20230205

 いま問題なのは、多くの人が好きなことや楽しいことを理想化しすぎていることです。そのせいで、好きには嫌いがまざっているし、楽しいには苦しいがまざっていることが忘れられています。だからこそ好きや楽しいが実感できるという、自分の感覚に立ち戻ればたちまちにしてわかることがわからなくなっているのです。片方だけなんて手に入らないけど、それでも最後に絞り出して好きと言えたらそれでいいじゃないですか。
(鳥羽和久『君は君の人生の主役になれ』)



 朝方に背中のかゆみで目が覚めた気がするのだがよくおぼえとらん。微信の通知がブーブーブーブーうっさいのでバイブを切ったのはおぼえている。
 起床は13時前だったはず。微信がブーブーブーブーうっさかったのは外国人教師のグループチャット上で“Happy lantern festival”のあいさつが交わされているからだった。それで今日が元宵節であることに気づいた。(…)からも個人的にお祝いのメッセージが届いていたが、これは生存確認も兼ねてのアレだろう。あとは(…)四年生の(…)くんから卒論用にいま読んでいるという文章の一部(ウルトラマンに関するもの)が送られてきていた。その中にある「空想特撮テレビとは、ほど遠い」という一節が理解できないという質問がそれに続いていたが、彼はどうやらこの「ほど」を程度の意味合いで解したらしい。しかるがゆえに「ほど遠い」で一語であり、漢字表記にすると「程遠い」になると返信。
 (…)からLINEの返信も届いていた。やはり二人目を妊娠したということをこちらに伏せておいてびっくりさせるつもりだったらしい。(…)の血を引く娘であるからにはきっとめちゃくちゃ気が強くなる、将来を考えてすでにびびっていると(…)はいった。(…)のときと同様、名前の候補をさっさとあげろというので、「(…)小夜」ないしは「(…)小夜子」をひとまず挙げたのち、「(…)コロナ子」「(…)春麗チュンリー)」、それから(…)さんの奥さんの名前を借りて「(…)」、(…)のところのどもならん長姉の名前を借りて「(…)」をぶっこんでおいた。出産予定は七月であるというし、まだまだ時間はたっぷりのあるのだから、ゆっくり考えよう。
 歯磨きしながらスマホでニュースをチェックする。昨日だったか一昨日だったかニュースになっていた、アメリカ本土上空を飛行している中国の気球、あれを米軍が撃ち落としたという続報に触れて、うわマジかよとちょっとびっくりした。中国側としては気球は民間のものであり、気象に関するアレだと訴え続けており、しかるがゆえに今回の撃墜を受けて猛反発しているようだが、しかしこの気球、何年か前にも日本で目撃情報があり話題になっていたやつとやっぱり同種のもんなんだろうか。
 トースト二枚の食事をとり、コーヒーを淹れる。阳台に置くための簡易デスクが届いたという通知があったのだが、后街ではなく(…)楼の快递にブツはあずけられているらしい。これはありがたい。それほど重いものではないと思うのだが、それでも后街から寮まで運ぶことになったらきっと大変だろうと気がかりだったのだ。(…)楼の快递は15時に閉まる。日記を書く前に回収に行こうかと思ったが、予報を見ると、今後一週間やっぱりずっと雨降りが続くようであるし気温も低いしで、阳台で作業することもまずないだろうというアレだったので、いますぐ回収しにいく必要はないと判断。それできのうづけの記事の続きにとりかかった。
 投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年2月5日づけの記事を読み返す。以下、工藤顕太の『精神分析の再発明 フロイトの神話、ラカンの闘争』 より。

 シニフィアンの宝庫、言語の場としての〈他者〉において、あるひとつのシニフィアンに同一化することで主体が誕生するために必要不可欠なのが、シニフィアンの一を創設する根源的機能である。ラカンはこの機能を、模倣とは本質的に異なるメカニズムとしての同一化にフロイトが見いだした支え、すなわち何らかの象徴的特徴としての「einziger Zug」を土台にして概念化している。ラカンはこれに、『同一化』のセミネールでは、「trait unique」という訳語をあてているが、のちにはこれを「trait unaire」と呼び直している。煩雑を避けるため、私たちはこれらのタームを一括して「一なる徴」と訳すことにする。
 ここで着目すべきは、最高度に抽象化されたシニフィアンの〈一〉をなす機能は、主体の成立を支えるものではあれ、主体の存在の保証にはいささかも寄与しないということである。ここには、デカルト的コギトの成立に「消失する主体」をみるラカン独自の解釈が深くかかわっている。まず確認しておくべきは、この「消失する主体」のうちにこそ「一なる徴」が機能する契機があるという点だ。これは、「一なる徴」に支えられたシニフィアンへの同一化が、主体の存在欠如と不可分であるということにほかならない。この徴のもとで、主体は一般化可能な、それどころか交換可能なシニフィアンへと還元されることとなる。「一なる徴」は主体と言語の出会いを、主体を条件づける喪失の刻印とともに徴しづけている。それゆえ、いかに逆説的にみえようとも、〈一〉の機能は主体の同一性の喪失の謂にほかならないのである。
(工藤顕太『精神分析の再発明 フロイトの神話、ラカンの闘争』 p.188-189)

