20230207

 いまはとにかく重いことやわかりにくいことが敬遠されがちで、複雑な厚みを持つ人間よりも単純明快なキャラが求められるようになりました。そして、多様性(=ダイバーシティ)の旗印のもとで現実化したのは、多様な逸脱を認める鷹揚さではなく、逸脱のすべてを「普通」の中に包摂(インクルージョン)することで、はじめからなかったことにしてしまおうという世界のクリーン化でした。このことを通して、表面的なきれいさに覆われた軽やかな社会の「正しさ」は、単に自分が周りとうまく歩調を合わせられているかどうかを確認するための平板なものになりました。
(鳥羽和久『君は君の人生の主役になれ』)



 13時にアラームで起床。起床と同時に腹痛をおぼえて便所に駆け込む。下痢ラ豪雨。なんでや? きのうのラーメンのせいか? (…)から明日パスポートの回収に向かう、回収を終えたら連絡するという微信が届いている。朝のはやい彼女のことであるし、午前中には大学にパスポートをもってやってくるかもしれない。生活リズムをどうにかたてなおしたい。10時起床生活を送りたい。
 歯磨きしながらスマホでニュースをチェックする。起き抜けの下痢のせいでか知らんが、体がとにかく冷えて仕方ないので、暖房の設定を19度にあげる。トースト二枚の食事をとり、白湯を飲み、コーヒーを淹れる。それからきのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、2022年2月7日づけの記事を読み返し。以下、『やってくる』(郡司ペギオ幸夫)より。初出は2021年2月7日づけの記事。

 〈認識する〉と〈感じる〉のミスマッチは、ミスマッチという段階で完了するのではなく、両者の間にずれ=スキマ=ギャップをもたらし、そこに外部を召喚する。(…)私たちが日常的に感じるリアリティもまた、それと同じ仕組みで外部からやってきたと考えられます。(…)
(…)
 私は、パジャマのような服を着せられた「ねこ」を見たことがあります。それは年老いて毛艶も衰えたねこで、一見すると猫か猫でないか判然としないほどでした。ここでは、現実に存在する目の前のネコを平仮名で「ねこ」と、抽象的な概念としてのネコを漢字で「猫」と表しています。つまり〈感じられる〉ねこと、〈認識される〉猫、です。
 さてここで、「ねこ」がどのように「猫」と判定されたか、思い出してみます。
 まず、縞模様なので「猫である」と判定されました。まれに鳴く声もやはりニャアと聞こえ、「猫である」と判定できる。しかしそのパジャマの着方は堂に入ったもので、まるで人間が着ぐるみを着ているようにも見える。この限りで「猫ではない」と判定できる。また力のない体毛はいたるところで渦を巻き、まるで乾燥した苔のようです。そうするとやはり「猫ではない」と判定できるのです。
(…)
 この多様な属性に関する判断はいずれ打ち止めとなり、そこで「猫である」か「猫でない」かの最終的判断が下されることになります。たとえば、「猫である」とする判定が多数を占めたからとか、猫にとって本質的と思われる属性に関して「猫である」と判定されたからとか、そのような理由で最終的に「猫である」と判断された、ということになりそうです。
 しかし判断すべき属性の数は無限にあります。そのちょうど都合のいいところで判断をやめ、多数決で決めたとも言えます。ならば属性の数を増やせば結果は変わるかもしれません。判断をもう少し繰り返せば、猫にとってもっと本質的である属性が見つかったかもしれません。そうなるとやはり、最終判断は変わったかもしれない。
 つまり、判断すべき属性の数を有限で打ち切ることでなされる「猫である」という最終判断は、「猫である」と判断したいがために属性の列挙を止めた判断、とも言えてしまう。最終判断は、きわめて恣意的で無根拠なものとなってしまう。するとこう言えるでしょう。
 「猫である」と「猫でない」の両者をともに対等に満たしながら、ただ、


