20230122

 あなたには、ずっと幼いころに親という人生最初の先生の一方的な強制力に甘んじていた時期があります。
 そのときのあなたは、ただ一心に親のことを見つめていました。そして、信じるという言葉が不必要なくらいに無条件に親のことを信じていて、だからこそ、親から深い学びを得ていました。あなたは、その過程を経ることで人間として生きるための基礎を身につけることができました。親はこのとき、あなたに強制力を行使することを通して立派にあなたを守り抜き、あなたに主体性を授けました。
 でも、親が子どもの先生であることができる時期は短いものです。親の中には、子どもが十代になっても強制力の甘い感触を手放すことができない人がいて、そんな親はいまのあなたをひどく苦しめているかもしれません。
 あなたはかつて、親の笑顔の向こうにある謎を解きたいと切望し、その音声に意味があることに気づき、その意味を知りたいと強く願うことで言葉を覚えました。そのころの親は、紛れもなくあなたにとっての「大好きな先生」でした。
 言葉を覚えたときがそうであったように、いまのあなたも学びたいと念じることを通してしか学ぶことができません。あなたはいま、親以外の「大好きな先生」を見つけることで親というくびきから逃れ、自分独特の人生を歩むべき年齢になったのです。その意味では、もしあなたがいま目の前にいる先生のことが好きではなくて内心バカにさえしているのだとしたら、決して良い学びは生まれないでしょう。
 それなら、あなたにとってどういう人が「先生」になり得るのでしょうか。それは、謎を秘めている人です。つまり、得体の知れなさのようなものを感じさせる人です。「あなた自身がまだ気づいていないあなたの欲望を、私は知っていますよ」そんなふうに、あなたの心に迫ってくる人です。
 そのときあなたは、「わたしの欲望(わたしが学ぶべきこと)を知っている先生の謎を知りたい」と思うでしょう。これが学ぶことを希求する発火点になります。このようにして学びは始まるのです。
(鳥羽和久『君は君の人生の主役になれ』)



 朝方に微信のバイブレーションを切った。あけおめメッセージをやりとりする学生や教員のグループチャットがかまびすしく、何度も目を覚ますはめになったので。起床は11時。寝床にとどまったまま、学生らのメッセージに返信。(…)四年生の(…)くん、(…)四年生の(…)さん、卒業生の(…)くん、(…)さん、それから(…)二年生の(…)くん。(…)くんとはその後しばらくやりとり。(…)にずっとひとりでいるのかというので、去年と同様大学にとどまっていると答える。コロナに感染したかと重ねて問うので、なぜかまだ感染していない、たぶん(…)でぼくがいちばん強いと思うと返信すると、(…)くんは故郷に帰ったあと感染対策のためずっと部屋にひきこもっていた、しかし毎日の散歩が趣味の祖父が外でウイルスをもらってきてしまい、それであえなく一家全滅したといった。解熱剤も体温計もなかったので熱が何度あったかはわからないと続いたが、そう、こっちでやりとりしていてときどき思うことなのだが、中国の家庭には常備薬という概念がないような気がする。いや、もちろん常備している家庭もあるのだろうが、多くの人民は基本的に病気になってから薬を買いにいくという行動に出ているような気がするのだ。というか、コロナでこれだけ検温うんぬんと騒いでいながら、家庭にそもそも体温計がないというのも不思議な話だ。実際、フルオープンしたのを境に体温計がどこもかしこも売り切れで、人民たちがおおいに困ったというアレをいたるところで見聞きしたが、体温計なんてそもそもコロナうんぬん関係なしに一家にひとつあるもんじゃないの? それをコロナ禍がはじまってはや数年、いまさら店頭に探しにいくの? という感じで、このあたりの見通しの甘さは、こちらの観測する範囲内にいる中国人に共通する傾向だなと思う。たとえば、期末試験とか専門資格試験とか卒業論文とか契約書とかなんでもいいが、合格点ぎりぎり、あるいは、期限ぎりぎりを前提にしたものすごく甘い見通しで行動するひとが、日本にくらべるとはるかに多い——というかこれに関しては、十分前行動や「ほうれんそう」が前提とされている過度に神経症的な社会に生まれ育ったじぶんであるからこそ余計にそう感じるみたいなところもあるとは思うが。
