20230410

 もしシニフィアンの主体を介して享楽の主体のうちに変化がもたらされるのだとすれば、両者には何らかの収束や重なりがあるはずだと思われる。ラカンは早くから、発話においてふたつの主体が同時に生じることに気がついていた。発話は、語彙や文法をそこから借用するという点で、シニフィアンのシステム(あるいは単に「“シニフィアン”」)に依拠している(「“シニフィアン”」とは、言語の完全なシニフィアンシステムを示唆するために、ラカンがつねづね使っていた言葉である)。その一方で発話は、それとは別のもの、すなわち言表行為を必要とする。発話は言表されなければならず、そこに身体的な要素が導入される。呼吸、顎や舌の動きといったすべてが、発話の産出のために必要とされるのだ。
 言語学が問題とするのは、言表内容の主体、すなわち文言の主体である。たとえばそれは、「私はそう思う」という文章の「私」であり、言語学では「シフター」として分類されるものである。さらに言語学では、文言の主体と言表行為の主体の違いが考慮される。もし誰かがフロイトの言葉を繰り返して、「精神分析は不可能な職業である」と言ったとする。その場合、文言の主体は「精神分析」であるが、言表行為の主体はそれらの言葉を実際に話した人物である。言語学は、二つの主体の違いを考慮に入れざるをえない。
 しかし言語学は、言表行為の主体そのものを説明することはない。言表行為の主体は話すことで快を得る主体であったり、話すことに痛みを感じる主体であったり、話しながら口を滑らせる主体であったりする。言表行為の主体とは、自らの感覚、欲望、あるいは快を暴露する何かを滑りださせる主体なのだ。
 このようにして発話は、二つの主体が同時に作用する一つの場となる。そして精神分析は、それが発話を扱うかぎりで、そのどちらも無視することができない。
(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳『「エクリ」を読む 文字に添って』 p.205-206)



