20230330

 しかし以前からラカンを読んできた者なら、特定の命題、たとえば不安についての命願をまず突きとめ、それをさらに補強し、臨床的に応用することが、どれほど思うようにいかないことであるかを知っている。これはラカンの側での神経症的戦略、すなわち回避なのだろうか。ラカンはピン留めされることを回避しているのだろうか。ピン留めされれば一定の立場を取らざるをえなくなり、特定の命題や論証を用いるリスクも背負うことになり、その結果自分自身が去勢(限界確定や批判など)にさらされてしまうからだ。私は、神経症的回避をそんなに簡単に無視していいとも思わないが、とはいえ、それが本質的なことだともほとんど思えない。実のところ、この回避を神経症に分類するとき、その前提には、具体的な命題を提供することはそれ自体で価値ある目標である、という考えがある。言い換えれば、それは理論に対して強迫的なスタンダードを採用することである。これによると、理論は、私たちが検証(敬服あるいは嘲笑)できるように、個別的で識別可能な対象(糞便のようなもの)を生産しなければならないのである。
 非常に多くの理論的な書きものが、まさにこのような前提を採用している。この前提は、本質的には強迫的な偏見であり、その大部分が、遠慮なしにこう呼ばせてもらえれば、「肛門的で男性的な学術書きもの」に結びついている。なぜこんなものが、ラカンの書きものをはかる尺度でなければならないのか。おそらく、私たちはむしろ、最終生産物ではなくラカンの書きものの流れあるいはプロセスにこそ、すなわちその捻れと転回、再帰的スタイル、そして運動にこそ、目をみはるべきである。ラカンソシュールの仕事の何を評価したかについて考えてみよう。彼は『一般言語学講義』を「その名に値する教育、すなわち、それ自身の運動にのみ目を向けるような教育を伝達するという点で最も重要な出版物」(…)と呼んでいる。ラカンの考えでは、その名に値する教育とは、ひとつの完全で完璧な体系をつくりだすことで終わってはならないし、結局のところそんなものは存在しない。真の教育は絶えず進化し、自らを問いに付し、新しい概念をつくり続ける。
 要するに、強迫的なスタンスを採用するなら、ひとはこう言うことができる。すなわち、私たちにはラカンを寸評し、彼に価値があるかを確かめるための(肛門的)贈り物が必要なのに、彼はそれを与えるのを回避しているのだ、と。あるいはもっとヒステリー的なスタンス——ラカン自身のスタンスに近い——を採用するなら、こうも言える。ラカン自身、自らのテクストを、何らかの完結した理論や体系を構成するものとはみなしていない、と。1966年に『エクリ』が出版されたときに彼がその本を提示した仕方から見れば、それが作りかけ(ワークインプログレス)であることにほぼ疑いの余地はない。ここで特に、ジャン=リュック・ナンシーとフィリップ・ラクー=ラバルトの「文字の審級」読解に対する彼の1973年のコメントについて考えてみよう。ラカンはそれが、その時点までに自分の作品になされた読解のうち最も優れたものであると主張している(…)。しかしラカンの考えでは、彼らは、その本の後半部分で誤りを犯している。というのもそこで彼らは、ラカンにひとつの体系があると想定し、あまつさえその体系についてきわめて複雑なダイアグラムを提供しているからである。
 それに対してラカンは、自分自身の作品を、フロイトの作品を見るのと同じ仕方で捉えている。ラカンが繰り返し述べているように、後期フロイトを評価して、それと引き換えに初期フロイトを貶める、などということはできない(…)。フロイトの作品は、その捻れと転回、再定式化、新たな局所論の配置という水準で捉えられねばならない。フロイトの後期の定式は彼の初期の定式を無効にしたり取り消したりしない。後期の定式は、ある種の止揚(乗り越えのなかで押さえ込むと同時に維持すること)において初期の定式をさらに補強している。私たちがフロイトを本当に理解するようになるのは、エス/自我/超自我の局所論を把握することによってではない。特殊な理論的および臨床的な問題を扱うために次々と局所論を発明していくさまや、それらに満足がいかなくなった理由を見ることによってである。実際、ポストフロイト派の精神分析家たちの仕事に対しラカンが投げかける批判の要点は、彼らのフロイトの読み方に関係している。彼らは、あちらこちらから概念を取りだしては、まったく無関係な文脈にそれを置き、他方でフロイトの書きもののなかでそれを取り囲んでいた他の一切合切を置き去りにしてもよいと考えているのだ。
(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳『「エクリ」を読む 文字に添って』 p.101-102)