 来学期以降、これまでどおり教室授業をするとする。しかし中国の高校や大学は寮での集団生活が前提となっているわけであるし、免疫の弱化しはじめる三ヶ月目から半年目以降に学生のなかでふたたび感染者が出るだろうし、いちど感染者が出ればそれはあっというまに拡大するだろう。となると、今後は一年に一度ないしは二度、コロナに感染するのがデフォルトというかたちになっていくのではないかと思われるのだが、と、今後の見通しについてちょっと触れてみたところ、(…)くんはそんなふうに考えたこともなかったといった。やっぱりそうなんだよな。教育レベルの相応に高いはずの大学生ですらこうなのだ。ほとんどの人民はこの感染のピークを乗り越えたら、伟大なる祖国! 新冠に胜利! くらいに思っているのではないか? 波はいったん引くが、そのまま引ききるわけではなく、ふたたび押し寄せる。そのことをマジで理解していない層が、(うちのような田舎では)けっこうなボリュームを占めているような気がしてならない。
 朝食はいつものようにトースト二枚。食後のコーヒーを淹れて、きのうづけの記事にとりかかる。合間にたまっていた洗濯物を洗う。洗濯機の排水は本体から伸びるホース経由で洗濯機のとなりにある排水孔にそそがれるふうになっているのだが、ホースが直接孔につながっているわけではない。クソでかい石のサイコロがあるとする。その天面および中身をくり抜くとする。それが洗濯機の左隣に設置されているとする。底面には排水孔があるとする。洗濯機の側にある石の面に小さな横穴が開けられているとする。そこに洗濯機からのびるホースが大雑把に突っ込んであるとする。そういう状況。で、以前も似たようなことが一度あったのだが、排水孔に繊維が詰まってしまったらしく、うまく排水されなくなった水がそのまま四方を石の壁で阻まれた空間のなかで水位をあげていき、ついにはホースのための横穴にまで達し、そこから水が石の外に流れ出してしまった結果、洗濯機の周辺が気づけば水浸しになっていた。やれやれ。
 きのうづけの記事を投稿する。作業中は『EVERY LOSER』(Iggy Pop)を流してみたが、全然良いとは思えなかった。その後、ウェブ各所を巡回し、2022年1月22日づけの記事の読み返し。

「分かりません」と言えるようになるために、学んでいるのだ。これを別の言い方で言おう。「解放される必要はありません。なぜならもう解放されているからです」。
ジョン・ケージ柿沼敏江・訳『サイレンス』より「われわれはどこへ行くのか、そして何をするのか。」p.389)

 それから『わたしは真悟』(楳図かずお)の第10巻を読んだ。うーん、やっぱりちょっとこれはすごいな、ある種の到達点であるなとしみじみ思った。
 まず第9巻から。7ページのロビンのセリフ「エルサレムは絶対だ! 世界のみんなが知っている! 知らないのは日本人だけだ!!」というセリフ。これ、単純に日本人嫌いのロビンがたびたび口にする同様のセリフの一種として流してしまいそうになるが、神学モチーフが色濃くなるまりん編のクライマックス前に置かれているそのことを思うと、けっこうデカいフックだなと思う。神学の外にいる日本人であるまりんとさとる(と真悟?)が、変奏された神学を生きる。
 15ページ。真悟がまりんにメッセージを届けようとするが、子どもの終わりをカウントダウンする「カチカチ」という「音に消されて声がとどかない」。真悟はこの時点で神や地球に等しい存在になっているはずなのだが、その万能性にはところどころ翳りがみえる。そもそもロビンを消すために、結婚の誓いをおこなう神殿の右側(男性側)に落下するように人工衛星の一部——これは十字架のかたちをしている——をはがし落とした真悟であるが、ロビンがまりんに女性が右側に立つのだと嘘を教えたことにより、自分自身の手で母を殺してしまうかもしれないという窮地に立たされているその時点で、やはり万能であるとはいえない(すべての人間の脳とつながっているのであれば、それくらいのトレースはできそうであるのに)。ここに関しては、8巻の時点で世界中の兵器を暴発させた真悟が、「わたし自身も傷ついたといいます」といっているので、この時点ではすでに地球(神)たりえていなかったということなのかもしれないが、神に祈り神に誓うための神殿が舞台でありその誓いの言葉にかかわる嘘が焦点になっていることを軸とすれば、そこだけで別様のおもしろい読み方もできそうではある。神である真悟が、その神を相手にひとが祈り誓う場所でロビンがついた嘘により、(みずからの母をみずからの手であやめるという)危機に陥っているという状況。
