20230123

 先日、近所の小学校で教務主任をしているT先生と長話をする機会がありました。
「子どもが先生の悪口を言った時に、親がそれに同調していっしょに悪口を言う。これがたった三組あっただけで、簡単に学級は崩壊します」
 T先生は苦々しい顔でそう言いました。見立てに一面的な部分はあるとはいえ、学級崩壊が子どもと先生だけでなく、親を巻き込んだ関係性の中で起きているのは間違いないところでしょう。
 親にとって、先生というのはときに蹴落としたいライバルですから、親は子どもが言う先生の悪口を聞いているとなんだか胸のすく思いがして、その悪口にたやすく同調しがちです。でも、そうやって親が子どもの口車に乗って、いっしょになって先生のことを侮辱し始めると、その先生から子どもが学ぶことは難しくなります。
 そういえば、別の学校の校長先生は「親にとって学校というのは、いちばん悪口を言いやすい相手になってしまったなあ」と嘆いていました。このような昨今の傾向は、先生たちが子どもたちから尊敬されにくく、その結果、子どもにとっての学校が「学びの場」としての機能を十分に果たせない一因になっています。
(鳥羽和久『君は君の人生の主役になれ』)



 14時ごろだったと思うが着信があった。見覚えのない番号。前日もたしか同じ番号から着信があったのだが、どうせ営業の電話だろうと思って出なかった。しかし二日連続でかかってくるということは、営業ではないかもしれない、もしかしたら快递かもしれない(荷物が届いたという通知が昨日届いていたが、まだ回収に行っていなかったので)。出た。予想通り快递だった。男性。どこの快递かとたずねると、后街の快递だという。春節なのに開いているのかとねぼけたあたまでたずねると、べらべらべらと聞き取れないはやさでまくしたてられたので、悪いけど中国語はわからないのだと中国語で伝えた。すると、驚いたことに、英語だったらいいかという返事があった。快递のスタッフが英語? 嘘でしょ? と思いながら肯定すると、発音はさすがにめちゃくちゃなまっていたし、文法もかなりあやしかったが、それでもたしかに英語で、荷物が届いている、今日の五時まで店は開いている、今日でも明日でもかまわない、みたいなことをいった。びっくりした。今日取りにいくよと応じた。
 活動開始。歯磨きしながらスマホでニュースをチェックし、トースト二枚の食事。まずいインスタントコーヒーは飲まず、街着に着替えて部屋をあとにし、自転車でくだんの快递に向かう。キャンパスはいつもどおり閑散としているが、バスケコートでは中学生もしくは高校生の男子六人がバスケをしている。たぶん近所に住んでいる子たちだろう。南門に守衛はいるが、おもてに立っているわけではなく、小屋にこもって椅子に座り、膝掛けをしてスマホを見ている。南門の外の車道もまた閑散としている。こんなにも車が通らない道路を見るのはおそらくはじめて。律儀に待っていても意味がないので、信号無視して横断歩道を渡り、后街に向かう。通りに沿って立ちならぶ商店もメシ屋もだいたいすべてシャッターをおろしているが、兰州拉面の店だけはオープンしている。
 后街もやはり閑散としている。歩行者がいない。美团のバイクもいない。路駐している車もない。さらに路上にゴミが落ちていない! こんなにしずかできれいな后街を見るのははじめてかもしれない。たぶん今日が一年でいちばんきれいな日なのだろう。店も当然ほとんどが閉まっているが、ミルクティーの店が一件だけ営業していた。
 快递に到着する。店に入ってすぐのところに見覚えのある男性とその妻らしき女性、それにふたりのいずれかの母親らしい人物が三人卓について談笑している。客の姿は当然ない。新年快乐! と声をかけると、(…)? とこちらの名前を中国語読みして呼びかけてみせるので、すっかり覚えられとんなと思いながら对と受ける。コーヒー豆の入った箱を受けとる。それにしても春節二日目、日本の正月でいえば1月2日であるわけだが、そんな日からわざわざ営業しなくてもいいのにと思う。もちろん、こちらとしては切らしていたコーヒー豆をはやめに受け取ることができてたいそうありがたいわけだが。しかしよくよく考えてみれば、こちらも(…)でバイトしていた時代、元旦出勤することはたびたびあったな。
