20230119

 写真には工事の過程が、予測不可能性を孕んだまま写し出されている。予測できないのは次のことだ。——大地は動く。複数の時間的スケールで。断層運動、地盤の膨張、突然の崩落、地下水の噴出。坑夫たちは、掘ることで大地の複数の時間と接触しながら、それらを貫通していく。トンネルを掘ることは、複数の時間で動き続ける大地の内部に、一貫した時間と空間を得ようとすることだ。そこにおいて物と技術と人の身体がせめぎあう。写真はそのせめぎあいを、内側から記録している。
平倉圭『かたちは思考する 芸術制作の分析』より「第6章 断層帯を貫く」 p.137)



 11時起床。春節は明日(20日)だと思っていたが、そうではなかった、22日だ。となるともう一度それまでのタイミングで買い出しにいく必要があるかもしれない。

 きのうづけの記事の続きを書く。空気が乾燥しているせいだと思うが、朝からずっと喉が痛い。もしかしたらコロナかもしれないと考えるが、風邪で喉が痛いときと空気の乾燥のせいで喉が痛いときとは、痛みの質が微妙に異なるので、たぶん乾燥のせいだと思う。フロアにほこりが目立ちはじめていたので、掃除機をかける。前回喉が痛んだときも、やはり掃除をしたりシーツを洗ったりしたのだった。
 記事を投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年1月19日づけの記事を読み返す。それからキッチンに立って夕飯の支度。米を炊き、豚肉と長ネギとトマトとパクチーをカットしてタジン鍋にぶちこむ。こしらえたものを食いはじめたタイミングで母からLINE。ビデオ通話。また姪っ子らが来ているのかなと思ったが、そうではなかった、(…)13歳の誕生日だった。誕生日プレゼントとして買ったというささみのお菓子か何かを食べるところをこちらに見せようというわけだった。動画でみるかぎり、(…)はまだまだ元気そうだった。足腰だけずいぶん弱ってきたので、獣医の助言を受けてサプリの量を一日三つに増やしたところ、ぐんぐんもちなおしてきたとのこと。散歩にもちゃんと行くし、ボール遊びもするし、バスタオルでの引っ張り合いも毎日のようにもとめるらしい。帰国は七月ごろかというので、例年どおりであればそうだったと思うと受けると、今生の別れといっておきながら再会できそうだなという。たしかにいまの(…)のようすを見ているかぎり、事故でもないかぎり七月までは全然元気でいそうだ。(…)のところの(…)も元気らしいが、あっちはすでに余命宣告を受けてから二年近く生き続けている(レアなケースとして学会で発表させてほしいみたいなことを獣医も言っている)。(…)については、今週か来週か、あらためて病院で検査を受けるのか、あるいはすでに受けた検査の結果をもとに診察があるかするという。(…)はもう9歳であるし、病気や死という概念も当然理解しているので、前回入院したときの話だと思うが、医者と兄夫婦が話をしているのをそばで聞いていたとき、わたし——という一人称を最近使うようになったらしい——ガンなん? とたずねる一幕もあったらしい。その場面を想像すると、ちょっと胸がしんどくなる。
 (…)さんからもひさしぶりに微信があった。(…)四年生6人がインターンシップで鹿児島に向かうという件についての確認。詳細はこちらも知らないが、複数の学生が日本に渡るのは確実であると受ける。関西のほうに遊びにくることがあればぜひ会いたいというので、学生らも喜ぶと思うしチャンスがあれば会ってやってくださいとお願いする。それからまだ発送しそびれている荷物について、この一ヶ月、状況の急激な転換に次ぐ転換のために、とうとう郵便局に出向くことのできないまま冬休みに入ってしまった、申し訳ないと謝罪する。来学期の発送でも問題ないとのこと。