 と、ここまで書いて気づいたのだが、17ページに「全てはわたしの力を離れた!!」という真悟の台詞があるな。ただ、42ページにふたたび、「わたしは、全てのコンピューターとすべての脳をつなげて考えた」という台詞もある。丸になった真悟が神と重ねられているのはほぼ間違いないんだろうが、作中で真悟はあくまで丸になったみずからを「地球」と表現しているわけであるし、神学モチーフに引っ張られすぎて神にこだわりすぎるのもよくないかもしれない。
 47ページには「子どもが終わってしまったら、さとるの言葉が伝えられなくなる!!」という真悟の台詞。そして次のページで真悟はとうとう「生まれ」るわけだが、頻出するマリア像もあることであるし、まりんによる処女懐胎という読み筋があからさまに残されているのは確かであるのだが、ただマリアは出産しているんだよな。それに対してここでまりんは出産していない。この違いを無視するのもどうかなと思う。
 と、書いたところでふと、高橋洋の映画のなかにみずからの子により処女を奪われるマリアに対する言及があったような気がし、過去ログを検索してみたところ、2011年7月6日づけの記事に書き記されている高橋洋『恐怖』の感想のなかに「あと、「あの世」を処女懐胎した負のマリアともいうべき存在にむけて放たれた「あいつはじぶんの子供に処女を奪われるんだ」という台詞が凄すぎた。」と書きつけられていた。まりんはマリアとは異なり、子を有する母になってなお処女(子ども)であるのか。
 うまれた(受肉した)真悟は「おかあさん」の「おかあさ」まで口にして消える(死ぬ)。「その時、彼女の中の子どもが、終わったといいます」というモノローグが続くのだが、これはもともと進行していた子どもの終わりがギリギリのタイミングでおとずれたと読むのがふつうなんだろうが、(上述した読み筋をさっそく否定するかたちになるが)ここをあえて、真悟がうまれたことによってまりんは子どもではなくなった(母になった)というふうに読む筋もありそうだ。
 真悟はその後、「わたしは、今、何になっていたのだろうか……」「確かに何かになった。そして……何かすごいことがあったような気がする……」「でも……思い出せない………」と口にする。これもまたエピグラフの「奇跡」ということなのかもしれないが、そういう安直さはさておき、その次のコマで、真悟の視界(あるいは世界)からまりんが消える(そして驚く真悟に続いて、まりん編の最初のように額から血を流すのではなく、目から血を流すマリア像が挟まれる)。しかし話数が切り替わり、物語がまりん視点に転じると、まりんの姿は消えていないし、彼女のそばにはたしかに機械の真悟がいる。だからここで消えたのはやはり子どもであるまりんということなのだろう。そしてあれだけ機械に愛着を持っていたはずのまりんは、一瞬だけ受肉した真悟のいまは機械にもどった部品を拾いあげると、「ヒイッ!」という悲鳴とともに投げ捨てる。この反応は、機械を受けつけなくなったまりん(子どもではなく大人になったまりん)という筋で読んでもいいだろうし、その部品がかつて受肉したわが子の亡骸であるということを踏まえた別の読み筋もあるだろう。しかし一番重要なのはおそらくその後まりんが口にする「わたし、今まで夢をみていたのだわ!!」「さとるくんと別れてから……」「ずっと……!!」という台詞で、ここでまりんの「破壊されている」頭がもどった、つまり、核戦争により世界が滅びつつあるという妄想が消え去ったということになるのだろうが、すると、妄想=子どもの図式が成立する。実際、地下シェルターにまりんを幽閉して核戦争の嘘をふきこんだロビンは、それを信じるまりんのことを、前回の記事でも指摘した、例外的なモノローグともとれるほかの場面ではみられないふきだしとともに「やっぱり子どもだ」というわけであるし、真悟は真悟で、これもやはり前回指摘したが、絵はいっさいなく白地の黒文字のモノローグだけで構成された例外的な一コマのなかで「わたしはシンゴ。わたしはマル。そして地球。どんなにえらくなっても、わたしは子どもの想像から生まれた、ただのキカイ。」といっており、この想像を妄想と結びつけることもできる。妄想といえば、ラカン派的にいえば、父の名のオルタナティヴであるわけであるし、大人になることを拒否し子どもであり続けようとする(父の名のインストールを拒みつづける)まりんが妄想とともにあり、しかし子どもが終わる(去勢を経る)と同時にその妄想が消え失せるというのも筋としては通っている。

