20230403

 ラカンは、精神分析にとっての問いが、いかにして知の体制と真理の体制をひとつに結びつけるか、というものであると断言する。少し先走って、次のように示唆しておこう。すなわち、私たちはここですでに、フロイトラカンの仕事をとおして見いだされる根本的な区別を手にしている、と。つまり、表象および言語(知)vs.情動、リビドー、享楽(享楽としての真理)、という区別である。
(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳『「エクリ」を読む 文字に添って』)



 昼前起床。(…)くんから微信。「流感にかかりました」とのこと。(…)に来るのはまた今度にするというのでお大事にと返信する。(…)くんには悪いが、正直、ちょっとラッキーと思ってしまった。これで丸一日儲けたぞ、と。きのうスタバで書見している最中にふと思ったのだが、最近の、というか今学期のじぶんはけっこうあたまが小説モードになっている時間が多い。より正確にいえば、小説を書いている人間としての人格のほうが、中国で教師をしている人間としての人格よりもはるかに優勢になっているというか、そういう感覚がたしかにあって、これってつまり、学生からの誘いは無条件で引き受けることという自分ルールを今学期から撤廃した、そのおかげでひとりで過ごす時間を以前より多く確保することができるようになり、必然的に読み書きに集中できる時間も増えたという経緯によるものなんだろうが、同時に、ブログをこうして七年ぶりだったか八年ぶりだったかにオープンにしたのもきっかけとして大きいかもしれないと思った。ブログというのはじぶんにとって小説よりも先んじてこちらをとらえたメディアであるので(ブログとの出会いがなければそもそもこちらが文章を書きはじめることはなかっただろう、詩よりも小説よりも日記よりもまずブログがあった)、一般公開されているかぎり感じざるをえない外からの視線に対してすくなくともこの場では、先の言葉でいうところの「中国で教師をしている人間としての人格」ではなく「小説を書いている人間として人格」がその矢面に立つかたちになる。ブログをかぎられた身内にのみ公開していたあいだは、いわゆる外からの視線に対して応じるのはほぼ「中国で教師をしている人間としての人格」であり、しかるがゆえに(当時はそう自覚していなかったが)生活の比重がそちらにやや重く傾きすぎていたのではないか、それがいまようやく、その揺り戻しというのでもないんだろうが、しかるべき均衡を取り戻しつつあるような気がする。「中国で教師をしている人間としての人格」として学生らとの交流も適度にかわしつつ、しかし芯は「小説を書いている人間として人格」にしっかりあずけておく、みたいな。
 ところで、(…)くんからの謝罪メッセージのなかには「昨夜は熱があって、今もめまいがするんだ」とあったのだが、中国で学生らから体調不良の連絡を受けるとき、「めまい」というのが症状としてたびたび口にされるよなと思う。日本では風邪だのインフルエンザだのの体調不良を訴えるとき、熱だの咳だの鼻水だの喉の痛みだのこそよく口にするものの、めまいというのは症状としてはけっこうマイナーなほうに分類されると思うのだが、こっちではしばしば発熱とおなじくらいの頻度で口にされている気がする。もしかしたら日本語の「めまい」に対応する中国語、いまググってみたら眩晕とか头晕とかいうらしいのだが、これらには日本語の「めまい」よりももうすこし軽い症状のニュアンス、つまり、ふらふらするとかぼうっとするとかそういう意味合いがあるのかもしれない。
 一年生の(…)くんからは「この雪の消残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む」という和歌について質問。ググってみたところ、『万葉集』に収録されている大伴家持の和歌らしい。スピーチコンテストの予選で使用する原稿に引用するつもりらしいのだが、いったいどこでこんなものを知ったのか。「僕、今度のスピーチテーマは日本の文学です。元々は、先生は審査員にはならないと思っています。だからこのテーマを選びました。先生の前に日本文学を解説なんて、僕はすごく緊張しています。」「釈迦に説法、感じがする」とのこと。
 第五食堂に向かう。週間予報で以前から今日はとても暑くなる、最高気温は28度になると予報されていたので、そのつもりで半袖いちまいで外に出たところ、全然暑くなく、キャンパスを歩く学生らもふつうにパーカーなどを着用しており、ときどき思う、中国の天気予報めっちゃはずれないか? 天気も気温もときどきありえないくらいの落差で外すことがあるんだが? 着替えなおすのもめんどいので、肌寒さに負けじとケッタをこいで第五食堂に向かい、海老のハンバーガーと牛肉のハンバーガーを打包。