 さらに(…)から電話がある。またパソコンかなと思って出たが、そうではなかった、食事会の誘いだった。明日の夕飯をいっしょにうちでとろう、と。めんどくさいが、前々から(…)が香菜料理をきっと作ってあげるうんぬんと言ってくれていたわけであるし、ここで下手に断ったら後日その埋め合わせとしてより大人数の宴席にまねかれる可能性もなくはないので、おとなしく了承。こちらは対人コミュニケーションを苦手とするタイプではない——というよりむしろ、コミュニケーション能力が高すぎると周囲から評されるタイプであるのだが、社交が得意であるからといって社交が好きであるとはかぎらない。好きであることと得意であることとのあいだに致命的なギャップがあることを世に喜劇という。夕飯は17時半開始らしいが、そのちょっと前に来てもらってもかまわないというので、じゃあ17時ごろに訪問するよと受ける。手ぶらでいくのもなんであるし、(…)でパンを買うついでにケーキでも買っていこうかなと思ったのだが、(…)は食事にかなり気をつかっていそうな感じであるし、添加物だらけのケーキなんて嫌がるかもしれない。ま、ショートケーキ的なものを三つ買っていって、食べないのであれば友人にでもあげてやってくれと伝えればいいか。あとは(…)に红包として日本の千円札を一枚入れたやつをプレゼントすれば、たぶんよろこんでくれるはず(去年おなじ红包をあげた(…)はテンションぶちあがりだったと(…)先生から聞いている)。
 ベッドに移動する。『わたしは真悟』(楳図かずお)の第7巻を読む。イギリスの日本人学校に通うまりんの同級生が、イギリスのラビット社の社員が乗る車によって襲撃される場面(9-11)。車のフロントがアップになるコマがさらっと挿入されているのだが、車=機械であることを踏まえて考えると、その後もさんざんなぞりなおされ強化される日本人=機械(好き)という安直かつ単純な図式——83ページでは「日英タイムス」という新聞の見出しに「キカイを嫌うイギリス人」の文字があったり、86ページにはまりんの母親がジャパンバッシングにからめて「日本人はキカイと仲がよすぎるなんて言われるのに」と口にする——に対する予防線がここで張られているものと読むこともできる(と同時に、機械と憎悪を結びつける線も強化されている)。
 ねずみが真悟を襲うシーン(33)。ねずみはここでは真悟を生物として認識している。それを補強するように、74ページの「キカイの抜け殻」という台詞があったり、あるいはその話のタイトル「脱皮」があったりする。そして続くページでは、真悟がはじめてさとるとまりんの写真に向けて(「さとる」や「まりん」ではなく)「お父さん」「お母さん」と呼びかけている。この呼びかけの変化はちょっと気になる。
 真悟がさとるとまりんの写真を祭壇のように飾り立てている場面(48)がある話は「偶像」というタイトルをつけられているが、仏壇に飾られている死者の写真のようにもみえる(さとるとまりんを死者というステータスに位置付けて読む筋をここで補強することもできるだろう)。 
 黒ずくめの男たちの正体については、132ページで暴走族「針の目」のメンバーが日本人の写真を指差しながら「見ろ、この目つきの悪い日本人を!!」「目がひきつってる!!」「こいつは人類のインベーダーだぜ!」「いまに世界はこいつに侵略されてしまうぜ!!」と言うコマに続けて、同じ目を黒ずくめのシルエットのなかで光らせている描写が続くので、日本人であると読むのが妥当な筋であるのだろう。さらに「毒のキカイ」を作るようなプログラムをブラックボックスとして仕込んだのも彼らであるとするならば、黒ずくめの男たちは、ジャパンバッシングの被害者である日本人とペアをなす加害者としての日本人の表象ということになる(事実、ロビンは第6巻の220ページで日本企業が「オモチャだけでなく、武器まで売っているといううわさじゃないですか」と口にする)。で、その筋をさらに飛躍させるかたちで、「針の目」のメンバーが虹を発生させる毒のキカイについて口にする「こいつを持っていると、だんだん怖いことなんかなくなってくる感じがするんだ!!」という台詞や、タケシが真悟によって(頭上に虹が出現することにより)パッパラパーにされたあと固有の自意識を失っているようにみえたくだりなどをあわせて考えると、真悟のいう毒とはひとびとの意識を全体主義的に自失させるもの——と、書いてみたものの、さすがにそれはちょっと無理があるか。憎悪、ナショナリズム(排外主義と全体主義)、(世界を終わらせるものとしての)核兵器——そういったモチーフが、終末論的世界観のなかで展開されていくのが、まりんのイギリスパートであるとざっくり整理することもできるのだろうが、それだけでは凡庸にすぎるんだよなァ。