20230110

 芸術の輪郭は実際、歴史的にも地理的にも固定しえない。人類学者アルフレッド・ジェルは、西洋近代的「芸術」の概念や制度がない地域や時代にも芸術のようなものがあり、それを考えるために芸術の制度的定義は適用できないと指摘する。ジェルが代わりに採るのは、芸術的物体を「社会的作用を媒介する物体」とする見方だ。たとえば呪いを媒介する藁人形を芸術として考えること。これは芸術的物体を社会的な作用者(agent)として扱うことを意味している。
 私にとってジェルの議論のおもしろさは、芸術の「作用者性(agency)」、つまり「力」の造形的発生を論じていることだ。ジェルはトロブリアンド諸島の「クラ貿易」に使われる、遠洋航海カヌーの舳先装飾(図1)を例として挙げている。装飾は、海で出迎えるクラの相手を魅惑し、圧倒し、気力を挫く。それは取引を有利にする心理的「武器」である。
 装飾のこの力はどのように発生するのか。ジェルの仮説はこうだ。複雑な装飾を見る者は、それがどのように作られたかを遡行的に辿ろうとする。しかし途中で追いつけなくなる。いかにして制作されたかが辿りきれないその複雑な物体は、それを制作した者の強大な力の徴となり、見る者の心を支配する。
 ジェルはさらに、物体の布置そのものが力を生むことを論じている。例として挙げられるのは南インドで玄関前の地面に描かれる、「コーラム」と呼ばれる吉祥と魔除けの紋様だ(図2)。一見複雑なこの紋様は、同一のパターンを九〇度回転しながら四回重ねることで——いわば四声のカノンのように——得られている。だがそのことを知って見たとしても紋様を視覚的に分解しきることはできない。目は複雑な布置に巻き込まれて迷い続ける。ジェルによればコーラムは、まさにその解読困難性自体によって悪魔を惹きつけ、解けぬ線の絡まりの中に捉える力を持つ。
 このとき形は力を発揮するだけではない。同時に、描く人の頭の中だけでは保つことができない思考を、形自体のうちに実現している。頭の中でコーラムの複雑なパターンを思い描けなくとも、要素をなすパターンを回転させながら地面に重ねれば、外的環境において複雑なパターンを統合することができる。このとき地面は、描く人の身体の外に拡がる思考体の一部をなしている。
平倉圭『かたちは思考する 芸術制作の分析』より「序章 布置を解く」 p.3-5)

 これ、小説にもそのまま当てはめることができる(小説もまた芸術作品であるのだから当然だ)。やばい小説というのはだいたい「いかにして制作されたかが辿りきれない」ものであるし、「頭の中だけでは保つことができない」「複雑」なそのかたちは、書くひとにとってもノートやペンあるいはパソコンという道具——もっといえば、言葉あるいは文——があってはじめてなりたつものであるから、それらの道具は「身体の外に拡がる思考体の一部をな」すということになる。



 8時にアラームで起床。けっこうしっかり眠れた感あり。歯磨きしながらスマホでニュースをチェック。飲食は禁止されているわけだが、別に水ぐらいかまへんやろというわけで、白湯をコップいっぱい飲む。今日の最高気温は16度。さすがに朝はまだ冷えると思うので、厚手のパーカーにピーコートを重ねる。このピーコート、もう十五年近く着ていると思うのだが、そろそろ流行が一巡してまたトレンドアイテムになるんじゃないだろうか?