 元来た道をひきかえす。せっかくなのでガラガラの后街を動画撮影して「ご飯を100回食べる」のふたりに送ってやる。南門からふたたびキャンパスに入る。往路と同じ道を通ってもおもしろくないので、わざわざ第三食堂→第四食堂→グラウンドと迂回するルートで自転車を走らせる。グラウンドからはスーパーを望むことができると以前(…)が言っていた。実際、キャンパス内からはグラウンド越しに(…)の外観をながめることができた。はっきりとは確認していないが、今日は閉まっているようだった。また買い物に行きたい。「天国のスーパー」というタイトルの短編でも書いてみようかなと思った。いや、それだったら「天国のジャスコ」にしたほうが、ちょっと山内マリコっぽくなっていいかもしれない——と、書いたところで、ためしに「天国のジャスコ」でググってみたところ、おどろいたことにBCCKSで販売されている同名の書籍がヒットした! あらら、先を越されていたかと思って著者名を確かめてみたところ、吉田棒一とあり、この名前には見覚えがある。いまはどうだか知らんが、こちらが『A』をリリースした当時のBCCKSで、文学のカテゴリでリリースされている書籍は正直どれもこれもしょうもないもんばかりだった、ラノベの悪いところを煮詰めたようなやつとかおっさんの自伝とかおっさんの旅行記とかそういうもんばかりで、本気で文章を書いて本気で本を作ってやろうと考えているそういう著者の気配なんて1ミリも感じられない場所だったのだが(だからこちらは当時プラットフォームの選択を間違えたかなと思った)、そのなかで、この著者による『心臓日記』という本だけはほかと違うふうに感じられた(試し読みしただけだが、その違いは十分理解できた)、ちゃんとした物書きがちゃんとした文章を書いてちゃんとした本を作っていると思った。だから印象に残っているのだ。
 帰宅。回収したコーヒー豆をさっそくミルで挽く。最高の香り。すぐに一杯淹れる。うまい。きのうおとついと備蓄用のインスタントコーヒーとかペットボトルコーヒーとかばかり飲んでいたわけだが、あんなもん正味コーヒーちゃうわな。全細胞にしみわたるクソうまいコーヒーを飲んで気持ちよくなっていたところ、上の部屋で椅子をひきずる音がまたして、おまえふざけんなカス! なんで春節やのに寮におんねん! はよ田舎のババアのとこ帰れ! とクソイライラした。
 きのうづけの記事にとりかかる。作業中は『Ovidono』(Oval)を流す。Ovalは『Systemisch』と『94 Diskont』を京都時代に図書館で借りたのだったか、あるいはビデオインアメリカか西院のTUTAYAだったかもしれないが、いずれにせよレンタルしてよく聞いていたし、『O』に関しては発売日に買った記憶がある。『Ovidono』がリリースされたのは去年らしい。そうか、いまはこういう方向でやっているのかとしみじみ思う。
 作業を中断してキッチンに立つ。米を炊き、豚肉とカリフラワーとトマトとニンニクをカットしてタジン鍋にぶちこむ。カリフラワーを買って調理するのは、もしかしたら今日が生まれてはじめてかもしれんが、こんなもんブロッコリーの2Pカラーみたいなもんなのでおそるるに足らん。
 食後、Vampire Survivorsのラストステージだけとっとと挑戦してとっととクリアする。実質きのう一日だけでクリアしたようなもんやんけ! 浴室でシャワーを浴びる。あがってストレッチし、ふたたびきのうづけの記事の続きにとりかかるが、睡眠不足であるし食後の仮眠もとっていないしで、あたまが全然はたらかん。そういうわけで0時に中断。麺茹でて食って、(…)にもらった辛い湯葉のお菓子食って、ジャンプ+の更新をチェック。歯磨きをすませたのち、ふたたびきのうづけの記事の続きにとりかかるも、2時になったところでベッドに移動して就寝。


