20230402

 ラカンによれば、自己意識は次のような仕方で生じる。〈他者〉が自分を見る仕方を内化することによって、すなわち〈他者〉のまなざしやコメント(それらは自分を承認したりしなかったりする)を同化することによって、人は〈他者〉が自分を見るように自分自身を見るようになり、〈他者〉が自分を知るように自分自身を知るようになる。鏡の前にいる子どもは、振り返って背後にいる大人が頷いたり、認知したり、承認や追認の言葉をかけたりしてくれるのを期待する。これはセミネール第8巻(第23章と第24章)において鏡像段階を定式化し直したものである。そうすることで、子どもは、あたかも大人の観点から、自分が親としての〈他者〉であるかのように自分自身を見るようになり、あたかも外部から見るように、そして自分が別人であるかのように、自分自身を自覚するようになる(…)。
 言い換えれば、私(自我理想)は、自分自身(自我)を、まさに〈他者〉がそうするように、ひとつの対象として見るのである。これが、デカルト的な「私は考える」を可能にする。あるいは単純に、ニーチェがそう言うように、「思考がある」と言うべきかもしれない。ラカンはここで、これが「自己意識」への鍵であると述べている。意識のなかで、「自我は自分自身に疑問の余地のない実在を確証する」のだが、この意識は、「自我に内在するはずがなく、むしろ自我を超越している。なぜなら、意識は一の線としての自我理想にもとづいているからである(デカルト的なコギトはこのことをよく理解している)」(…)。デカルト的な自我は、自我の外部にあり自我を超越している意識のおかげで、おのれが実在していることを確かめる。すなわちそれは、意識についての意識、あるいは二乗された意識、要するに自己意識である。
(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳『「エクリ」を読む 文字に添って』)



 11時半過ぎ起床。歯磨きと洗顔をしている最中、鏡に映ったじぶんの顔を見て、髭を剃るのってマジでクソめんどいなと思った。今学期は顎髭のみ残し、口髭は落とした状態で過ごしているのだが、そうすると二、三日に一度はいちいち剃刀を鼻と口のあいだに当てなくてはいけない。それが普通にめんどい。負担だと思われてならない。だからしばらくみっともない状態が続くが、やっぱり口髭も伸ばそうと思った。中国では髭の評判はとにかく悪いのだが、評判を気にして生きているような人間であれば、そもそもこんな人生送っとらん。
 第五食堂で炒面を打包。食し、コーヒーを飲み、きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、2022年4月2日づけの記事を読み返す。そのまま2013年4月2日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。兄夫婦の結婚式があった日。最初から最後までひたすらふざけた内容だ。式には叔母といとこの姿がないようだが、そうか、この時期は名古屋から高飛びして行方知れずになっていたころか。逆にいまは絶縁状態になっている叔父の姿はあるようだ。その叔父とおよそ祝宴にはふさわしくない会話をこちらは交わしている。

食卓では叔父がとなりの席についていたので、ひたすらクズみたいな話をして過ごした。部屋が寒くてたまらない、文句を言ってやりたいがまた出禁になるのもかなわない、と叔父はしきりに愚痴をこぼしていて、神社を出禁になるとかある意味クソ笑えるのでそれはそれでアリだと思うのだけれど、ほんなしょっちゅう出禁になっとんのとたずねると、しょっちゅうやあるか、ふたつだけや、という。どこで食らったんと続けてたずねれば、寿司屋と返答があり、寿司屋におっさんひとり入ってきよったんや、んでおもての戸開けっ放しになっとるでな、だれかツレ来るもんかと思うやろ、ほんでもなかなか来おへんでな、おいおっさんおまえひとりか言うたらひとりや言うもんやから、ほんならはよ閉めんかい言うたったんやわ、というので、ほんで喧嘩になったん?とたずねると、酒入っとったしの、まあたいしてうまないとこやしええわ、とある。もう一件も寿司なん?と問えば、うん、とあり、どんな経緯で?と続けざまにたずねると、おまえな、おまえ、そんなもんここで説明できるかいな、と小声でいいながら隣の席についている奥さんのほうを横目でちらりしてみせるのでクソ笑った。まずまちがいなく女関係である。叔父は観光バスの運転手をやっており(と同時に副収入としては十分すぎるほどの稼ぎをたたき出すパチプロでもあるのだが)、全国津々浦々の美味しい店を知っているようでどこどこのなになにがうまいみたいな話をさんざんいうものだから、ほんなら京都やったらなにがいちばんなんよと訊いてみたところ、そんなもんおまえアレや、宮本むなしやという返答があってこれはけっこうツボに入った。

