20230106

古井 僕はここ二、三十年、短篇を書くときは、まず音律が聞こえる気がするところから書き始め、しばらく書くと、それが尽きる。また次の音律が聞こえるまで待つ、ということを繰り返します。四十歳頃の作品でも、一篇の内にも音律が何色かあるんです。
 ところが、三十代はじめの最初期の短篇を読むと、驚くことに一篇を一つの音律で押し通してる。これは意外でした。はじまりに自分の正体が出てるんじゃないか。その正体をさまざまに表すために、自分は長い間やってきただけなんじゃないか。年を取るにつれて正体を見失い、見失うことを表現の原動力にしてやってきただけなんじゃないか。そう感じて啞然としました。
大江健三郎古井由吉『文学の淵を渡る』)



 10時半にアラームで一度目を覚ましたのだがすぐに二度寝してしまい、次に目が覚めると11時だった。夢を見た。もしかしたら初夢ということになるのだろうか? いや、昨日も一昨日も、内容はすっぽり抜けてしまっているのだが、なにかしらの夢を見たという後味が起き抜けにあったので、たぶん今日見たやつが初夢ということにはならない。あるいは、起きてなお内容をおぼえているものにかぎって夢としてカウントする、そんなルールがあったりするのだろうか? もうずっとむかし、本で読んだのだったかネットで見たのだったか忘れたが、人間は基本的に毎日夢を見ている、ただ起きたときにそれを忘れてしまっているにすぎないみたいな(仮)説を目にした記憶がある。それが正しいのだとすれば、初夢とは——とか、そんな話はマジでクソどうでもよろしい。今日見た夢の内容はあまりはっきりとおぼえていないのだが、幽霊の登場するものだったと思う。しかし恐怖はなかったし、ホラーテイストでも全然なかった。夢のなかには学生らが登場した。主に二年生だったと思う。工場とも倉庫ともつかない、天井の高い建物の中にいるのだが、そこでたぶん(…)さんか(…)さんだと思うのだが、幽霊を見たという話をしていて、へーそうなんだと思うみたいな感じ。で、となりにおなじような別の建物があり、そちらには(…)さんがいて、もしかしたら相棒の(…)さんもいたかもしれないが、それ以上はおぼえていない。
 歯磨きしながらスマホでニュースをチェックする。トースト二枚を食し、食後のコーヒーを淹れてから、きのうづけの記事の続きを書いて投稿する。作業中は『食卓』(オーニソロジー)をはじめて流す。なかなか良い感じ。ウェブ各所を巡回し、2022年1月6日づけの記事の読み返し。「(…)の膀胱に腫瘍が発覚した日」として2020年1月6日づけの記事の一部が引かれているのだが、「死というのは去勢の最たるものだなと思った」とあり、あれ? これっておとといづけの記事に書いたばかりのことじゃない? となった。まったく進歩しとらん!

帰宅。死が可視化されたとき特有の、あの陰鬱なムードにじぶんが浸されているのを感じた。目をそむけることが許されない。死というのは去勢の最たるものだなと思った。これほどの有限性、これほど人間から万能感というものを奪う力はない(という一文を書きつけたいま、千葉雅也のいう有限性とはまさしく去勢の言い換えであるのだなと気づいた)。多くの宗教が死後を語っていることを考えると、去勢をもたらすものであるはずの宗教とは、実際はむしろ去勢の否認でしかないのかもしれないという気すらしてくる。輪廻転生を忌むべきものとして否定する仏教をそれでは特権的な教えとして位置づけるべきだろうか? 輪廻転生の否定はむしろ、一般性ではない特異性、物語ではない出来事の称揚、カテゴライズを拒む〈これ性〉の体感という意味で解釈したほうが、瞑想とあわせて筋が良いと思うのだが。(…)くんや(…)のヴィパッサナー瞑想体験などきいていると、あれは〈これ性〉の体感以外のなにものでもないという感じがする。そこでひるがえって禅病や魔境というものを、ASD的な、中動態的な、出来事の刃にたえまなく傷つけられている主体のありようとして解釈することができるかもしれない。

 14時半から「実弾(仮)」第四稿執筆。16時に中断。シーン7、ひとまず終わった。作業中はなぜかずっとBad Brainsを流していた。どんなだっけなと不意に思い出し、代表作二枚(『Bad Brains (Bonus Track Version)』と『I Against I』)を何年ぶりかにききかえしてみたのだ。あと、二年生の(…)さんから「ようになった」と「ことになった」の違いに関する質問が届いたので(単なる雑談ではない、日本語に関するこうした質問が彼女からとどくのは、ちょっとめずらしいかも)、ググって確認したのち、返信。
 今日は最高気温が20度近くある。そのために日当たりのよい洗濯物干し場のほうが、18度設定のエアコンをつけたままにしている寝室よりも温かいくらいだった。キッチンに立ってメシをこしらえる。米を炊き、鶏肉とトマトと青梗菜とにんにくをカットしてタジン鍋にぶちこむ。味付けは塩と黒胡椒と鸡精とごま油だけだが、べらぼうにうまい。最高だ。
 食後はベッドに移動し、KindleでA Good Man Is Hard To Find(Flannery O’Connor)の続きを読む。洋書の利点、それは一瞬で眠たくなるところ。体感、日本語の本を読んでいるときより30倍くらい寝つきがよくなる。そういうわけで一ページか二ページ読んだところで落ちる。20分ほどの仮眠。