 本来であれば、きのう読み終えたのであるからきのうづけの記事に書き記す必要があった『わたしは真悟』(楳図かずお)第10巻の感想を、一日遅れでここに書く。
 黒ずくめの男たちは「放射能を避けるための」「作業服」を着ている。そしてロボット(真悟)は「間違った周波数を発散しているから」壊さなくてはならないという。このあたりは虹の正体にかかわる話としてあいまいに理解しておけば良さそうだ。ところで、黒ずくめの男のひとりは、しずかたちを殺そうとするのだが、そのときに武器もなにも使わず、手袋を脱いで手刀のかたちにした手を、ふりおろすのではなく四指をそろえたその先端で突き刺すようにする。なんでよりによってそのかたちやねんというところにくわえて、「死ね!!」という大仰なセリフもあいまって、ここは何度読んでもクソ笑ってしまうのだが、しかしこの手のかたちは第9巻で老人ホームの裏にある工場で真悟を攻撃した機械のかたち——先端にするどい針がある——を模しているともいえなくはない。いや、クソみたいなこじつけかもしれんが。
 しずかと美紀と真悟の三人は学習塾に忍び込む。その教室にあるパソコンに真悟が接続することで、モニターに死んだテッちゃんやさんちゃんが映る(ふたりとも死を理解しているようなので、子どもとは死を理解していない存在であるという定義がゆらぎそうになるが、ここはけっこう微妙かも)。「そこはどこなの、なぜそんなところにいるの!?」というしずかの問いかけに対しては、「なんて言ったらいいのか……わからないや。突然そっちが見えるようになったんだ。」という返事がある。しずかがそれに対して「あんたのお母さん、すごく悲しんでいたわ!!」というと、さんちゃんは「わかった! これからぼくのうちのテレビに出てくるよ!!」と答える。つまり、ふたりの子どもは機械の内側(向こう側)に(生きているとはいえないのかもしれないが)少なくとも存在しているわけで(もちろん、ここに「幽閉」のモチーフを重ねてみることもできるだろう)、これは、ふたりともその死の瞬間に真悟がかかわっているという共通点がおそらく関係しているのだろう(その証拠に、階段から落ちて死んだまさや、トラックにはねられて死んだテッちゃんの兄弟はモニターにあらわれない)。また、美紀はここでモニターのなかのふたりに向けて、「ほんとはこっち側へ出したかったんだけど………」と口にするが、これは真悟の力を借りてそうしたかったのだが、すでに真悟の余力ではそれも難しいという穏当な理解で問題なさそうだ。
 さんちゃんは「これは……日本中の誰も知らないことだけど…」「佐渡島でものすごいことが起きるらしいんだ。」「キプロス島で起きたことは、佐渡でも起きるんだ。詳しいことはわからないけど、地球の表面はツボでつながっているらしいんだ。」という。これはまりん編(キプロス)とさとる編(佐渡)が鏡像関係にあることをはっきりと物語っているセリフだろう。その後、「前々からしくまれていたみたいだよ。」「新潟に行くことになったのも、さとるが働くことになったのも……」「実は、日本人全部のデータがとられていて…」「マークをつけられている人がいるんだ。」という言葉が続き、データ上でさとるの名前にマークがつけられていることが明かされる。マークのついている人間はみんな佐渡島に集められているが、さんちゃんはだれがどういう理由でそうしたことを仕組んでいるかわからないといったのち、「命令を下した張本人がいないんだ……!!」「全体が生み出した偶然としかいいようがないんだ。」というクソデカいフックを口にする。その張本人について、しずかが「日本人の意識」(黒ずくめの男)ではないかというと、さんちゃんは「そんなの、こっちのデータにもなかったぞ!!」という。このあたりはやっぱり形而上学的な集合的無意識うんぬんという方向にいたる筋が敷かれているようにみえるのだが、そっち方面に即して読んでも、それほどおもしろいことにはならないという予感がする。
