20230401

 ここで、そうしたシニフィアンの例として、フォルト - ダーの二項(…)を取り上げよう。フォルト - ダーは自らが示すものを、現前させると同時に抹消することに注意したい。すなわちフォルト - ダーは、目の前にいなくても母について語ることを可能にし、それゆえ母を不在において現前させることができる。同時に、目の前にいるときでも母をそこにいないものとして考えることもまた可能となる。これはつまり、母が、以前と同じ仕方では決して再び目の前に現れてくれないということだ。シニフィアンによって子どもが、母の現前に際して不在を想像し、つまるところ、そこにいるのにどこかへいってしまうのではと心配することができるようになることで、いわば無媒介的な現前といったものが不可能になるのである。現前している対象としての母に対する子どもの関係、すなわち子どもの対象関係は、子どもが言語のなかに入り込む以前のように「満たされる」ことは決してないだろう。これ以降、子どもはつねに避けがたく何かを欠いているように感じ、その欠如を埋めることを欲望するようになるだろう(これが子どもの「存在欠如」である)。シニフィアンが現前のうちにもたらしたこの隙間を埋めることは不可能な作業だが、子どもは、それにもかかわらず、新たな対象が現れるたびに、その対象によって埋め合わせができるのではないかと期待する。こうして、子どもの欲望は、次の対象が前の対象よりも隙間をよりよく埋めてくれるだろうという望みを抱きながら、ある対象から次の対象へと、終わらない横滑りに誘い込まれ、導かれるのである。ここでラカンが述べているように、欲望の謎の基礎にあるのは次の事実である。すなわち、「本能は[……]他の何かへの欲望へ向けて永遠に広がる換喩のレールの上に捕らえられている」(…)。生物学的な本能は、言語へと挿入されることによって人間の欲望へと変容する。そうして存在のなかの欠如(あるいは存在の欠如)を埋め合わせようとして、ある対象から次の対象へ、また次の対象へ、そしてまたその次へと、いやおうなしに引っ立てられていくのだ。これは大ざっぱな注解であり、対象aなどのラカンの後の諸概念を盛り込んだ、もっと別の角度からの説明も可能ではあるだろう。
(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳『「エクリ」を読む 文字に添って』 p.147-148)



 四月だぜ!
 11時半起床。今日もまた晴れ。これで三日連続だ。めずらしい。最高気温は27度。また一気に夏になった。当然花粉がやばいので、飲み薬を飲んで塗り薬を塗る。朝昼兼用の食事は第四食堂の西红柿炒鸡蛋面。
 第四食堂に行って戻ってくるだけなのだが、当然、鼻水が止まらなくなる。幸い、明日からはまた一週間ほど雨降りが続くようす。年中雨季かよみたいな気候に対してこれまでさんざん悪態をついてきたわけだが、花粉症の飛散がやわらぐという一点にかぎっていえば、これはこれでよろしい。
 コーヒーをのみながらきのうづけの記事の続きを書いて投稿する。ウェブ各所を巡回し、2022年4月1日づけの記事を読み返す。

國分 最近、一般に「責任」と翻訳されるレスポンシビリティ(responsibility)を、インピュタビリティ(imputability)から区別するべきではないかと主張しているんです(國分功一郎、「中動態から考える利他——責任と帰責性」、伊藤亜紗編、『「利他」とは何か』、集英社新書、二〇二一年)。責任がレスポンシビリティであるなら、それは目の前の事態に自ら応答(respond)することですね。それに対し、インピュート(impute)というのは「誰々のせいにする」という意味で、責めを負うべき人を判断することであって、これを「帰責性」と呼ぶことができます。
 今日の議論で言えば、いまはインピュタビリティが過剰になって、それを避けることにみんな一生懸命だから、レスポンシビリティが内から湧き起こってくる余裕がないという状態ではないか。レスポンシビリティはまさに中動態的なもので、「俺が悪かった」とか、「俺がこれをなんとかしなきゃ」とか、ある状況にレスポンドしようという気持ちですね。
 ところがレスポンスを待つ雰囲気がいまの社会にはない。とにかく誰かが俺にインピュートしてくるのではないか、俺のせいにしてくるかもしれないということばかり考えているから、責任回避が過剰になる。
 千葉君の話と結びつければ、日常生活でレスポンシビリティを待つことができていれば、インピュタビリティが過剰になったりしないと言えるのではないか。さらに言えば、レスポンシビリティは法外なものと関わっている。自分の気持ちだから。
 だから、この「法外なもの」について、もっと考えないといけない。たとえば、正義とは法外なものだというデリダの認識がありますよね。法に適うように行為することは、あらかじめ法によって正しさを保証されているわけだから、正義でもなんでもない。正義とはそういった法の後ろ盾がないところである判断を下し、行為することだと。
千葉 計算を超えるわけですよね。
國分 そう。一番わかりやすい例は、良心的兵役拒否です。たとえばベトナム戦争に私は行かないというのは、その時点では明らかに違法行為だけれども、それが正義だったことは後からわかるわけです。
 ポイントは時間にあって、ジャスティスのほうは時間がかかる。いまはむしろコレクトネスばかりで、それは瞬時に判断できる。判断の物差しがあるから。社会がそういう瞬時的なコレクトネスによって支配されているから、時間がかかるジャスティスやレスポンシビリティが入り込む余地がなくなってきている感じがします。
千葉 現在では法と矛盾するけれども。未来時点においてはコレクトになるかもしれないという別の時間性、時間の多重性を導入するのがジャスティスの問題ですよね。それは未来方向にもそうだし、過去からの経緯や歴史を踏まえることによって、瞬時的な判断とは別の判断を行うという形でも多層性を含んでいると思うんです。
 だから、歴史性を考慮することと、未来に向けてのジャスティスを考えることはつながっている。それがどちらもなくなっているというのは、やや抽象的に言うと、すべてが空間化されているということですよね。不可入性の原理、つまり一つの場所を二つのものが同時に占めることはできないから、どちらかを取るという話にしかならない。
 部分的に賛成と反対が共存することを複数の時間性において考えるようなことを言うと、「何をごちゃごちゃ言ってるんだ」という話にしかならず、議論にならないんですよ。逆に、すべてを空間的に並置して、不可入性の原理で話をすっきりさせることが民主化という話になっている。それがエビデンス主義のポリティカルな対応物だと思うんです。
國分功一郎+千葉雅也『言語が消滅する前に』)

