20230112

 形象とは何か。figureという語には図形、数、人の姿、比喩表現という複数の意味がある。ダナ・ハラウェイはさらに、「形象化(figuration)」に「キメラ的ヴィジョン」という古い語義があることに触れたうえで、次のように言う。「形象というのは、[……]多岐にわたる実体と意味が互いをかたちづくる物質的-記号論的な結節点ないし結び目である」。本書もこれに倣おう。形象とは、多数の人間的・非人間的作用が絡まりあう、心的-物的な記号過程の結び目をなす形である。
 形象を実現する心-物複合的な記号過程の中心をなすのは、生物としての作家ではない。形象である。なぜなら第一に、作家の最も複雑な思考は頭の中ではなく形象自体に現実化しているからであり、第二に、制作された形象はその力によって、生物としての作家の生死を超えてさらなる心的-物的記号過程を取り集めるからだ。この事態を指して、「形象は思考する」あるいは「形象の思考」と表現することにしよう。形象に結ばれる複合的思考過程を、人間ではなく形象を中心として表すのだ。
 形象の思考は、人間と事物が集合的に織りなす多重多階の抱握過程からなる。絵具が繊維をつかむ。盛り土が屋根をつかむ。生じたパターンが他のパターンをつかむ。抱握の各水準は半ば独立しつつ重層的に絡まりあい、特異な一つの形象となって見る者をつかみ、揺り動かす。心-物複合的な抱握を通して、形象は思考し、力を放つ。
平倉圭『かたちは思考する 芸術制作の分析』より「序章 布置を解く」 p.10)



 10時半にアラームで起床。寝床で30分ほどぐずぐずする。歯磨きしながらスマホでニュースをチェックし、トースト二枚の食事をとる。食後のコーヒーを二杯たてつづけに飲みながら、きのうづけの記事の続きを書く。作業中は『Financial Glam』(Jar Moff)と『Transformer』(Lou Reed)をくりかえし流す。『Financial Glam』(Jar Moff)はかなりカッコイイ。
 きのうづけの記事を投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年1月12日づけの記事を読み返す。

 歴史というものは、独創的な行為の物語である。あるときヴァージル・トムソンは、ニューヨークのタウンホールで講演し、独創性の必要について語った。聴衆はすぐさまやじをとばした。なぜ人々は独創性に反対するのだろう。現状が失われることを恐れる者もいる。また私が思うには、他の人たちは、自分たちがそれをつくりはしないことに気づいているのである。何をつくるのかって? 歴史を。独創性にもいろいろある。いくつかは、成功や美や理念(秩序の理念、表現の理念、たとえばバッハ、ベートーヴェン)と結びついている。ただひとつだけは、これらと結びつかない、いわば何も生まない独創性である。成功や美や理念と結びついた独創性はすべて、一般によく見受けられるものであって、人は遅かれ早かれ芸術にうんざりさせられる。このような独創性を備えた芸術家は、アントナン・アルトーが言っているように、自己宣伝に忙しい貪欲者としてその姿を現す。何を宣伝するのかって? 結局は、歴史をつくることに関係した何かではなく、せいぜい過去——バッハやベートーヴェン——に関係した何かであるにすぎない。もしそれが秩序についての新しい概念であるなら、バッハに関係し、心に触れる表現であるなら、ベートーヴェンに関係する。それは、ただひとつ必要とされる独創性ではない。そのただひとつ必要とされる独創性とは、成功や美や理念に結びつくことはなく、歴史をつくるものなのである。人類はひとりの人間のようなものだ(すべての人類はそれぞれ、同じひとつの身体を構成する部分であり、すなわち兄弟——手が目と競いあうことがないように、たがいに競いあうことのない——である)と考えることによって、独創性が必要であることが分るようになる。というのは、手が立派にやっていることを、目がする必要はないからである。こうして、過去と現在とは見守られるべきものとなり、人はそれぞれ、自分ひとりが行わねばならないことを行い、それによって、人間社会全体にとって、ひとつの歴史的事実が生み出される。そしてこうしたことが、連続した、あるいは不連続な形でつぎつぎと続いていくのである。
ジョン・ケージ柿沼敏江・訳『サイレンス』より「アメリカ合衆国における実験音楽の歴史」 p.134-135)

 そのまま今日づけの記事もここまで書くと、時刻は15時だった。

 食パンの買い出しに出る。今日もかなり暖かい一日のようだったので、柄物セーターと白黒ストライプのイージーパンツとマーチンのブーツという最近お気に入りのコーディネートで外出。何度でも書く、買ったばかりの服を着てぶらぶら歩くときほどの幸福はなかなかない。空は今日もガスりまくっている。しかしスマホの天気予報によれば汚染指数は全然高くない。コロナといっしょでこれもまともにデータが提供されていないんじゃないか、と、ここまで書いたところで、世界各国の大気汚染指数をリアルタイムで調べることができるウェブサイトがあったはずだと思い出し、そこをおとずれて(…)で検索してみたところ、very unhealthyの文字とともに216と表示された。比較対象としてkyotoで検索してみると、moderateの文字とともに65と表示されて、おい! 近平の旦那! 話が違うじゃねーか! 鶴のひと声でもってなんとかしてくれろ!