 記事の途中にアスタリスクを打つようになったのもちょうど一年前かららしい。もっと以前からやっているような気がしていたのだが。

 アスタリスクを打ったのは、これより下はこれより上を書いた時点から時間が経過していることを表すためである。今日からそういうスタイルでやってみることにする。理由は特にない。最近日記を書いている最中、面倒くさいなという気持ちがことさら強く感じられたので、めんどうくさく感じないかもしれない別の方法を試してみようと思っただけだ。

 それから2013年2月5日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」のほうに再投稿する。この時期はまだ映画を観る習慣があったらしく、毎日のようになにかしら観賞している。あと、『牛乳屋テヴィエ』(ショレム・アレイヘム)を読んでいるとの記述もあり、あー! なんかそんな小説あったな! たしか岩波文庫だったな! と思ったが、中身に関してはこれっぽっちも思い出すことができん。さらに驚いたのは、買い物に出かけた「途中、近所の酒屋に立ち寄って灯油用のポリタンクを預けておき、帰り道に代金を支払いなみなみと注がれたそれを受け取った」という記述があるのだが、ほんとうに! びっくりするほど! 一ミリも! 思い出すことができん! 部屋にあるボロボロのエアコンを(たぶん(…)来日をきっかけに)じぶんの手で洗浄するまで、冬場はたしかに灯油ヒーターを使っていた記憶があるのだが(下宿していた離れはボロッボロの木造平家だったので、大家さんが火事をやたらとおそれており、灯油はじぶんがあずかるといってやまなかったのだが、こちらとしては当時すでに九十代半ばにさしかかっていた彼女にあずけるほうがよほど危険ではと思ったものだった)、しかしその灯油を「近所の酒屋」で購入? どこやそれ! ぜんっぜん思い出せん! 生鮮館に買い物にいく途中と書いてあるし、たぶんあの通りなのだろうなという見当はつくのだが(下宿先から生鮮館までは徒歩で五分ちょっとの距離だった)、酒屋? 酒屋なんかあったか? ときどき蛍光灯を買いにいく電気屋があったのはおぼえている、入ったことのない定食屋もいくつかあった、ちょっとシャレたカフェもあった(パソコンを持って入ろうとしたところ電源は貸せないと入り口で追い払われた記憶)、殺人事件が発生したアパートもあった(この事件の犯人だったか被害者だったかが、たしか誰かの知り合いだったはず)、でも酒屋なんかあったか? あの通りに? マジで思い出せん。五年以上住んでいたはずなのに!