 9時前に寮を出る。自転車に乗って出発。北門を抜けて(…)のほうへ。空はガスっているが、大気汚染の指数はごくごく普通。街路樹に春節用の飾りつけ——赤い提灯みたいなやつ——をとりつけるべく、長い棒を手にして街路樹の枝をつついている人夫らの姿をちょくちょく見かける。(…)よりさらに東に向かう。次の大通りを北に折れてほどなく、目的地のmedical centerに到着する。外観でわかった、去年もおとずれたところだ——ということはまたちんこの先端に針みたいなやつを挿入する拷問みたいな検査をしなければならないのだろうか? medical centerの名前は(…)という。(…)というのはまあその字面通りの意味なのだろう。(…)さんや(…)さんのクラスメイトに(…)さんという女子がいたが、彼女のあの名前はもしかしたらけっこうキラキラネーム的なアレだったんだろうか? (…)さんは(…)出身で一時期(…)さんの同僚として働いていたが、いまは別の職場で働いているのだったか、あるいは公務員を目指して勉強しているのだったか、そういう話を、去年の夏、一時帰国中の(…)さんと一緒に火鍋を食っている最中に聞いた。
 バス停のそばに自転車をとめる。時刻は9時10分過ぎ。思っていたよりもずっとはやく到着してしまった格好。病院ではないmedical centerであるとはいえ、やはりそこを出入りしている人間とはあまり接近したくないというアレがあったのだが、遠目にながめているかぎり、出入りする人間も常駐する人間も咳ひとつしていないようすだったので、だったらまあだいじょうぶかなという感じで、入り口付近の目立つ場所に移動。そこでA Good Man Is Hard To Find(Flannery O’Connor)の続きを読みながらLisaの到着を待つ。オコナーの小説に出てくる南部の黒人や労働者階級の白人らのあやつる文法ボロボロの英語を見るたびに、悟空のかめかめ波をはじめてみたときに「オレのギャリック砲とそっくりだ」と驚いたベジータみたいに、おれの英語とそっくりだ! と思ってしまう。
 9時半前に(…)から微信が届く。着いたというので、こちらはすでにentranceにいると返信する。右手に停まった赤い車から(…)がおりてくる。軽く手をふる。先にmedical centerの中に入り、レントゲン撮影のときに装着する厚手のベストのように重いのれんみたいなもの——暖房の空気が外に逃げないようにするためのものだ——が垂れさがっているのを内側から持ちあげて院内に招き入れる。そのままふたりそろって受付へ。(…)がやりとりしているあいだ、周囲をなんとなく観察する。スタッフも患者も当然みなマスクを装着しているが(スタッフはやはりN95を装着している)、咳をしている姿はひとつもない。これだったらまあだいじょうぶかなと思う。
 受付で(…)が書類を受け取る。健康診断開始。廊下の先に男子用と女子用の通路がある。男子用の通路に入る。通路の左右にはたくさんの個室があり、それぞれが別種の検査をする場所になっている。まずは例年通り採血から。ブースに入り、看護師の女性に中国語であいさつする。リュックサックとコートを(…)にあずけ、パーカーの袖をまくった左腕を差し出す。採血のあいだ、後ろにいる(…)のほうをふりむき、家族の具合は全員よくなったのかとたずねる。mother-in-lawはまだよくなっていないという返事がある。咳が残っているのかとたずねると、咳だけではなくfatigue、dizzy、あとは腰回りの痛みだったか、そういうもろもろが後遺症として残っているという。elder peopleは特にseriousだと続けたのち、じぶんの親戚や友人の親族など、観測範囲だけでこの一ヶ月にすでに三人がpassed wayしたというので、because of Covid? と念のために確認すると、肯定の返事。中国政府はコロナによる死者の定義を「新型コロナによる呼吸不全」に限定することで死者数をアホみたいに少なくみせようとやっきになっており、いまもなお一日の死者数が一桁みたいな公式発表をくりかえしているわけだが、市井のひとびとにしてみればそんな定義など知ったことかというアレなのだろう。
 採血が終わる。先端が消毒液で黄色くなっている綿棒を受け取る。それで採血した箇所をしばらく押さえるようにというのだが、血はすぐに止まったので、廊下に出たところでさっさとゴミ箱に捨てる。そのまま検尿へ。トイレは通路の突き当たりにある。コートとリュックをひきつづき(…)にあずけたままトイレに向かう。去年ここで検尿したときは、仮にも医療機関であるのにこの便所の汚さはなんやねんと絶望的な気持ちになったものだったが、それがめちゃくちゃきれいになっていた——というか完全にリフォームされていた。すばらしい。小便器の前に立つ。ガムシロップみたいな容器で小便を受け止める。そいつをちっちゃな試験管みたいなやつにそそぐ。検尿をするたびに思うのだが、じぶんのものとわかっていても、小便の入った試験管みたいなやつを手にしたときのあのなまぬるい感触、あれはいやだな、じつに気持ち悪いもんだ。そいつを持って先の採血室にもどる。ナースの指示にしたがって指定の場所に提出したのち、通路のベンチに腰かけている(…)のところにいき、コートとリュックを受け取ろうとする。その前に手を洗ってきなさいといわれて、爆笑してしまう。たしかにそうだ。