そんなわかりやすい構図にはおさまりきらない過剰な要素が、毒のキカイや黒ずくめの男たちの定めがたさをはじめとするさまざまな細部で爆発している、そういう印象をとりあえず受ける。美紀登場以前の、すべての謎がすべての意味(答え)に簡単に還元されうる様相を、仮に(指し示すものと指し示されるものが一対一で対応する)記号的な世界観であるとすると、それ以降の、謎が謎のまま宙吊りの状態でほかの謎とその都度関係を結び、意味(隠喩)のための余白を拡大し続ける展開は、まさしく言語的な世界観であるから、真悟の機械から人間へという進化の道筋にともない、『わたしは真悟』という作品における意味の体系自体もそれに並走して(記号から言語へ)変容しているというふうにいうことも、これもまあおおざっぱといえばおおざっぱな見立てであるが、いちおうはできるかもしれない。
 その真悟の進化(成長)について。「そこに意識はなかったといいます」と語られるコンピューターは「ただの四角」であるのに対し、「すべてのコンピューターにつなが」ったあとの真悟は「三角になった」とされる。ちょっと気になるのは、意識のないコンピューターを四角であると語る真悟自体、すでに意識をもつ存在としてそれまでさんざん描写されているにもかかわらずその目は四角として表象されており、すべてのコンピューターとつながってはじめて三角になるとされている点(三角といえば、やはり第5巻の145ページの、親子の三角形をどうしても想起せずにはいられないわけだが)。ここについては、三角になったあとの真悟の台詞「わたしが組み立てた毒のおもちゃが、世界にばらまかれる!!」「わ、わたしだったのだ!!」「毒のおもちゃを組み立てたのは…!!」「わたしの組み立てたおもちゃで!」「まりんが!!」が興味深い。たとえば、三角になることを意識を持つこととして読んだ場合、真悟はここで意識を有することによってはじめて(意識を有する以前の)罪を自覚したということになるのであり、これを物語が展開するにつれて濃厚になっていく神学的モチーフ群を先取りする「原罪」と重ねることも可能だろう。
 というか、いま書いていて気づいたのだが、三角になる前に真悟が接触したのは宇宙空間にある通信衛星なわけで、通信衛星は当然地球上にいる真悟を俯瞰する位置にある、だから真悟はここではじめてみずから(の来歴)を俯瞰するそのようなパースペクティヴを得たというふうに読んだほうがいいのかもしれない。あとは三角になることではじめて、意識だけではない、人間を人間たらしめる原罪のほかに、無意識や欲望あるいは享楽も生じたという読み筋に即して解釈することもいろいろできるかもしれないと思ったのだが、これは検討するのに時間がかかりそうなのでパス。精読しとる暇はあらへん。
 ところで、「なぜ、わたしは毒のおもちゃを組み立てたのでしょう?」のあと、三度の「なぜ」に続けて、真悟は「マリン!! イマモキミヲ、アイシテイマス!!」(とカタカナで表記される)さとるの「ゆいごん」を唱える。そして「なんとすばらしいことばだろう……」「このことばを唱えると、苦しみも消える……」という言葉とともに、「さとるのことばを持って、まりんのところへ行きます」と活動を再開するのだが、これは第5巻の、たっちゃんの死を理解できず「ナゼ」と疑問を抱いてフリーズしてしまう真悟が、「まりん/ぼくはいまも/きみを/あいしています」と記された紙をしずかにみせられた途端にそのフリーズ(疑問)をひとまず解除して動きはじめる展開の反復だろう。真悟は「なぜ」でフリーズするたびに、しずかのいうところの「ゆいごん」であり、真悟がのちほどいうところの「呪文」であり、また第6巻で真悟がそれをまりんに伝えることが「生まれてきた目的」だったとする言葉によって、「なぜ」——その疑問の究極は「死」という現象に向けられるものだ——をその都度括弧に入れる(目をそむける)ことができる(あるいは、フリーズを余儀なくするフレーム問題をキャンセルすることができる)。
