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 現実には、このように不連続的かつ多重な樹々は存在しえない。複数の時間にまたがる枝の「運動」が不連続的かつ多重に記録されていると考えることもできない(そのような説明は、画面全体を拘束する周期構造を捉えることができない)。後期セザンヌの風景画は、世界の記録ではない。絵画は世界に対して閉鎖されている。にもかかわらずセザンヌが、これこそが「感覚」なのだ、ここに「感覚」が「実現」されているのだと言うとき、そこでは次のことが意味されていると考えることができる。デコードされるべきは描かれた諸々の対象の形姿や運動ではない。デコードされなければならないのは、むしろ私たちのこの身体である。
 感覚し行為する私たちの身体は、進化と個体の歴史において、世界を特定の仕方でエンコードするよう形成されている。ガヴィングが論じたのは、絵画が、世界を別の仕方で(奥行きをスペクトルの秩序で)エンコードする可能性を開くということだった。そこでは暗号的画面から、描かれた世界を複号することがいまだ問題となっていた。だが真に問題なのは、画面をデコードできるか否かにかかわらず、絵画が、それを経験しうる新たな身体を発生させるということだ。描かれた元の光景がどうであったかはわからず、しかしこの多重化した光景を十全たる世界として経験する新たな身体が発生する。つまりこの身体にはアナグラムのように、他なる身体が潜在しており、絵画がそれを実現する。私たちの身体こそが暗号なのだ。その身体はバラバラに砕かれ、デコードされ、新たな形式へと変換されなければならない。絵画の多重周期構造は、私たちの身体を破砕的デコードのプロセスへと巻き込んでいる。
 後期セザンヌの風景画を「見る」とは、見ることのただ中で視覚が砕かれていく経験である。私の視覚は、気がついたときにはすでに激しく震動するリズムに巻き込まれている。後期セザンヌの絵画は、強力な巻き込みの力を持つ。その力は、絵具の物質的な官能と、画面の多重周期構造に由来している。私は、その多重周期構造から、距離を取ることができない。そこではいわば、定位の任意性が欠けているからだ。単一の周期構造(縞)は定位も脱定位も容易である。だが複数の周期構造の重ねあわせ(モワレ)はそうではない。一つのリズムに乗ろうとした途端に、別の周期構造が現れる。あるリズムから足を洗おうとした途端に、別のリズムに呑み込まれる。定位の不確定性が画面を震動させる。震動は、それを意識したときにはすでに私を呑み込んでおり、絵具の物質的官能に吸い寄せられる私の身体を内側から激しく揺さぶっている。デコードが進行する。
 それは、絵画に目を向けるたびつねにすでに始まっているために「始まり」がなく、絵画から身を引き剥がすことによってしか中断されえないために「終わり」がない震動である。その震動は、行為から行為へ、「始まり」から「終わり」へと流れていく有機的な生の時間を吸収し、消滅させる。セザンヌの絵画を見るとき、そこでは過ぎ去るものとしての時間の感覚が消滅する。始まりも終わりもないその震動の場を、私たちは、絵画的「永遠」と呼ぶことができるだろう。「われわれの芸術は、自然が持続しているということの戦慄を人に与えるべきなのだが、それは自然のあらゆる変化の要素や外見を駆使してなのだ。永遠なものとして味わわせてくれなければならない」。世界から閉鎖されたはずの絵画が、その始まりも終わりもない震動の永続性において、世界の永続性に並行する。画面に目を走らせるたびに組み替えられ、更新される永遠が、私の他なる身体を貫いて震動する。絵画の中で左を向く。すなわち新しき永遠だ……! 絵画の中で右を向く。すなわち新しき永遠だ……!
平倉圭『かたちは思考する 芸術制作の分析』より「第1章 多重周期構造」 p.49-51)

 このくだり、小説における事後的な語り(手)の生成問題にもぴったり通じる。小説もまた「それを経験しうる新たな身体を発生させる」!



 11時過ぎ起床。ねぼけまなこでモーメンツをチェックすると、学生たちがみんなそろって雪の写真を投稿している。省内の子もいれば、省外の子もいる。今日はパンの買い出しにいく必要があるし、あまり積もっていなければいいんだけどと思いながら、天気予報をチェック。最高気温は1度で最低気温はマイナス1度。しかし雪降りではなく、晴れもしくは雨となっている。
 寝床を抜け出す。洗面所で歯ブラシを回収するついでに、阳台の結露しまくった窓をぬぐって外を見てみたが、雪はまったく積もっていない。歯磨きしながらスマホでニュースをチェックしていると(…)先生から微信が届く。食材を大量に買い込んでしまったのでお裾分けする、と。ありがたい。20分後に寮にやってくるとのことだったので、歯磨きと洗顔をすませてちゃちゃっと街着に着替える。
 白湯を飲んでいると(…)先生から到着の連絡がある。部屋をあとにする。棟の階段で中国人の少年と出くわす。你好とあいさつすると、很热という返事があり、很热? 很冷ではなくて? と一瞬思ったが、そうではなかった、中国ではない、英語だ、Chinglishだ、彼はHelloと言ったのだ。
 外に出る。先の少年の父親らしい人物がおもてにいたが、見覚えのない顔だったので、春节で遊びにやってきた親族かなとおしはかった。それでいえば、昨日は一日中上の部屋が静かだった、椅子や机を引く音ひとつしなかったのだが、あれはやっぱり春节を前にして農村に帰ったということだろうか? そのまま二度と帰ってくんな田吾作が!