 改善されとらん大気のなかを歩く。バスケコートに複数の人影がある。感染して回復した近所の若者たちが遊びにきたのだろうと思いながら遠目に視線を送り出す。よく見ると肌の色が黒い。それでアフリカからの留学生たちであることに気づく。最近ぜんぜん見かけなかったし、てっきり全員帰国したものとばかり思っていたのだが、そうでもないらしい。
 南門から外に出る。(…)へ。食パンを三袋持ってレジにいく。レジのおばちゃんが回家しないのかとたずねてみせるので、しないと応じる(このやりとり、何度目だ?)。じぶんはまだコロナに感染していないというと、不错という反応。おばちゃんはすでに感染したらしいのだが、sao3という。sao3ってなんやと思い、店を出てから辞書で検索してみたところ、扫で「取り除く、絶滅する、一掃する」の意味らしい。だから、もうウイルスは全部やっつけたぜみたいなアレなのだろう。もしかしたら(…)话かもしれんが。
 南門にもどる。守衛のおっさんに話しかけられる。はじめて見る顔。白髪混じり。老师かというので、そうだと受ける。するとなにやら続けていうので、中国語はできないのだと中国語で答えるといういつもの返事をする。なんだ中国語わかんないのかというので、うんわからんと応じる。暇すぎて話し相手がほしかっただけだと思われる。ニコニコしながらバイバイする。
 元来た道をひきかえす。どでかいボリュームのBGMがきこえる。校内放送用のスピーカーから流れているのかと思ったが、そうではなかった、バスケコートの留学生たちだった。でかいスピーカーを持ち出し、それで爆音のヒップホップを流しているのだった。去年おれをさんざん苦しめたのはきっとあのスピーカーだなと思う。長期休暇中はほぼ毎日夜中の3時ごろまであれでズンズンズンズンいわせていたのだ。国際交流処に何度も訴えたのだが、留学生たちはじぶんではないといっていると(…)も(…)もいっていて、しかしふたりとも留学生たちが犯人だろうと目星をつけているようだった、犯行現場を取り押さえたいと考えているようだった。それなので(…)から夜中の何時でもいいので騒音がしたら連絡をしてくれと言われていたのだが(その場合はこちらから連絡を受けた彼女が管理人の(…)に報告して彼に現場を取り押さえてもらうつもりだったのだと思う)、さすがにそんな時間に連絡をするのは申し訳ないし、なによりじぶんの目で確認したかったので、たしか夏休み中だったと思うが、夜中にひとり騒音のする棟にJapanese Ninjaのように移動し、足音を殺し階段をあがり、そしてとうとう馬鹿騒ぎしている連中の部屋を見つけて動画に撮ったのだった。で、それ以降めっきり騒音はしなくなった。担当の(…)も相当あたまにきていたようで、というのも何度グループチャットで注意しても留学生たちはじぶんたちは夜中に音楽を流してなどいないと平気な顔でシラを切りつづけていたからで(オコナーの小説に出てくる黒人たちと一緒やんけ!)、だから彼女は証拠の動画を連中に突きつけつつ、次に同じことがあったら警察を呼ぶと本気で警告したのだった。
 で、その留学生たちがバスケコートに置いたスピーカーでヒップホップを流している。そのなかのものすごく太ったひとりの男が音楽にあわせて体を揺らしながら腕を動かしているようすを、正面からスマホではないもっとちゃんとしたカメラのようなもので撮影している別の男がいたので、あれ? もしかして自作曲なのか? いまMV撮ってんのか? と思った。いや、たぶん抖音にあげるための動画かなにかだと思うけど。
 帰宅。キッチンに立つ。米を炊き、豚肉とたまねぎとブロッコリーとにんにくをカットしてタジン鍋にぶっこみレンチンする。食う。