 もちろん、すべてを仕組んだのは真悟であるとする筋もある。真悟は実際マークをつけられているさとるの名前を見て、「さとるがあぶない!!」「なぜあぶないのか、わたしにはわからなかったといいます。」というのだが、なんらかの理由で真悟がキプロスに対応する場所である佐渡にさとるを導こうと以前仕組んだことを、奇跡を使うたびに進行する記憶喪失によってすでに忘れている、と。
 その後、警備員があらわれる。真悟は警備員を攻撃するが、「バッテリーがなくなり、メモリー板もなくなったのに……」「わたしは動いた………!!」と自身でも驚く。しかしその行動が、美紀による超能力のようなものであるらしいことがすぐにほのめかされる(美紀はその反動で吐血する)。ところで、受肉後の美紀については、彼女の両親も含めてだれひとりとして(真悟とならんで漢字表記されている特権的な)名前を呼んでいないのも気になる。きのうづけの記事に書いた読みに即していえば、彼女の存在はこの世界にすでに登記されているはずなのだが、登記される前には美紀という固有名で呼ばれているのに対して、登記後はむしろ一度もその名前を呼ばれることがない(たとえばしずかは彼女のことを「隣の子」や「あなた」と呼ぶ)。奇跡が世俗化し、特異的な出来事および存在が登記を介して一般化するということは、固有名の喪失と端的に言い換えることもたしかにできなくはない。
 真悟が学習塾を出る。そのあとをしずかと美紀も追おうとするが、美紀はふたたび吐血して「わたし、だめっ!!」という。しずかはひとり真悟のあとを追いかけようとするも、睡魔に見舞われて眠りこんでしまう。すると倒れたばかりの美紀がふたたび起きあがり、真悟のあとを追いかけはじめるのだが、ここの二度手間はなんなんだろうとちょっと笑ってしまう。美紀の吐血と「わたし、だめっ!!」は別になくてもよかったんじゃないかと思うのだが、こういう冗長さも意外にフックになったりするからなァ。真悟を追いかける美紀は「シンゴ!!」と叫ぶのだが、ここもやっぱりカタカナ表記で、漢字ではない。真悟がみずからの名前を漢字表記で名乗った場面があったかどうかはよくおぼえていないが、他人から漢字表記で呼ばれたことはたしかなかったはずで、この点は先の固有名の話に結びつけてうんぬんできそうだ。美紀は「わたしの声が、とどかなくなった!!」「わたしも、シンゴの声が聞こえなくなった!!」といい、道路に倒れて力尽きる(死んだのかどうかはわからん)。
 しかし、その後の真悟が、ヒトではない犬、蠅や蛇、蟻などの助力を得て——彼らと意思を疎通して——さとるのいる場所に向かう展開を考えると、真悟と言葉を交わすことができた美紀はやはり最後の最後まで、(犬、蠅や蛇、蟻よりははるかに近いものの)人間ではないものとして位置づけられていたともいえるわけだ。だから真悟や美紀といった存在が世界に登記されるようになったといっても、人間としてではなく、彼らに固有の共通するカテゴリーとしてと読んだほうがいいのかもしれない。
 真悟はすでに「物を考えるだけの知性はなかった」が、「本能」によってさとるのもとに向かう。そしてその途上で野良犬の助けを得る。人間とはコミュニケーションをとることができず、その人間にかぎりなく近い存在である美紀ともやはりコミュニケーションをとることのできなくなった真悟であるが、この時点で野良犬とはコミュニケーションをとることができる。野良犬はやがて真悟をかばって車にはねられるが、真悟の力(奇跡)によって死なずにすみ、それどころか失った片足をとりもどし仔犬に若返る(ちなみに警官に抱かれたその仔犬がものすごく男前な表情を浮かべているコマでこちらは死ぬほど笑った)。さらに能力を失った真悟(仔犬の言葉もいまや「ワン」としか聞こえない)は、先に記したとおり、その後はハエと爬虫類の助けを借りて先に進む(きのうづけの記事にも書いたが、受肉後の真悟をイエスと重ねて読むのであれば、その旅路の最後がキリスト教圏における悪魔のシンボルである蠅と蛇を共にしたものであるという展開は面白い)。