 何時に起きたか忘れた。11時ごろやろたぶん。今日はひっさびさに晴れた。青空を見るのはいったい何週間ぶりだろう? 例によって第五食堂で打包したのだが、徒歩片道3分未満の道のりのあいだに10回近くくしゃみをするはめになった。薬飲んどるんやが全然あかん。それで薬箱の代わりになっているナイトテーブルの引き出しの中から去年淘宝で買った鼻の入り口付近に綿棒で塗りつけるタイプの薬を取り出し、塗布することにした。これ、たしかタイ産のものだったと思うんやが、効果はマジでクソ絶大で、しっかり塗っておきさえすれば、マスクなしで外出しても平気だったりするのだ。日本にいたころも、リップクリームだのワセリンだのを鼻の入り口付近に塗るといいみたいな情報を目に耳にしたことがあり、実際ためしてみたこともあるのだが、全然ダメだった、あれはそのとき使っていたリップクリームが単純にダメだったのか、それとも日本のスギおよびヒノキの花粉が小細工などものともせんくらいマジでクソえげつないということなのか。
 なんでもええわ。メシ食ってコーヒー飲んで授業の直前チェック。朝、(…)くんから微信が届いていたので、それに対して返信。きのうはしばらく高校での日本語教師を続けるつもりだといったが、やはりもうやめたい、嫌になってくるという愚痴。彼が勤めているのは私立高校らしく、学生らの態度が全然よくないのだという。中国では基本的に私立高校は金持ちのボンボンが通うバカ学校だったはず(大学もほぼ同様で、私大はだいたいレベルが低いという話を聞いたことがある)。(…)くんいわく「学生に対して、たぶんお客様みたい感じだ」とのこと。ちなみに学費は年間5万元。授業中、学生たちはほとんど寝ていたりおしゃべりしていたりするらしい。(…)くんは大学時代にクラスでいちばんの美人と称されていたほど美形かつ小柄の、外見のみならず喋り方もはっきりそれとわかるゲイなので、それで金持ちのバカ息子どもになめられている節もあるんだろう。このタイミングでこちらと会いたいというのも、もしかしたら進路に思い悩んでのことなのかもしれない。あるいは彼がゲイであることを知らない両親から見合いをすすめられており、それで相談したいという切実な悩みを抱えている可能性もある。
 その(…)くんより一学年下の(…)くんからも微信。また仕事の件。例のバリカンについて、パッケージに同封するカスタマーセンターからのメッセージカード(日本語)をこちらに書いてほしい、と。文面はすでに存在しているのだが、wordなどは使わず手書きにしたいと、(…)くんいうところのbossが考えているらしい。それで日本人であるこちらに白羽の矢が立ったらしい(「このたびはお買い上げありがとうございます。カスタマーサポートセンターの◯◯です」みたいな文章からはじまる便箋一枚分のメッセージカードをこちらが書いてスキャン、それをコピーしたものを商品に同封するという趣向だろう)。金も出すというのだが、実際にやるとなったら文面のあやまりも修正する必要があるだろうし、おそらく指定のかわいらしい便箋を用意する必要もあるだろうし、さらにそれをスキャンする必要もあるしで、考えるだけでそのひと手間ひと手間がめんどうくさくてたまらない。だから、文面にある担当者の名前は女性になっているが、こちらの筆跡はだれがどう見ても男性のそれなので、ほかのひとにたのんだほうがいいといって断った。(…)くんは食い下がったが、仕事が忙しいから無理だともう一度つっぱねた。便箋一枚分の文章を手書きして金がもらえるのであれば万々歳なのかもしれんが、めんどうくささがどうして勝ってしまう。
 時間になったところで出発。自転車にのって南門付近へ。バス停に移動してバスに乗る。最後部にて『水死』(大江健三郎)の続きを読む。同乗している男性教師がまたしてもスマホからでかい音量で中国版演歌みたいなものを流しはじめたのにうんざりしてイヤホンで耳穴を閉じる。『We Hear the Last Decades Dreaming』(Chari Chari)をひさしぶりにきく。途中で気持ちよくなってきたので書見を中止し、窓の外の快晴の街並みをしばらくぼうっとながめた。ちなみにこの名義で音楽を作っている方は、こちらが『A』をリリースしてほどないころ、Twitterで好意的に言及してくれたのだった(こちらはそのツイートきっかけに、あ、こんなミュージシャンがいるんだと知り、その後音源を探したのだった)。
 終点でおりる。売店でミネラルウォーターを買う。地獄の便所で小便をすませる。14時半から日語会話(二)。例によって(…)さんと男子学生らをのぞくほかの学生らがみんな後ろにかたまる。マジでこのクラス過去になんかあったよなとあらためて思う。前半で基礎練習、後半でアクティビティ。基礎練習中はずっとスマホを見ているだけの女子学生もけっこういる。一年生の後期でこれってなかなかめずらしい。後半は死ぬほど盛りあがったので問題なし。しかし気になるな。くりかえしをおそれずなんどでも書くが、(…)の学生でこれだけモチベーションの低いクラスってこれまで一度もなかったんだよな。
 急いでバスに乗る。いつも逃してしまうやつに無事ぎりぎり乗りこむことができる。またケツに着席し、またChari Chariを流し、また『水死』を読む。途中、ふとKindleから顔をあげると、窓の外にLAWSONがあり、わ! となった。以前(…)さんと(…)さんといっしょにおとずれた店舗ではない、別の支店っぽい。LAWSONなんて京都にいたころは外れコンビニ扱いだったのだが(こちらのなかではデイリーヤマザキよりもさらに下だった、というかデイリーヤマザキは焼きたてのパンがふつうにうまかったので、ベーカリー併設の店舗はむしろ当たりだった)、いわゆる日本風のコンビニのいっさい見当たらないこの街に住んでいると、まるで神様のようだ(実際、このとき、ほんの一瞬だけだが、バスをいったんおりて店をのぞこうかなと思ったくらいだ)。
 終点でおりる。(…)で食パンを三袋買う。新校区に入り、自転車にのって第五食堂に向かう。打包して帰宅。食す。すぐにベッドに移動して仮眠。20分ほどで起きるつもりだったが、小一時間眠りほうけてしまった。上の部屋の馬鹿が椅子をひきずる音で目が覚めた。目を覚ますことができたのはよかったが、うるさいのはクソムカつくので、ひさしぶりに吠えておいた。一年生の(…)くんから『平家物語』の冒頭原文を知りたいという微信が届いたので、ググってコピペして送信。しかしなんでや?
 シャワーを浴びる。ストレッチをし、コーヒーを飲みながら、きのうづけの記事の続きを書いて投稿する。ウェブ各所を巡回し、2022年3月30日づけの記事を読み返す。「2020年3月30日づけの記事を引いての考察」だという2021年3月30日づけの記事が引かれている。