 その後は肺のレントゲン撮影。広々とした部屋のど真ん中にでかい機械がひとつぽつんと置かれている。体重計のように高くなっている足場にあがる。正面を壁のようにはばむ機械にじぶんの胸をぐっと押し当てるようにする。担当の若い白衣を着た男性が部屋の外に出ていき、撮影がはじまる。パーカーを着たままだけれど大丈夫なんだろうかと思っていると、男性がふたたび中に入ってきて、やっぱり服を一枚を脱いでくれという。それでもう一度撮影。室内のスピーカー経由で好的! と聞こえたところで、段差を下り、パーカーを着用しなおして外に出る。外では先の医者と看護師の女性が撮影されたばかりの写真をチェックしている。去年わずらった気胸がどうなっているのか、ちょっときいてみようかなと思ったが、問題があればなにかしら指摘があるだろうし、ま、いっか、と思う。
 検査はそれで終わりだった。ちんこの検査はなかった! やったぜ! 受付にもどったところで、病院内では朝食を無料でとることができると(…)はいった。感染の可能性を考えるとおすすめしないがと続けるので、同意する。こんなところでメシを食うなんてほとんど自殺行為だ。そのまま外へ。腹が減っているかというので、だいじょうぶだと返事する。このあと警察署に続けて行ってもだいじょうぶかというので、問題ない、もともとそのつもりだったと応じる。いつもビザの更新におとずれる大学近くの警察署ではない別の、そもそも警察署ですらないのかもしれないが、もうちょっと大きめの施設に行く必要があると(…)はいった。そういうわけで自転車はバス停わきに置き去りにし、(…)の運転する車の後部座席に乗りこむことに。車内では例のクリスマスプレゼントを受け取った。動物を模したきんぴかの栞。紫禁城の土産物売り場で販売されているやつだと思う。
 道中、コロナの話になる。42度オーバーの熱が出たと(…)がいうので、おもわずでかい声でききかえしてしまった。意識朦朧とするレベルだったという。ふたりいる娘のうちひとりもやはり42度オーバーの熱が出たとのこと。(…)は解熱剤で対応することができたが、娘のほうは薬をのませてもすべて吐いてしまうので大変だった、日中はまだマシであるのだが夜になると42度の熱が出る、それが丸二日間続いたのでまったく眠ることができなかったという。学生たちも39度や40度の高熱を出している、正直ちょっと驚いている、日本ではオミクロンでそこまでの高熱が出るというケースをあまり聞いたことがなかったのでというと、(…)老师もそれほどの高熱ではなかったでしょうというので、38度ちょっとだったと聞いている、しかも彼はワクチンを接種していないと応じる。あなたがまだ感染していないのもアメリカのワクチンをうっているからだと思うというので、じぶんもそうかなと考えたことはあるが、しかし最後に接種したのは一年半ほど前になるしもう効果も切れていると思うと答える。答えながらもしかし、だからといって効果がゼロになっているわけではないのかもしれないと思う。知り合いはほぼ全員感染したと(…)はいった。(…)先生も一週間以上前の時点でやはり知り合いがほとんどが感染したといっていた。そんななかで、たとえひとりぐらしで外出する機会もひかえめであるとはいえ、こうしていまのいままで無事に生活できている、そんなじぶんの現状にワクチンの影響を見るのはたしかにごくごく自然なことなのかもしれない。(…)は大多数の中国人とたがわず愛国的なところも相応にもちあわせている人物なわけだが、そんな彼女ですら、現在の中国が置かれている状況と諸外国の置かれている状況の差を認識し、その差を国産ワクチンと外国産mRNAワクチンの差に重ねて理解している節があるようにみえた。もっとも、彼女は大学職員として働くことのできるほどeducatedな人物であり、英語を流暢にあやつることができるわけだから国外の情報にアクセスする機会もずっと多い、だからそこを差っ引いて考えなければならない。しかし差っ引いてなお、市井の人民感覚として、あれ? これ、おかしくないか? 話が違うんじゃないか? という不満は各地でけっこうたまっているんではないかと思われる。
 ちなみに(…)も感染したらしい。(…)や(…)については知らない。管理人の(…)が感染したかどうか知っているかとたずねると、知らないという返事。彼もかなり高齢だから心配だというので、彼はvery oldではない、over 60だというので、これにはちょっとびっくりした。あの外見でうちの両親よりも年下なのか! もう80歳近いものとばかり思っていたのだが!