 門の外に電動スクーターからおりた(…)先生がいる。こんにちは、おひさしぶりです、寒いっすね、と声をかける。電動スクーターの座席をもちあげた下の収納には大量の食糧。一度感染した身であるとはいえ、やはり頻繁に外出するのははばかられるので、なるべくいっぺんに買い出しをするようにしているのだが、ちょっと買いすぎてしまったとのこと。元々は義理の両親のところに持っていくつもりだったのだが、いらないといわれたといって、練り物のたぐいが入った袋を取り出してみせる。ひとつひとつの名前はわからないが、火锅や麻辣香锅の具材としてよく見かける連中だ。それをくれるという。どうやって料理すればいいんですかというと、すでに中に火は通っているのでそのまま食べることもできるが、やはり殺菌を兼ねて蒸したほうがいいとのこと。タジン鍋にぶちこんでレンチンすれば問題なさそうだ。ご飯を炊くときに炊飯器に一緒にぶちこんでおいてもいいとのこと、ぱっと見た感じ、三日分のおかずはありそうだったので、すみません、助かります、いただきますと礼をいう。(…)一家に教えてもらった新規開店したスーパーのこと、(…)先生は知らないようだった。
 そこからしばらく立ち話。(…)先生、いちおう回復した身であるが、もともとの持病の関係もあるのか、息苦しさはまだ少し残っているらしい。息を深く吸いこんでもしっかり肺に入っている感じがしないとのこと。同居の両親もやはり高齢ということで、いちおう回復はしたものの、本調子とはいえない状態がずっと続いている。(…)は無事。(…)先生が感染したのはちょうどクリスマスだったらしく、(…)は毎年クリスマスに(…)先生が作るサンタクロースを模した料理——キャラ弁みたいな感じ?——を楽しみにしているのだが、今年はそれを食べることができなかったという。(…)先生は42度の熱が出たらしいです、娘さんもひとりやっぱり42度出たらしくてと告げると、(…)先生はびっくりしていた。もしかしたら感染したウイルスの株が違うかもしれないというので、もともと北京のほうで流行していたのと上海や広州で流行していたのとは別の株って話でしたもんねと受ける。(…)先生の知り合いはこの一ヶ月で三人亡くなったといっていましたと続けると、(…)先生の周囲にもやはり死者が複数いるらしい。だいたいが基礎疾患持ちの高齢者のようだ。ひとりは友人の父君で、もともと腎臓の具合が悪く人工透析を受けており、ふつうの風邪であっても命とりになるからと日頃から警戒していたもののコロナに感染、しかしそれほど発熱することがなかったのでよかったと安堵していたところ、突然体調が悪化、病院に運ばれたがほどなくして死亡。レントゲンを撮影してみたところ、肺が真っ白になっていたという。
 昨日だったか一昨日だったか、中国政府がコロナによる死者の数をようやく発表したが、それによるとおよそ六万人だったか、あれにしたところで農村の自宅で死んだような人間はカウントされていないだろうという批判の声をちょくちょく見聞きする。感染者はすでに九億人に達しているという発表がありましたと(…)先生がいうので、見ました、たしか北京大学の研究機関の発表でしたよねと受ける(しかしその情報はほどなくして検閲されたはず)。河南省は先週だったかに省内の89%が感染したと発表していましたけど、(…)省でもだいたいおなじ感じじゃないかって感じがしますよね、体感的にも周囲の九割以上が感染していますしというと、わたしのまわりでまだ感染していないのって(…)先生くらいかもしれませんと(…)先生は笑っていった。
 突然すぎるフルオープンについて、(…)先生はやはりあきれかえっていた。ここでフルオープンするのであれば、これまでの三年間はなんだったのか、と。オープンするにしても時期を選んで段階を踏んですればいいのに、よりによって冬場で一気にですからねというと、医療体制を整える時間もないしというので、せめて一ヶ月くらい前に事前通告して、それまでにもう一度ワクチンを接種するように呼びかけるとか、オープンするにしても各省ごとにちょっとずつ段階を踏んで様子見しながらやっていくとか、方法はどれだけでもあると思うんですけどとこちらも同調した。家族や親族を亡くしたひとはどう気持ちに折り合いをつければいいのかわからないと思うと(…)先生はいった。政府に文句をいえるわけではない、だからただ受け入れるしかない、しかしどう考えたって受け入れがたいだろう、と。
 来学期以降はどうなるんですかね、免疫が三ヶ月から半年で失われるとして、そうなると寮生活している学生らのあいだで集団感染は避けられませんよねというと、でも以前みたいにオンライン授業をするということにはならないと思いますと(…)先生はいった。やはり一年に一度か二度はみなさん感染してテンポラリーな集団免疫をその都度獲得してくださいということになるのだろうか。(…)先生はいまでもしっかり感染対策をしているようだった。今日もN95を装着していたし、手にはビニール手袋をはめていた。帰宅したらすぐにアルコールで消毒するし、服もすべて洗濯しているというので、え、そんなにしっかりやっているんだ、とちょっと驚いた。感染明けまもない身であるし、もうちょっと適当にやっているのかと思っていた(ひるがえってこちらの感染対策といえば、ふつうのマスクとウレタンマスクの重ね掛け、外出後の手洗い、感染して寝込んだときにプレイするゲームをドラクエ5ロマサガ3のいずれにするかという脳内議論のみだが!)。
 (…)先生の友人は今月だったか来月だったか日本に旅行する予定だという。もともとX JAPANなどのヴィジュアル系バンドの熱狂的ファンらしく、日本でひいきのバンドのコンサートがあるのでそれに参加するためにわざわざ来日するという話で、こういうときのファンの行動力はやっぱりすさまじいなと思う。水際対策を強化した日本と韓国に対する報復措置として中国が新規ビザ発行を禁止した件について、(…)先生はあんなことをしてなんの意味があるのかと苦笑していった。メンツの問題でしょうね、実際おなじ措置をとっているほかの国にはなにもせず、日本と韓国だけ狙い撃ちらしいですからとこちらも苦笑して受ける。战狼外交もそうですけど、ああいうのって対外的なものにみえて、実際は内向きでしょう、おれたちは強いぞという国民へのアピールでしょというと、(…)先生はうんうんうなずいた。
 (…)くんの話もした。おとつい連絡があったのだが、いま日本にいるらしいですというと、(…)先生もやはり知らなかったらしく、たいそう驚いていた。来日二ヶ月後にコロナに感染、このままだと人知れず死んでしまうかもしれないとびびりまくって救急車を呼んだらしいと話すと、(…)先生もやっぱり笑った。
 三十分ほど立ち話をしてお別れ。また(…)といっしょに花火をしましょうというので、ぜひぜひと受ける。礼をいって去る。棟の階段でまた先の少年にでくわす。先と同様、HelloとChinglishで口にしてみせる。
 部屋にもどる。トーストを食す。コーヒーを淹れ、きのうづけの記事の続きを書いて投稿する。ひとつ書き忘れていたことがある、昨夜就寝前に高橋幸宏の訃報に触れたのだった。脳腫瘍から回復しつつあるものとばかり思っていたので、これにはちょっと動揺した。