 その後、真悟はベルトコンベアを使った移動に際して、「自分から壊れる」決意をする。「自ら壊れていった」その結果として、真悟はうまくベルトコンベアに乗ることができ、さとるのいるほうに近づくことができる。この自殺とも自己犠牲(贖罪)ともとれる行為は、まりん編クライマックスの、人間として生まれたその瞬間に身をていしてまりんをかばったふるまいと対応していると読むこともできるかもしれないが、さすがにこの筋はちょっとつまらんか。凡庸だな。その後、真悟は「サトル、ワタシハイマモ、アナタガスキデス。マリン。」の18文字だけでしか思考できなくなり(きのうづけの記事に書いた文字のモチーフ)、蟻の助けを得てさとるが地面に残した血痕に向かう。ちなみに船にのって佐渡島に向かうさとるに対して、蠅の群れがまりんの顔を宙に描くというシーンがあるのだが、ここは文字のモチーフに対するイメージのモチーフだ。
 さとるたちは佐渡島に到着する。そこでさとるを仕事に誘った長髪の不良は、その仕事の中身について、「〝遊ぶ〟のがおれたちの役目さ」と語る。「遊ぶ」のが役目であるというと、やはり子どもを連想せざるをえない。だから、さとる編にいたっても「子ども」というモチーフは生きているのだろう。ただし、子どもが終わる音を聞いたまりんとは異なり、さとるはその音を聞かないし、子どもが終わってしまうかもしれないおそれや不安、嘆きなどを表出することもない。また、街に出て「こんな島にこんな街があるなんて………」というさとるに対して、長髪の不良は「ふん! テレビでやってないから、誰も知らないだけさ」と口にするが、「テレビでやってない」を機械に対する距離として読み換えることで、佐渡島がになわされている意味の余白を画定する筋もあるかもしれない。
 その後、島は停電し、ラジオも入らなくなる。さとるは船に戻ろうとするが、船は沖に流されている。そこでさとるは大型の低気圧のせいで荒れている海にとびこむのだが(めちゃくちゃや!)、海中でダイバースーツを着用した人影——彼らも黒ずくめである——と接触する。さとるは街を逃げまわり、助けを呼びまわる。そこで長髪の不良とふたたび合流し、「だっ、誰かがぼくを追ってくるんだ!!」「意味の中にたくさん変なやつがいたんだっ!!」「それに、この街は……ひとっこひとりいやしない!!」「そうだ、あいつらが攻めてくるんだ!!」「この街は……」「攻めこまれた時のためにできた街なんだ!!」と大真面目に訴えるが、「そういうのをこどもの妄想っていうんだぜ。」「おめえもずいぶんガキだよな。」と一蹴される。ここで「妄想」という言葉が出てきたのは大きい。まりんの終末論的妄想とさとるの妄想はここでペアになる(地下シェルターへの幽閉と佐渡島への足止めもペアになりうるかもしれない)。だから、まりんの妄想の終わりがまりんの子どもの終わりでもあったように、さとるの妄想の終わりがさとるの子どもの終わりであるという筋も当然成立するわけであるし、それに即して読んでいこうとこちらはかまえるわけだが、それが、(先取りして書いてしまうが)216ページの「その島で起きたコトは、たぶん……わたしが消える前のユメだったに違いない……」、234ページの「それはあまりにもぶきみなユメだったといいます。」「佐渡でこの世のものとは思えない、大量殺りくがくり返されるユメでした。」「きっとそれは、わたしがさとるの身を思うあまりに描いた、妄想に違いない!!」「つぎつぎとさとるを襲う悪夢を、わたしは必死に打ち消そうとしたといいます。」という真悟のモノローグによってひっくり返される。ここが厄介だ。