 警察署——と便宜的にそう呼んでおく——に到着する。入り口に近い駐車場はすべて埋まっているので、奥の一画に停める。Lisaはいまは祖父母が心配だといった。どちらも90代で、農村に住んでいる。農村ではまだ感染者が出ていないというので、春節が心配だねというと、肯定の返事。こちらの家族について聞かれたので、まだひとりも感染していない、しかし年末年始に姪に白血病——これは白血病という単語をそのまま中国語読みするだけで通じた——の疑いが生じ、かなりパニックになっていたようだと話す。(…)先生の息子にしても(…)の娘らにしても、ちょうどこちらの姪っ子と同世代なので、相手のほうになにかあればやはりけっこう心配になるし、こちらのほうになにかあればやはりかなり心配してくれる。「子はかすがい」の変奏。
 警察署での手続きは簡単にすんだ。(…)が必要書類に必要事項を記入。こちらはそれにサインするだけ。担当の中年男性と(…)は顔見知りらしく、(…)は顔をあわせるなり相手の名前を呼び、身体好吗? とたずねた。担当のおっちゃんは苦笑を浮かべながら阳过了といった。(…)はじぶんも感染したと笑って受けたのち、感染していないのは彼ぐらいだといってこちらを紹介した。(…)とおっちゃんの中国語でのやりとりになんとなく耳をかたむけていると、三月にほかの外教らがとうとう入国するみたいなアレが聞き取れたので、そうなの? と割って入ってたずねると、とうとう全員戻ってくることにきまったと(…)はいった。仕事が増えるからちょっと大変だねというと、でもI’m happyという返事があり、少しでも仕事が増えるとテンションが死ぬほど落ちるじぶんがちょっと恥ずかしくなった。たとえ建前だとしてもそんなふうに言えるだけすごい。先学期、運動会で授業が二日間だったか三日間だったか潰れることになったという通知を、教室で授業中に学生から受け取った瞬間、教壇で両手をあげて「やったー! 神様、ありがとう!」と叫んだ一幕があったが、まじめな学生たちはけっこう引いていたんじゃないかと思う。
 手続きがすんだところで今後の予定をきいた。数日後に健康診断の結果が出る、その結果を持ってふたたびこの警察署(仮)をおとずれる、その後いつもの警察署にいってパスポートをあずける、で、その三週間後にパスポートを引き取るという流れで、これまではそんな必要などなかったはずであるのに、なぜ今回はこの警察署(仮)をおとずれる必要があるのか、その点は謎。理由をきいてもしかたないのできかなかったが。あと、(…)市の外で24時間以上過ごす場合はやはり事前に警察に連絡する必要があるらしく、これはゼロコロナが終わっても関係ないようだ。てめーら外人の居場所は常にマークしてるぞというお上からのメッセージ。
 (…)の運転でmedical clinic付近にもどる。clinicのすぐそばには図書館があった。市の図書館なのでだれでも利用することができる、英語の書籍も2000冊以上あるはずだという。すばらしい。来学期、感染が落ち着いた隙を見て、学生といっしょに散歩がてらのぞいてみよう。
 medical clinicの対岸の道路脇に車を停める。クリスマスプレゼントの入っていたダンボール箱だけ車に置いていっていいかとたずねる。こちらの説明不足で、一瞬、(…)はプレゼントを受け取らず車に置いていくものと理解しかけたらしいが、中身はリュックに入れてあるからと補足すると、爆笑。そんな失礼なことせんっちゅうねん。また後日、今日はどうもありがとう、とあいさつして車をおりる。
 横断歩道のない車道を力ずくで横断する。対岸のバス停付近にとめてある自転車のロックを解除する。元来た道をそのままたどりなおす帰路の途中、街路樹に春節の飾りつけをする人夫らの姿を、往路よりも多く目にする。今年の春節はいつなんだっけ? と、書いたところでググってみたところ、1月22日であるとのこと。
 (…)に立ち寄り、(…)で買い物する。野菜コーナーで、ブロッコリー、トマト、よくわからん葉物、パクチー、たまねぎを買う。精肉コーナーではひさしぶりに豚肉を買うことにしたが、五花肉はやはりないという。なんでや。しかたがないのでよくわからん部位を買う。鉄板でそのまま焼いたらステーキにできそうなやつであるが、価格は鶏肉とさほど変わらないので、そんな上等な部位ではないと思う。分厚いのを四枚買ったが、1300グラムほどあった。一日200グラムちょっとずつ食べるとして、これで6日分はまかなえる計算。冷凍餃子はまだまだたくわえがあるので買わない。红枣のヨーグルトは今日もなかったが、プレーンのヨーグルトは置いていたので、そいつを代わりに買った。あとは残り少なくなっている黑醋も買ったし、朝からなにも飲み食いしていない体があまい飲み物を欲していたので柠檬水も買ったし、ココナッツ味のウエハースも買った。