「猫ではない」というよりはむしろ「猫である」


という程度に「猫である」と判断されたにすぎない、と。
(…)
 この議論が年老いた猫にのみ起因する特殊なものではなく、決して一般性を失わないことは明らかでしょう。どんなものであっても、「Aである」と判断しようとすると、「Aである」と「Aでない」の両方が成立してしまう。普通に考えたら決定不能に陥ります。にもかかわらず、《「Aでない」というよりはむしろ「Aである」》という程度に、「Aである」と決定されるのです。
 ではどのように、この「〜というよりはむしろ」を考えればいいのでしょうか。「Aである」と「Aでない」が両義的であるにもかかわらず、決定不能に陥らず、いずれかに最終決定されることをどう理解すればいいのでしょうか。
(…)
 私たちが判断を迫られるとき、注目される文脈が用意されている。たとえばここでは、目の前にいる「ねこ」が猫か犬かの判断を迫られているわけです。この注目されている文脈、つまり「猫か犬」文脈においては、ねこは猫であると判断される。縞模様やニャアという鳴き声は、犬ではないという意味において、猫でない可能性がないのです。「猫か犬」文脈において、「猫でない」は犬を意味してしまいますから、犬でない以上、猫でない可能性は排除される。
 しかし、苔かもしれない、人かもしれない、という意味での「猫でない」可能性も本来はあるはずです。それらがどこへ行くのかというと、「猫か犬」文脈の外部に位置付けられ、無視されるのです。文脈外部に追いやられ無視されるというのは、完全に排除され、消え去ってしまったわけではありません。存在するのにただ無視されるだけなのです。これが、「〜というよりはむしろ」の意味ということになります。
(…)この文脈だけが世界に存在し、それ以外は何もないのなら、この文脈に対する疑いや懸念は一切伴わないでしょう。文脈の外部は存在しないことになります。しかし「猫か犬」文脈が孤立していないことに対する無意識の受動的知覚が、「何か足りない」という無意識の能動的叫びを喚起し、外部に追いやられたはずの「猫でない」可能性をぼんやりと伴わせてしまうのです。
 この潜在する「猫でない」可能性こそが、「猫である」という一つの判断にリアリティを与えるものになる。それは「猫である」と確定しながら、その判断に自身を持てない不安感であり、「猫である」と断定しながら、同時にそのあまりに猫らしくない部分に感じられるおかしみであるのです。潜在する「Aでない」の有する力こそが、「Aでないというよりはむしろ」を表現し、「A」のリアリティを立ち上げているのです。
(…)
 哲学者ライプニッツは、「物事にはすべてそれが存在しない、というよりはむしろ、存在する理由がある」という根拠の与え方として、充足理由律を提唱しました。
 何か論理的な展開、哲学的思惟を進めるときの前提Xは、「XでないというよりはむしろXである」という程度に保証される。だとするとそれは、いつ転倒するかわからない。その転倒の可能性を指摘したのが、近年哲学の新しい潮流として捉えられている思弁的実在論や、新しい実在論です。
 しかし転倒の可能性は、数学や哲学の根本的な部分にだけあるのではなく、日々の私たちの知覚、認知のすべてにあるのです。私が言いたいのは、決定不能性をギリギリ回避しながらも担保される「AでないというよりはむしろAである」の持つ危うさ、ではありません。転倒する可能性だけを危惧していては、まるで空が落ちてくることを心配する者のようです。そんなことはどうでもいい。
 私が強調したいのは、「AでないというよりはむしろAである」は、「AでありながらもAでないを潜ませている」ことであり、その潜んでいるものこそが、リアリティと考えることができるという点です。心配ではなく、リアリティを立ち上げるための肯定的表現として、議論を押し広げることができる。外部を考えるとき、リアリティを積極的に取り込んだ形で、知覚や認知、意識や心を構想できるのです。
(郡司ペギオ幸夫『やってくる』 p.77-83)

 2013年2月7日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に転載する。まず『物質的恍惚』より。

なぜいつまでも、感情のうちに、個々別々の力、ときには矛盾し合いさえする力があるという見方にこだわるのか? いくつかの感情があるのではない。ただ一つの、生命の形があるだけ、それが多種多様な力にしたがってわれわれに顕示されるのだ。この形をこそ、われわれは再発見せねばならぬ。この形、無の反対物、眼の輝きの湾、光と火との河、それは絶え間なく、弱さなしに、こうして、人を導き、引っ張ってゆくのだ、死にいたるまで。
ル・クレジオ豊崎光一・訳『物質的恍惚』)