 仮に佐渡島での出来事が真悟による妄想であるとした場合、その妄想の終わり——さとるの帰還——とは真悟の子どもの終わりであるということになる。その終わりは(さとるの残した血痕の上に、さとるとの共同作業で書き残した)「アイ」という文字をさとるに示すと同時におとずれる。まず、ここがフックとしてめちゃくちゃデカい。主語も述語もない、さらに表意文字(漢字)ですらなく表音文字で記された名詞一語を、それを伝えるべき相手であるさとる(父)の踏み出した一歩が作り出す震動を媒介にして書き切る(この共同作業が、「父の振動に合わせて」という真悟の言葉にあるように、父との同期を思わせるのも面白い)。そしてこのさとるの一歩は、見ようによっては、真悟がその命を賭して示した「アイ」の文字を踏みつけにしようとしているようにもみえる。さらにいえば、この「アイ」という文字の出自自体があいまいである。これは「サトル、ワタシハイマモアナタガスキデス。マリン。」という真悟によって捏造された——そして真悟自身それが嘘であることを忘れてしまった——メッセージがもとになっている。真悟はこの18文字の文字(!)を使ってさとるに残すべきメッセージを考え、最終的にその中から「ア」と「イ」の二文字を残すことにするのだが、「アイ」は文字としては(捏造された)まりんのメッセージにあるが、言葉としてはそこにない(まりんのメッセージは「スキデス」であり、「アイシテイマス」ではない)。むしろ、まりん編にて、真悟がまりんに届けようとしたさとるのメッセージ「マリン!! イマモキミヲ、アイシテイマス!!」のなかに「アイ」という言葉はある。それにくわえて、真悟は、捏造されたまりんのメッセージについて、まりんがその言葉をじぶんに託してくれた瞬間という架空の記憶を思い起こす場面にて、「それは、わたしの心そのものを言い表しているかのように思えたこと。」と語っている。だから、この「アイ」という言葉は三層から成るものだといえるかもしれない。文字の次元(まりん)、意味の次元(さとる)、対象の次元(真悟)——ま、三層といってしまったからには、象徴界想像界現実界でいきたくなるが、ラカン派的な読みはここでは禁欲しておく。あと、「マリン!! イマモキミヲ、アイシテイマス!!」にしても、「サトル、ワタシハイマモアナタガスキデス。マリン。」にしても、その伝達をたのまれたわけではなく真悟が自発的にやっているというポイントはやはり何度でも確認しておきたい。生きる意味であり、物語であり、しかるがゆえに呪いでもあるもの——そういうものとしての、両親のメッセージ。いっぽうは単なる独白にすぎないものであり(それを真悟は届けるべきメッセージと受け取る)、もういっぽうはそもそも存在せず真悟自身によって捏造されたもの(それを真悟はまりんから本当に託されたメッセージと受け取る)。
 ここまで書いて気づいたのだが、佐渡島での出来事が真悟による妄想であるという読みに即していうと、真悟の妄想には父殺しのニュアンスがおおいに含まれていることになるな。ダイバースーツを着た男たちも長髪の不良も死後に顔面から無数のケーブルのようなものが浮きあがり、その正体が機械であったかのような演出が挟まれる。長髪の不良にいたっては、その指先からフリーザみたいに光線を放つ。で、その光線を受けた木の幹には小さな樹洞のようなものが設けられるのだが、その次のページでダイバースーツの三人が倒れているようすをまるでその樹洞の内側からのぞきみるようなコマとともに、先にも引用した真悟のモノローグ「それはあまりにもぶきみなユメだったといいます。」がはじまる(長髪の男によって作り出された樹洞が真悟の視覚=カメラとして機能しているようにみえるのだが、この位置関係には疑問も残る)。真悟はとっくの以前に万能的な存在ではなく有限的な存在(人間)と化しているし、その「本能」とされるものに対する言及も少なからずあるわけだが、ここにいたるまで作中通して「無意識」という言葉だけは巧妙に避けられている。それもあやしいといえばあやしい(しかしそのかわりに、まさに無意識の舞台となる「ユメ」という言葉が登場する)。