 ちなみに、上の記述は以下のように続く。(…)姉さんは当然兄嫁である(…)ちゃんのこと。(…)は(…)、(…)は(…)だろう。

机をはさんだ向こう側に腰かけている(…)姉さんのご親族にかまわずわりとえげつない話ばかり叔父と交わしていたので、ひょっとするとなんだあのふたりはけしからん!と思われてしまったかもしれないが後の祭りであるというか、それをいえばそもそもひげ面にボディピの時点でじぶんの印象なんてアレだろうし、さらにそもそもの話をするならば(…)姉さんは高校を中退したのちもろもろの事情から一時期アメリカに高飛びしていたレベルのクソヤンキーだったのだからもうなんだってもいいだろう。兄夫婦の結婚について(…)だったか(…)だったかにはじめて告げたとき、これで(…)一族のどもならん血筋がますます強化されることになるなといわれたものだったが、まことにもってそのとおりだと思う。

 あと、実家にもどって以降、深夜の記述に「布団の上ではワン公が眠っている。名前を呼んだ。こっちに来た。耳の後ろや顎の下をなでろと前肢でこちらの肩を叩いてみせる。カワイイ。」とあって、あ、これ、(…)か! (…)じゃないのか! となった。冷静に考えれば、(…)は現在13歳、10年前にはすでに実家にいたわけであるし、この記事で言及されているワン公が(…)なわけないのだが、きのうづけの記事にも書いたとおり、この前日の記事を読み返しているあいだはワン公のことをほかでもない(…)として読んでいた。

 今日づけの記事をここまで書くと時刻は15時だった。明後日にひかえている日語会話(三)と日語写作(一)の授業準備の続きにとりかかる。16時半になったところで中断し、自転車にのって(…)へ。食パンを三袋購入。そのまま后街の中通快递に行き、シャツとコーヒー豆を回収。日曜日の夕方ということもあってか、后街はかなり混雑していた。これだけのひとごみのなかを移動するのはずいぶんひさしぶりかもしれない。
 第五食堂に立ち寄って打包。帰宅して食し、ベッドに移動して30分ほど仮眠。日曜日の夜なので例によってスタバで書見するかと考えるも、腹がいっぱいで動きの鈍くなっている感じがあったし、予報によれば21時ごろから降り出すようであるし、明日は卒業生の(…)くんが(…)までやってくるその流れでやっぱりカフェに行くかもしれない——そういうことを考えているうちに、今日はおとなしく自室待機しておいたほうがいいんじゃないだろうかという方向に考えが傾いた。が、しかし! こういうときに自室待機して有意義に過ごすことができるかというとかなりあやしいというか、だいたい失敗の巻になるのがパターンであるし、というかそもそも基本的にカフェに行って後悔するということはまずない、行く前はめんどうくさくても行ってしまえば集中して作業に没頭できるのがカフェという空間であるので、うん、やっぱり行くべきだ! 日曜夜はカフェで書見なのだ! と根性をいれなおした。
 で、出発。客の少ないスタバにて20時から22時まで書見。『ラカン入門』(向井雅明)の再読を終える。途中、卒業生の(…)くんのモーメンツ経由で坂本龍一の訃報に触れる。(…)くん、日本の作家や音楽家が逝くたびに、まるでだれかと競い合っているかのように、モーメンツに訃報を投稿する(そしてそうしたふるまいに、固有名詞を知識としてひけらかそうとする、動機としては幼稚であるのだがそれを続ければたしかに地力の獲得にもつながる、駆け出しの若者のいきおいというほかないものをこちらは目をほそめて見るのだ)。それにしてもしかし、ものすごく凡庸な感想であるしこんなもん書きつけるのもはずかしいのだが、訃報に触れた瞬間そう思ってしまったのはたしかなので嘘偽りなく書くと、大江健三郎坂本龍一がたてつづけに死ぬことによって、日本がすでにたどりつつあるあらゆる意味での衰退がこれから堰を切って激化しはじめるのだなという暗い印象をどうしたって抱いてしまう。大江健三郎にしても坂本龍一にしても、そうした堰そのものみたいな象徴的人物であった。音源にかんしていえば、これも何度も書いているけれども、エレクトロニカ以降の坂本龍一がやっぱりとりわけ好きで、だからアルバム単位で選べとなると、やっぱり『out of noise』や『async』になる。Alva NotoやChristian Fenneszとの共作もいい。
 帰宅。浴室でシャワーを浴びる。あがってストレッチをし、以前食べ残したトースト一枚を食し、ふたたび授業準備にとりかかる。明後日にひかえている授業の準備は印刷含めてひとまずすべて片付く。その後、腹筋を酷使し、プロテインを飲み、トースト二枚をあらためて食い、歯磨きしながらジャンプ+の更新をチェック。語学する時間はなし。ベッドに移動して『水死』(大江健三郎)の続き。いま半分ちょっと読んだところだが、これはマジですさまじいな。分身。ジャンルと主体を幾重にも経由して書き直し・読み直し・作り直すこと。