 しかしこの言葉をどう位置づけるのかもかなりむずかしい。これこそが真悟の欲望と読む筋も当然あるのだろうが、そもそもこの言葉はさとるによってインプットされた言葉であり、真悟に外挿された基底プログラムでしかないともいえるわけであるし、うーん、やはり仮構された生の意味として読んだほうがいいのだろうか。真悟にとっての物語であり、ファンタスムである、それがこの「マリン!! イマモキミヲ、アイシテイマス!!」という言葉であり、その言葉をまりんに届けることであるのだ、と。たとえば、宗教などを例にとればわかりやすいが、物語とはあらゆる「なぜ」に対する回答、あるいは「なぜ」に対する目の逸らし方の技法であるわけだし(ヒトの実存的フレーム問題を解決する知の集結としての宗教)。あと、いま書いていて気づいたのだが、しずかの持っていた「ゆいごん」には、「まりん/ぼくはいまも/きみを/あいしています」と「ぼく」という一人称すなわちさとるが残っているのだが、真悟がここでとなえる言葉には「マリン!! イマモキミヲ、アイシテイマス!!」と一人称が抜けているんだな。うーん、これも取りようによってはクソデカいフックだ。まいったな、マジで。
 場面がふたたびイギリスのまりんのところにもどる。ロビンによって地下室に幽閉されたまりんが、その暗闇をきっかけに記憶(さとるとの思い出)を取り戻す。この、地下室への幽閉という、抑圧の表象をきっかけに、むしろ抑圧されていた記憶がよみがえるというねじれが面白い。
 第7巻を読み終えたところでEverything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)の続き。ちょっとだけ読み進めたのち、20分の仮眠。
 起きたところで浴室へ。シャワーを浴びる。ストレッチをし、ヨーグルトを食い、コーヒーを淹れる。で、21時半から「実弾(仮)」第四稿執筆。0時過ぎまで。プラス12枚で計153/977枚。シーン11が無事片付く。シーン12はけっこうめんどうくさい箇所なので、まだ着手していないにもかかわらずすでに気が重い。
 (…)くんのブログに誕生日だと記されていたのを思い出し、あけおめ&誕生日おめでとう&春節おめでとうのLINEを送る。母からさきほどの通話で言い忘れていたことがあるとLINEが届いていたのだが、庭に植えたレモンを今日収穫したところ合計325個とれたとのこと。近所におすそわけした分も含めたら400個以上になるらしい。わけわからん。業者か?
 麺、茹でて食う。まずいウエハースも食う。歯磨きしながらジャンプ+の更新をチェックし、1時になったところでベッドに移動する。『わたしは真悟』(楳図かずお)の第8巻を読む。

 毒のキカイ(を改造した兵器?)により、建物が崩壊する。これでますます毒のキカイというものをどう捉えればいいのかわからなくなってしまう。え、爆弾だったの? と。とりあえず憎悪や暴力といったものを象徴するものであり、かつ、(真悟の)原罪が重ねられているものとしてあいまいに理解しておくしかない。
 54ページでロビンが病床にいる針の目のメンバーのところに向かう。そこで針の目のメンバーは、毒のキカイを拾ったロビンに対して「聞くが、黒い服の男の遺体はあったかい、そいつのそばに!?」「なかったろ、あるわけねえんだ!」「だってやつらは…」と言って気を失ってしまう(死んでしまう)。ここにきて、例の黒ずくめの男たちは、ますます超人間的なあるいは形而上学的な存在として位置づけられているようにみえる。最初はモンローにブラックボックスを仕掛けて毒のキカイを作らせた組織の人間として登場するのだが、まりんのいるイギリスに舞台が移ると同時に(加害者である)日本人という属性が前景化し、さらに人間を超越したなにかシンボリックな存在へと変貌を遂げる、と。
 59ページでまりんはロビンから地下シェルターの外は核戦争により全滅したと嘘をつかれる。それをきいたまりんがショックを受けるコマで、背景に核の雲らしきものがもくもくとたちこめて上昇するようすが描かれるのだが、このイメージが、序盤で登場した、空を飛ぶ飛行機の背景の雲であったり、さとるがのぞきこむ焼却炉の煙突からたちのぼる煙であったりと、ほぼうりふたつであるのも見逃せない(第一巻にも何気ないコマの背景にこのイメージが登場していたはずであるし、ことのはじめから核がテーマとしてあったのかもしれない)。