 以下は2021年4月1日づけの記事からの孫引き。

記事を書きながらふと考えたこと。人間は人生の意味のなさ(欠如)を義務で埋めている。ここでいう義務とは「かくあるべし」「かく生きるべし」として内面化されている抽象的な規律というよりも、日々の雑事のようなもの。この社会で生きるうえでこなさなければならないノルマやタスクの総称としての義務。そのような義務には——というよりもそのような義務抜きには成り立たないとされる社会には——根拠がない(「大他者の大他者は存在しない」)。しかしそのような義務がすべてなかったとしたらひとはどうなるだろうか? ひとはその自由(無意味)に耐えられないだろう(サルトルの「人間は自由の刑に処されている」という言葉のもっともラディカルな解釈)。そしてそこに見出される無意味は当然自己にも突きつけられるだろう。自分(の生)が無意味であり、根拠をもたないものであることを理解するのみならず、より直接的に、じぶんがいつか必ず死ぬという事実を(不安障害をわずらう人間のように)まざまざとなまなましく知覚することになるだろう。義務なき世界では、生老病死象徴界の括弧からはずれてなまなましくせまりうるものと化す——そういう意味では熊谷晋一郎が、退屈はトラウマの蓋を開けると指摘していた言葉を引き受けることもできるのではないか。

 さらに2013年4月1日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。以下、いまは亡き大家さんとのやりとり。当時すでに95歳くらいか?

先日越していった中国人の(…)さんが故国に奥さんと子供を置いたままこちらで生活しており、その関係でなにやらもめ事のあったらしいことを知った。(…)さんの親族一同がやたらと頻繁に出入りしていたあの物々しさの原因はどうもそこにあったようである。大家さんが入院している間に空き部屋を倉庫として不法使用していたみたいな話もしていて、たしかに(…)さんは寝泊まりする部屋以外にもあと二部屋ほど大家さんから借りていたようであるけれども、あれは家賃を支払っていなかったんだろうか。結婚はむずかしい、結婚には慎重にならなければならない、とくりかえす大家さんは話題が(…)さんの身辺にうつるたびに、あの方の結婚は失敗の巻や、と口にする。失敗の巻! なんとすばらしい表現だろう!

 (…)さんとは(…)さんだな。もうひとりの中国人留学生である(…)さんとはいまでも付き合いがあるし、そもそもいまこの仕事をしているのも元をたどれば彼のコネみたいなもんなわけだが、(…)さんはたしか同志社の神学部にいる学生ではなかったか? 中国人なのに神学部? とふしぎに思った記憶がある。彼はいわゆる自炊代行みたいな仕事をしており、裁断した本がおもてに散らばっているのをこちらは何度も目にした記憶があるのだが、「空き部屋を倉庫として不法使用していた」というのもおそらく自炊用の本の置き場にしていたのだろう。それにしても「失敗の巻」という表現は最高だな! 大家さんの形見のつもりでこれからガンガン使っていこう!
 その大家さんとのやりとりは以下のように続く。部落差別について。

