20230114

 たとえばカラヴァッジョの最初の《メドゥーサ》(一五九七—九八頃、図6)。振り返る途中で切り落とされて叫ぶその顔を見るとき、私の顔にもその驚愕と恐怖がうつる。丸く膨らむ楯に描かれたその顔は、曲面の効果により、顔を近づけるとギイイッと不均等に引き伸ばされ、驚愕の強度を増すように見える。盾を斜めに遠ざけると、恐怖に歪んだ表情をさらに撓める。見る私の動きはメドゥーサの顔の動きに巻き込まれ、私の顔はメドゥーサの情動と反響し始める。メドゥーサの顔は、見る私を先取りするようにして私の顔と「韻」を踏み、歪んだ鏡となって私の未来を奪う。
 《メドゥーサ》の経験に生じることは、程度の差はあれ他の形象を見るときにも起こることだ。見る者は形象に近づき、また遠ざかりながら、形象を複数の眺めから抱握し、その眺めに自分自身がくり返し抱握され、形象と多重の「韻」を踏む。形象が十分に強く造形されるとき、見る者もまた波及的に「造形」される。そうして見る者の心身は、形象の思考を外的に延長する記号過程の一部となる。形象の思考は、見る者が形象によって変形されることで、見る者において引き継がれる。
 形象と見る者との間に起こるこの関係を、「巻込(convolution)」と呼ぼう。「巻込」とは巻き込みであり、巻き込まれだ。見る者は自身の動きと知覚に形象を巻き込み(形象は巻き込まれ)、形象は自身の特異な布置のなかに見る者を巻き込む(見る者は巻き込まれる)。
 「形を構成する諸要素の具体的で特定の配置」を意味するものとして前節で導入した「布置(disposition)」という語には、物の空間的配置という意味の他に、人の気質、事物の傾向性(〜しやすさ)、軍の配備(潜勢力をもつ配置)という意味がある。これらをまとめて「態勢」と呼ぶなら、形象に巻き込まれることは、形象の「布置」に捉えられることで、見る者自身の「布置=態勢」が変形させられることだ。この変形作用が、見る者において形象の力として経験される。力によって変形される私の布置=態勢において、形象の思考は延長される。
 見る者が全体として形象に似るというのではない。私は全体として《部分的に埋められた小屋》に似てはいないが、小屋の局所的眺めがそのつど身体に働きかけてくる。形象の全体を同時に見通す一つの視点、形象の全体と対応する一つの身体は私にはない。形象の諸局所には、そこを視点として、そこから周囲を眺めたときに現れる特異な抱握のパターンがある。一度に見渡すことができないその複数の局所的眺めを自身に重ね描きするようにして、巻込は進行する。
平倉圭『かたちは思考する 芸術制作の分析』より「序章 布置を解く」 p.16-18)



 11時起床。昨日はいつもよりかなり早い時間帯に寝たはずなのだが(たぶんまだ2時にもなっていなかったんではないか?)、やはり疲れていたのだろうか、ぐっすり熟睡した。歯磨きしながらスマホでニュースをチェック。洗濯。コーヒー二杯をたてつづけに飲みながら、きのうづけの記事を長々と書き記す。作業中はTriune Godsの『Seven Days Six Nights』と『≠ Three Cornered World』をきく。Triune Godsは降神志人が参加しているラップクルーらしいのだが、これまで存在を認知していなかった。「志人(TempleATS/日本)、Bleubird (Endemik /アメリカ)、Scott Da Ros (Endemik /カナダ)の才気溢れる3者が海を越えて集結した。時に詩人とも評される志人とBleubirdが様々な感情を英語と日本語で表現し、その言葉をScottの繊細で深いビートがイマジネイティブに支える」とのこと。志人のラップ、ある時期からほとんど読経の域に達しとる。
 きのうづけの記事はずいぶん長くなってしまった。投稿し終えると、時刻はすでに18時だった。やれやれ。一年生の(…)さんから成績はいつわかるのかとたずねる微信が届いたので、成績はすでにつけたが、入力を担当している事務室の先生がコロナに感染した状態で冬休みになってしまったので、来学期になるまでデータベースに反映されることはないと返信。
 キッチンに立つ。米を炊き、豚肉とブロッコリーとたまねぎとニンニクをカットしてタジン鍋にぶちこむ。食し、ウェブ各所を巡回し、2022年1月14日づけの記事を読み返す。

道中、さきまで書いていたきのうづけのブログについて思い返しながら、学生と話すときはどうしたってクリシェに甘んじなければならないことの難しさを思った。政治方面に関係する話題では特にそうなる。イデオロギー(知識)の差(ギャップ)を埋めるべく、議論の大前提を相手に共有させるために導入されるクリシェがまず一つ。それから、語学力の問題で要請される議論の解像度の低さに由来するクリシェがもう一つ。その二重のクリシェによってかたちづくられた粗雑な議論を、学生らに話し、話したことを日記にまた書きつけなければならないことに対する忌々しさ。

 以下は2021年1月14日づけの記事からの孫引き。

芝生の上を歩いている最中、この感触ひとつひとつ、地面の表面にあるこの凹凸ひとつひとつに冷や冷やすることもあるのが、ASDの解像度で生きるということなのだよなと思った。それでふと気づいたのだが、ここ半年ほど、(…)の散歩をしている最中、舗装された道の上からわざと逸れて落ち葉の上を歩いてみたり、木の根っこが張り出している上を歩いてみたりするじぶんを自覚するたびに、子ども時代のよろこびがふわっとよみがえってくる感じがして、三十路も半ばに達してなおこういう感情をおぼえるのだと妙な気持ちになることが何度かあったのだが、予測誤差に意図して身をさらそうとするこの感じ、傷をあたえるものとしての出来事(差異)を率先してもとめていくこの感じにはある種の(スリリングな?)よろこび(快)がともなうというのは、やはり人間を考える上できわめて示唆的であるなと思った。というか、スリリングというのはまさしく享楽のためにある形容なのではないか?
それでちょっと気になってthrillの語源を調べてみたのだが、これは「突き刺す」というthyrlianという古英語をその出自としているらしい。突き刺される側の「恐怖」と突き刺す側の「興奮」ないしは「期待感」から、ポジティヴな意味でもあればネガティヴな意味でもある「ぞくぞく」に達した、と。享楽の二面性そのもの。

 読み返しを終えたところで、今日づけの記事もここまで書くと、時刻は19時半近かった。今日はたっぷり寝たことであるし、時間もけっこう押しているので、食後の仮眠はとらないことにする。

 浴室でシャワーを浴びる。あがってストレッチをし、コーヒーを淹れる。それから「実弾(仮)」第四稿執筆。20時過ぎから23時半まで。プラス23枚で計129/977枚。シーン9を再度ざっと確認したのち、シーン10を最初から最後まで通す。シーン10はわれながらよく書けていると思う。それでも弱い箇所がいくつかあったので補強したが。
 懸垂する。ジャンプ+の更新をチェックする。(…)一家にもらった麺をゆでる。タジン鍋の底に残っていた汁を鍋にぶっこんでスープとしたが、さすがにそれだけではパンチの弱い味になってしまったので、鸡精を追加。いわゆるやさしい味になった。夜食として食うのであれば、これくらいがちょうどいいな。
 歯磨きをすませてベッドに移動。A Good Man Is Hard To Find(Flannery O’Connor)の続きを読み進めて就寝。