 食事中、(…)さんの発表動画冒頭15分ほどを視聴する。「Quid ? ソレハ何カ 私ハ何カ」の論旨その中核にあるメタモルフォーシスについて、そこで前提されている同一性および類似の定義を、別様に定義し理解しているゴダール-平倉圭、それからカルロ・ギンズブルグ-プリーモ・レーヴィの二本柱をぶつけて突くという感じっぽい。いや、二時間ある動画の冒頭15分でなにがわかんねんという話なのかもしれんけど。ま、これから食事のたびにちょっとずつ視聴することにしよう。きのうの食事中なんてロマサガ3の有能武器ランキングみたいなクソしょうもない動画を視聴していたくらいであるし、それよりはたとえぶつぎりの小刻みになったとしても(…)さんの発表動画を視聴したほうがずっとこさ有意義なはず。
 ベッドに移動。A Good Man Is Hard To Find(Flannery O’Connor)の続きをちょっと読む。それからおよそ20分の仮眠。覚めたところでキッチンに立ち、コーヒーを淹れる。デスクに戻ってスマホをみると、めずらしいことに(…)さんからLINEが届いている。なんやろと思いながら確認すると、なんと! 「Quid ? ソレハ何カ 私ハ何カ」と「ドゥルーズのどこが間違っているか?」のPDFだった! ありがたやーありがたやー! (…)さん自身、いつか読もうと思って保存してあったらしい。ブログでも最近ベルクソンにしょっちゅう言及されているわけだが、その流れなのだろう、ドゥルーズにとってベルクソンがどのような対象だったのかというのが目下の興味とのこと。去年だけでベルクソン関係の本はめちゃくちゃたくさん出版されたし、こちらも夏休みに一時帰国することがあればそのときにまとめて買おうかなと思っていたのだが、と、書いたところで思い出したのだが、立木康介の新刊が出るのもそろそろではなかったか? ググった。『極限の思想 ラカン 主体の精神分析的理論』。13日発売。これを書いているいま、すでに日付はまわっているので、発売中ということでいいと思うのだが、これはKindleでもリリースされている。だったらこっちにいるあいだに買って読むこともできるわけか。それはそれとして、(…)さん曰く、『世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門』(平井靖史)はやはりたいそう面白かったらしい(これもKindleでリリースされているので、いますぐ読もうと思えば読むことができる)。「ベルクソンは、人生相談とか個人的な悩み解決には、いっさい役に立たないところがいいですねー」とあって、なるほどたしかにと思う。ホワイトヘッドもたぶんそういう感じ。グレゴリー・ベイトソンになるとずっと人間臭くなると思うけど。
 というようなやりとりを多少交わしつつ、授業準備を進める。19時半から21時半まで。樫村晴香でもベルクソンでもドゥルーズでもなく、サラリーマン川柳とシルバー川柳をひたすら収集し、二年生後期の学生レベルでも正答可能な穴埋め式クイズをひたすら作り続ける。なんやこの苦行は! 作業中は『Casino』(Tape)を流してみたが、これはちょっとうーんという感じ。感傷的なメロディに流れすぎているというか、ベートーヴェンの初期ピアノソナタにうーんとなるのと同じ。『Rideau』はクソ名盤やと思うんやが。
 (…)先生にたのまれていた論文の要旨もちゃちゃっと添削して返却する。するとお礼の言葉とともに電話番号を教えてくれないかという返信が届く。悪用されることはないだろうが、(…)先生はこちらの微信のアカウントを許可なく英語学科の学生に教えたという前科があるので(まあそれをいえば(…)先生も同様のことをやらかしたわけであるし、この国で個人情報とかプライバシーを主張するというのがそもそもの間違いなのかもしれないが!)、それに釘をさす意味も込めて、なぜ電話番号が必要なのか理由だけ教えてもらえますか? というのも、こちらの許可なく電話番号だのアカウントだのを他人に勝手に教えている人間が複数いるらしく、それでけっこう辟易しているので——とチクリとやる。彼女のあの性格であるし、じぶんのことを言われているとはおそらく夢にも思っていないのだろう、それはたしかに困りますねみたいな反応がすぐにある。