ひさしぶりにパクチーを薬味として用意して一緒に食ったが、やっぱりべらぼうにうまい。水餃子は生油+黑醋+香菜の組み合わせで食うのがマジでいちばんうまいと思う(こちらはこれにくわえてごま油を少々たらすこともあるのだが、これについては中国人に教えてもらったアレではないので、邪道かもしれない)。
 今日づけの記事もちょっとだけ書きすすめる。0時半になったところで作業を中断。歯磨きをすませてベッドに移動し、A Good Man Is Hard To Find(Flannery O’Connor)の続きを読み進める。“A Temple of the Holy Ghost”を読み終えたが、序盤から中盤にかけてはさほどでもないものの、クライマックスは死ぬほどバッチリきまってんなという感じ。少女がミサかなんかそういう場でお祈りしながらダメダメな自分自身の変化をのぞむ場面で、その前夜にあったfairの見世物小屋で両性具有のfreakが口上として述べたセリフが、一種の啓示としてよみがえる以下のくだり。

The child knelt down between her mother and the nun and they were well into the “Tantum Ergo” before her ugly thoughts stopped and she began to realize that she was in the presence of God. Hep me not to be so mean, she began mechanically. Hep me not to give her so much sass. Hep me not to talk like I do. Her mind began to get quiet and then empty but when the priest raised the monstrance with the Host shining ivory-colored in the center of it, she was thinking of the tent at the fair that had the freak in it. The freak was saying, “I don’t dispute hit. This is the way He wanted me to be.”

 こういうのはやっぱり(多少整理されすぎているきらいがあるけれども)巧いなァと感心する。両性具有という存在自体が、異性愛をその原理とするカトリックの教義からはみだすものであるのだが、そのfreakはみずからを見せ物のひとつとする見世物小屋の前口上で、神(He)こそが望んでじぶんをこのようにかたちづくったのだと何度も何度も口にする。少女はいじわるで生意気で口の利き方がなっていないじぶんを変えたいという祈りの最中、不意にその言葉を思い出し、(そうとは明言されていないが)じぶんを変える必要はない、変わる必要はないのかもしれないという啓示を得るにいたる。freakの前口上はあきらかに山っ気のある、いってみれば瀆神的ですらある言葉であるのだが(事実彼の見世物小屋は地元の神父から注意を受けて翌日撤退することになる)、少女はそれをliteralに受けとり、自身の文脈に接木することで、そこにある種の聖性を見出すにいたる——このやりくちが、完璧にオコナーなのだ。さらに面白いのは、少女は実はその見世物小屋をおとずれていない、ただ週末の二日間だけ修道院に送られてきた素行不良っぽい年長の少女ふたりがfairの見世物小屋で目にしてきたものを彼女らの口からあいまいなかたちで聞かされたにすぎないわけで、だからそこには距離がある、freakの言葉と少女のあいだには疎隔がある、そんなふうに読んでみることもできるわけだ。
 しかし聖なる言葉をその文脈から切断し、別の文脈に接木することで、(ときにデーモニッシュな)啓示を得るにいたる——そしてそれはしばしば狂気として、ラカン的な妄想として表象される——というオコナーの諸作品に認められるこの構図、ある意味めちゃくちゃSNS時代っぽいな。いや、なにかあるごとにこれはSNS時代を予見してうんぬんかんぬんなんてクソつまらんこと、なるべく言いたくはないんだが。