20230116

 《アヴィニヨンの娘たち》を描いた二五歳の若きピカソがつかんだ根本的問題はここにある。奥行きの肉体性が断裂し、配置の記号性へと圧縮・転換されるとき、画面は観者の視線を着床させる深き褥であることを止め、見ることの統一性そのものを離散的諸要素の強度的関係によって問題化するタブロー=テーブルの表面へと変貌する。「しゃがむ女」の顔はそこで、見る欲望の対象でも、見られる脅威の源泉でもなく、自らを裂き開くことで絵画面の全域を強度化する形象として現われる。
 《アヴィニヨンの娘たち》はあきらかに画面左から右へと描きすすめられている。その横断の過程で、視線の虚焦点構造から配置の反光学へ、肉体の連続性から記号の非連続性への転換の瞬間を徴づけることにおいて、画面は過度に複雑な過渡性を帯びている。
平倉圭『かたちは思考する 芸術制作の分析』より「第2章 斬首、テーブル、反光学」よりp.77)



 11時起床。ひさしぶりに夢を見た。(…)といっしょに実家の玄関にいる。けっこうでかめの、梅干しを漬けておくような透明の瓶の中に、石だのなんだのを詰め込み七分ほど埋める。埋めたところで、川で捕まえてきたものらしいモクズガニをその中に放すのだが、当然かなり窮屈で、瓶ひとつにつき一匹しか飼育することができない。もともとの計画では、母の手入れしている植物やこちらの世話しているめだかの鉢などと一緒に、モクズガニの入った瓶も玄関に設置するつもりだったようなのだが、さすがにこれではダメかということで、子ども用のビニールプールくらいの大きさがある、プラスチックの洗面器みたいな容器で飼育することにするが、当然玄関に設置すると見栄えは悪くなる。その容器が置いてある車庫のほうにまわると、野菜の世話をしている母が、案の定ちょっと嫌そうな顔で、それでカニ飼うんかん? とたずねる。
 飛躍も切断もない、きわめて常識的な夢を見るのなんて、いったい何年ぶりだろう? 現実の論理に最初から最後まで即している、そんな夢を見るなんてかなりレアでは? 歯磨きをしながらスマホでニュースをチェック。食パンを切らしていたので(きのう買い出しに行くはずだったのだが、あまりの寒さに外出をあきらめた)、代わりに(…)一家にもらった麺を半束茹でて食った。
 食後のコーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書く。覚悟はしていたが、ずいぶん長くなる。ひとつ書き忘れていたが、Flannery O’Connorの“The Displaced Person”のなかに、あきらかに文脈に即していない場所に置かれている動詞singがあり、なんだこれと思って調べてみたところ、singには「密告する」「チクる」という意味があることをはじめて知ったのだった——で、思ったのだが、日本語でもヤクザ界隈がよく同様の意味で「うたう」といったりするけど(「こちらは(自分自身の罪を)白状する」という意味でも使われるようだが)、もしかして語源って英語のsingだったりするのだろうか?