 12時半起床。今日の最高気温は29度。第五食堂の一階で炒面を打包する。ついでに文具屋に立ち寄ってトイレットペーパーを買っていくつもりだったが、もしかしてここにあるかもとおなじ第五食堂の一階にある売店をのぞいてみたところ、生理用品やティッシュペーパーとおなじ棚に陳列されていたので購入。店番の女性、いつも授業前にミネラルウォーターを買っていくだけの外国人がめずらしくそのミネラルウォーター以外のものをもってレジにやってきたのに、にこりと微笑んでみせる。
 帰宅して食す。きのうづけの記事はあとまわしにしてまずは授業準備にとりかかる。明日の午後にひかえている日語会話(三)にそなえて第27課のアクティビティを詰める。教案の完成したところで、学習委員の(…)さんに資料を送信したところ、「先生 私はあるゲームについて考えがあります。」という返事があったので、授業の後半で毎回アクティビティをすることにもしかして反対なのかな? と一瞬構えた。先学期の会話の授業は、とにかく発音練習に重点を置いてみようと思い、短文をひたすら音読しまくるという方針でやってみたのだったが、これが(地道な反復練習を好まないし、その効用をなかなか理解してくれない)学生らには不評だった、そのことを(…)さんから告げられたことがあったので、それとおなじようなクレームがまたあるんではないかと考えたわけだったが、これは杞憂だった。(…)さんはバラエティ番組でみたというゲームをこちらに紹介した。「グループをした後、各グループは話す人と推測する人二人を出します。先生は単語を1つ書きます。それから、話す人は日本語でその単語を説明して、聞く人に推測させなければなりません。例えば、先生は「猫」を書きます。話す人は「魚が好きです。」「ペットです。」を言うことができます。これも日本語の勉強とゲームを結びつける一つの考えだと思います。」「私の勝手な考えですが、先生と先生と分かち合いたいです。」とのことので、なるほどねという感じ。すでに似たようなアクティビティはやっているわけだが、お題の出し方次第では難易度をいろいろにコントロールすることもできそうであるし、なかなかいいかもしれない。期末試験直前の授業でやってみましょうかと提案する。テストは例によって授業ラスト三回に分けておこなうつもりなのだが、その直前にある一回で、期末テストの内容説明およびテストを受ける順番を決めるという名目で(…)さんおすすめのゲームをしてみるのもいいんじゃないだろうか。一年生もゲームが好きでしょうというので、今学期は毎回授業の後半はゲームをやっているよと応じる。
 スピーチコンテストについてたずねる。やる気まんまんだった(…)さんが長野に行くことが決まったいま、だれが代表になるのだろう、と。「みんなあまり参加したくないようです。」というので、まあそりゃそうだよな、練習めちゃくちゃ大変であるしと思っていると、「たぶん(…)くん?」と(…)さんは続けた。まあ彼だったら悪くない。今年もこちらと(…)先生と(…)先生の三人が指導を担当するのかというので、まだなにも聞いていないがおそらくそうなるだろう、こちらとしては(…)先生よりも(…)先生のほうがいいのだがと受けると、(…)先生は担当しないかもしれないという。今学期は忙しくしているらしい。初耳だった。もともとは彼女らのクラスの担任になる予定だったのだが、仕事がいそがしいのではずれたというので、博士号をとるためにいろいろやっているという話を聞いているしその関係かもしれない、しかし日本文学の授業ではただ動画を流しているだけであるから準備もクソもないだろうし、いそがしいことはないんじゃないのかというと、いまはもうそういう授業は許されなくなったという返事。「最近、ある学生授業中に携帯電話を遊びますが、先生が批判されました。」「原因は、先生が学生の携帯電話を使う行為を見ましたが、学生に叱らなかったです。」「学校によると、学生が授業を受けないのは先生の授業がつまらないからだといいます。」とのことで、なんやこれ! 小学校の話け! と思う。学生が教師の話を聞かないという問題についていえば、これはたしかに教師に原因がある(特に(…)先生のような授業は最悪だ)、しかし原因のすべてが教師にあるわけでも当然ない、そもそも第一志望の専攻に合格することができずしぶしぶ日本語学科にまわってきた学生というのが少なからずいるわけであり、そうした学生は入学直後から完全に勉強を放棄している。(…)さんは「でも先生ぜんぜん心配する必要はありませんね。先生の授業はとても面白いです。」と続けた。社交辞令であることはわかっているのだが、それでもこういう言葉が聞かれるということは、少なくとも先学期の音読中心授業よりはずっと評判がいいのだろうと安心する。
 あと、来学期入学する新入生の班导をやりたいと考えていると(…)さんはいった。あ、そういうの興味あるタイプなんだ、とちょっと驚いた。しかし毎年毎年、班导をやろうとする学生というのは、なぜ超絶劣等生か超絶優等生のどちらかなのだろう? いっしょに班导をしようという学生がいないというので、相棒の(…)さんを誘えばいいじゃんといった。でも彼女はシャイだからなァと続けると、「実は私もシャイです。しかし北方人は生まれつき性格が明るいようです。南では明らかになりました。」とのこと。なるほど。北方人のほうがしゃべりかたがきついという話は聞いたことがあるが。
 第五食堂でふたたび打包。帰宅して食す。仮眠はとらず、タンブラーにコーヒーをそそいで図書館へ。図書館にむかうのは今学期はじめてかもしれない。なんとなく書見したい気分だったのだが、きのうの今日でまたスタバにいくのもアレであるしというわけで、図書館を作業スペースに選んだのだった。タンブラーについては以前パッキンが死んで使いものにならなくなったはずなのだが、今日ひさしぶりに熱湯をそそいでためしてみたところ、まったく漏れるようすがなかったので、これだったらだいじょうぶだなと判断、それでコーヒー二杯分そそいだものをクラッチバッグのなかに隠して図書館に入った格好。図書館の入り口には駅の改札のようなものがあり、そこにカードをかざして入館する仕組みになっているのだが、先学期はなかったはずのカメラが搭載されていた。いずれあれで顔認証するようになるんだろうか? あるいはすでに学生らはそうして入館する仕組みになっているんだろうか?
 二階の一室にて書見。きのうにひきつづき『「心理学化する社会」の臨床社会学』(樫村愛子)の続きを読み進める。おもしろい。権威が失墜するにともなって無効化した幻想を、いかにしてふたたび起動せしめるか。権威が失墜した状況——大きな物語の終わり——にありながら、権威およびそこからたちあがる幻想なしにひとは生きることができないという精神分析的知をもちあわせるものとして、それが一種の欺瞞でしかないことを知りながらもなんらかの権威性を構築しそれを足場に幻想を作りだすという試みの困難。メタ認識を有しながら同時にベタを生きる無理な力技。それもまた一種の再帰化か。〈他者〉をどう人造するかみたいな話にもおそらくつながる。それも個人単位ではなく社会単位で。
 ところで図書館のおなじ部屋にはかなり頻繁に咳きこんでいる女子がいたのだが、あれだけ頻繁にゴホゴホやっているのに、どうして寮に戻って休もうと思わないのだろうか? あんな状態では集中して勉強なり読書なりできるとはまったく思えないのだが。周囲もさすがにちょっと鬱陶しがっていたんじゃないかと思う。
 二時間ほど過ごしたところで帰宅。シャワーを浴びる。あがってストレッチ。やたらと腹が減っていたので食パンを一枚だけトーストして食す。今日は日中からたびたび頭痛に見舞われていたのだが、夜になってますます悪化しつつあり、この時点でけっこう苦しかった。カフェインの離脱症状とよく似たタイプの頭痛。なのでいちおうコーヒーを追加。そうしてこめかみを揉みほぐしながら、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回。2022年4月10日づけの記事の読み返し。(…)さんから大学院合格の知らせがあった日。しかしこの合格にもケチがついた。口利きしたのがだれであったのか、こちらはいまだに知らない。