 帰宅。柠檬水を飲み、ココナッツ味のウエハースを食す。ウエハース、全然うまくない! クソが! おとなしく前回買ったやつと同じお菓子を買っておけばよかった! コーヒーを淹れる。なぜか突然、Nomakの「Geishas in the Days」がききたくなったので、『Calm』をダウンロードして流す。十五年ぶりくらいか? nujabesの系譜にあるミュージシャンであるが、十五年前の時点ではまさかこういうジャンル——ヴィレッジヴァンガードジブリのリミックス音源なんかとならべてオシャレな音楽としてパッケージングされていたような——が海外で受けて、その後のLo-Fiムーブメントにつながっていくとはだれも想像していなかったんではないか? と思ったが、『サムライチャンプルー』の放送が2004年らしいので、十五年前の時点ですでに海外に届いてはいたのか? まあなんでもええわ。せっかくなので2019年リリースの『Phenomenal Love』もダウンロードしてみることにしたが、これは十二年ぶりの2ndアルバムらしい。あとはおそらく同系統っぽい『cure』(re:plus)という音源も。
 それできのうづけの記事の続きを書く。投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年1月10日づけの記事を読み返す。以下、2021年1月10日づけの記事からの孫引き。

 ほかに、アフォーダンスを物や植物からの声として記述しているのも印象に残った。動植物や無生物と交わすことのできるものとして「会話」という概念を更新・拡張できそうな予感がする。また、熊谷晋一郎のいう「行動のまとめあげパターン」(208)を一種のダンスとして見ることもできるかもしれないと思った。固有の身体と周囲の環境をすりよせた結果ねりあげられていく行動のまとめあげパターンとは、脳性麻痺の熊谷晋一郎やASDの綾屋紗月が、健常者や定型発達者をベースとして設計された環境で生活をする上でのさまざまな工夫を例とすればわかりやすいが、そのような行動のまとめあげパターンとは、健常者であり定型発達者である人間も当然(日々微調整しながら)身につけているものである。こちらがすぐに思いつくのは、たとえば実家でも職場でもいいのだが、日頃長い時間身を置いている環境でのあの動線が決まりきっている感じ、そしてその動線にしたがって移動する足音の数やリズムや響きだけでだれが移動しているのか理解できるあの感じで、そういうパターン化された日常の所作も含めてダンスといってしまってもいいのではないかというのが、書見中、ふとひらめいたことであるのだが、このような概念拡張の先になにがあるのかはまだわからない。
 いちばん印象に残ったのはやはり、『〈責任〉の生成』でも言及されていたが、差異というものが苦痛であり、主体に傷をもたらすものであるという観点だろう。これはポストモダン的な差異の称揚に対して完璧な一石を投じているし、無限にたいして有限を、接続にたいして切断を強調してみせた千葉雅也の戦略とも共鳴する部分がある。徹底的に微分化されたたえまない差異の奔流に身をさらすことは苦痛であるということ、そこにユートピアはないということ(これはかつての分裂症神話、そしてその代替わりとしてもちあげられかねない自閉症神話にたいしてしっかりと釘を刺す)、そう考えるとやはり重要なのは程度問題であり、中途半端さであるのだということになるだろう。物語と出来事の配分、象徴秩序とそこにおさまらない現実的なものの配分、一般性と特異性の配分——「配分」と「度合い」という、決して華やかではなくむしろ地味な概念こそが、今後の哲学をうらなうことになるのだと、部外者だからこそ可能な放言をここでひとつしておこう。そしてそれは「調停」というテーマと大きくかかわるのだ。
 あと、かつて大麻による酩酊状態を、感度を上昇させるという通説とは逆に、あれはむしろ感度を低下させるものであると分析したことがあるが(だからこそ味の濃くてあぶらっぽい食い物をあれほどうまく感じてしまうのであり、反復する単調なリズムにたいしてなすすべなく体が動いてしまったり逆にストーンになってしまうのであり、単純きわまりない物語に感動してしまうのである)、この経験的な仮説も裏打ちを得た感じがする。つまり、自閉症的主体は解像度が高すぎるがゆえに「情報」をまとめあげることができない(象徴化/意味化/物語化/パターン化できない)のに対し、大麻による酩酊状態にある主体は解像度が低すぎるがゆえに本来は複雑極まりない「情報」をたやすく一本化してしまう、つまり「解像度の低下」を引き換えにして入力情報が単純化されてしまうのを「感度の上昇」と理解しているにすぎないというわけだ。酩酊状態のいわゆる「勘ぐり」、それから大麻常用者と陰謀論の相性の良さなども、解像度の低さゆえに物語化が過度に進行してしまうのが原因だろう。ガンギマリの果てに「すべてがわかった」としかいえなくなる状態など、物語化の進行がその極点に達しただけにすぎない、あんなものは悟りでもなんでもない。

 今日づけの記事もそのまま途中まで書いた。15時ごろだったろうか、ちょっとはやかったが腹が減っていたので、メシの支度にとりかかることに。買い込んできた豚肉を中華包丁でぶった切りまくり、6日分に分ける。米を炊き、豚肉、トマト、たまねぎ、にんにくをタジン鍋にぶちこむ。味付けは塩と黒胡椒とごま油と鸡精のみであるが、できあがったものを食ってみて感動した。豚肉、味がある! 鳥の胸肉には絶対にない、豊潤な旨味としかいいようのないもの、それが豚肉にはあるのだ! 最高だ! 山ではじめて猪を殺してその肉を食った先祖の記憶が細胞のなかで走馬灯のようによみがえる! 豚肉、万歳! カラマーゾフ、ばんざーい!