 16時半になったところでようやく一区切りついたので、自転車に乗って(…)へ。食パン三袋を購入。あと、見かけはメロンパンであるのだが、説明書きによればパイナップル味だという謎の菓子パンがあったので、それもついでに購入してみることに。別にパイナップルのことを特別好きというわけではないのだが、人生にはこういうクソしょうもない冒険がちょいちょい必要なのだ。
 帰宅。しかし今日も寒い。暖房つけっぱなしの部屋にいても手足の先などキンキンに冷える。きのう(…)先生にもらった練り物を適当なサイズにカットし、野菜と一緒にタジン鍋に並べる。けっこうな分量になったので米はもう炊かない。三日分はありますねと言って受けとったおかずだったが、結局、きのうと今日の夕飯二食で食い尽くしてしまった。アホや。こういう無計画な馬鹿が山で遭難した初日に手持ちのチョコレートをすべて食い尽くしてしまうんだよな。

 ベッドに移動する。『わたしは真悟』(楳図かずお)の続きを読む。第2巻も読み終えてしまう。やはり食後の仮眠タイムをいざなうためには漫画ではダメなのだ、漫画であると全然眠くならない。
 第1巻を読んでまず印象に残ったのは、さとるが色恋沙汰に疎いという描写が序盤でさんざん重ねられている点で、『わたしは真悟』を読むのはこれで三度目か四度目のはずなのだが、こういう導入だったんだといまさらながら思った。あとは1巻はやっぱり笑いどころが多くて、たとえば22ページで、クラスメイトから「夕方ヌーのとこ行って、窓からこっそり部屋の中のぞいてみなー、わかるから!」と言われたさとるが、数コマはさんで、「ヌーんち……」「時間は夕がた…」といいながら民家の外観を指差し、続くコマで「そして、ここは窓……」といいながらその民家の窓をやはり指差し確認し、その後「のぞく……」といいながら外塀によじのぼってその窓をのぞくというふるまいの、なんやその説明口調! と、書いていて思ったのだが、しかしここはモンロー(真悟)による機械的認知プロセスをまるで先取りするような——という戯言はどうでもいい。あとは63ページの、ヤケ酒をあおってぶっ倒れた父親の口からロボットの話をきいたさとるがなぜかいきなりアヘ顔をし(一コマ)、同じアヘ顔のまま「やっぱりすごいロボットなんだ!!」「す、すごいっ!!」と口にし(二コマ)、またアヘ顔のまま黙り込む(三コマ)の流れ、ここは読むたびに毎回爆笑してしまう。なんだこのリズム、なんだこのモンタージュは、と。これ笑わずにおれる人間存在するんか?
 しかし同じリズムの狂い、モンタージュの狂いでも、たとえば社会科見学でロボットのいる工場にやってきたさとるたちがモンローにはじめて対面したあと、モンローが子どもたちの前で絵を描いてみせたというエピソードが、モンロー——というよりもこの場合は真悟か——による懐古的なモノローグで語られる103ページ、「一九八二年の……」というモノローグとともに森なのか山なのか煙なのか核兵器の爆煙なのかよくわからない模様とともに語られる小さなコマ、「初夏のある日のことだったと聞きました……」というモノローグにほぼ同様の背景が重ねられている先よりも微妙に大きなコマ、「窓の外には緑の木の葉が無心に……」というモノローグとともにとそこから射し込む日差しが描かれる先の二コマを足したサイズのコマときて、次の一ページを丸ごと使って同じ窓と日差しとともに「そよいでいたということでした……」とモノローグが結ばれる一連のくだりなど、ちょっと尋常でない正体不明の凄みがあるし、窓とそこから挿し込む日差しというモチーフはその後ほどなく、クラスメイトのヌーにまりんのことを語るさとる(「見学生徒の列の最後に……」「美しい人が……」「一人……」「いただろ…………」)の背後にふたたびあらわれる。
 あとは、モンローのパターン認識の描写(ドット絵のように表象されるさとるとまりんがすばらしい)や、一度すべての記憶を失ってしまったモンローをさとるがふたたびティーチング(現実を象徴化する〈知〉の伝達)しなおすというくだりは、どうしたって精神分析的に読みたくなる。
 しかし、さとるって、特にこのきらきらして黒目がちな瞳がそう思わせるのだが、だれかに似ている、絶対に見覚えがあるぞと、読み進めながら何度も何度も重ねて感じていたのだが、135ページ一コマ目の、教師がさとるの作文を音読しているようすを見守っているさとるのアップショットでわかった、(…)時代の同僚の(…)くんだ。いっぺんそう思ったら別人に見えへん! クソ似とる! あいつLINEのアイコンこれにしたほうがええわ!