 まりん編はここで終わり、さとる編がはじまる。舞台は転居先の新潟。64ページでさとるは水面に映るひらがなの「ま」を見て、「……まりん…」と口にするのだが、『わたしは真悟』は(言葉ではなく)文字という切り口からもいろいろ語れそうなところがあるんだよな。さとるがモンロー(真悟)に文字をティーチングする序盤と、第10巻で真悟がまさに(言葉ではなく)残された文字だけで思考しようとするクライマックスを皮切りに、文字が機能しているいくつかの場面を寄せ集めつつ(たとえば156ページ、さとるらが元住んでいた部屋をおとずれた真悟はその玄関の扉にキカイ語の文字をのこす)、まりんがエルサレムの神殿でさとると結婚しようとしたときに、新郎が立つべき場所にさとるの似顔絵——名前ではない——を描いた紙を置いた場面などに代表されるイメージが機能している箇所をぶつけてみるなどすれば、なにかしらの読み筋を見出すこともできなくはなさそう。
 まりんは金持ちのお嬢様であるのに対し、さとるは団地住まい(さらに新潟に引っ越し後は貧乏アパート暮らしになる)。その対比やギャップを作中で直接指摘する人物はひとりもいないが(凡百の作家であれば、こうした構図を設定するかぎり、かならずそれを作中の人物に説明させようとするはずだ)、ふたりが別れた後、その階級差はかなり露骨に表象されるようになる。第1巻でアヘ顔をさらしていたさとるはもうここにはおらず、ほとんどのコマで彼は深刻そうな顔を浮かべている。
 舞台が老人ホームに転じる。飛行機から倉庫に落ちた真悟を入居者のおばあちゃんが発見する。機械である真悟の姿を見たおばあちゃんは「な、なんとなく人のように見えるわ、気のせいかしら……」と口にするが、これは76ページに「このごろ、ずいぶん耳や、目まで弱くなったわ」を踏まえつつも、第10巻の最後、「東京コンピューター研究所」の人間が「これに出会ったという人々は………」「みんな、シンゴという子どもに会ったのだといいます………」(251)という総括に対応しているのだろう。ちなみに、これはこちらの勘違いかもしれないが、中高年ではない老人がこの作品に登場したのは、おそらくここが最初ではないか? この点も読みの筋次第では案外フックになるかもしれない。
 84ページでは機械が真悟を攻撃している場所がはじめてあらわれる。140ページでもショルベカーに襲われるシーンがあるが、こうした真悟と機械の敵対関係については、196ページで(再登場する)美紀によってあらためて語られる。曰く、真悟はかつて「どんなキカイでも自由に動かせたの、ミサイルを飛ばすこともできたわ。」「ほんと、でも証拠はもうないわ!!」「〝マル〟からもっとえらくなった瞬間に、壊したものは元へ戻しておいたから……」「そして今はキカイが敵になってしまったの!!」とのことで、もっとえらくなった瞬間というのは受肉を遂げたあの瞬間のことだろう。そのときにミサイルなどによって壊された世界はすべて元に戻ったというのだが、「証拠はもうない」。マルが地球であるとすると、それよりもさらにえらくなるというのはやはり神ということになるのだろうか、こちらはずっとマル=地球=神という図式に沿って読んでいたのだが、そうではなく、真悟が神となったのはまさにあの受肉の瞬間だけなのかもしれない。そしてその神がみずからの命をもってまりん(ひとの子)を助けたとなると、ちょっとキリストの贖罪っぽいニュアンスに流れそうになるが(実際そのあとのページで聖母マリアは血涙を流す)、いずれにせよ、神にひとしいその力能によって、まりんの妄想に即した終末論的光景および出来事はなかったことにされたということなのだろう。しかしその結果として、どうしてキカイと敵対することになるのか、このあたりはちょっとよくわからん。