それでたぶん中国つながりの話題からだったように思うのだけれど話がいつしか(…)さんのことにおよび、(…)さんは日本語教師として中国にわたるまでのつなぎの仕事として京都か実家のある大阪でゴミ収集でもしようと考えているらしいけれどもわたしは反対だ、と、その時点でもう次にくる言葉はおおかた予想がついていたのだけれど、あんなのは部落のする仕事だ、四つのやることなのだ、と四本指をたててみせながらなにひとつ悪びれることもなければ秘密めかすこともなく大家さんは口にして、以前(…)さんの働く和食屋へ行ったときにゴミ収集でもしようかなと考えているのだけれどまわりのひとたちにわりと反対されるんだよねと(…)さんが少し口を濁すふうにいっていたのも要するにたぶんこういうことなんだろうなとひそかに思っていたりしたのだったが、ああやっぱりなな展開の今日で、京都はこの手の差別意識が根強い。大学時代の同級生は京都以外の地域出身の人間のほうがむしろ多かったから身近なところでその手の発言に相見えることはほとんどなかったけれども、卒業後いちフリーターとして京都生まれ京都育ちの同僚らのいる職場で働くようになりだして以降は鮮度の高い差別意識を悪びれもせずに発露するひとびととかなり頻繁に出くわす毎日で、というかこれは要するに京都という地域のお国柄に帰する話ではなくって日本全国どこであろうとローカルな細部に分け入ってみればいやがおうでも出くわさずにはいられない醜悪さであるといったほうがおそらく適切で、この手の意識は陰に日向にまだまだ現役で色濃く影を落としているものなのだろうし、事実、じぶんの地元でもその手の話をちょろちょろと耳にすることがあるのだ。

 この日は実家に帰省している。兄の結婚式にそなえてらしいのだが、そうか、兄夫婦はまだ結婚して10年ぽっちしか経っていないのか。「実家に帰るとワン公の大歓迎とニャン公の黙殺が待ち受けていた」とあるが、これは(…)と(…)であるな。ふたりとももういない。(…)と(…)のことを思いだすたびに、死後の世界があればいいのになとすごく素朴に思う。天国か地獄かしらんが、またいっしょに散歩したい。夜中に散歩に行きたがる(…)とそろって月夜の夜道を歩いている、そうしたわれわれの後ろを(…)がだだだっと走ってついてくる、(…)はそのままわれわれを追い抜きその先でたちどまる、そしてわれわれが彼女の後ろに追いつき追い抜くのを待っている、彼女を追い抜き置き去りにしたまましばらく歩くと、後ろからまただだだだっと走ってくる、そしてわれわれを追い抜きその先でたちどまる——そういうふうにしてよくいっしょにひとりと二匹で散歩したものだった。
 あと、母の職場でストーカー男があらわれたという話。あー! こんな話あったな! と思った。このストーカー男、最終的にどうなったのか、ちょっとおぼえていない。おおごとにはならなかったはず。この日以来、二度と姿を見せなくなったんではなかったろうか? さすまたとカツアゲのくだりで笑った。