 ウェブ各所を巡回し、2022年1月15日づけの記事を読み返す。

ラウシェンバーグにはたしかに技術がある。しかし、彼は自分の持っている技術を使わないで、自分の持たない技術を使っている。
ジョン・ケージ柿沼敏江・訳『サイレンス』より「ロバート・ラウシェンバーグについて、芸術家とその作品」 p.175)

 この言葉、おりにふれて思い返す。『サイレンス』をはじめて読んだのはもう十年以上前になるが、そのときからずっとあたまの片隅にあり続けた言葉。
 あとは、例によってラカン精神分析に関するくだり。以下、初出は2020年1月15日づけの記事。

(…)
 いまさらあらためて引くまでもない、いたるところで目にしてきたためにすっかりあたまに入っている内容であるのだが、しかし「シニフィアンのネットワークにはひとつの中心となるシニフィアンがあり、それが他のすべてのシニフィアンのネットワークの総体を固定している」とは、より具体性の水準にひきさげていえば、どういうことになるのだろうとあらためて疑問に思った。これについてはのちほどコンタルドカリガリス/小出浩之+西尾彰秦訳『妄想はなぜ必要か ラカン派の精神病臨床』を読んでいるときにもいろいろ考えてみたので、ちょっと書き出してみることにする。以下の内容はラカン派の考えをいちおうベースにしつつも極度に魔改造したもの。
 〈父の名〉という特権的なシニフィアンについてよくいわれる喩えがパズルにおける空白のマス目。つまり、それがあることによってほかの項を移動させたり並べ替えたりすることのできる、不在の中心みたいなもの。これは指し示すものと指し示されるものとが一対一対応する「記号」(これをASD的な言語と言い換えることもできる)に対して、そうではない「(一般的な)言語(使用法)」を可能にするものだといえる。つまり、特異性から一般性への飛躍を可能にする機能が〈父の名〉である、と。これは言語の水準の話。
 同じことを別の水準で考えると、〈父の名〉というものを役割のモデルのようなものとして理解することができる。役割というのは当然、特異的な実存を一般性にたばねたものだ。ゆえに〈父の名〉が排除されているということは、役割のモデルを持たないということであり(一般的な「父親像」「先輩像」「上司像」をもたない)、実人生でそのような役割を課せられる場面(ライフイベント)に接したとき、役割の引き受けが不可能であることが判明し、それを契機に発病することになる。
 精神病者は〈父の名〉の欠如を、周囲の人物を模倣することで誤魔化す(いわゆる「かのようなパーソナリティ」)。「(一般的な)言語(使用法)」にしても「役割」にしても、そのようなその場しのぎの模倣によって取り繕われているために、周囲の目には法の(欠如というよりは)欠損のように映じる可能性がある(精神病の鑑別診断でたしか、具体的にどこがおかしいかいうのはむずかしいがやりとりにずれを感じるみたいな、診察時に医師がおぼえる違和感を重視するというものがあったはず)。発症後はそのようなごまかしが不可能になる。法(文法/役割/論理学的基礎)が狂いをきたして支離滅裂になるが、支離滅裂になったそれを自力で(〈父の名〉にたよらず)まとめあげるのが、〈父の名〉の代替物であり埋め合わせであるものとしての妄想。
 これに対して自閉症者は妄想をすることがない。自閉症は〈父の名〉が欠如したその位置にとどまっている。周囲の人物を模倣することもなければ、〈父の名〉の欠如を代理物で埋め合わせしようともしない。
 理解を容易にするため、あえて時系列っぽく書くと、まずデフォルトとして自閉症的主体がある。主体は特異的な出来事(傷)の到来を受けながらそれらをパターン化しカテゴライズしていく。そのパターン化とカテゴライズを一挙におしすすめるのが「他者」「歴史」「言語」「法」の別名である〈父の名〉。そしてそのような〈父の名〉のインストールに成功した主体が神経症者。神経症者の症状とは、そのインストールによって必然的にもたらされる種々の不具合のこと。一方、インストールに失敗したのが精神病者精神病者は、そもそものパターン化とカテゴライズを放棄した自閉症者とはことなり、神経症者の身振りや思考を模倣したり、〈父の名〉のオルタナティヴとしての妄想を構成したりする。精神病者の症状とは、コンタルドカリガリスによれば、〈父の名〉のインストールに成功していた場合に生じていた神経症の症状が現実界に回帰したものとして理解できる。

 以下も初出は2020年1月15日づけの記事。

「好き」という感情がまずよくない。感情というか、対象に向けられている複雑にすぎる機微の地層のようなその重なりを「好き」という一語で大雑把にパッケージングしてしまう、そういう要約的ふるまいがまずいのだ。「好き」や「嫌い」という感情は、というかそれは本来感情ではなくおそらくは認識(判断)であって、喜怒哀楽ほか無数の名状しがたい感情が、項目過多な円グラフのようにひしめきあっているその様相を、その様相のまま持ち運びしたり手渡しするのがおそろしく厄介であるために、流通の便宜を図って、あるいは、メモリの節約をはかって、とどのつまりは便宜的に、「好き」ないしは「嫌い」の二色に塗り分けてしまう、そういうものではないかと思うし、ひるがえって小説というのは、この意味における「認識」ではない「感情」を描き出すことのできる貴重な手段ではないかとも思うのだが、それはともかく、「好き」や「嫌い」という認識(判断)はいずれにせよ退屈で、全然小説的ではなくて、だからしらける。相手から向けられている好意を確信し、かつ、その相手に向けている自分自身の好意も確信する。すると、一気につまらなくなる。だから、逆にいえば、「好き」が確定した段階、つまり、それが世間一般でいうところの恋愛感情であることがはっきりした段階、あるいは「好き」になったもの同士が晴れて恋人付き合いをはじめた段階、それより先を楽しむためには、その「好き」をふたたび諸感情に分解してその機微を味わおうとする積極的な姿勢が要請されるということになるのだろうし、実際、そういう経験を過去何度か味わっているはずなのに、それでいてなお、判断の保留されている、命名未然の、パッケージング以前の、諸感情がせめぎあっているそのような状態に身をおいている時間を愛するじぶんがいる。そしてそのような偏愛は、これまでに出会った女性たちとのさまざまな近しく親密な交流をリアルタイムで書き記すにあたって、「恋」という言葉を(よほどのことがないかぎり)使わずにすませてきたという記述上の一種禁欲主義的な徹底に認めることもできるはずだ。

 記事の読み返しがすんだところで、そのまま今日づけの記事もここまで書く。作業中はずいぶんひさしぶりに『Blonde』(Frank Ocean)をきいた。Frank Oceanの新譜、たしか今年リリースされる予定だったはず。

 授業準備にとりかかる。日語会話(二)の第9課。ベースは先学期こしらえたものがすでにあるので、内容を半分ほどに切り詰めた上で、ゲームテイストの応用問題を用意する。だいたいの見通しだけつけたところで作業を中断し、キッチンに移動。米を炊き、(…)先生にいただいた練り物のたぐいを大量にタジン鍋にならべる。ついでに葉物も少々。それをチンするだけ。