 老人ホームのシーンにもどる。施設の男性スタッフが「キカイのことはよくわからないし…」と口にする。序盤のさとるの父親にしても同様であるが、イギリスが舞台であるまりん編では成立していた機械=日本人の等式は、ここでは失効する。
 真悟を助けようとしたおばあちゃんは敵対する機械によって殺されるが、真悟自身がみずからの部品を犠牲にすることでふたたび命を与え、のみならずもともと弱っていた目や手足までも回復させる。おばあちゃんはそんな真悟について「もしや……」「神……」と口にするが、こんなふうに真悟のことを神と呼ぶのは美紀の両親以来だろう(違ったか?)。ちなみにこの話のタイトルは「奇跡が生まれる」で、するとやはり「奇跡は誰にでも一度おきる/だがおきたことには誰も気がつかない」というエピグラフを参照したくなるのだが、ここでおばあちゃんは奇跡に気づいているし(だからこそ「神」と口にする)、この奇跡とエピグラフの奇跡とは別物として処理しておいたほうがよさそう。
 ひとの蘇生については、第8巻の「世界中で死んだ人間の全てが、生きかえり、死んだ生き物の全てが蘇った」というナレーションが語るような最後の審判をおもわせる出来事が以前あった。あとはやっぱり(神ではない)神の子であるイエスの伝説を思わせるところもなくはない。受肉後の真悟を神の子であるイエスと重ねて読むと、さとる編以降の真悟がマル(神)であった当時よりもはるかにひとに近い、有限な存在と化しているのも理解できる(たとえば「さっきおばあさんにエネルギーを与えてしまった分だけ、記憶能力が消えてしまったに違いない!!」という台詞を参照)。その見立てに即して読むと、第10巻でいまにも力尽きようとしている真悟の最後の協力者が、キリスト教的文化圏においてはしばしば悪魔の遣いとされる蛇と蠅であるというのも面白い。
 「さっきおばあさんにエネルギーを与えてしまった分だけ、記憶能力が消えてしまったに違いない!!」という台詞を口にしたあと、真悟はみずからの記憶を確認するために、地面にさとるとまりんと自身の顔を描く。そしてその際に、第5巻でさんちゃんが教えてくれたとおり、三人をきっちり三角形で結ぶ。さらに「サトル、ワタシハイマモアナタガスキデス。マリン。」というまりんの言葉をさとるに伝えにいくと考えるのだが、この言葉はまりんから聞いたものではない。「さとる!!」「わたしは心が痛い!!」「わたしは、いろいろな感情を知って、最後にウソという感情を知りました!!」「許してください! 聞くことのできなかった母の返事をあなたに届けます!!」と続く台詞にあるように、この言葉は捏造された返事にすぎない。真悟はもともと「まりん/ぼくはいまも/きみを/あいしています」というさとるの「ゆいごん」をまりんに伝えることを「生まれてきた目的」とした(そういう虚構=物語を生きることにした)。しかしその目的は果たされずに潰えた。すると今度は、「サトル、ワタシハイマモアナタガスキデス。マリン。」という、それ自体が虚構である言葉をさとるに伝えにいくという虚構=物語を生きはじめる。だから、「わたしは心が痛い!!」「わたしは、いろいろな感情を知って、最後にウソという感情を知りました!!」という嘆きを、そうした意味(物語)にたよらざるをえない人間一般の自己欺瞞にひきつけて読む筋もあるわけだ。ちなみに、上の台詞を真悟が口にする次のページでは(117ページ)、夜道をひとりでゆく真悟が、「身体が勝手に、」「左へ行ってしまう!!」「これは、本能だろうか!?」「キカイにも本能があるのだろうか!?」と口にするシーンもある。だから、本能とか無意識とか、そういう理性(言語)の外にあるものを真悟もやはり身につけているのであり、それを先の読み筋を補強するものと位置づけることもいちおうできるだろう。
 121ページでは天使みたいになってしまったたけしが再登場する。真悟はみずからの部品と引き換えに彼を正気にもどす。その際、「元の〝人間〟に戻ったんだ……わたしの一部分と引き換えに………」「たとえ天使でなくとも、獣と言われようとも………」「たけし! 負けずに生きていくのだ!!」という。そして、自分をかつて(人間ではない)「化け物」扱いし壊そうとしたがゆえに反撃として天使へと変貌させるにいたった当の相手をふたたび人間(獣)にもどすというこの行為の代償として、真悟は「サトル、ワタシハイマモアナタガスキデス。マリン。」という言葉自体は変わらず記憶しているものの、その言葉が捏造であるという事実を忘れてしまう。そしてそれをまりん(母)から本当に受け取った返事だと思い込んだまま、さとるの元に向かうのであるが、ここは本当にすさまじいな。読んでいて、「うわ、マジか」とたまらず声が出た。このくだりだけでも、めちゃくちゃ多方面に話を広げることができるだろう。本当に神がかっている。作中を通じていちばんやばい論理が発明されている箇所といえるかもしれない。