 起きたところでコーヒーを淹れる。ふたたび「実弾(仮)」第四稿執筆。19時半から21時半まで。プラス8枚で計84/977枚。シーン8を半分ほど進めたかたち。なかなかよろしい描写を加筆できたので満足。しかしこの調子で加筆していけば、やはり最終的には1000枚オーバーの大作になりそうだ。もともとは150枚から200枚ほどの予定だったのだが。
 ウェアに着替えてストレッチをする。寮を出て、門前の道路であらためてストレッチしたのち、ジョギング開始。今日からコース延長。バスケコートの手前まで走ることにする。そう決めて走りだしたので、ペースをいくらか控えめにしたつもりだったのだが、図書館をあとにしたあたりから脇腹が痛みはじめた。コーヒーがまだ腹にたっぷり残っているのかなと思いつつ、我慢して走りつづける。地下道の手間でタイムを確認したところ、12分30秒をまわるかまわらないかだったので、あれ? けっこういつもどおりのペースだなと思った。最後の直線はさすがに疲れた。15分11秒でゴール。記録によると、去年の10月13日に出した13分51秒というのが最速レコードらしいので、当面の目標はそれか。冬休み中になんとかそこまでもっていきたい。
 今日はジョギング中にほぼだれの姿も見かけなかった。最初から最後までとうとうひとりも会わなかったなと思いながら寮の門前に到着するまぎわ、後ろからやってきた電動スクーターに追い越されたが、それは以外は本当にひとっこひとり見かけなかったし、なんだったら野良犬も野良猫も見なかった。足音も声もしない。完全に陸の孤島という感じで、なるほどそりゃ感染せんわ。
 しかし寮に帰るとうるさいのだ。棟の階段をあがっている最中からうるさい。上階から男女のいさかいが響いてくる。これはなかなかけっこうなケンカっぽいぞと思う。五階にある自分の部屋にたどりついたところで、耳をすませてみたのだが、どうやら六階の、こちらの真上ではないほうの部屋で修羅場が生じているらしい。声の調子からするとそこそこ年がいっているように思われるのだが、正直わからない。部屋にもどり、ソファに座ってコーヒーの残りと白湯を飲み、息が落ち着くまで待っているあいだも、ぎゃーぎゃーぎゃーぎゃーわめきつづけている。
 浴室に移動する。もう72時間経っただろうということでラックを壁に取りつける。ちょっと位置が高すぎたかもしれないと思ったが、じぶんより小柄な同居人がいるわけでもないのだし、まあこれでもいいだろう。シャワーを浴びる。出る。ストレッチしていると、またいさかいがはじまる。しかし今度は真上の部屋らしい。ゴキブリかネズミでも出たのか、ババアがぎゃーぎゃーいいながら走りまわるので、天井がずしんずしんとうるさくてたまらない。さすがにあたまにきたので、椅子をもってベッドにあがり、天井を三度叩きつける。するとまるで反撃でもするかのように、どしん! とより強く踏み鳴らしてきたものだから、カチンときて、反射的にまた相手の部屋まで押しかけそうになった。が、玄関を出る手前でふみとどまり、かわりに自室の鉄扉をおもいきり蹴りつけた(こうするとダイレクトに上階に響くはずなので)。小比巻のように鉄扉を横蹴りしまくったあと、「殺すぞボケ!」と叫ぶと、さすがに静かになった。あいつら全員マジでコロナでくたばればいい。一刻もはやく死ね。
 それでいえばしかし、これはすでにこちらが寝床に移動したあとの話であるけれども、ババアのほうが何度かせきこんでいるのが聞こえてきたのだった。だからマジで感染している可能性はある。可能性はあるのだが、せきこんだあとに、すでに時刻は1時をまわっていたにもかかわらず、でかい声で歌をうたいながら浴室から寝室に床を踏み鳴らしてもどってくる気配があって、マジで全然同情できない。本当に一刻もはやく死んでほしい。死ななくてもいいから入院してくれ。入院しなくてもいいから元気を失ってくれ。二度と立ちあがるな。歌うな。騒ぐな。「喋るな/そこで突っ立ってりゃいい」(syrup16g)。
 餃子を茹でて食す。ココナッツのお菓子も食す。歯磨きしながらジャンプ+の更新をチェックし、ベッドに移動してA Good Man Is Hard To Find(Flannery O’Connor)の続きを読む。“A Circle in the Fire”を読了する。“A Good Man Is Hard To Find”と同じで、自分自身の罪や差別意識、不平等な社会にどこまでも無自覚であるからこそ疑問をさしはさまずすなおに従うことのできる世俗化したキリスト教道徳を前提とする「善良さ」を身につけた女性が、悪童三人組に好き放題される話。だからこの二篇はやはり姉妹関係にあると思う(悪童のリーダーPowellなんて、“A Good Man Is Hard To Find”のMisfitと同じでめがねをかけているし)。女主人のいうことをまるできかず、悪童たちは彼女の領地内に寄生しながら好き放題にふるまう、そして女主人のほうでもそうしたふるまいをきつくとがめることができないという、女主人の立場に即して読むとどうしたってもやもやいらいらしてしまうこの感じは、ちょっとカフカの『城』に出てくる二人組の助手を思わせもするのだが、『城』ではたしかKが助手をこらしめるような場面もいくつかあったはず(というところがある意味カフカのすごいところだ、意味や役割や関係性が固着せずすぐにぐずぐずになってしまう、図式的な読みをそのだらしなさによってすべて無効化してしまう)。