《「意味」「比喩」「物語」を唾棄すべきものとする現代文学的な極論に対する反発は、ドゥルーズ=ガタリのある種のわかりやすさ(極端さ)よりもあえてラカンに可能性を見出そうとするじぶんの興味関心と軌を一にしている。いや、ドゥルーズ=ガタリのいう過程は、紋切り型(物語)を結果的になぞることもあるだろうし、というか過程とはあくまでも紋切り型(物語)を前提とした上でそこからの逃走線であるものかもしれないわけだが(蓮實重彦はこの立場だ)、過程の逃走的側面ばかりが注目されてしまっているのがやはりドゥルーズ=ガタリなのではないか。そうではない側面、つまり、部分的な妥協や迎合や去勢の側面を無視せず、逃走と同じ程度に重視すること――そのような中途半端さ、雑多性、混濁にこそ物語ではない小説が、その内容ないしは形式として生の似姿となるのではないか。》という箇所が特に重要だ。現実は物語と異なり、断片的で、バラバラで、偶然性に満ちている、しかるがゆえに小説もそのようなかたちで書かれなければならないという反物語としての小説論の立場は、それはそれで納得がいくしこちらとしてもなじみのあるものなのだが、しかしそのような断片性、散逸性、偶然性をたびたびまとめあげてしまうひとの認知をおろそかにするのはどうなのだろうか? あるいはその認知については、「小説作品」と「読者」という構図に織り込み済みであるという立場もあるのかもしれないが、こちらがやりたいのはむしろその「読者」それ自体を小説の一要素として小説の内側に書きこんでしまうということなのだ(そして、それこそがメタフィクションである、というわけだ)。現実的な出来事の立場(無意味)にも寄らず、想像的な物語の立場(物語)にも寄らず、象徴化(まとめあげ)の過程(「部分的な妥協や迎合や去勢の側面」を「逃走と同じ程度に重視する」)にこそ重心を置く——それこそがこちらの目論みなのだ。