 その美紀が再登場する。ここでの美紀がまたどう理解すればよいのかよくわからん存在になっている。美紀は最初、(1)(おそらくは真悟と裏返しのペアをなす、人間でありながらかぎりなく人間から遠い存在として)第5巻の84ページおよび85ページの見開きにシルエットとしてあらわれているようなスライム状の身体に点滴やチューブが複数装着されている異形の持ち主として婉曲的に描かれているが、(2)死んだ娘がいまでも生きているかのようにとりあつかっている両親の妄想の産物でしかないことがその後あきらかにされる(ここでの話の運び方、コマ割や台詞回しなどの演出は、「明らかにされる真実」の文法——ひらたくいえば、どんでん返しの作法——に忠実といってもいい)。しかし(1)が虚構であり(2)が真実であるという単純な話にはなっておらず、たとえば隣人の子であるしずかは(1)の姿の目撃談を自分の親に話す。
 その美紀が第9巻で再登場するわけだが、今度はベッドにおらず、両親によってたんすの中に幽閉されている(ここで地下シェルターに幽閉されているまりんとたんすの中に幽閉されている美紀のペアを考えることもできるかもしれない)。つまり、ここでの美紀は(2)ではない。一家が住むのはかつてさとるが住んでいた部屋である。その部屋がなつかしくなったさとるの突然の訪問に対し、夫は「中をのぞかせるなっ、追い返せっ!!」と妻に言い、「見られなかったか?」「ま、まさかここをさぐりに……」と口にする。それに対して妻は、「そんなはずはないわ…だって……」「あの子は…死んでしまっていないんだから……」「わたち達[原文ママ]でさえ、そう思い込んでいるくらいだから………」というのだが、ここは普通に読むと、わたしたち両親ですら美紀はもう死んだものとして思い込もうとしている(のだから、彼女の様子を探りにきた人間がいるはずはない)になる。すると、ここでの美紀、仮に(3)とするが、この(3)の美紀は(2)の正反対であるといえる。その死を認められない(認めたくない)がゆえにまだ生きているものと両親が思い込んでいたのが(2)の美紀であるが、(3)はむしろ、両親ですらすでに死んだものと思い込こもうとしている(が、現実には生きている)存在としてあらわれている。その後、真悟の再訪を受けた美紀は、みずからの力でたんすを破り、黒くひらべったいどことなく幼女の面影をのこすシルエットを「ズルッ」とはわせながら真悟の待つ玄関に進むのだが、アップで描かれた目や耳がひらべったい表面にくっついている描写などみるに(ちょっと『ベルセルク』のベヘリットのようだ)、これはやはり(1)の美紀と類似した存在なのだろう。ただ、両親の取り扱いは異なる。(1)も(3)も異形である。しかし(1)がベッドで手厚い看護を受けているのに対して、(3)はたんすの中に幽閉されている。また、(1)が(2)として、つまり、両親の妄想——ここにもフックがある!——として回収されるのに対して、(3)は真悟の力(奇跡)によって五体満足な女子の姿を得ることになる(妄想に回収されるのではなく、むしろその逆に、一般的な肉体を得る)。
 こうして書いていて気づいたのだが、美紀が真悟とペアをなすかたちで「かぎりなく人間に近いもの」というポジションを与えられているのだとした場合、(1)から(2)へという流れでいったんエピソードが閉じられた第五巻の時点では、この世界は、そのような存在を人間として承認していなかった(上述した「どんでん返しの作法」とは、この漫画=世界そのものが演じた美紀に対する拒絶である)。それが第9巻にいたり、世界に承認されない(1)としての(3)が、(両親にではなく、神の子である?)真悟によってあらためて承認され世界に登記されることになった——そういうきれいな構図がここに成り立っているといえるのではないか?