 第2巻についても続けて書く。まず、風邪をひいたさとる(突然サルというあだ名がついている)のところにまりん(突然キリンというあだ名がついている)がお見舞いにやってくる80ページから81ページにかけて。団地の共同階段に腰かけているしずかに「さとるくんのおうち、こっちかしら!?」とたずねるまりんに対して、しずかが「ちがうわ!!」と嘘をつくくだりがあるのだが、これ、通常の物語の文法に即して考えれば、ふたりの恋路を邪魔する人物としてここではじめて登場したしずかのこの嘘によって、さとるとまりんがなんらかのかたちですれちがいを演じなければならないはずであるのに、先の「ちがうわ!!」に対してまりんは「そう……」「でも、確かめてみよう…」といいながら先に進み、やすやすとさとるとの再会を果たしてしまう。ここもすごい。普通こうはならないだろうとびっくりする(こちらのパターン認識を派手な仕掛けなしですんなりと越えていく!)。あと、この後さとるの寝込んでいる部屋に入ったまりんの様子を、しずかがベランダからのぞく場面で、網戸越しのふたりのようすが、モンロー(真悟)の視覚を表象したドット絵と近いテイストで描かれているのも興味深い(さらにいえば、そのようにドット絵もどきとして表象されるふたりは、外からはちょうど唇もしくは体を重ねているようにみえるし——しずかは実際そう誤解する——、そこから連想をもうすこし自由に飛躍させてやると、その姿はモザイクによって禁止ないしは抑圧されている映像のようでもある)。
 あとは、夏休み明けにさとる以外のクラスメイト全員が大きくなっている——にきびができているクラスメイトもいる——という露骨に象徴的なエピソードはやっぱり無視できないし、そのようにして子どもでありつづけるそのさとるが、母親から「それに子供まで恋愛ごっこをするようになるなんて!!」と叱られたり(まりんも同様の叱責を自身の母親から受ける)、近所でうわさをされたりしつつも、しかしほかのだれよりも——たとえば、1巻のヌーよりも——はるかに深刻に恋愛をしているようにみえる点も、けっこうでかいフックなのでおおざっぱな解釈をほどこすのはひとまずひかえておきたいのだが、やはり見逃せない。
 ちなみに、ここでさとるを叱責した母親が、さとるの大切にしていたノート——まりんからの最後の手紙に記されている暗号を解読するために必要なもの——について、「ふん!! ノートなんか焼却炉でゴミと一緒に燃やしたわ!!」「今頃は、ケムリになって空の上だわよ、知らないわ!!」と口にしたコマに続く次のページで、火山の噴火のような、核兵器の実験後のような、まがまがしい煙とも雲ともつかないものがたちこめるなかを斜めに突っ切る飛行機——そこにはイギリスに越すまりんが乗っていると想像される——を見開きで描いたのち、その煙とも雲ともつかないものを煙突のてっぺんから吐き出す焼却炉の下部をのぞきこむさとるの姿を描くコマが続く、このコマ運びには痺れた。マジでクソかっこいい。
 それと、回路にまぎれこんだゴミひとつでモンローが暴走したのを受けて、そのモンローを有する豊工業がゴミの入らないように部外者の出入りを禁止することを決めたという話を受け付けのおっさんからきいたさとるが、「ゴミってまさか……」「ぼくのこと…!?」と驚くくだりも、モンローが真悟として生まれなおす(暴走する)きっかけがさとるによるティーチングであることを踏まえて考えると、まったくもって正しいことになるという点も気になったし(ゴミ=事物を一変せしめる偶然性=さとる)、まりんの家をおとずれて彼女がすでに引越ししてしまったことを知ったさとるがショックを受ける描写の、なぜか背景として宇宙が出現し、さとるの顔が回転するように描写されるところも意味不明すぎて印象に残った(これがごくごく単純に混乱やパニックの表象だとすれば、その表象の突拍子のなさによって読者を別種の混乱とパニックに陥れているという意味で、ある意味めちゃくちゃ成功している)。