 あるいは、別の角度から。真悟は(さとるにティーチングしてもらった)言葉をだんだんと失っていく。それを象徴的なものの衰退としてとらえればどうか。想像的なものが幅をきかせるようになる真悟の妄想は、当然、調停者なき愛憎のトーンを帯びることになる。それこそが「皆殺しの実験」(226)である、と。190ページには真悟による回想として、「やがて、まりんに会ったこと。」「そして、まりんが…」「さとるのことを好きだといってくれたこと。」「そのことが何よりもうれしかったこと。」という捏造された記憶があらためて(以前にはなかったイメージ付きで!)語られる。そしてそれに、上でも引用した「それは、わたしの心そのものを言い表しているかのように思えたこと。」という言葉が続くのだが、これも、「さとるのことを好き」という感情が「わたしの心そのもの」であるというわかりやすい等式の裏に、そもそもそのような記憶はなかった(捏造されたものでしかない)という、真悟自身が知ることのない(忘却=抑圧してしまった)事実があることを踏まえて考えると、愛と表裏一体となった憎悪を真悟が無意識として持ち合わせていることを補強するものとして読むことができるだろう。
 アイ(愛)を伝えようとする真悟とその妄想のなかで父殺しを果そうとする真悟がいる。しかし、そもそも象徴秩序の失効している状態というのは、第三項である父の不在を意味しており、母子二者関係の食うか食われるか状態であるともいえるわけだから、むしろここにおけるさとると真悟の関係は母子であり、それを補強する素材として、エルサレムの祭壇でさとるの似顔絵が女性の側に置かれたという事実が——とまで考えたが、この筋はちょっとやめておこう。どん詰まりしか見えん。

 一気に先に進みすぎた。海中でダイバースーツの男たちとでくわしたさとるが助けをもとめて島中をかけめぐったのち、長髪の不良と合流するシーンまでもどる。「それに、この街は……ひとっこひとりいやしない!!」というさとるの言葉とは裏腹に、島内にはひとがいる。さとるはそのひとから電話を借りるのだが、電話はつながらない(電気、電話、ラジオなどの機械が機能不全におちいっている)。
 さとるの報告を受けた島の人間は「ソ連の兵隊」が攻めてきたと思い込む(さとる自身はダイバースーツの男たちが「ソ連の兵隊」であるとは一言も口にしていない)。それに対して長髪の不良は「まさか街のやつらが信じてしまうなんて!!」「こいつの錯覚を!!」という(錯覚、つまり、妄想のモチーフがあらためて強調される)。その長髪の不良は発煙筒のようなものを使ってどこかに合図を送る。それを見つけた島の大人たちは長髪の不良を殺すとともに、「海の中のソ連兵に知らせるつもりだったんだ!!」「やっぱりウワサは本当だったんだ、こいつは奴らの手先だったんだ!」と口にする(ちなみに長髪の不良は74ページで、佐渡島に渡る直前、自分たちの仕事について「別の船でこっそり佐渡島へ渡って、そこで〝見はり〟をすることになってるんだ。」とさとるに語っている)。
 その後、銃を構えて島内にやってきたダイバースーツの男たちを島の人間が協力して殺すのだが、その正体がソ連の兵隊ではなく日本人であることが判明する。ダイバースーツと放射能対策の作業着の違いはあるものの、両者ともに初登場時は黒ずくめであり、不気味な存在感をはなっていたことを考えると、どちらも「日本人の悪意」であると読むのがおそらく順当なのだろう。さとるとともに行動していたもうひとりの不良は、「こいつの言った通りだったんだ、実験が始まるんだ!!」「皆殺しの実験だよ、〝間引き〟なんだよ!!」「島中の人間は、誰を殺してもいいんだ! ほんとだったんだ、こいつの言った通りだったんだ!!」と口にし、長髪の不良の遺体を蹴りつけまくる。すると長髪の不良は「ウ〜ン」という不気味な書き文字とともに反応するのだが(それに対してもうひとりの不良は「生き返った」と反応する)、この書き文字はたんすの中に封じ込められている美紀であったり、あるいはまりん編での機械であったりにも使われていた気がする(非人間的なものが発する音声?)。だからその後、この長髪の不良の正体が機械であることがあらわになるのも、その意味では筋が通っているわけだが、ところで、さとるともうひとりの不良によってひきずられるこの長髪の不良の姿が、228ページでは三コマにわたって描かれる。全身→バストショット→クローズショットの順に、ズームしていくような流れになっているのだが、そのズームの対象は血だらけの額である。これ、まりん編の冒頭の、額から血を流すマリア像と対応しているかもしれない。