 あと、美紀一家はさとるの住んでいた部屋に越してきたわけであるから、さとると美紀をペアにして考える筋もあるのかもしれないが、これについては不明。
 真悟は美紀の部屋の玄関の扉にキカイ語でメッセージを書き残す(まるで遺書のようだ)。受肉の瞬間について、「やがて、わたしは遺伝子につながり……何になったのだろう?」「?」「思い出せない!!」「思い出せないが、何かすばらしいものになったような気がする!! それは、一瞬のでき事だったが、わたしは、わたしの一生分の体験をしたような気がする。そこで、わたしは、何かすばらしいものに出会ったような気もする。地球よりも、宇宙よりも、もっと大きい何か………何かが生まれるのを、わたしは見たような気がする……」と真悟は書く。それに続けて、「その時、わたしは全てを知り、すべての力を持ったような気がする。でも、わたしはすぐに壊れてしまい、その一瞬にわたしは母を救い……」「世界を変えた」とあるのだが、この「世界を変えた」がむずかしい。まりんの妄想を終わらせたことにより、その妄想に対する真悟自身の「信」にもとづき形成された終末論的世界を回避し、元の世界を復元したという意味なのかもしれないが、しかしみずからの力能により変化をうながし、みずからの力能によりその変化をキャンセルした、そうした独り相撲をして「世界を変えた」と表現するだろうか。
 と、書いていて気づいたのだが、この世界の変化とは、上に記した、世界における「かぎりなく人間に近いもの」の承認および登記であるとする筋もあるわけだ。真悟の受肉とは、まさに真悟が人間としてこの世界(漫画)に登記された瞬間である。それは奇跡かもしれないが、しかし奇跡とはそれまでこの世界に登記されていなかった出来事をあらたに登記することであり(まるでゲームのオプション画面であらたなステージやあらたなキャラクターやあらたな武器防具をアンロックするように)、結果として、その出来事がふたたび生じることを可能にする(こちらはかつて『S』に、「通常は起こりえないできごとの出現が奇跡であれば、くりかえしによるできごとの世俗化もまた奇跡であるのでは?」と書いた!)。だから、真悟の受肉という奇跡により、「かぎりなく人間に近いもの」が「人間」として生まれなおすという出来事が起こりうるものとしてこの世界に登記されるにいたった。それが「世界を変えた」の意味であり、しかるがゆえに、美紀もまた(真悟の力を借りるかたちで)「かぎりなく人間に近いもの」であるそのシルエットを脱ぎ捨てて「普通の娘」に変身したともいえるわけだ。「妄想」としてこの世界(漫画)からかつて排除されたものが、世俗化した奇跡として回帰する。
 その美紀は真悟と「心でしゃべれる」し、ほかにもいくつか超能力じみたものを使うが、これはとりあえずその特異な出自のしるし(痕跡)という理解でよいだろう。あと、真悟と機械の敵対関係とは、異族となった真悟に対する機械の側からの迫害——ナショナリズムおよび排外主義のモチーフが、機械の陣営で再演される——ともいえるな。
 さとるはまりんのかつて住んでいた家をおとずれる。そこで声をかけてきた長髪の不良を一瞬だけまりんと見間違えてしまう。この不良は、その後の展開で大きな働きをするし、最終話直前でクソデカいフックを残していくので、めちゃくちゃ重要なキャラクターだと思うのだが、そこを踏まえて考えると、初回登場時にまりんと重ね合わせられているのもなかなか意味深という感じ。