それに続けて、今年の春節は家族で(…)にとどまるつもりなので、もしよかったら(…)老师を食事会に誘おうと思って、それで電話番号だけ教えてもらおうと思ったんですみたいな、は? 嘘でしょ? という意外すぎるメッセージが届く。(…)先生や(…)先生であればわかる((…)先生からは実際去年の春節に食事会に誘われているし)。あるいは(…)先生からの誘いであってもまだぎりぎり理解できるが(彼女とはこれまでに何度か食事をいっしょにとったことがあるので)、(…)先生とその家族といっしょにメシ? なんでや! 絶対行きたないわ! そういうわけでコロナ未感染を理由に断る。感染するまではなるべく出歩きたくないし、じぶんが知らないうちに感染して(…)先生一家に迷惑をかけてしまうのも嫌だ、と。なんせお子さんもいらっしゃいますから——と、さらに子どもまで持ち出して予防線を多重に張りめぐらしたのだが、いやうちはもう全員感染して回復しました、だからだいじょうぶですよ! と一点突破。いや、おれがだいじょうぶちゃうねん。いまのいままで感染していないのであればあなたは強いということだ、だから感染をおそれる必要はない、わたしたちは実際ほとんど風邪と変わらない程度の症状しかなかったと、だいたいにしてそんな感じで食い下がってみせるので、いやいやいや……ていうかそもそも! われわれはろくに言葉を交わしたことがないですよね? さらにいえばこちらが貴女に対してろくにいい印象を持っていないこともご存知ですよね? と内心ひそかにごねる。というか、この機会にこちらに借りをひとつ作っておいて、それをフックにして次回の一時帰国中に資生堂の化粧品かなんかを買ってきてくれみたいなクソ依頼があるだけなんじゃないかという勘ぐりも働いてしまう(彼女はインターンシップや留学で日本に出向く学生に対して毎回必ず化粧品の購入を命じる)。そもそも彼女らといっしょにメシを食いたいとまったく思わんし、そんなもん罰ゲームでしかないやんけというアレがあるので(第一、(…)先生はまともに日本語をあやつることができない)、では春節までに感染しかつその後回復することがあればそのときはぜひご一緒させてくださいという、クソしらじらしい条件付きで返事することに。ほんまにそれまでに感染してしもた場合は後遺症でちょっとしんどいっすとかなんとかいって断ればええしな。ついでなので、普通の風邪と変わらないというひともいるが、学生や教員のなかには40度オーバーの高熱を出した人間も多々いるということ、さらにオミクロンであろうとも後遺症が残るというケースは世界中で少なからず報告されていることに触れて、钟南山および中国政府の見解もチクリと刺しておく。で、最後に、こちらは後遺症で本の読み書きがろくにできなくなることを死ぬことよりもおそれています、しかるがゆえにこのような極力外出しない方針で生活しているのです、ご理解していただければありがたいですと締める。
 しかしそのようなやりとりの半分以上はジョギングからの帰宅後に交わしたのだった。

 ウェアに着替えてストレッチをする。おもてに出る。寮の門の外に出て、そこであらためてストレッチをしていると、灰色のちょっと痩せた猫が近づいてくる。全然警戒していない。むしろこちらのそばに率先してやってくる。顔は幼い。たぶん生後半年から一年のあいだだと思う。こちらの足に顔をこすりつけようとするこのひとなつっこさから察するに、学生たちから定期的にメシをもらっていたやつだなと思う。冬休みになってメシにありつく機会がうんと減ってしまったので、こうして数少ない人間を見つけてはメシくれくれとこびているわけだ。あいにく手ぶらである。
 走り出す。走り出してほどなく、あれ? このガスっぷりやばくないか? と思う。街灯の光に照らされている空間がことごとくにごっているのだ。遠くにある建物の明かりやネオンもやっぱりにごっている。湯煙クソ温泉街だ! これはジョギングが逆効果になる。心肺機能が鍛えられるどころではない、むしろ肺を大いに病む、コロナよりもこいつのせいで肺が真っ白になる! そういうわけで今後しばらくジョギングはひかえることに決めた。大気汚染指数をチェックして問題ない日だけ走るようにして、そうでない日は代わりにスクワットかなんかしとけばええやろ。