 海岸へ逃げたさとるたちは、続々と上陸する黒ずくめの男たちを目撃する。さとるはここで「やられるもんか!!」「あいつらが何者かはわからないけど、やられないぞ!!」「ぼくはぜったいに助かってみせるぞ!!」「からだがバラバラになっても!!」といさましく口にするが、この「からだがバラバラになっても!!」も、事実バラバラになりながらさとるのあとを追ってきた真悟の旅路と共鳴する。また、これが想像的なものの支配下にある真悟の妄想であるという先述した読みに即した場合、この台詞はまさに鏡像段階以前の——まとまった身体イメージを得る前の——想像界的様相の表現ともとれる。
 そして翌日、さとるが船で佐渡島からもどってきて、真悟との再会を果たす。このとき、さとるのそばには長髪の不良もいないし、もうひとりの(こちらは機械ではない生身の人間である)不良もいない。ボロボロになったさとるは、地面に残された「アイ」の文字を目にし、「アイ」と口にする。アイというと、第四巻で意識を有するにいたったモンローすなわち真悟が、さとると唯一の対面をはたした場面にて、「?コドモハドコニイルカ」とたずねる相手に対して「アイガハヤルト………ガチカイ」という謎めいた返事をするところも思い出されるのだが、ここはちょっとわからない。
 最後、東京コンピューター研究所のスタッフが、復元されたモンロー(真悟)を前にして、「各部分を回収し…」「最後にメインアームを新潟の港で発見して、再び組み立てました。」「すっかりもと通りになりましたが……」「この通り、どこにも知性などはありません。」「ただ…」「これに出会ったという人々は………」「みんな、シンゴという子どもに会ったのだといいます………」と語る。ここで「だといいます」という、第1巻からずっと用いられてきた真悟によるナレーションの語り口が見出されるのもちょっと面白い。あのナレーションについては、物語を展開させるために要請された形式的なものにすぎないと理解しておくのが妥当なのだろうが、そこをあえて、あれはだれの声であるのかという、小説における事後的に生成される語り(手)問題とひきつけて考えることも当然できるだろうし、その一点を掘り下げるだけでもめちゃくちゃ大きなテーマになるだろう。
 最後の一コマは地球全体に(まるで土星の輪のように)虹がかかっている様子を描いたもの。虹の正体は最後まではっきりとしないが、これまでどのように扱われてきたかをみれば、それが決して幸福や平和の象徴ではなく、それどころかむしろそれとは正反対のもの(死、憎悪、悪意の象徴?)であったことは理解できる。それが地球を一周する(まるでキプロス佐渡島を結ぶように!)。真悟の残した「アイ」の文字がさとるによって踏みつけにされかけている再会の場面とあわせて考えると、これ究極のバッドエンドみたいやなという印象も受けなくはない。
 あと、ここまで書いたところで、またちょっと気になったのだが、真悟はまりんの妄想を信じることにしたのに対し、さとるの妄想を自己の妄想(ユメ)として引き受け、かつ、「必死に打ち消そうと」し、それによってほぼ力尽きる。さとるの妄想が長髪の不良のいうように子どもの妄想である場合、その妄想は父の名に対するオルタナティヴであるという理解がひらかれるわけだが、子である真悟の視点に立てば、まさにそのようなさとるの妄想こそが父の名であり、真悟はそのインストールに対して最後まで抵抗し続けた、つまり、真悟こそが最後の瞬間まで子どもであり続けたという理解もできるわけだ。
 ほかにもいろいろ気になる箇所が残ったので、ここでもう一度、第1巻から再読しようかなとも思うのだが、しかしそんなことをしていると、マジで冬休みが終わってしまうな。