 なんのきっかけだったか、Vampire Survivorsのスマホ版が去年リリースされたという情報にいきあたったので、インストールして少々プレイしてみる。元ネタのMagic Survivalとやはり基本的にはほとんど変わらんなという感じ。30分ほどプレイしたのち、ベッドに移動してA Good Man Is Hard To Find(Flannery O'Connor)の続きを読み、そのまま30分ほど仮眠。
 浴室でシャワーを浴びる。ストレッチをする。(…)先生から微信が届く。日本語学科のグループチャットに招待してもいいですか、と。いまさらすぎないか? とちょっと笑ってしまう。五年目でようやく仲間入りなの? と。しかし連絡事項の共有などグループに加入していたほうがいろいろ便利であるし、わざわざ招待があったのを断るのもアレなので、お願いしますと返信。すぐにグループに招待される。(…)先生や(…)先生や(…)先生や(…)先生からすぐに歓迎の言葉が届く。しかしやりとりは基本的に中国語。このなかで流暢に日本語をあやつることができるのは(…)先生と(…)先生くらいだろう——と思ってグループの構成員を見てみたのだが、(…)先生のアイコンもあった、彼女とはこちらが(…)をおとずれて一年目に(…)さんを介して一緒に(…)で食事をとったことがあるのだが、正直あまりいい印象はない。(…)さんはけっこう仲良くしていたようで、ふたりで食事をとったことも何度かあったというのだが、なんというかこう、けっこう人当たりのきつそうな感じの女性で、そういうこちらの直観があやまりでなかったことは、後日、(…)さんから、(…)先生は学生に暴力かなにかふるったのがきっかけで(…)をクビになり(…)のほうに異動になったという裏情報によって裏打ちされたのだった。こちらはわりとどうでもいいと判断した人物に対して露骨にどうでもいいという態度をとってしまうほうなので、くだんの食事会では二度と誘ってくれるなよという牽制もかねて終始つまらなさそうにしていた、そしてその成果もあって以降二度とやりとりすることのないまま今日にいたるわけだが、そうか、(…)先生っていたな、すっかり忘れていたわ! という感じ。ほか、グループには見覚えのないアイコンがふたつあったのだが、(…)先生によれば、そのうちのひとつは韓国語と英語の先生だという。韓国語学科がない関係上、所属が日本語学科になっているらしい。一年生と二年生の韓国語の授業を担当している先生ですか? 先学期何度か教室でいれかわりになったことがありますよと(…)先生に告げると、そうですという肯定の返事。(…)先生という名前らしい。彼女は日本語はできないわけだが、グループチャット上でのやりとりは基本的に中国語で行われるので問題ない。実際、グループチャット上で(…)先生は、(…)老师はたいていの中国語は看得懂だから中国語でコミュニケーションをとって問題ないと(…)先生にいった(全然そんなことないが!)。あともうひとつある謎のアカウントはたぶん(…)先生のものだろう。
 その後、ふたたびVampire Survivorsをプレイ。たぶん二時間ほどやったが、これやっぱりMagic Survivalとそんなに変わらんなというわけで飽きてしまい、アンイストール。出前一丁をこしらえて食し、ジャンプ+の更新をチェックしたのち、歯磨きをすませてベッドに移動。オコナーの続きをちょっとだけ読んで就寝。