 以下は「S&T」について。当時はまだ「偶景」という仮題だったし、100枚ちょっとしか書いていない段階であるのだが、すでに弱点の自覚はあった模様。

ブログに書いたものからの引用が目立つ。もちろんそれ相応のかたちに文章を整えはするが。それに箴言や考察の類。そんなものばかりが続くと、こんなんでいいんだろうかという違和感を覚えたりもする。これらの断章は描写にこそ特化すべきなんではないか、と。雑多性を許容しやすい断章形式に甘えるのも退屈な話なんじゃないか、と。「意味」なんてものはここにおいてはただの不純物でしかないのではないか、と。

 結局、「雑多性を許容しやすい断章形式に」甘える、というよりはその不純さに賭ける気持ちでコンセプチュアルであることを放棄するにいたったわけだが、うーん、あの決断はやっぱりちょっと失敗だったよなァと思う。雑多性と不純さに賭けるのであれば、もっとラディカルにそうするべきだったし、枚数的にも1000枚オーバーすべきだった、それだけの分量をそなえてはじめて生じる説得力があったと思う。そういう意味で『S&T』はいろいろ中途半端な一冊になってしまった。
 あと、この日の記事の最後には、「ところで、これ(…)すごい似てる」という一文とともにYahooニュースへのURLがはられているのだが、そのリンクは十年後の現在すでに機能していない。で、こういうのって保存してあるページがあったりするのかなと思って検索バーにURLをペーストしてググってみたところ、見つかって、「75歳の芥川賞受賞作家・黒田夏子さんが「結婚しない理由」」という記事だった。

第148回の芥川賞を、短編『abさんご』で受賞した黒川夏子さん(75)。昭和12年3月23日、東京・赤坂に生まれた黒川さんは、史上最年長の受賞者だ。
「幸いにして健康ですので、後期高齢者ですが(笑)、体の衰えに対して焦りはありませんね。夜は早くても24時の就寝。6時間くらい寝て起きます。私は、筆がだんだん乗ってくるタイプなので、食事を含めて朝の雑用をすませたら、そこから執筆に入っていきたいんです」(黒田さん・以下同)
書くことの前では、食べる行為さえ「雑用」と語る。食事は2度。朝食はパンと紅茶。夜も簡単なもので済ませるという。書く勢いを止めないために昼食はなし。夕食を抜く日もある。5歳で処女作を書き、終戦を迎えた小学3年生のころには「すでに『私は書く側の人間だ』と感じていました」と語る。
「まあ、これまでの何十年間のなかで、(恋人は)何人かはいましたよ。でも、高校も女のコばかりの環境。大学で初めてですかね……。男性とは対等な関係を求めます。お相手も、結局は物を書いている方が多かったんです」
20歳のとき、同人誌『砂城』の創刊に参加。大学卒業後は国語教師となり、横須賀の女子高へ赴任するが、考えていた以上に教師の生活には自分の時間がなかった。24歳のとき「これでは"本業"に時間を割けない」という理由から、2年間の教師生活を終えた。以降、さまざまなアルバイトで生計を立ててきた。
「タオル問屋で名入れタオルに熨斗をかけたり。赤坂の料亭の帳場でも働きました。当時はギリギリでもいいから『書く時間がほしい』というのが願いでした。『勤務は短時間でいいから』とわざと稼ぎの少ない仕事を選んでいたわけです。執筆のために」
20代も半ばで、安定した教師の仕事を棄てた彼女だが、当時の風潮からいけば女性の多くは結婚を考える年ごろでもある。恋愛に関してはあまり話が進まなかったが、結婚について聞いたときは、今度はきっぱりと答えが返ってきた。
「いいえ。一度も考えたことはないです、正式な結婚というのは。初めから子供をつくる気もありませんでした。一生物を書いていこうと思っていたから、それ以外にエネルギーを費やすことは考えなかった。『家族を持つ』という考えは捨てたんです」