 今日づけの記事をここまで書く。時刻は17時前。キッチンに立ち、米を炊き、豚肉と青梗菜とたまねぎとトマトとニンニクをカットして、タジン鍋にドーンしてレンジでチーンする。調理の合間に一年生の(…)くんとやりとりする。「(…)先生 元宵節おめでとう!」というメッセージが送られてきたので、それをきっかけに少々近況報告などしあったかたち。明日から中国社会は完全に平日。元宵節というのはやはりそれ相応に重要なイベントらしく、学生らも友人らと出歩いたり家族と過ごしたり、あるいは豪華な食事をとったりしているようす(そういう写真をモーメンツにこぞって投稿しているのだ)。地方によっては花火を打ち上げているところもあるようだ。(…)くんはすでにコロナに感染済み。「先生 平常に紅白歌合戦を見ますか」というので、下手したらもう二十年くらい観ていないんではないかと思いつつ、大学に入学したときからテレビをまったく見なくなってしまったと受けると、「日系のロックを聞いていますか?」と続く。また米津玄師とかYOASOBIとかあいみょんとかそういうアレだろうと察しつつ、日本だけじゃなくていろいろな国の音楽を聴くよとお茶を濁すと、ヨルシカは好きですかとあって、ヨルシカもYOASOBIも名前しか知らんというアレなんだが、これをきいてみてくださいといって春泥棒という楽曲へのリンクが送られてきたので、いちおう流しながら料理を続けたのだが、まあやっぱりそういう感じだよなとしかいいようがない。質問はさらに続いた。「先生は以前 婚活に参加したか」というので、どこでそんな言葉覚えたんだよというと、「ドラマ」という返事。しかしここで(…)くんがいっている「婚活」とはどうやらお見合いのことらしかった。そのお見合いをするひとはいまの日本にいるのかというので、ものすごく少ない、うちの祖父母の世代はほぼお見合い結婚だったと思うけど、いまは逆にほぼ恋愛結婚だよと受けてから、中国でもおなじでしょ? と返すと、「中国の若者の多くはやはりお見合い式があまり好きではない」「日本と欧米の恋愛思想の影響もある」「しかし、中国の人口のため、多くの人がこのような現実に直面しなければならず、やはり多くの若者がお見合いを選ぶ」「でも,僕はこの人生で絶対にお見合いに参加するわけにはいかない」とあったので、中国でも若者はほとんどお見合いなんてしないって以前学生から聞いたことがあるけどと応じると、むかしにくらべると少なくなったけれどもそれでもお見合い結婚をすることはあるとのこと。(…)くんは(…)省出身であるし、都市部に比べたらたしかにまだまだそういう若者も多いか、(…)先生だってお見合いみたいなもんだったと言っていたし、(…)さんだって一時帰国のたびに母親からお見合い相手を紹介されているわけであるし。(…)くんは元カノのことが忘れられないといった。先学期の終わりごろだったか、クラスのグループチャットでやりとりしていた際、一個下の彼女とはもう別れたという報告を受けたのだったが、そのときはいずれ日本に留学して日本人の彼女を作る! などとふざけていたものの、実際のところはどうも未練たらたららしい。別れた理由というのも彼女の高考がひかえているかららしく、であるから高考の終わる夏にもう一度会いましょうという約束もすでに交わしているようで、だったら実質的に別れていないようなもんじゃんとこちらは思うわけだが、受験勉強の邪魔にならないように電話も微信もおそらく封印しているのだろう、そしてそれがどうやらさみしくてたまらないようす。夏なんか目と鼻の先やんけ! 新学期はじまって授業受けて遊んでしとりゃ一瞬やわ! という感じであるが、しかしまだ18年しか生きていない彼に感じられる季節のめぐる速度とすでに37年生きているこちらに感じられるそれとはやっぱり全然違うわな。新学期がはじまったらまた一緒にメシを食いにいったり散歩したりしよう、そうやって楽しく過ごしていれば時間なんてあったという間にすぎるよとはげました。
 こしらえたものを食す。(…)さんの発表動画をまた15分ほど視聴する。もうそろそろ終わる。ベッドに移動し、「行人」(夏目漱石)の続きを読み進める。それから20分の仮眠。コーヒーを入れ、20時半から日語会話(三)の授業準備。第24課はアクティビティをこしらえるのがむずかしそうだったのでパスして第25課。内容は全然むずかしくないし、アクティビティも比較的こしらえやすいのだが、第23課とそのアクティビティの性質が似たり寄ったりになってしまうという弱点があることに気づいた。どうしたもんかなと思いつつ、22時半に中断してシャワーを浴びる。そして例によってひらめく。日語会話(三)では学期の中間に学生らによる発表を二週にわたってやってもらおうと考えているのだが、その発表の説明やこちらによる実演をどこかのタイミングでする必要がある、それを第23課か第25課の後半にねじこんでしまえばいいのでは? そうすれば似たり寄ったりのアクティビティを二週続けてやる必要もない。天才やな。
 あがる。ストレッチをし、腹筋を酷使する。プロテインを飲み、餃子を茹でて食し、ジャンプ+の更新をチェックする。歯磨きしながら「行人」(夏目漱石)の続きを読み進める。

 「行人」を最後まで読む。「根本義は死んでも生きても同じ事にならなければ、どうしても安心を得られない」という台詞を見て、そうか、生と死を「同じ事」として等号で結びつけることのできる論理さえ発明できれば、それは死の克服(不死の達成)といえるのだなと、けっこう当たり前なことをいまさら思った。あと、一郎がその友人に対して「しかしどうしたらこの研究的な僕が、実行的な僕に変化できるだろう。どうぞ教えてくれ」と頼む場面があるのだが、これは先日の記事で引いた、一郎が弟(二郎)に対して「ああおれはどうしても信じられない。どうしても信じられない。ただ考えて、考えて、考えるだけだ。二郎、どうかおれを信じられるようにしてくれ」と口にする場面と対応しているなと思った。この二つの場面はけっこうデカいフックだと思う。自己すなわち神という論理を持ち出している一郎が、(自身より理知的でない)他者を相手に進めていく議論——あるいは腹を割って語る内心——のそのきわまりにおいて、すがりつくように頼みこむように「〜てくれ」とほかでもない目の前の他者に対して口にする、このふるまいの時点で、自己すなわち神という論理は崩壊しているわけであるし。
 今日づけの記事の続きを途中まで書く。それからベッドに移動し、岡田利規マリファナの害について」を読む。続けて「労苦の終わり」も途中まで読んで就寝。