 食事中、姪っ子からビデオ通話。ずいぶん遅くなったが、正月の集まりということで実家に集まっているようす。(…)はすでに元気になっているらしく、こちらとの通話も早々にマインクラフトに戻ったようであるが(あいつはこのままだと確実にガチガチのゲーマーになる)、(…)は例によってこちらとの通話というよりもLINEの、あれはなんというのだろう、背景を変更したりリアルタイムで顔面をおもしろおかしく加工したりする機能でずっと遊ぶという感じで、しわしわの老人になったり、あたまに猫をのせたり(あれはたぶん「猫かぶり」ということなのだろう)、アニメ顔になったりした。(…)の顔は以前よりずっと(…)に似ているようにみえた。姉妹だから当然なのだが、それにしてもちょっと顔の印象が変わったなという感じで、まだまだ幼いので顔つきが安定しないのだろう。あんたいま何年生やっけ? 三年生? とたずねると、一年生や! という返事があった。ということは(…)が三年生か。(…)は途中で母や父や弟や兄や(…)の姿もカメラに映した。父の顔が映りこむたびに、おまえやめろや、こっちはメシ食っとんやぞ、汚いもん見せんな、というと、(…)はそのたびにドツボにハマった笑いをくりかえした。それから(…)の姿もみせてもらった。何度か名前を呼んでみたが、特に反応はなし。散歩! ドライブ! おみやげ! と言ってみたが、やはり反応はない。スマホ越しではやっぱりダメか。母からは途中、あんたまだ感染しとらんのかんとたずねられたので、なんでかわからんけどまだしとらんと応じた。ほんまになんでかわからん。前世でよほど徳を積んだのだろうか? そういわれてみれば、たしかあれは関所越えの途中に雨宿りした山奥の神社だったか、そこでいまにも死にそうな白蛇を助けてやった江戸時代の記憶がうっすら残っているのだが、あのときの白蛇がもしかしたら今世ではわが偉大なる守護霊となって悪しきカスどもを退けてくれているのかもしれん。
 悪しきカスで思い出したが、今日は一転して、上の部屋からときどき椅子のひきずる音が聞こえてくる。つまり、不在ではない。しかし以前ほど頻繁ではないし、音もずっと遠慮がちだったので、年末ごろからずっと居候し続けていたババアだけ春節ということでいったん去ったのかな、で、いまは爆弾魔がひとりで暮らしているだけなのでそれほどやかましくないのかもしれない。
 食事を終えると同時に通話も終える。すると今度は(…)から電話。またlaptopを持ってきてくれという話かなと思って出ると、新規オープンした例のスーパーに一緒に行かないかという誘い。めんどくさかったし、冷蔵庫にはまだまだ十分食糧もあるので、これは断ることに。とっさのことだったので、今日はもう買い物をすませてしまったという方便を用いてしまったのだが、すると当然、いいスーパーだっただろう? どうだった? という反応がある。なので、そのスーパーではなく(…)のほうに行ったのだとまた嘘を重ねるわけだが、くだんのスーパーが新規オープンしたからには今後もう(…)に行く必要はないと先日話したばかりにもかかわらずの筋の通っていない嘘なわけで、下手くそな外国語を話していると嘘をつくのも下手になる。ふつうにいまメシ食ってるからまた今度といえばよかった。なんかついでに買ってこようかというので、いや別に足りていないもんないもんなァと思っていると、少し離れたところから(…)が香菜はいるかというので、冷蔵庫に十分入っているからだいじょうぶだよと笑って答えた。それからそのうちこちらにふるまってくれるという香菜と肉の炒め物について、牛肉と豚肉どちらがいいかというので、どちらも好きだよと応じると、じぶんだったらchickenがいいと(…)がいった。いまはベジタリアンである(…)だが、最後に肉を食べたときはchickenが好きだった、と。もしかしたら(…)一家は(…)先生のところみたいに春節前にこちらを夕飯に招待しようと考えているのかもしれない。別にそういうのなくていいんだけどなァ。長期休暇くらいはゆっくりひとりで過ごしたい。
 ベッドに移動。A Good Man Is Hard To Find(Flannery O’Connor)の続きを少しだけ読み進める。それから20分ほど仮眠。コーヒーを淹れ、19時半から21時半前まで授業準備の続き。第9課、ひとまず完成させる。これから毎日1課ずつ片付けていく。今月中に日語会話(二)の教案をすべて完成させて、来月中に日語会話(三)の教案をできれば三分の二完成させる。作業中は昨日にひきつづきTriune Godsの『Seven Days Six Nights』と『≠ Three Cornered World』を流した。
 浴室に移動してシャワーを浴びる。あがったところでストレッチ。ふたたびデスクに向かって「実弾(仮)」第四稿執筆。22時半から0時半まで。シーン10にまた少し手をくわえる。いい感じに仕上がりつつあると思う。以下、そのシーン10。

 原付のシートにまたツバメの糞がついている。これで二度目だ。去年ひさしにあった作りかけの巣を除去して追い払ったはずなのに、今年もまた懲りずにやってきているのだ。ツバメがやってくるのは、家が丈夫で安全な証だと幼いころに聞いたことがある。大きな地震がきても、案外、平気だったりするのかもしれない。
 原付を土間に運びいれてしまいたいが、孝奈にきっと邪魔だと文句を言われる。借り物だからといっても、納得してくれるとは思えない。右手の人差し指の先でシートにこびりついた白い塊に触れてみる。外側は乾燥した絵具のように硬いが、少し強く押してみると、硬い表皮の向こう側でぬるっとしたものが動く。思わず手をひき、指の腹を確認する。汚れがついているようには見えないその指先を鼻の近くに持っていこうとしたところで、古い木造家屋にはさまれた路地の向こうからコンビニのビニール袋を提げた人影が歩いてくるのに気がついた。薄暗い遠目でもすぐに深瀬と見てとれる巨体だ。長袖のTシャツの胸と腹をぱんぱんにふくらませた深瀬は、のっしのっしと歩きながら、簡単な外野フライをキャッチする野手のように右手を顔より少し高い位置にあげてみせた。前屈みになっていた姿勢を元にもどし、指の腹をズボンで軽くぬぐってから、おなじように手をあげる。
「孝ちゃんおる?」
「中」
 道男はそう答えながら、玄関の引き戸をガラガラとひいた。ほこりっぽく、ところどころがひび割れ、まるで地下にガスでもたまっているかのようにこんもりと丸みをおびているコンクリートの土間には、孝奈のスニーカーが脱ぎちらかされている。全部で七足。そんなに靴ばかりあつめてどうするのだろうと道男はいつも思う。道男は靴を二足しかもっていない。夏用のサンダルと、いま履いている黒のスニーカーだけだ。孝奈が普段履かない靴をかたづけてくれさえしたら、原付をここに置いておくこともできるのにと思う。