 「すごい似てる」というのは、「書くことの前では、食べる行為さえ「雑用」と語る」とか、「当時はギリギリでもいいから『書く時間がほしい』というのが願いでした。『勤務は短時間でいいから』とわざと稼ぎの少ない仕事を選んでいたわけです。執筆のために」とか、「一生物を書いていこうと思っていたから、それ以外にエネルギーを費やすことは考えなかった。『家族を持つ』という考えは捨てたんです」とか、このあたりのことを言っているのだろう(逆に、「5歳で処女作を書き、終戦を迎えた小学3年生のころには「すでに『私は書く側の人間だ』と感じていました」」というような早熟エピソードはこちらにはまったくない、そもそも本を読みはじめたのが二十歳ごろからなので)。しかしこうして読み返してみて、あらためて引いてみて思ったのだが、こういう考えをじぶんはいつからか他人に話したり日記に書きつけたりしなくなったな。考え方はまったく変わっていないし、というかむしろこうした考えはもはや当たり前のアレとしてじぶんの心身になじみきってしまっているのでいまさら言葉にすることもないということなのかもしれんが、それでいうと、むかしはことあるごとにこういうことを書いていたように思う、あれはやっぱり世間様の常識や通念に対するいらだちがそれだけ強烈だったからなのだろうか? 周囲の無理解に対する怒りがあったからなのだろうか? まあたしかに当時は年長者である(…)さんや(…)さんからしょっちゅう、そんな生活のままではいけないとか将来を考えたほうがいいとか、いまは若いからそんなふうに思っているだけで将来きっと後悔するとか、頼んでもいない人生相談のていでいろいろ口煩く言われることも多くそれにかなりいらついていたのは確かだ。だからそれに対するおめえらうるせえぞおっさんおばさんはひっこんどれみたいなアレもあって、しょっちゅうブログにそういう考えを書きつけていたのかもしれない。
 ただ十年前となにひとつ変わっていないかといえば全然そんなことなく、読み書きの時間を確保するためにも労働時間少なめ給料少なめの仕事を選ぶというアレは変わっていないし結婚生活にもまったく魅力を感じないものの(こちらは三十代前半まで年収が100万円を超えたことが一度もないし、結婚願望を持ったことは一秒もない)、仮に一生働かなくてもすむ大金が入ったとして、その場合は読み書きに専念してほかのことは一切しない——そういうふうにはいまはもう思わなくなった。十年前の時点ではまだ24時間365日をいかに読み書きにのみ費やすか、そのためにはなにをしなければならないかというあたまがあったので、書きあげた小説も新人賞に応募していたわけだが、いまは仮に大金が手元に転がりこんできたとしても、おそらく週に二日はどこかでバイトするだろうと思う、それもこれまでどおり文学や芸術とは縁のない世界で——というふうに考えるようになったのもやはり(…)でのめちゃくちゃすぎる腐った神話のような日々のためであって、やっぱりあの日々は本当にでかかったなと思う。いま(…)で過ごしている日々も十年後のじぶんによってそう思い返されることになるのだろうか? できればそうであってほしい。