食卓で母の職場にストーカーまがいの男が出るという話になった。母が勤めているのは一種の公共施設みたいなところで放課後の鍵っ子たちが集ってはみんなでトランプをしたりゲームをしたり本を読んだりするような、かといってべつに利用者は子供限定というわけではなく市の図書館と提携していたりもするので近所のじいさんが図書館から取り寄せた本をそこで受け取ったり逆に返却したり、あるいは資格勉強や受験勉強にいそしむ若者や大人のいないわけでもないというそんなフリーなプレイスで、利用者は子供限定というわけではないといちおう断りを入れたもののそれでもやはり基本的には子供たちの出入りするところであるから母もそこでは先生と呼ばれていたりするのだけれど、同じく先生と呼ばれる同僚はほかにたしかふたりいて、ひとりが(…)先生でこのひとはたしかじぶんとそう年齢の変わらないひとでじっさいに対面したこともあり、もうひとりが(…)先生というらしくてこちらのひととはじぶんは面識などないのだけれど21歳だったか、若く、(…)先生がけっこう勝ち気であるらしいのにくらべるとわりあいおとなしいひとらしくて、この(…)先生がどうもストーカーらしい男に狙われているという話らしい。TOEICか何かの勉強に来ているといってここ一年ほど毎日のようにフリーなプレイスの自習室にやってくる三十代の男がいるらしいのだけれど、先日その(…)先生がまもなく閉館時間ですのでとそのTOEIC男がひとりでいる部屋に声をかけにいったところ、ぼくスーパーで洗い物のバイトをしているんです、だから手がこんなにも荒れていて、ほら、すごいでしょう? とかなんとか言いながらいきなり(…)先生の手をぎゅっ! みたいな。この時点でだいぶん気色悪い話であるのだけれど、さらにえげつないことには数日前、母か(…)先生のどちらであったかは忘れてしまったけれど女子トイレに出向いたところ個室がひとつ使用中になっていて、すでに閉館まぎわの館内にいる女性は母とその同僚だけになっているはずで、そして彼女らはみなそれぞれの持ち場にいる、じゃあいまこの個室の中にいるのは誰なんだよというアレになって館内の自習スペースみたいなところに戻ってみたところ、TOEIC男の荷物だけが机の上に置きっぱなしになっていて当人の姿がない。ということがあったので管理人さんとかに事情を話して警戒モードになったその翌日だか翌々日だかにもまた同じことがあって、つまり、女子トイレの個室のひとつが使用中になってはいるものの館内にいる女性はすべてそれぞれの持ち場にいる、そして自習室にはTOEIC男の荷物と不在のその姿な展開で、それで管理人さんをさっそく呼んでトイレの入り口に立っていてもらい、出てきたところを注意してくれるようお願いしたらしいのだけれどTOEIC男はなかなか中から出てこず、しかもよくわからない物音が個室の中から聞こえるみたいなアレで、この時点でじぶんも弟もひょっとすると盗撮目的でカメラか何か仕掛けてんじゃないのかと思ったのだけれど、とにかく、ずいぶん待ったところでようやく出てきた。声をかけた。「そちらは女子トイレですよ」「あ、すみません、まちがえました」一年近く通いつづけて間違うもクソもあるかよというアレで、ほかにもTOEICの勉強に来ているとかいうわりには一日中オープンスペースで携帯をいじっていることも最近はよくあるらしく、しかもそのオープンスペースに設置してある椅子の位置がそこに腰かけたらぎりぎり(…)先生の働く姿が視界におさまるそんな位置に微妙に移動されていたりもするらしく、さらにはぽちぽちいじっている携帯がときどきあからさまに(…)先生のほうに向けられていることもあるとかなんとか、写メ撮ってんじゃねーよみたいな感じで、なんかだんだんとエスカレートしつつあるらしい近頃の動きを見ているとさすがにちょっとまずいんではないのという空気になっているという。ひとまず(…)先生には催涙スプレーかブザーでも持たせようという流れに職場ではなっているらしいのだけれどその手の防犯グッズのカタログかなにかを見ているときにその(…)先生がこんなの買ったほうがいいですかねーといいながら母に見せてきたのがよりによってさすまただったという話には大爆笑した。ひとまず管理人さんに注意してもらったわけであるしこれで相手がさすがにやばいと思ってもう来なくなるみたいな展開になればいいのだけれど、これにも懲りずにまだまだ通い続けるようであったらちょっとねーというアレで、いずれにせよ明後日には母を職場まで迎えにいく必要があるのだしそのときついでにTOEIC男のご尊顔を拝ませてもらうなりトイレをチェックさせてもらったりしましょうかという段取りになった。あるいは(…)先生のヒモという設定で館内に入ってくるなり(…)先生のファーストネームを大声で叫びながら「おい小遣いくれやー」とか「帰りに注射器買ってこいよ」などと輩っぷり丸出しの物言いで登場するという吉本新喜劇もかくやみたいな作戦を考えて盛り上がり、最終的に弟の「(…)ちゃんがカツアゲしたったらもう二度と来やんくなるんちゃう?」というきわめてシンプルな提案で落ち着いた。

 今日づけの記事をここまで書く。時刻は15時半。(…)三年生の授業準備にとりかかる。まずは「(…)」。部分的に改稿するも、これはわりとすぐに片付いた。その後、「(…)」の資料をいくらか加筆。
 17時をまわったところで第五食堂へ。打包。食して仮眠。授業準備がまだ終わっていなかったので、その続きをするべきかと迷ったが、休日を終日授業準備にあてるのは精神衛生的によろしくないし効率もよくないという経験則があるので、気にせずいったん浴室でシャワーを浴びる。で、20時半過ぎから23時半過ぎまで「実弾(仮)」第四稿執筆。プラス14枚で計389/994枚。シーン22、無事終わる。ほぼ完璧。よく書けていると思う。暴力的なシーンにおける情報の切り詰め方に、ちょっとフラナリー・オコナーの影響を感じた。
 懸垂し、プロテインを飲み、トースト二枚を食す。歯磨きをすませておいてから、1時から2時まで『本気で学ぶ中国語』。その後、今学期の授業スケジュールをあらためて確認。今月からおそらくスピーチ練習もはじまることになるわけであるし、だんだんとしんどくなってきそう。来週の日語会話(三)、「(…)」の説明とは別に第27課もするつもりだったが、第27課はいろいろゲームで楽しめそうであるし、独立した課として扱おう。そのほうがコマ数稼ぎにもなるし! 来週は「(…)」の説明とその準備に一コマまるっと当てればいいや。