 20時になったところでベッドを抜け出す。コーヒーを淹れ、2022年1月16日づけの記事を読み返す。今日づけの記事を途中まで書く。それから授業準備。日語会話(二)の第10課+第11課。基礎練習を削り、ゲームテイストの応用問題を増設。第10課で位置の表現、第11課で助数詞を学べば、応用問題としてお絵かきゲームができる。たぶんけっこう盛りあがるはず。
 21時過ぎに作業をいったん中断し、浴室でシャワーを浴びる。あがったところでストレッチ。今日は本来ジョギングの日であるが、めんどうくさいのでパスしてしまった。しかし運動はやはり毎日なにかひとつやらないといけない。そうでないとまたすぐに首や背中や腰にダメージがきて書き物ができなくなってしまう。デスクワークはデスクワークで肉体労働。書き続け読み続けるためにこそストレッチと筋トレは必要。
 (…)一家にもらった麺を茹でて食す。今日づけの記事の続きをまた書く。作業中は『NO NUKES 2012』(Yellow Magic Orchestra)を流す。これ、ライブ映像がYouTubeに数本あがっているのをときどき流したりしていたのだが、音源としてリリースされていることは今日にいたるまで知らなかった。ほか、『LONDONYMO -YELLOW MAGIC ORCHESTRA LIVE IN LONDON 15/6 08-』や『GIJÓNYMO -YELLOW MAGIC ORCHESTRA LIVE IN GIJÓN 19/6 08-』もダウンロードする。この二枚にはHASやSKETCH SHOWの楽曲も含まれているらしく、そんなライブアルバムがリリースされていることもやっぱり全然知らなかった、もっとはやく知りたかった。YMOの散解前の音源はあんまり好きになれないというか、音にどうしても時代を感じてしまってうーんとなるのだが、再結成以降の、楽器や電子機器もろもろがアップデートされたあとの演奏はやはりいいなと思うことが多い(小山田圭吾を筆頭にサポートに入っている面々もかなりいい。
 歯磨きをしながらジャンプ+の更新をチェック。1時になったところでベッドに移動。『わたしは真悟』(楳図かずお)の続き。第3巻と第4巻読む。まず第3巻。両親の離婚危機にまったく興味をもたず、モンローに会いにいけるということにあたまがいっぱいになるさとる(16ページ)。「その頃わたしはなんにも知らなくて……」「思えば……」「しあわせだった……!!」というモンローのモノローグに続き、さとるとまりんがそのモンローに「ひらがな」と「カタカナ」あるいは「さとるとまりんのデーター」など「わたしにそぐわないものばかり」教えたというくだりのラカン派的構図(象徴秩序への参入とともに享楽(しあわせ)を喪失する)。60ページから62ページにかけてのまりんが口にする台詞とコマ割り「今度つかまったら、わたし達もうほんとの最後よ!!」(右ページ下段・中サイズ・マリンのアップ)→「もう……会えないわ!!」(左ページ上段・中サイズ・まりんさらにアップ)→「おとなになるまで!!」(左ページ中段・中サイズ・まりんの目元にアップ)→「もう、会えないわッ!!」(左ページ下段・大サイズ・向かい合うまりんとさとるのほぼ全身)→「もう、子供の時のわたし達には会えないわ!!」(見開き・向かい合うふたりの上半身)のすごみ。
 また、子供の時間に対する同様のこだわりとして98ページのまりんが口にする「わたし達には、今しかないんだもの!!」「わたし達が子供でいられる時間は、ちょっとだけなのよ!!」「すぐに無くなるわ!!」と、ひるがえって思い返される第2巻の夏休み明けにクラスメイトらが成長するなかひとり身体のサイズが変わらないさとるの姿との共鳴。さらに、東京タワーの上からさとるとそろって夜景をながめるまりんの「わたし達……もしかしたら……」「一生のうち、今が……」「いちばんしあわせなのかもしれないわ!!」(167-168)という台詞と「大人なんて、みんなちがう生きものになっちゃうのさ、きっと……」「だって、ぼく達が大人だったら、たぶんこんな所へは来なかったはずだろ!?」