 今日づけの記事をここまで書く。時刻は17時。街着に着替えて買い物に出かける。自転車に乗って(…)へ。交差点の歩行者信号は切れたままであるし、店内二階にある生活必需品コーナーにはスポンジが売っていない。なんべんでも書いてやる、信号が復旧するまで、店がスポンジを取り扱うようになるまで、これから先なんべんでもなんべんでもしつこく日記に書いてやる。
 店内の客は今日も少ない。野菜コーナーで青梗菜と謎の葉物こと广东菜心とトマトとパクチーを買い、精肉コーナーで豚肉五パックを買う。あとは冷食の海老餃子も。レジで支払いをすませ、顔認証ロッカーにあずけてあったリュックサックを取り出し、そのまま店の外に出たところで、往路の時点でも思っていたことであるがあらためて、あれ? ちょっと空気悪すぎるんじゃないの? と思った。いまにも降り出しそうな空模様であるのだが、実際は降っていない、ただ遠い景色が濃霧越しにながめたときのようにひどく曖昧模糊としている。それにくわえてマスク越しにも石炭のようなにおいがするし、慎重に嗅ぎ分けてみると、(…)をあぶったときのようなケミカルな異臭が混じっている。こんな中でジョギングなんかしたら自殺行為だ。
 帰宅。キッチンに立つ。不意に吉田一郎不可触世界がききたくなったので『あぱんだ』を流しながら、米を炊き、豚肉とレタスとトマトと青梗菜とニンニクをカットしてタジン鍋にドーンし、レンジでチーンする。それから(…)さんの発表動画を最後まで観る。これだけ観てもはっきりしない部分が多いし、まずは樫村晴香の論考をちゃんと読むか。その後(…)さんからもらった(映像ではない、文章の)資料に目を通せばいいかな。
 生活リズムがアレなので仮眠はとらず活動を継続する。学生たちもモーメンツでぼちぼち高铁の切符を買ったという報告をしていたりする。みんな新学期がはじまってほしくないとかすでに夏休みのことを考えているとか、そういうあれこれを口にしているわけだが、そう考えると学校というのはなかなか不思議なもんだ。教師も学生もみんな新学期なんてはじまってほしくない、このままずっと休みがいいと嘆いている、にもかかわらず全員その新学期にちゃんと戻ってくるのだ。いや、そんなことは当たり前なんだが、その当たり前が冷静に考えるとちょっとおもしろい。
 浴室でシャワーを浴びる。あがってストレッチ。朝から下痢ラ豪雨だったので筋トレはおやすみ。コーヒーも夜はひかえる。かわりに白湯を飲みながら授業準備。日語会話(三)の第25課続き。アクティビティ用の問題をこしらえて完成。一種のクイズみたいなもの。ぼちぼち盛りあがるんではないでしょうか。
 作業中は十数年ぶりに□□□を流した。三浦康嗣がスタジオ設立のためにクラファンしているみたいな情報をどこかで見かけて、それで□□□っていまどうなっているんだと思ったのだが、フルアルバムは2013年の『JAPANESE COUPLE』が最後、その後ミニアルバムを二枚リリースしているけれどもその二枚目のほうは2017年、以降リリースなしという感じらしい。ひとまずかつてきいたことのある二枚、『TONIGHT』と『everyday is a symphony』をひさしぶりに流したのだが、この当時はまだcommmons所属だったのが、途中からasian gothic labelというところに移動している。the band apartの主催するレーベルらしいのだが、え? そこにつながるの? とこれはちょっと意外。
 その後、樫村晴香の「Quid? ソレハ何カ 私ハ何カ」を印刷。それから阳台で使うためのラックとルームフレグランスをポチる。後者は浴室の窓際に置くかもしれんけど。餃子を茹でて食し、ジャンプ+の更新をチェックし、歯磨きをすませてからベッドに移動。「Quid? ソレハ何カ 私ハ何カ」を赤ペン片手に読む。

 途中、論旨を追うのに苦労する箇所もやはりあるのだが(楳図かずお作品における男性と女性の役割のあたり——つまり、この論考の核にあたるポイントはやはりむずかしいのだが)、それでも全然読める、全然かじりついていくことができる。少なくとも論旨のおおまかな流れは追うことができるし、どこがわからないかを自覚することもできる。それにしてもこれ、やっぱりすさまじい密度の論考だと思う。「ドゥルーズのどこが間違っているか?」なんかに比べたら、まだまだずっととっつきやすいと思うし、前提とされる知識もそれほど必要ないと思うのだが(だからといって精神分析の知識抜きで読むのはかなりきついと思うけど)、それでもめちゃくちゃ圧縮されているなという感じ。これだけでひとつのテーゼとして打ち出せる、これだけで十分ひとつの論考の結部たりえるみたいなアレが、論旨の通過点としてさらりと言及されるにとどまる、それよりさらに先へ先へと進んでいく論旨によってガンガン置き去りにされていく、その速度がえげつない。何周先にいるんだという感じ。「隠喩は事態を示唆するが、分節しない」みたいな、なにげにこれすごいこといってんじゃないのみたいな言葉もさらっと放り出されているし。
 「Quid? ソレハ何カ 私ハ何カ」については、これはもう定期的に読み返すことにする。文章の量としてはそれほど長いものでもないわけだし、くりかえし読んでいけば、けっこうなところにまで理解が届くんではないかという手応えがある。本を一冊読み終えるたびごとに再読するみたいなかたちにすればいいかも。
 それからEverything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)の続きを読み進めて就寝。