 以下も2021年3月30日づけの記事より。姪っ子の話。

(…)は変にぐずっているようにみえた。夕食の卓になかなか座ろうとせず、ただこちらに抱っこをせがみつづけた。どうやら眠たいらしい。小さな子どもはなぜ眠たくなるとぐずるのだろうか? あれは眠気がなにか、空腹や発熱や痛みなどと同様、不快なものとして感じられているということだろうか? そうかもしれない。なるほど、眠気に抗ったりそれを受け入れたりする(すなわち「落ちる」)瞬間の甘美さというのは、たしかに快とも不快ともつかない、両者をブレンドしたいわば一種の享楽のように思われる。眠りというのが疑似的な死であることを考えても、それが快楽のタームではなく享楽のタームで語るべき事柄であるのは確かではないか。これ、ラカン派界隈でまだ発見されていないエウレカでは? さすがにそれはないか。

 さらに2013年3月30日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。「(…)さんと(…)さんが出勤するなり大喧嘩。どちらも帰るだの辞めるだの叫んでわめいての混沌たる早朝」との記述に、あー! そんなことあったな! と思った。(…)さんと(…)さんのふたりだ。朝っぱらからおばちゃんとおばあちゃんがほとんど取っ組み合いになるんではないかといういきおいで揉めまくり、これにはなかなかけっこう唖然とした(それでいて昼休憩になるころにはふたりともけろりとしている、そのようすがまたこちらにはなかなか衝撃的だった)。「夜は社長経由で九州ヤクザの団体が宿泊。明日あさってと計三日にわたり連泊するとかなんとか」という記述には、あー! そうだった、そうだった! 毎年花見の季節にはヤクザの団体客が貸し切りでやってくるんだった! と思い出した。年に一度の恒例行事であるのに、これも記事を読み返すまですっかり忘れていた。「実弾(仮)」に組み込もうかな?

 今日づけの記事もここまで書くと22時半だった。VPNがどうも安定しない。なんかまたやばい事件があったんだろうか? 明日の日語会話(一)にそなえてあらためて資料をチェックして一部改良。これだったら問題ないというところまでもっていく。資料を印刷し、データをUSBメモリに移す。
 それから「本気で学ぶ中国語」。途中、腹筋ローラーをし、プロテインを飲み、トースト二枚食し、ジャンプ+の更新をチェックする。歯磨きをすませたのち、2時前までぶつくさ音読しまくる。ベッドに移動し、『水死』(大江健三郎)の続きを読み進めて就寝。これ、めちゃくちゃおもろいな!