 腰のあたりを後ろからどんと押される。つんのめったいきおいでナイキのスニーカーのつま先を踏んづけてしまい、道男は内心ひやっとする。以前、孝奈のスニーカーを土間の隅にならべなおしておいただけで、勝手にひとのものにさわるなと怒鳴りつけられたことがあるのだ。道男がふりかえると、深瀬はふうふうと息をしながら、Tシャツの襟元を指先でつまんでパタパタさせていた。灰色のシャツの脇の下が真っ黒にそまっている。贅肉というのは感覚が鈍いものなのだろうかと、深瀬の突きでた腹を見ながら思う。道男は物心ついてからいまにいたるまでずっと痩せぎすだ。
「孝ちゃん!」
 道男を押しのけるようにして土間に足を踏みいれた深瀬は、右手のガラス障子を開くなり、遠慮のひとかけらもない声で叫んだ。部屋にはあがらない。ひざより少し低い位置にせりだしている木製の式台に両ひざを、その一段先にある六畳の畳に両手をそれぞれ突いて、中途半端な四つん這いの姿勢をとる。腹の贅肉が邪魔をして、靴を脱ぐのも一手間なのだ。
 六畳はひどく散らかっている。脱ぎっぱなしの衣類やしわだらけのバスタオルが、スーパーやコンビニのビニール袋と一緒になってそこらじゅうに放りだされており、数ヶ月分の週刊少年ジャンプや『グラップラー刃牙』のコンビニコミックを積みかさねてできた山が、郵便受けの中身をそのままごっそりと積みかさねた別の山——クリーニング店のチラシ、電気や水道の検針票、市役所からとどいた未開封の封筒など——とともに、あちこちに点在している。山のいくつかは崩壊し、地すべりを起こして、ほかの山を巻き添えにしようとしている。部屋の真ん中にはこたつがひとつ置かれているが、空になったカップ焼きそばの容器やペットボトル、数日間使い続けているコップ、封の切られていない未使用の割り箸の束、ティッシュの代わりに使っているトイレットペーパーなどによって、卓上はほぼ占拠されている。くしゃくしゃのこたつ布団は水色を基調としたチェック柄で、酒をこぼしたときの大きな染みが下手くそな絞りぞめのようにいくつも浮かんでいる。道男はその染みからあわてて目をそらした。
「考ちゃん!」
 深瀬がもう一度大声で叫ぶ。返事の代わりに天井がずしんと踏み鳴らされる。いらだちを隠そうともしない乱暴な足音が、そのまま階段をドシドシと駆けおりてくる。こたつをはさんだ正面にあるふすまがいきおいよく左側にすべり、顔をしかめた孝奈が姿をあらわす。
「声でかいわ」
「原付ちょっとだけ貸してくれへんか? あとパソコンも」
「上や」
「ほんならちょっと持ってきて」
 孝奈は小さく舌打ちをした。深瀬にはその舌打ちが聞こえない。聞こえていたとしても、その意味を特に解釈しようとはしない。そういう図太さが深瀬にはある。贅肉が神経にまで巻いているのだ。深瀬が小学生のときとまったく変わらない態度で孝奈に接するようすを見るたびに、道男は内心ひやひやしてしかたない。
「お兄ちゃんが取ってくるわ」
 道男はそう言って靴を脱ぎ、四つん這いになった深瀬のかたわらをすりぬけて、土間から部屋にあがった。
「勝手に上来んなハゲ」
 孝奈が吐き捨てるようにして口にしたその言葉に、深瀬がなんのこだわりもなく笑う。にやにやとした笑みを浮かべて道男のほうを見やる他人事めいたその態度がますます癇に障ったのか、孝奈はふたりから見て左手にのびる階段の一段目に右足を、ほとんど踏みぬこうとしているのではないかといういきおいでのせた。グレーのスウェットを履いた下半身が、裾のめくれあがってくるぶしのむきだしになっている足首より下を最後まで残しつつ、傾斜の急な段差を一段また一段と踏み鳴らしていくその足取りに応じて、家中がぎいぎいと、まるで歯ぎしりでもしているかのような音をたてる。
「イヤホンもな!」
 四つん這いの姿勢のまま深瀬が叫ぶ。どうしてそんなに声を張りあげる必要があるのだろうと道男はほとんど悲しくなる。孝奈は返事をしなかった。階段をあがりきった足取りの続きを、今度は天井のみしみしという軋りがあとづけていく。開けっぱなしのふすまの向こうに置き去りにされた漆喰の白壁をながめながら、ふたりは黙ってその音に耳をすませる格好になった。静けさのなかでは、深瀬の無神経さも、孝奈のいらだちも、自分の心配も露骨になるような気がする。道男は悪い空気を入れ換えようとするかのように、六畳と隣室をへだてるふすまに手をかけた。ふすまは敷居を最後まですべりきらず、急ブレーキをかけた自動車のようにつんのめって、なかばを少し過ぎたところで停止した。借家のかたむきは年々ひどくなっている。二階は特にひどい。畳の上でビー玉が転がるほどだ。一階で暮らす道男ですら、就寝時は頭に血が昇らないよう、縁起の悪さを気にしながら北枕で寝床についている。
 八畳の隣室は電気が点いたままだった。部屋の真ん中にカーペットの役割を兼ねた布団が、何枚もの色違いの毛布と一緒に敷かれたままになっている。六畳に近いほうに置かれている枕のすぐ右手には、十年以上使い続けているテレビデオが畳の上に直置きされている。布団にもぐりこんでから眠りに落ちるまでのひとときを、横たわった裸眼のままテレビをながめて過ごすのが、施設を退所して以降の習慣だった。道男はテレビデオの電源を直接つけると、音量をいつもより大きくしてから、枕元に転がっているリモコンをひろいあげて六畳にもどり、土間に接するガラス障子を背にして立った。
 画面に映しだされているのは、昨日の昼間に東北地方で起きた大地震についての臨時報道番組だ。チャンネルを変えるが、ほかの局もおなじような報道番組しか放送していない。
「ニュースばっかでちっともおもろい番組やっとらん」
 深瀬は四つん這いの姿勢を少しだけ左手にずらし、隣室のテレビのほうに首をうんとのばしながら、さもいまいましげに漏らした。まるで外国産の巨大な亀のようだ。
「昨日からずっとこうやね」
「ほんまこまるわ。視聴者のことも考えてくれよなテレビ局も。せっかくの土日やのに」
 頭上でドシドシと足音が鳴る。ノートパソコンを手にした孝奈がふたたび階下にやってくるその足音に合わせて、土壁からはがれ落ちたものが畳の上でパラパラと音をたてる。
「なんに使うン」
 部屋着のスウェットからブラックデニムにグレーのパーカーという街着に着替えた孝奈は、畳の上に放りだされている道男の衣類を片足で払いのけながら、四つん這いになっている深瀬の前に立った。道男がついさっきまでこたつ布団にくるまって居眠りしていたあたりだけは、ものが端に片寄せられており、畳がぽっかりとのぞいている。そこを選んで歩けばいいのに、わざわざ自分の不機嫌を見せつけるようにして、道男の私物を乱暴にとりあつかってみせる。
「テレビ地震ばっかでおもろないやろ。ひまやからニコ動見よ思うてな」
 深瀬は受けとったノートパソコンとアダプタをそのまま目の前の畳の上に置き、手刀のかたちにした手で端のほうに寄せると、ひざをついていた式台に巨大な尻をどしんとのせるようにして体をひねり、土間から部屋をふりかえるような姿勢をとった。
「ニコドウ?」
ニコニコ動画! 孝ちゃん知らんのか?」
「聞いたことあるけど」孝奈はパーカーのポケットの中から真っ黒なイヤホンをひっぱりだすと、くしゃくしゃにからまったままの状態でノートパソコンの上に軽く投げ捨てるようにした。「YouTubeよりおもろいン?」