 帰宅して食す。洗濯物を干し、コーヒーを用意し、きのうづけの記事の続きを書いて投稿する。その後、2022年4月3日づけの記事の読み返し。2021年4月3日づけの記事からひかれている『二十歳のエチュード』(原口統三)の一節、「僕の育った植民地の街では、子供たちは祖国の姿を、両親の顔の中にみつける。」というのがいいなあと思う。以下もちょっと印象に残った。4年前(!)の記事より。

それから第五食堂に向かった。夕飯を打包し、部屋にもどってかっ喰らった。作文の提出をしなかった学生たちにたいする苛立ちがなかなかおさまらなかった。レベルの高い大学に移りたくなったが、そうしないだろうことも分かっていた。(…)にいたときと同じだ。齟齬にきしみつづけるコミュニケーション、言葉を尽くしても埋められないギャップ、あるいはむしろそもそもの言葉がそこで機能を失調してしまうような底の見えない断絶、そういう深淵にじぶんの五体を投じることにほとんどマゾヒスティックなよろこびを感じるじぶんがいることもまた確かなのだ。そのようにしていわば、環境を変えるのではなく、自分自身を変えることに、ほとんど官能的な知的よろこびを感じているのだ。変身すること、そしてその気になれば元の姿に戻ることができるということ、素顔のない無数の仮面としての自己をたえまなく取っ替え引っ替えしながらこの生に、他者に、環境に対処しつづけること。自我を拡張するのではなく、新たな人格を――スキルやアビリティのように――獲得し、無数の名を、無数の職を、無数の性を持つこと。そのような収集を可能にする契機として生活を位置づけること、齟齬を歓待すること、外圧を養分とすること。
(2019年4月3日づけの記事)

 2013年4月3日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。兄夫婦の結婚式翌日。当時ニートの弟に無理やり(…)吸わせとって笑った。
 作業中、一年生の(…)くんからも微信。前回の授業の休憩時間中、この言葉を知っていますかといいながら「夢見昼顔」という単語を見せられたのだが(当然知らない)、それについての説明。8月の誕生色の和名うんぬんとあるので、なんやこれうさんくせーなと思いながらググってみたところ、「誕生色」とは「新潟県十日町織物工業協同組合が1981年に制定した12ケ月の季節の色」らしく、それぞれにそれっぽい名前がつけられているらしかった。クソほどどうでもいい。(…)くんは坂本龍一の訃報についても言及した。“Rain”がいちばん好きだという。

 今日づけの記事もここまで書くと時刻は16時半だった。ちょっとだらだらしすぎたかもしれない。授業準備にとりかかる。例によって学生からの連絡が相次ぐ。まずは二年生の(…)くんからいつものように日本語に関する質問。データをデリートするという意味で「片付ける」ということはあるかというので、文脈によってはそういうこともあるかもしれないが、あまり一般的な用法ではない、ふつうは「消去する」「消す」というと返信。さらに彼のクラスメイトである(…)さんからも、これは彼女に明日の授業で使用する資料の印刷をお願いする微信を送ったその返信ついでのことであったが、四級試験の結果が出たという報告。なぜ現三年生と現四年生の結果を二年生である彼女が知っているのかは不明であるが、全員の点数が記録されているExcelを送ってもらう。
 まず四級試験二度目の挑戦となる(…)四年生。合格したのは(…)くん(72点)、(…)さん(67点)、(…)さん(74点)、(…)さん(66点)、(…)さん(69点)、(…)さん(68点)、(…)さん(68点)の7人。2022年3月8日づけの記事に一年前の同試験の結果が記録されているが、それによると「(…)さん(68点)、(…)さん(74点)、(…)さん (70点)、(…)くん(87点)、(…)(66点)の5人」が合格しており、都合このクラスは12人が卒業するまでに合格できたということになる。うちの大学のレベルにしてはまずまずか。特にこのクラスはコロナの影響をわりとがっつり受けている面々であるし、そう考えてみると、上々といえるのかもしれない。