 やばい空気のなかで走る。今日もバスケコートの手前までがんばった。気温は14度。タイム14分54秒。寮の近くで親子の人影を目にする。裸眼であるし暗闇であるしで確信はもてなかったのだが、もしかして(…)と(…)じゃないと思う。近づく。そうだった。ふたりとも感染して回復したあとだから問題ないと思うが、こちらがマスクをつけていないことをちょっとアレに思うかもしれないので、いまジョギングを終えたところなんだと伝える。すると(…)もジョギングを終えたところだと(…)がいう。それを受けた(…)があの角からここまでぼくeight secondsで走ったんだよみたいなことを自慢げにいう。(…)が英語でこちらで話しかけてきたのはこれがはじめてかもしれない。体調はどうかとたずねると、もう問題ないという返事。じぶんはまだ感染していないというと、(…)もまだ感染していないというので、そうなのかとちょっと驚いた。ふたりのそばには犬の(…)もいた。今日もこちらに対してかまってほしげに近づいてきたり、尻尾をふったりするのだが、しかし手を差し出すと警戒して距離を置き、なんだったらちょっと吠えてみせるというあいかわらずの距離感。それでいて一家の後ろにはついていかず、こちらのあとをついてくる。ツンデレけ? いまどきそんなもん流行らんやろ。
 帰宅。(…)くんから修士論文の内容に関する質問がいくつか届く。長くなりそうだったので、ちょっとシャワーを浴びてくる、質問があればまとめて送っておいてくれ、あとで返信すると告げる。で、シャワーを浴び、ストレッチをし、あらためてスマホを手にして彼とのやりとりを再開したのだが、正直言って、うーんこりゃたしかに指導教官に詰められるわな、という印象。特定の状況を設定したうえで、その場合どのような呼称語を使うのが適切かについてたずねる20問近い質問を、日本語学習者80人ちょっとにアンケート形式でとった。で、そのアンケートの結果が誤用であるか否かをネイティヴではない(…)くんが判断するのはさすがにダメだろうという指導教官のツッコミがあったので、こちらがそのジャッジをすることになったのが前回。今回はこちらが下したいくつかのジャッジについての確認が主だった内容だったわけだが、そもそも彼のいう「正用」と「誤用」と「非用」の定義がクソあいまいであり、そのせいで回答のふりわけに迷うことが多々あったので、まずはそこをはっきり決めたほうがいいといくつか例を出して指摘。すると、「母語話者のもっとも一般的な用法」を正用とするのはどうでしょうという返事がすぐにあったのだが、ではその「もっとも一般的な用法」はだれが判断するのか? こちらひとりの判断を根拠とするのか? という話であり、その定義でやるのであれば、そもそも日本語学習者に与えたのと同じ質問をほぼ同数の日本語ネイティヴにやらせる必要があるのでは? (…)くんが設定した質問にも大きな問題がある。彼の調査の狙いにふさわしい内容になっていないせいで、死に体になってしまっている質問が複数個あるのだ。あとは、「本来呼称語を使わなければならないところで省略すること」を非用の定義としているといいながら、がっつり呼称語を用いている回答について、これは正用ですか? それとも誤用ですか? と質問してみせる一幕もあったりして、(…)くん自身、じぶんが設定したあれこれをてんで理解していないんではないかという感じ。
 やりとりのどうにか片付いたところで餃子を茹でて食う。ジャンプ+の更新をチェックし、今日づけの記事の続きを書く。歯磨きをすませてからベッドに移動し、A Good Man Is Hard To Find(Flannery O’Connor)の続きを読んで就寝。