「は? 孝ちゃんいまどきようつべなんか見とんのか? やば!」
 そう言いながら深瀬は、土間に直置きしていたコンビニ袋をひろいあげて、その中からルイ・ヴィトンの長財布を取りだした。賭け麻雀で仲間から巻きあげたものだ。深瀬はブランド物になんてまったく興味をもっていない。金の持ちあわせがないという相手からひとまず質として取りあげたものを、ただ単に使い続けているだけだ。十中八九、偽物であるその財布の中から、千円札を三枚取りだす。
「今日と明日の分な」
 深瀬は右手で持った紙幣を孝奈のほうに突きだして言った。
「今日だけや」
「なんで?」
「値上げや。おれやってこんなしょうもないテレビ見たないわ」
 孝奈は紙幣を受けとり、折り曲げたそれを黒いジーンズのポケットにしまいこむと、そのままガラス障子を背にして突っ立っている道男の前を通り、六畳と八畳をへだてる敷居の上に移動した。柱を背にして両腕を組みながら、テレビのほうをながめる。押し寄せた津波が瓦礫とともに平野をのみこんでいくようすを上空からとらえた映像が映しだされている。
「道男のパソコンあるやん!」
「あんなちっさい画面で見たないわ」
「ほんなんいきなり言われても」
「ほんなら返して。言うとくけどそれ、もうおれのもんやからな」
 孝奈はテレビのほうに視線を固定したまま続けた。NECのノートパソコンはもともと深瀬の持ち物だったが、孝奈がつい最近、賭け麻雀で巻きあげたのだ。
「おれ小学生のときどんだけおまえ守ったったか」
「もうええって」
 孝奈の声がひときわするどくなる。深瀬はなにかあるたびに、小学生のときに一学年上のガキ大将からいじめられていた孝奈をかばったことを、恩着せがましく口にする。孝奈が中学二年生の夏休みに髪を赤くそめたあとも、高校入学後に最初のピアスを開けたあとも、そのホールをどんどん拡張していったあとも、深瀬は孝奈のことを変わらずおまえ呼ばわりし、以前とおなじ親分風を吹かせながら、十年以上前のできごとを昨日のことのようにもちだす。
「これからはもう一日三千円や」
「二千円にして」
 深瀬はそう言いながら、財布の中から千円札をさらに一枚つまみだした。ふたりのあいだに突っ立っている道男は、深瀬から差しだされた紙幣を受けとると、そのまま孝奈に手渡した。孝奈は道男から手渡されたものを見もせずに、やはり裸のままジーンズのポケットにしまいこんだ。
「深瀬、自分で買ったほうがはやいんちゃう?」
 道男はそう言ったあと、しまったと思った。余計なことを言うなとあとで孝奈から叱られるかもしれない。横目でちらりとうかがうと、孝奈はふたりから顔をそむけたまま、地震発生時のテレビ局内のようすをとらえた監視カメラの映像を不機嫌な表情でながめていた。
「もう金あらへん」
 深瀬はルイ・ヴィトンの財布をコンビニの袋の中に落として答えた。袋の中には五〇〇ミリリットルの三ツ矢サイダーとメロンパンがふたつ入っている。三ツ矢サイダーを炭酸水と見間違えた道男は、心臓がかすかに跳ねるのを感じた。手のひらがじわりと汗ばみはじめる。
「給料日は?」道男は平静をよそおいながら続けた。
「あと十日くらいあるけど今月は支払いようけあるでな。スマホ買ったし、携帯二台分払うの毎月マジきついわ」
 深瀬は先月から賭け麻雀で負け通しだ。正確にいえば、先月孝奈が麻雀のメンバーに加わるようになってから、負けが込むようになりはじめた。あからさまなその変化を、深瀬はこれっぽっちも疑おうとしない。麻雀のルールを知らない道男は、現場でなにが起きているのか知らない。知らないが、だいたいのことは想像がつく。
「グッズ買わなあかんのに。やばいわ」
「アイドルのグッズって売れんの?」
 孝奈が不意にテレビから目を離して言った。
「売れる?」
 深瀬が体をねじって孝奈にたずねかえした。ふたりの視線をさまたげる位置に自分が立っていることに気づいた道男は、邪魔にならないようにさっと前に足を踏みだした。バレリーナのように手足の指先をぴんとのばしてバランスをとりながら、孝奈とは正反対に、畳の上の物を抜き足差し足の要領で避けて、階段に続くふすまの前に立ち、そこからこたつをはさんでふたりのほうに向きなおる。
「ライブハウスで売っとるTシャツとか」
「孝ちゃん、転売するんか?」
 テンバイの意味がわからなかったが、孝奈はあいまいな声で肯定した。聞きかえしたら、また腹の立つ言い方で小馬鹿にされる。
 深瀬は大荷物でも動かすようにして、ふたたび自分の体を反転させた。ガラス障子に肩が触れ、ガシャーンという大きな音がたつが、意に介することなく、式台に両ひざを、畳の上に両手をついた四つん這いの姿勢をもう一度とりなおす。
「孝ちゃん、だれのTシャツ持っとんや?」
 深瀬は孝奈の顔をじっと見上げながら言った。口を閉じるの忘れているせいで、上の前歯が二本とも抜け落ちている口の中が丸見えになっている。
「知らん」孝奈は嘘をついた。「ひとからもろただけや」
「ちょっと見せてくれへん?」
「もうバイトや」
「バイトやったら原付いるんちゃう?」道男が横から割りこんだ。
「バス」
 孝奈がそう答えるとほぼ同時に、景人が玄関に姿をあらわした。土間を陣取る深瀬の姿を見て、あ、と小さく漏らした景人に向けて、深瀬は首から上を後ろにねじり、おお、と答える。ふたりは先週、賭け麻雀の席ではじめて顔を合わせたばかりだ。
「あ、景人くんもバイトなんか」
「うん」
 ひとり離れた位置に立っている道男の言葉に景人はうなずいた。本当はロッカールームに置き忘れてきた手帳を取りにもどるだけなのだが、説明するのが面倒なので、出勤日ということにしておく。黒縁めがねの奥からのぞく道男の目元は少しあやしかった。やりとりはそこで途切れているにもかかわらず、まるで会話がずっと続いているかのように、片方だけ曇ったレンズの向こうから焦点の合わないまなざしを景人のほうに送りだしては、何度もくりかえし小さくうなずいている。力のない痴呆じみたその微笑には、北駐車場にたびたびあらわれるあの鈴の男と重なるところがあった。
 四つん這いになった状態で顔をあげた深瀬のうなじは、肉が何重もの襞をつくって包茎のようになっている。その背中越しに部屋をのぞきこむと、隣室との境目に立つ孝奈と目が合った。隣室のテレビでは、地震発生時の東京の街中をスマホで撮影したものらしい、視聴者提供の動画が映しだされている。
「東京どうなっとる?」景人は言った。
「とっといたらあとで価値つくで。プレミアや」
「いくらくらいなン?」
「そりゃあ、アイドルっていうたらファン多いでな。百万くらいいくんちゃうか?」
 孝奈は景人の質問に答えず、深瀬とのやりとりを続けた。東京も大変やね、と代わりにひきとって答える道男のほうに、景人はふたたび軽く目をやった。こたつをはさんだ向こうに棒立ちしている道男のごっそりと禿げあがった額は、天井からつりさげられている照明をギャグ漫画のキャラクターみたいに真っ白に反射している。生え際がかつてどこにあったのかすらわからない、文字通り不毛の地となっているその一帯とは対照的に、まだまだ豊かな両サイドの髪の毛は短く刈られており、それ以上に豊かな後ろ髪は毛束ごとねじりあげるようにして、ハリネズミのように後ろにのびている。鼻の下と顎にはうっすらとしたひげがたくわえられているが、肌は遠目にもかさかさで、締まりのない口元からのぞく前歯は二本とも半分以上欠けている。歯抜け同士で親友なんや——孝奈が先週ふたりのことを小馬鹿にしていたのを景人は思いだした。ハゲの歯抜けとデブの歯抜けや、終わっとるやろ。