 “A Circle in the Fire”でちょっと気になったのは女児の存在。この小説、三人の悪童と——というよりその中心メンバーであるPowellと——、女主人であるMrs.Copeと、その使用人らしいMrs.Pritchardの三人で十分間に合う小説だと思うのだが(そして事実、小説の大部分において、できごとはMrs.Copeに寄り添い即して過不足なく語られるのだが)、それでいて小説の冒頭、語りはなぜかthe child(女児)に寄り添うかたちではじまる。寄り添うかたちではじまるのだが、続けて描写されるのはMrs.CopeとMrs.Pritchardのやりとり、それから悪童三人組の到来と彼らとのやりとりばかりで、それらを部屋の窓から見下ろしている女児の存在はほとんど忘れ去られてしまったかのようになる。女児にはいちおう、小説のクライマックスにおいて、女主人の領地に火をつけて山火事を起こす悪童三人の姿を目にするという役割が与えられるのだが——というより、より正確には、放火そのものよりもそう行動する前にPowellが漏らすIf this place was not here any more, you would never have think of it againというセリフをききとめる役割なのだろうが——、これにしたところで、別に女児抜きでも処理できる問題だと思う。あるいは単純に、広い領地を夫も子どももいない未亡人がひとりで切り盛りしているとなると、当時の時代背景的にどうしても不自然になるみたいなアレがあるのかもしれないが。しかし、この女児の位置付けは本当にふしぎだ。“A Good Man Is Hard To Find”なんかは完璧に切り詰められており、これ以上削ることはできないだろうというほどすべてがむきだしになっているのだが、 “A Circle in the Fire”はけっこう余地があって、その余地をどう評価するべきなのか一読しただけではけっこう迷う、精読が必要だなという感じ。
 悪童三人の役割自体ははっきりしており、序盤、どのような状況であっても神にbe thankfulしなさいとみずからの恵まれた環境を意識せずバカのひとつ覚えのようにキリスト教道徳を垂れ流すMrs.Copeとそれに対して皮肉に応じるMrs.Pritchardのやりとりのなかで、troubleが発生してもI take it as it comesという前者に対して後者がif it all come at oncet sometimeと応じる、それに対してふたたび前者がIt doesn’t all come at onceとsharplyに返事した直後に領地に姿をあらわす、つまり、悪童三人がその一気にやってくるtroubleの象徴であることはほとんどはっきり明言されているようなものであり、実際、彼らは一種の災厄としてふるまいつづける(さらにいえば、このとき不吉な預言者のような位置に置かれているといえるMrs.Pritchardはその後もその役割をまっとうするかのごとく、“There ain’t a thing you can do about it”という不吉な言葉を何度も口にする)。
 聖書の言葉やキリスト教のドグマをハックして接木する論法はこの作品でも認められ、それはMrs.Copeの領地に寄生しつづけるPowellたちが語った“She don’t own them woods.”“Man, Gawd owns them woods and her too.”という言葉に端的にあらわれているし、暴力がきわまった瞬間におとずれる恩寵の瞬間としては、領地のwoodsが燃えるようすをなすすべなくながめるMrs.Copeの姿を描写した最後の一段落のくだりにはっきりと、“It was the face of the new misery she felt, but on her mother it looked old and it looked as if it might have belonged to anybody, a Negro or a European or to Powell himself. ”と記されている。
 きたるべき山火事や炎の象徴としては最序盤からたびたびさしはさまれる太陽の描写がその不吉な役割をになっており、これについてはちょっと安易かなと感じることもなくはないのだが、しかし英語ネイティブでありかつ聖書にも慣れ親しんで育ってきた人間であれば、たぶんタイトルや最後のセンテンス——She stood taut, listening, and could just catch in the distance a few wild high shrieks of joy as if the prophets were dancing in the fiery furnace, in the circle the angel had cleared for them——も含めてそのあたりとの関連をきっと見出すことができる、そのような造りになっているのだろう。あと、これはちょっと考えすぎかもしれないけれど、「beat the daylights out of〜:〜をボコる」というイディオムをはじめて知ったのだが(女児が悪童らをボコってやりたいという気持ちになったときに使う)、太陽とその光が象徴的に使われている作品であることもあり、ここのdaylightsになにかしら共鳴する細部を見出すこともできるんじゃないかなと思った。ちなみに、このイディオムのdaylightsとはもともと目ん玉の意味だったらしい。目ん玉が飛び出るほどぶん殴ってやりたいというのが原義なわけだ。