 地下シェルターに幽閉されたまりんを美紀とのペアで考える筋もあるかもしれない。天蓋付きベッドの内側に隠されている美紀に対して、地下シェルターの内側に幽閉されているまりん。両親の想像の中でしか存在しない美紀(しずかの目撃談はここでも無視!)に対して、核戦争によって滅んだ世界という自分の想像した世界を生きるまりん。あるいは、両親(他者=世界)によってその存在を担保されている美紀と、その他者=世界をみずからに吹き込まれた嘘(=ティーチング)にもとづく想像力で変成せしめてしまうまりん。
 76ページではロビンが毒のキカイについて、「こいつが世界を滅亡に導いた、第四の兵器だ!!」というのだが、第四の兵器という表現がよくわからん。核兵器のことを通称「第三の兵器」とするみたいなアレがあるのかなと思ったが、ググってみてもそういう情報は特にヒットしない。むしろ「第3の兵器革命」としてAIをとりあげているNHKの番組ホームページがヒットしたので、第一の兵器が普通の兵器、第二の兵器が核兵器、第三の兵器がAIを利用した兵器で、それに続く第四の兵器がこの毒のキカイということなのかなと思った。ちなみにロビンは81ページではじめてモノローグを披露する。それまでロビンの内面が直接語られることはなく、というかロビン以外でも同じか、この作品でモノローグが語られるのはほぼ真悟だけではないか? さとるやまりんにしてもその内面は必ずしっかりと口に出された台詞として表象されているのでは? と思ってあらためてチェックしてみたのだが、81ページのロビンのモノローグもモノローグといいきれるかどうか微妙なふきだしのあつかいになっていたので、これは保留にする。というか真悟以外はモノローグを禁じられているというふうにして読んでみたほうが、この作品の射程をぐっと拡大することができるんではないか? これもまためちゃくちゃデカいフックなんではないか?

 軍事衛星と真悟が接触する場面。「あいつらは、わたしの造った毒のキカイを持っている!!」「ものすごい悪意だった!!」「あんな毒のキカイを造ったわたしは、いったいなんなんだろう?」「そして、わたしにあんなものを造らせたのは、誰なんだろう!?」と真悟がいう。毒のキカイと黒ずくめの男たちについては、このままずっと着地点なしで滞空しつづけるシンボルとして機能しそうだ。102ページでは、「あれはわたしの心の一部なのだろうか!?」「わたしが造り出したものなのだろうか!?」「すると、まりんを苦しめているのはわたしなのだろうか!?」という言葉が続くので、これはクソベタな読み方をするのであれば、やはり憎悪とか死の欲動とか原罪とかそういうふうなアレになってしまうのだが、うーん、なんかそれはなァ。
 その後、真悟は「マリン……ボクハイマモキミヲ……アイシテイマス……」という言葉とともに人間の「すべての脳とつなが」り、マルになる。それはすなわち「この世の全てのものを」知るにいたることらしく、地球になることでもあるようなのだが、そこで「わたしは地球!!」「全てのものは、わたしの一部!!」「わたしは、さとるとまりんによって……」「呼びさまされた!!」と続く台詞の、この「呼びさまされた」という表現はちょっとひっかかる。産まれ落ちたのでもなく、作り出されたのでもなく、呼びさまされたなのか、と。さらに真悟がマルになることにより、「世界中で死んだ人間の全てが、生きかえり、死んだ生き物の全てが蘇った」というナレーションがさしはさまれるのだが、これはやはりマル=神の誕生と、最後の審判がかさねられているのだろう。