 道男と正面から向きあうたびに、景人は少し緊張する。その額にどうしてもひき寄せられてしまう自分の目線が、めぐりめぐって自分の左足にそそがれるものであることを意識しないわけにはいかないからだ。景人は顔をそむけるようにして手元の携帯電話に目を落とすと、ぼちぼちバス来るで、と告げた。
「吉森さんもたまにはマシなこと言うな」
 孝奈は深瀬の背中をまたいで土間におりると、低く落とした声でつぶやいた。
「孝ちゃん、原付の鍵は?」
「冷蔵庫の上にある」
 散乱しているスニーカーの中から、横向きに倒れているアディダスの白い一足を、孝奈はくるぶしソックスを履いた足のつま先で転がして起きあがらせた。起きあがらせたものに無理やり足をすべりこませ、踵を踏んづけたまま、せまくるしい土間からおもてに出る。外はずいぶんと暗い。古い木造家屋にはさまれた路地の向こうを、ヘッドライトを点けた車が一台通りすぎていく。群青色の空は濃淡の違いをまだたっぷりと残しており、西日の落ちた方角には魚の骨みたいにみすぼらしく横たわる雲をうっすらと認めることもできるが、地平を視線からへだてる山並みは黒一色に塗りつぶされて奥行きも区別も失っている。
「乗ったあとガソリンだけ入れといて。満タン」
 土間をふりかえって孝奈が言う。深瀬が小声でなにか文句を言うのが聞こえるが、返事はせずに上半身を折り曲げて右手をのばし、指先でスニーカーのタンをひっぱりだす。そのまま人差し指を靴の内側に沿わせて後ろにまわし、靴べらがわりにして踵を押しこむ。おなじ動作をもう一度、左足でもくりかえす。ただし今度は、踵に人差し指をひっかけた左足を、ストレッチでもするかのように後ろにひっぱりあげ、腰を起こして弓なりの姿勢で片足立ちになる——その一部始終を、孝奈より先に外に出ていた景人は、じっと見つめて待った。
「百万ってなんなん?」
 バス停に向けてそろって歩きだしたところで景人はたずねた。
「まおまおのTシャツ」
「は? マジで?」
「ネットやったらそれくらいで売れるらしい」
 孝奈はそう言いながらにやりと笑う。ライブハウスのスタッフらに対して、自分たちはあくまでもネタでやってきたのだとアピールするために、スタッフがまおまおの代理で物販スペースに入ったそのタイミングで「これ持っとったらネタになるやろ」「罰ゲームでこれ一日着るとかおもろいな」などと軽口を叩きながら購入したライブTシャツが、本当に大金に化ける可能性があるなどとは、まったくもって予想もしていなかった。
「吉森のおっさん、出所祝いに煙草ワンカートンくらいやらなあかんな」
 孝奈はほかでもない吉森さんのような巻き舌でそう言ったのち、数歩先にいきおいよく飛びだすと、腰を少しだけ落とし、ドリブルで切りこむサッカー選手のように上体を左から右に激しくゆらしてみせた。

 餃子を茹でて食す。高橋幸宏のポートレイトをあちこちで目にするが、スーツとハットでびしっとキメている写真を見るたびにジョイスみたいだなと思う。歯磨きしながらジャンプ+の更新をチェックしたのち寝床に移動。
 A Good Man Is Hard To Find(Flannery O’Connor)の続きを読む。“The Displaced Person”読み終える。これはたぶんオコナー唯一の、短編というよりは中編に近い長さのもの。前回読んだときはそれほど印象に残らなかったのだが、今回読んでみて、オコナーがこの長さを通してどこに向かおうとしていたのか、けっこうはっきりと理解できた。
 今回もめがねをかけている人物が登場する。戦火を逃れてアメリカに逃げてきたポーランド人がそう。彼はMrs. Mclntyreのもとで働いている。Mrs. Mclntyreは夫も子どももいない未亡人の女地主で、オコナーの作品に典型的なプロフィールの持ち主。そしてもうひとりの主要人物がMrs. Shortleyで、彼はMrs. Mclntyreのところで長く働いているのだが、新入りのポーランド人のことをよく思っていない、ポーランド人がこの土地に不吉な災厄をもたらすと考えている人物で、オコナーの諸作品に登場する予言する下働きの女の役目をやはり担っているといえる。この三人の登場人物とその関係性だけでいえば、この“The Displaced Person”という作品は、“A Circle in the Fire”とほとんどまったく同じであるし、持たざるものが持つもの——それはしばしば世俗化されたキリスト教道徳を都合よく解釈してことにあたろうとする傲慢な女性という像をとる——のところに災厄としておとずれるというふうにもう少し抽象度を高めて理解すれば、“Good Country People”や“A Good Man Is Hard To Find”にも当てはまる。
 しかしこの作品が同様の構図を持つほかの作品と異なるのは、まず語りがMrs. Shortleyに即している点で、ほかの作品であれば語りはだいたい持つものに即してその周囲をうろつくのだが、この作品では三部構成になっているその一部のあいだずっと災厄を警戒し注視し続ける、下働きの女であり予言者であるMrs. Shortleyに添い続ける。
 また、Mrs. Shortleyはポーランド人について、たとえば、“(…) like rats with typhoid fleas, could have carried all those murderous ways over the water with them directly to this place. ”という箇所など典型的であるけれども、ねずみと病原菌とノミの比喩——災厄のイメージ——で警戒をし敵対心を抱くのだが、そのような感情のなかには、夫であるMr. Shortleyの仕事が、機械の操作に長けて働きものでありMrs. Mclntyreからも高く評価されているポーランド人によって奪われるのではないかとアレもある。だから読者は、最初、ポーランド人に災厄のイメージを重ねるMrs. Shortleyこそがあやまっていると考えるだろう。ポーランド人は実際、めがねをかけた外部からの闖入者という表象をとってこそいるものの、たとえばMisfitやPowellのように邪悪なイメージは一切ともなっていないし、Mrs. Mclntyreの土地で好き勝手するわけでもない(むしろ好き勝手しているのは、仕事中に煙草を吸ったり、領地中で密造酒を作っているMr. Shortleyeのほうだ)。さらに展開が進むにつれて、Mrs. Shortleyの精神状況はあやうくなっていき、幻覚を見たり、突飛な行動に出たりするようになっていく。そして彼女の命令(啓示)に従い、一家は仕事もなにもかもほっぽり捨ててMrs. Mclntyreの領地を脱出するのだが、脱出した先でみずからもまたDisplaced personになったことを知る(さらにMrs. Shortleyは死ぬ)。