 (…)さんからも微信。(…)大学と(…)大学の双方から送られてきた合格通知のスクショだった。(…)! マジか! やりやがった! すぐに「火鍋行くぞ!!!!」とお祝いのメッセージを送ったのだが、(…)さんは浮かない様子。で、以下は誰にも言わないでくださいの断りつきで知らされたのだが、(…)のある教員((…)さんは名前を出さなかった)が(…)大学に知り合いがいるらしく、それで裏から手を回したのだという。「そのような方式で(…)に合格したくないと思います」「今は嬉しい気持ちは全然ないです」とあった。余計なことしやがって! こちらもイライラした。実際そのコネなしであれば結果がどうなっていたのかわからない。こちらの見立てでは十分合格する可能性もあったと思うのだが、いずれにせよこれでケチがついてしまった、(…)さんは100%自分の実力を肯定することができなくなってしまった——というか彼女の性格を考えれば、こんな不正よろこぶはずがないだろうと誰だってわかるだろうに! というかそもそも教育者がこんな不正に「善意」から関わるなよとマジで思う。これが中国なんだよな。この遵法性の低さというか、手段を選ばない感じというか、モラルのなさというか、じぶんとその周囲さえうまくいけばあとはどうでもいいという公の精神の欠如というか、こっちに住みはじめてからというもの、そういう案件に大なり小なりあちこちで出くわしてうんざりすることが本当に多い。(…)さんは今回の件で完全に魂を傷つけられてしまったと思う。こんなこと彼女の口から聞くのは初めてだが、いま泣いていますというメッセージまで届いた。

 2013年4月10日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。「amazonから『The Collected Stories of KATHERINE MANSFIELD』が届く」という記述があり、また10年越しでシンクロしたなと思う。しかしこの当時はまだ洋書を読むレベルなどでは全然ない。それでも無理して“Prelude”をちょっと読み進めてみたりしているようだ。