 すべての脳とつながった真悟は、その後、世界が核戦争によって破滅したと信じてそう幻視するまりんのヴィジョンを共有する(その際、真悟はまりんが「破壊されている」というのだが、この「破壊」という言葉を、真悟がはじめて意識をもったときに認識した言葉であるところの「壊す」と結びつけることも可能かもしれない)。まりんはロンドンが砂漠になり、ドーバー海峡も砂漠になってしまったと信じる(ロビンによって吹き込まれた嘘を信じてしまう)。そのまりんの脳とももちろんつながっている真悟は、そんなはずはないといいながらも、「しかし……」「わたしは信じる!!」「まりんが思うことなら!!」という。このシーンはマジでクソ痺れるな。そういうふうに物語を運ぶのかと本気で感心した。地球そのものとなり、「全てのものは、わたしの一部!!」となった真悟が、それだからこそ「破壊されている」まりんの脳も共有してしまうことになるという展開だけでも十分おもしろいのだが、それにくわえて、それがまりん(母)であるからという理由で「破壊されている」ものを介した幻視(妄想)をみずからもまた信じるにいたるという論理が続く。ここはすごい、よくこの論理を編み出した。心底びっくりする。
 さらにいえば、第1巻だったか第2巻だったかで、回路にまぎれこんだゴミひとつがきっかけでモンローが暴走するという展開があったが、そこについてこちらは以前、「回路にまぎれこんだゴミひとつでモンローが暴走したのを受けて、そのモンローを有する豊工業がゴミの入らないように部外者の出入りを禁止することを決めたという話を受け付けのおっさんからきいたさとるが、「ゴミってまさか……」「ぼくのこと…!?」と驚くくだりも、モンローが真悟として生まれなおす(暴走する)きっかけがさとるによるティーチングであることを踏まえて考えると、まったくもって正しいことになるという点も気になったし(ゴミ=事象を一変せしめる偶然性=さとる)」と書いた。で、これを踏まえて、まりんの「破壊されている」脳を一種の「ゴミ」であると読む筋もあるのではないか。それがまりんの脳ではなく、ほかの人間の(破壊されている)脳であれば、真悟はそれを単なるゴミとして処理しただろうが、母であるまりんの脳であるがために、ゴミは単なるゴミにとどまらず「事象を一変せしめる」特別なゴミとなる。
 この後、「あッ、砂漠で戦乱が起きる!!」「まりんが戦乱に巻き込まれてしまう!!」という真悟の言葉とともに、実際にまりんとロビンのいる砂漠で銃撃戦がはじまるのだが、これもどう受け止めればいいのかむずかしい。戦乱はなんらかの理由によって現実に突然生じたものであるのか(たとえば、死者のよみがえりをきっかけに?)、あるいは当時の時代背景として現実に発生していた紛争であるのか、それともまりんの終末論的世界観を共有した真悟がその予感や無意識をあらかじめ先取りするかたちで現実をそのように作り変えてしまっているのか。さらに、まりんは銃撃戦の音に対して「あれは、さとるとわたしでつくったキカイ語だわ!!」といい、「ワタシハシンゴ………」「チチハサトル」「ハハ………ハマリン」「アナタノ」「コドモデス…」「アナタノ………」「アナタノ…モトヘト」「タズネテ」「イマス」というメッセージを解読する。
 しかしこの銃撃戦でもう死んだと思っていたロビンが実は死んでいなかったというのは意外だ。こいつ、しつこすぎるやろ、と。通常の物語の文法であればここで退場するところだろうに、血塗れになりながらもなお生き残っている(あるいは、これもまた生きかえりのためではないかと思ったのだが、それは考えすぎか)。
 その後、まりんは傷ついたふりをするロビンをおんぶして歩き出す。そしてじぶんの体の中からカチッカチッという音をきく。おんぶしてもらっているロビンはまりんの胸をさわり、「胸が少しふくらんでいるじゃないか」という。まりんはその音が「子どもの終わる音」(193)であることに気づくのだが、まりんがそう理解するまで(神となったはずの)真悟すらその音の意味が理解できず、「何かが秒読みに入った!!」「何の音だろう?」「わたしにもわからない……!!」「何が終わるのだろう?」「宇宙だろうか?」「時間だろうか?」という。ここもおもしろい。真悟とは、あくまでも子どもであるさとるとまりんの子(子どもが子どもを作る方法にのっとって産んだ子)であるから、まりんが子どもでなくなるということは、真悟にとっては母の死にひとしい。いや、それ以上の事態であることは、「まりんが死ねば、わたしも死ぬだろう!!」「今、終わりが近づいてくるのがわかる!!」「わたしでさえ想像もつかないとてつもなく大きな終わりが……!!」という台詞からも明らかだ。しかしここはどう解釈するべきだろう。母の死がそのまま(神である)子の死を意味するとは?