 ここで終わっていても十分成立しているし、他のオコナー作品に対する批評性を有したものになっているとも思うのだが、この作品はここまでを第一部とする。第二部以降、語りはようやく女主人であるMrs. Mclntyreに沿いはじめる。と同時に、ポーランド人がめがねをかけた人物として造形されている理由もあきらかになる。ポーランド人は三年間にわたって故国のcampを転々として生活している16歳のcousinを同じ農地で働いている黒人の男と結婚させるつもりでいる、そうすることで彼女を安全な合衆国に呼び寄せるつもりでいることがあきらかになるのだ。Mrs. Mclntyreはこれにブチギレる。16歳のいたいけな白人の少女を下働きの黒人と結婚させるなんてことはこの地では絶対に許されないのだと、相手の計画をほとんど悪魔の所業のようにみなしはじめる。つまり、ここでようやく、持つもの=世俗化したキリスト教道徳の権化である女主人と、持たざるをもの=外部からの闖入者=災厄というおなじみの構図が成立する。従来通りであれば、女主人がこの災厄のせいで破滅とともにある種の恩寵を見出すことになるという展開が予想される。そして実際、この小説はそのような結末を迎えもするのだが、その結末にいたる進行の仕方にもうひとひねりある。妻を失ったMr. Shortleyが復讐のために領地に戻ってきて、ポーランド人を殺害するのだ(ポーランド人=災厄の死という展開はほかのオコナーの作品には認められない)。復讐を果たしたMr. Shortleyはずらかるし、農場の主戦力であったポーランド人は死んでしまうし、その結果として、女主人であるMrs. Mclntyreは農場の経営にいきづまってしまい、すべてを手放してひっそりと余生を過ごすことになる。つまり、彼女はここでみずからがポーランド人やMrs. Shortleyとおなじdisplaced personとなり、持たざるをものとなり、その位置を理解するという恩寵を得ることになる(そしてその余生に最後まで付き添うのが、ポーランド人を農場に紹介した、終盤では彼女と敵対関係にあった神父であるという点も興味深い)。
 こうして他の諸作と比較する構図だけ書き出してみても十分おもしろいのだが、これにくわえて、この中編には隠喩の結節点になりうる重要な細部を非常に多く見出すことができる。Mrs. Mclntyreの結婚履歴、亡き夫の墓石のエピソード、働き者のポーランド人を得たことに感激して漏らす“That man is my salvation!”というセリフ(これは彼女の想定していたのとは別の論理である意味その通りであるのだが)、そのセリフに対してMrs. Shortleyが漏らす“I would suspicion salvation got from the devil”というセリフ、そしてまたMrs. Mclntyreの亡き夫——その名はJudge——がよく口にしていたという“the devil he know is better than the devil he don’t”というセリフのつながり。あるいは、“That man is my salvation!”というあさはかな感嘆が、“The truth was that he was not very real to her yet. He was a kind of miracle that she had seen happen and that she talked about but that she still didn’t believe.”という認識に変容する経緯。また、第二部がはじまってほどなく不在のMrs. Shortleyにかわって予言者の役目をになう黒人が口にする“We ain’t never had one like him before is all”という不吉な言葉。ポーランド人に対するMrs. Mclntyreの認識が完全にうらがえって以降あらためて描写されるポーランド人のめがねのディテール(his gold-rimmed spectacles that had been mended over the nose with haywire)。亡き夫の墓石に彫られたcherubimとMrs. Mclntyreの浮かべるcherubic faceの共鳴。Mrs. Mclntyreが神父に対して口にする“As far as I’m concerned, Christ was just another D.P.”という終盤の強烈な隠喩。“people who came from nowhere and were going nowhere, who didn’t want anything but an automobile”や“all they want is a car”というくだりの“The Life You Save May Be Your Own”との共通点、またそのautomobileのありかたをShe had never discharged any one before; they had all left her(Mrs. Mclntyreが農場で働く人間をクビにしたことはなく、ただ労働者らのほうがいつも彼女を置いて(車で)去っていくのだという認識)というくだりと結びつけることで見えてくるautomobileの象徴性。あるいはMr. Shortleyが亡き妻の言葉として語った“There’d be a heap less trouble if everybody only knew his own language. My wife said knowing two languages was like having eyes in the back of your head”というバベルの神話に真っ向から反対するこのセリフ(旧約のエピソードに対するこのほとんど涜神的な解釈は、ユダヤ人と重ね合わせられているdisplaced personに対して次々と反感を抱いていくover hereのひとびとの解釈と共鳴する)。
 この小説はたぶんオコナーの作品のなかでもかなり重要だと思う。オコナーが自身の手癖を自覚した上で、そのさらに向こうに突破しようとしたもの(成功しているといえるかどうかは微妙だが)。そのために短編ではなく中編というボリュームと三部構成という形式が要請された。いや、もしかしたらこの作品のほうがほかの作品よりもはやく書かれたものであるかもしれんわけだが。まあそんな細かい話はどうでもええわ。
 A Good Man Is Hard To Find(Flannery O’Connor)を読みおえたので、次のEverything That Rises Must Convergeにとりかかる前に、『わたしは真悟』(楳図かずお)をここらで再読しておくことにした。そういうわけでとりあえず第1巻から。一日一冊くらいのペースで読んでいくかな。