(169)というさとるの台詞、あるいはその反復ともいうべき「わたし…今……」「とてもしあわせ……!」「こんなこと子供だからできるのね!!」という192ページのまりんの台詞。とにかくふたりして子どもであること(そして残された時間は少ないこと)、かつ、「子供が子供をつくる」「わたし達用」の方法がひたすら強調されている。ベタに読めば、夏休み明けにクラスメイトの身体がでかくなっていたり、顔ににきびができたりしていたのは、彼らが第二次性徴を迎えたということであり、しかるがゆえに大人であり、大人として子供を作ることももはやできるのだが、身体のサイズが変わらないままであるさとるとまりんはそうでないということなのだろう。だから、さとるは(大人が)子供を作る方法を知らないし、クラスメイトから聞きかじっている様子のまりんもそれが正しい方法だとは思わない。とりあえずここまではわかりやすいくらい筋が通っている。モンローがふたりが子供を作る方法として「333ノ/テッペンカラ/トビウツレ」という答えを出したのも、その後の展開(子供=真悟の誕生)を踏まえて考えると、風が吹けば桶屋が儲かる式のシミュレーションの結果であったとも、あるいは「わたしにそぐわないもの」=データー=ゴミのインプットにより生じたバグにひとしい答えがもたらした偶然(奇跡)であったともいえる。しかしまりんがモンローにどうすれば子供を作ることができるかたずねたあとのページで(122)、マリリン・モンローのバストショットとクローズアップの二コマで一ページまるまる占拠するあまりに不気味な挿入、あれはなかなかすさまじい。なんなんだろうなこれは、と思う。
 第4巻。真悟が意識を持つようになる。まりんは「とうとう、子供はうまれなかったわね……どこにも!」(39)といってさとると別れるが、実際には、ふたりのデーターを基礎とする真悟が生まれている。それが「奇跡は誰にでも一度おきる/だがおきたことには誰も気がつかない」の意味なのかもしれないが、このエピグラフをこんな簡単なかたちで回収してしまうのは読みの筋的にもかなりもったいない気がする。また、意識を有するにいたったモンローすなわち真悟が、さとると唯一の対面をはたした場面にて、「?コドモハドコニイルカ」とたずねる相手に対して「アイガハヤルト………ガチカイ」という謎めいた返事をするところも、クソでかいフックがまた仕掛けられているぞという印象。
 「わたしは意識を持った時から……こわされる運命にあったと言います……」という61ページの真悟によるモノローグはそのまま人間の条件。136ページで夕焼けをながめながら「イギリスも今頃は夕方かな………」とつぶやくさとるに続き、138ページで早朝のイギリスにいるまりんが「日本も今頃朝かしら!?」とつぶやく流れは、なんかちょっとオシャレな、らしくないつなぎかたをしているなと思った(しかし時差の存在を知らないさとるに対して、まりんはここでみずから時差の存在を思い出し前言撤回するのだが、こういうところを見るかぎり、子供の作り方に対する知識も含めて、さとるよりもやはりまりんのほうがずっと大人に近い——残された時間は少ない——存在として描かれているようだ)。
 あと、ロビンが作中にはじめて登場してわずか数コマ目で、まりんのほうを見て「ゴクン」とのどを鳴らすところは今回もクソ笑った(毎回爆笑する)。しかし彼のアプローチきっかけで記憶喪失を起こし、まりんはおたがいに忘れようと誓い合ったさとるのことを本当に忘れる。ここもポイントとしてやっぱりでかい。第1巻で一度記憶をすべて失った——そしてその後さとるによってふたたびティーチングされた——モンローを、ここでまりんが反復しているとも考えられるし(しかしこのまりんが記憶を喪失する場面の、暗闇のなかでガラス片がふりそそぐ、無音かつスローモーションな演出はすごいな)。さらにはこの記憶喪失を、退行や成熟の拒否、大人になる時間を遅らせようとする無意識の防衛と読むこともできなくはないか。