 仮に、真悟が「破壊されている」まりんの見る終末論的予感を先取りするかたちで世界を事実そのように作り替えているのだとした場合、世界の創造者は(子どもであり、かつ、母である)まりんであるということになる。であるから、そのまりんが子どもでなくなってしまうということは、その世界そのものが終わるということを意味している。いちおうそういうふうに読めないこともない(先取りして書いてしまうと、まりん編の最後で、まりんは「わたし、今まで夢をみていたのだわ!!」「さとるくんと別れてから……」「ずっと……!!」と口にするが、この「夢」から覚めた状態を、子供から大人への移行のみならず、「破壊されている」状態からの回復と読むこともできる)。
 ちなみに、真悟はまりんの「恐怖心」や「おびえ」も共有する。そしてそれらの感情とともに、先に記したとおり、「何かが秒読みに入った!!」「何の音だろう?」「わたしにもわからない……!!」「何が終わるのだろう?」「宇宙だろうか?」「時間だろうか?」と考えるわけだが、そこで「マリン、ワタシハイマモキミヲアイシテイマス……」(また一人称が変化している)という「呪文」を唱える。つまり、こちらの読みに即していえば、終わりなき「なぜ」をキャンセルしようとするわけだが、しかしここでは、「でも、恐怖心は消えなかったといいます」とされる。物語の失効。
 神学のモチーフが加速する。ロビンがまりんとともにエルサレムに行くと言い出す。そして「ボクときみは、この世のアダムとイヴになるんだ!!」という。そのロビンから逃げ去ろうとしたまりんは、砂漠のなかで「救われる場所は、エルサレムしかない……神の降りたまうのを待つしか……」と語る「核の生存者の群」を見ることになるのだが、「また幻覚が始まった!!」とその言葉を一蹴しようとするロビンも同じ群を見ることになる。これもまりんの終末論的想像力を事前に先取りして現実化せしめてしまった真悟の仕業である——と、書いたところで気づいたのだが、真悟はいまや全人類の脳とつながっている状態であるのだし、まりんの妄想を現実化せしめるのではなく、その妄想をただ全人類に共有せしめることもできるわけか(というか、そうなってくると、もはや両者の区別はないにひとしいということになるわけだが)。「破壊されている」まりんのヴィジョンを、それでもそれがまりんであるからという理由で信じ、それを真実として設定する。
 200ページでは、それまでさんざんまりんを苦しめてきたロビンに対して、真悟がほとんどいまさらのように「ロビンは……」「毒だ!!」と判断する。その直前でロビンがまりんのことを「わたしの妻です」と宣言しているので、これは、まりんがさとるの妻でなければそのまりんとさとるの子であるみずからの存在もゆらぐことになってしまうと真悟が判断したという理屈がいちおう成立するわけだが、さすがにちょっとつまらんか。
 205ページでは、まりんの周囲でますますエスカレートする戦乱の状況について、真悟自身、「いったい、こんな……こんなばかなことが!!」「まりんの周りでは、何も起こっていないはずなのに!!」「これは現実だろうか、それとも狂気!?」「ロビンがまりんを苦しめているのだろうか!?」「いや、わたしは信じる! たとえそうだとしても、まりんが思うことならそれは現実なのだと!!」という。それに続けて「わたしはシンゴ。わたしはマル。そして地球。どんなにえらくなっても、わたしは子どもの想像から生まれた、ただのキカイ。そして、まりんは母。まりんの思うことなら、わたしも同じように思う。まりんを苦しめているものがあるのなら、つぶさなくてはならない。わたしはまりんを苦しめている素にミサイルを打ち込んで、つぶそうとした」という、ほかのページには見られない、モノローグだけで占拠されている一コマに続けて、世界各地でミサイルの発射される様子が続く。つまり、仮にここにいたるまでの戦乱や核戦争のイメージがすべてまりんの妄想に過ぎず、たとえばロビンがその妄想を現実として共有しているのも、すべての脳とつながっている真悟がその妄想を信じると決めた——それを真実として認定し、設定し、承認した——からであるという理屈に即して理解したとしても、少なくともこの時点で戦乱が現実化したのは確かだろう。そして真悟は「わたしにとって、生物の一つ一つがわたしの脳細胞の一つ一つ………」「その一つが死ねば、わたしの中でも一つの意識が消えていく!!」「それでも、わたしはまりんを守る!! ……わたしを犠牲にしても!!」と世界中の兵器を暴発させ続ける。また、彼もまたみずからの一部であることを認めつつ、ロビンを消すことを決意する。真悟によれば、エルサレムは「地球のツボ」(216)らしい。
 まりんのなかの子どもの終わりは、そのまま世界の終わりと重ねられている。さらに、まりんの「破壊されている」あたまによる妄想が、「神」(真悟)の「信」——という概念のイカれた組み合わせがすでに面白いのだが——によって(どの段階からそうであったかは不明瞭であるが、少なくともミサイルを発射した時点では)現実化——あるいは受肉——する。