 (…)の四年生は(…)さん(84点)、(…)さん(73点)、(…)さん(70点)、(…)くん(72点)、(…)くん(73点)、(…)さん(75点)、(…)さん(77点)、(…)さん(76点)、(…)さん(67点)、(…)さん(83点)の10人が合格。一年前は「(…)(93点)、(…)(68点)、(…)(67点)、(…)(73点)の4人」が合格とあるので、合計は14人。(…)よりも合格者数が多い。合格のボーダーラインはたしか66点のはずだが、(…)さんが65点だったので、あーこれはちょっとかわいそうだなァと思った。彼女は先学期末、こちらとふたりでカフェでメシを食った夜(こちらが便意に見舞われたせいでお別れのあいさつをちゃんとできなかったあの夜のことだ)、じぶんは「バカ」だからもう日本語の勉強をやめようと何度も思ったと、そう気弱に語っていたわけであるが、うーん、この結果にまた落ち込むようなことがなければいいが。いまは鹿児島で楽しくやっているようであり、今日も同僚の運転で(…)さんとそろって神社に行ったり買い物に出かけていたりしたようだが(そういうモーメンツの投稿を見るたびにこちらはほっとする)。あと、中学からずっと日本語を勉強し続けているはずの(…)さんが64点で不合格。うーん。
 初受験となる(…)三年生は(…)さん(73点)、(…)さん(83点)、(…)くん(73点)、(…)さん(69点)、(…)くん(82点)、(…)さん(83点)、(…)さん(68点)、(…)さん(81点)、(…)さん(86点)で合計9人合格。想像以上に良い結果。一度目の受験で9人合格というのは、これまでのクラスで一番良い結果かもしれない。しかし(…)さん(69点)というのはカンニングだろう。彼女はクラスでもっとも勉強していない学生のうちのひとりであるので。もしかしたらこちらが知らないあいだに猛烈に勉強していたという可能性もなくはないのかもしれないが——いや、ないな、それはないわ。しかしクラストップが(…)さん(86点)というのは、なかなかちょっと、え? マジで? という感じ。彼女についてはそれほどできるという印象を持っていなかったのだが、(…)くん(82点)や(…)さん(83点)を超えるのかという驚き。あとは(…)さん(65点)というのにも驚いた。(…)さんとこちらと彼女の三人でよくメシにいく仲ではあるが、勉強している印象は全然ない、進級試験の前日もたしか普通にバドミントンをしていたように記憶しているのだが——とはいえ、彼女の総合成績は実際それほど悪くなく、クラスの上位何番以内だったかに入っていればもらえるという奨学金をもらっていたはずであるし、あとはまあ、なんだかんだいってこちらとしょっちゅうコミュニケーションはとっているわけであるし、それが多少なりとも力になったと信じたい。1点差で不合格というのはかなり悔しいだろうが、あと一度チャンスがあるわけであるし、たぶんだいじょうぶだろう。ほか、(…)さんもおなじく1点差の65点。彼女も最初は全然やる気のなかった学生であるが、最近は大学院進学を目指して勉強しているようであるし、二度目の受験でほぼまちがいなく合格するだろう(四級試験を受けた当時、彼女はたぶんちょうど本格的に勉強しはじめてまもないころだったのでは?)。意外だったのが(…)くん(62点)。めちゃくちゃ勉強しているイメージがあったのだが、うーん、どうしてだろ。60点以上とっているものの不合格だった子たちが8人いるし、彼女らが次回の受験で全員合格すると計算すると、合格者は合計17人。クラスは合計34人なので半数が卒業までに合格ということになる。そう考えるとやっぱり、少なくともこちらが赴任して以降、もっとも成績の良いクラスということになる。ちなみに、クラスの最低点は(…)さん(28点)で、これは(…)さん(32点)や(…)さん(31点)を下回る。ちょっとビビった。(…)さん、一年生の時点ではかなりできる子という印象をもっていたのだが、授業態度は最初からよくなかった、さらにルームメイトたちらの話によるといつもゲームばかりしているということだった、結果このえげつない低得点ということで、うーん、やっぱり授業態度とテストの点数はほぼほぼ比例するんだな。当たり前といえば当たり前のことやが! ほか、このクラスで30点台をとったのは(…)さん(38点)と(…)さん(35点)で、まあそうですよねという感じ。
 しかしこうしてみると、もしかして現三年生よりも現二年生のほうが、そして現二年生よりも現一年生のほうがさらに優秀ということもありうるのか? いや、二年生は微妙か、(…)さん曰く試験は6月24日にあるらしいのだが、現時点で受かる可能性のある学生といえば、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)くん、(…)くん、(…)くん、(…)さんあたりか。仮に全員受かることがあれば10人で、いちおう現三年生よりも良い結果ということにはなる。
 ほか、(…)から通知。今年の清明节は5日(水)に当たる、その日は授業がおやすみになりますとのことだが、水曜日はもともと授業がないので意味なし。くそったれ! いちばん腹立つパターンやんけ! 祝日の無駄遣いや! アホ死ね!