 しずかと美紀と真悟の三人がその旧まりん宅をおとずれる。すでにさとるの姿はないが、そこにはさとるの書き残した「まりん」という文字——また文字だ!——がある。さとるの行先を推理するために、真悟をコンピューターに接続させる必要があると語る美紀に対して、しずかは天国に電話してタッちゃんに電話しようと考える(子どもとは死を理解していない存在であるという以前仮設した定義を補強するものとしてこのシーンを数えることもできるだろう)。電話といえば、真悟と美紀がはじめてコミュニケーションをとったのもやはり電話であった。また、ここでしずかは「天国の電話番号は何番なの? あなた知ってるのでしょう!?」と美紀にいうわけだが、ここで美紀が天国の電話番号を知っていて当然としずかによって思いこまれているのも興味深い(ただ単純に、しずかが美紀をじぶんより物知りの年長者としてみなしているにすぎないのかもしれないが)。
 その後、美紀は真悟から「破壊」であり「この世にないもの」であり「日本人の意識」であるものがやってくるというメッセージを受けとる。黒ずくめの男三人組がその正体であるのだが、彼らに対してしずかは「あいつらは、ほんとうに何者!?」「人間…なの!?」「それとも……!?」と口にする。黒ずくめの男たちについては、第8巻を読んだ時点で「最初はモンローにブラックボックスを仕掛けて毒のキカイを作らせた組織の人間として登場するのだが、まりんのいるイギリスに舞台が移ると同時に(加害者である)日本人という属性が前景化し、さらに人間を超越したなにかシンボリックな存在へと変貌を遂げる」と書いたが、そうした理解がそれほど間違いではなかったことがここでいちおう確認できたことになる。ただ、これまでひきつっている目以外は黒塗りされていたその顔が、ここでははっきりと描かれるようになっているし、第10巻を少し先取りすることになるが、彼らは作中はじめて言葉を発しもする。さらに「放射能を避けるための」「作業服」だという帽子を脱ぎ去り、顔をはっきりとあらわにし、あげくのはてには、イギリスでの爆発に巻き込まれてなんともなかったはずが、ここでは家屋の崩壊に巻き込まれただけで退場することになる(死んだかどうかは不明)。つまり、ここで黒ずくめの男たちは、その造形もその(身体)能力も、ごくごくふつうの人間として描かれているわけで、ここにも真悟の受肉によって変化した世界の影響を見ることができるかもしれない。黒ずくめの男たちもまた、登場した当初は、「かぎりなく人間に近いもの」として表象されていた。それが真悟の受肉以後は、真悟や美紀と同様、(有限な)人間としてこの世界(漫画)により登記され、明確な輪郭を与えられるようになったのだ、と。しかしこうして書いてみると、真悟の受肉は、『ベルセルク』における大幽界嘯みたいだな。
 第10巻の感想は翌日の記事に書くことにする。ここらで便宜的にいったん区切っておきたい。
 その第10巻を読み終えたあとはキッチンに立ってメシ。食うものを食ったのち、仮眠はたしかこの日はとらなかったんではないか? ちょっとよくおぼえていないのだが、いずれにせよ、20時になったところでコーヒーを淹れてデスクに向かい、授業準備にとりかかったのはたしかだ。日語会話(二)の第13課。全体の見通しをつけ、あとは授業後半でおこなうゲームテイストの応用問題をどうしようかなというところまで進めたのだが、21時半になったところでいったん中断、気分転換にシャワーでも浴びようと思ったのだった。
 で、シャワーを浴びながらそのゲームについていろいろ考えていたのだが、ユリイカ! というようなひらめきにはいたらない。というかそもそも世間は春節であるというのに、なぜおれは授業準備をしなければならないのだ! だらだらしてしかるべきではないか! とだんだんと腹立たしくなってきたので、あがってすぐにVampire Survivorsを再々インストールし、猛烈ないきおいでプレイしはじめた。
 そして気づけば朝の7時であった……。8時間か9時間ほどぶっ通しでプレイし続けたことになる。これが昭和生まれの生き様よ! 目に焼きつけておくがよい!