 第五食堂で打包。食うもの食ったあとは仮眠せずに浴室でシャワーを浴びる。ストレッチし、(…)一年生の授業に備えて、先週(…)で犯した失敗を踏まえて第14課の内容を若干作りなおす。まあこれでええやろという解が見つかったのでよかった。
 それから「実弾(仮)」第四稿執筆。20時半から23時まで。シーン23の加筆修正。プラス5枚で計394/994枚。今日はやる前からあんま集中できそうにないなという予感があったが、ほんまにそのとおりになってしもた。とはいえ、印象的なエピソードをひとつ追加することができたので、まあプラマイゼロということにする。ツツジとクロアゲハのエピソード。小説の、こういう言い方はある意味図式的になってしまうがゆえにそれ自体問題含みであることをわかったうえでいうのだが、本筋から逸れる細部の記述にこそ豊かさがやどるという、いまや手垢のべったりとついてしまっている、それ自体が批判の俎上にあげられるべきかもしれないそういう観点が、しかしこの「実弾(仮)」の稿を重ねるにつれて、読み手ではない書き手の実感としてしみじみと理解される。それがうれしい。じぶんがこれまでのじぶんには書けなかった小説を書いているという手応えもひしひしと感じる。こういう手応え、「A」以来かもしれない。最終的には1111枚のゾロ目でフィニッシュかな。

 今日づけの記事をここまで書くと時刻は0時だった。(…)くんからまた質問が届いたので答える(しかし例によって返事はない)。三年生の(…)さんからも微信。大学院試験にそなえて中国語を日本語に翻訳する練習をしているのだが、訳文をチェックしてほしいという。訳文だけが画像で送られてきたので、原文とともにwordに打ち込んで送りなおしてくれと返信。画像に直接赤入れするのは(あやまりが数カ所しかないのであればまだしも多岐にわたる場合)かなりむずかしいし、だからといって全文こちらがじぶんでwordに打ち直すのも負担でしかないのでそうお願いしたわけだが、時間がかかってもかまいませんからと、暗にこちらに打ち直しをゆだねるような返信がある。げんなりする。お忙しいところすみませんという前置きとともに時間外労働をお願いしておきながらなんでぜんぶこっちにやらせようとするんだよ、と。こういう学生はときどきいる。学生からの依頼はほとんど毎日のようにある、手書きで寄越されたものをこちらがいちいち文字に打ち直していれば時間がいくらあっても足りない、しかるがゆえに作文や翻訳文の添削依頼は原則としてデータのみで受け付けている、と説明する。明日データに打ち直して送りますという返信。
 その後、トースト二枚を食し、歯磨きをすませ、『本気で学ぶ中国語』を小一時間ほど進める。2時ごろに中断してベッドに移動。今日は昼過ぎからずっとスコールのように激しい雨がいきおいよく降り出したりやんだりをくりかえしていたが、夜遅くになってからは雷鳴もなかなかうるさかった。日中は突然激しく降り出すものがあるたびにおもてから女子学生のワーキャーいう悲鳴がきこえてきたり、たぶんふざけて走りまわっているだろう男子学生のギャーギャーいう叫び声が聞こえてきたりして、それでふと思い出したんだが、あれは赴任した最初の年だったろうか、スコールが降り出した途端に男子学生らが半裸のままおもてに飛びだし、豪雨のなかでシャンプーをはじめる動画がモーメンツに流れてきたことがあり、あれにはクソ笑ったものだった。あれこそ大学生のあるべき姿やな。