安らかな仮眠をとり、熱い湯を浴びて22時、とどのつまりの自室待機で、『The Collected Stories of Katherine Mansfield』から“Prelude”を読む。これマンスフィールドの作品の中でいちばん好きなもので、翻訳を金閣寺マクドナルドの二階席で読んだ日の衝撃はいまでもはっきりと覚えている。あまりのすばらしさに胸がいっぱいになってしまい、続けてほかの作品を読む気になれず、その場でポメラを取り出して感想を書きつけたのだった(いまからだいたい一年半前のことらしい→(…))。ひとまず半分ほど読みすすめる。Joyceを読んでいたときよりもずっと語彙がやさしいので比較的楽に読み進めることができる。知らない単語はわりとたくさん出てくるけれども前後の文脈から判断すれば辞書なしでもいけなくはないくらいのレベル。いちおうは勉強という名目でやっているところもあるのでけっこうまめに引きながら読みすすめているのだけれど、それにしてもバーネル家が舞台のこの一連のシリーズはすばらしい。スタンリーの単細胞っぷり、リンダの陰、おばあちゃんの半端ないおばあちゃんっぷり、ベリル叔母の滑稽と哀切、いじわるなイザベル、かわいいロティ、そしてしずかにおとなびた愛らしいキザイア。完璧。完璧な小説の登場人物たち。

‘Where are we now?’ Every few minutes one of the children asked him the question.
‘Why, this is Hawk Street, or Charlotte Crescent.’
‘Of course it is,’ Lottie pricked up her ears at the last name; she always felt that Charlotte Crescent belonged specially to her. Very few people had streets with the same name as theirs.

Lottie当人のセリフに続いてLottieを主語とする地の文が連なり、代名詞sheを主語とする文章へと移行し、そしてvery few peopleという抽象的な集団を主語とする文章においてしめられるこの一連のくだりの、先へ進むにつれてしだいにLottieから遠ざかり匿名的な位置へともどりつつある語りが、「通りと同じ名前を有するひとびとがごくごく少数ながらいるものだ」といかにも子供らしい一文において不意に、そのきわめて些細な語るに足りぬ「真理」の内容といい、胸を張って誇らしそうにみえる「断言」の形式といい、Lottieの残像を宿しているとしかおもえぬ声を発するこの特権的な瞬間。自由自在に登場人物の内部から外部へと位置取りを変える語り手の、語る対象の輪郭線をつきやぶって侵入してはおなじくつきやぶって脱出するその破壊的な絵筆のごとき動きによって、語られるものたちの内部がわずかに外にはみだして尾をひくこの感じ。主語と語りのぎこちない、それであるがゆえにときにきわめて美しくもある、奇蹟的に偶然な共犯関係。すばらしい。

 そして「じぶんの知るかぎり子供を描くことに成功した作家は中勘助マンスフィールドだけだ」といういつもの言葉が書きつけられているが、10年後のいまはここに「この人の閾」の保坂和志を並べたい。
 頭痛が限界だった。学生から風邪かインフルエンザでももらったかなと思い、熱をはかってみたが、平熱。あたまがかなりぼうっとする感じだったので、これはけっこう意外だった。とりあえずなんか腹にいれておいたほうがよさそうだと思ったのだが(体調不良とは別に、空腹に由来する気持ち悪さみたいなものもあるように感じられた)、部屋には食パンくらいしかない。冬休み中そうしていたように冷食の餃子をやっぱり冷凍庫につねにストックしておいたほうがいいかもしれない。どうしたもんかなと考えていたところで、去年の夏休み、一時帰国中の(…)さんからもらったお茶漬けがあることを思い出し、これでいいやとなった。で、ちゃちゃっと米を炊き、永谷園の鮭茶漬けを二袋ぶっかけて白湯をそそぎ、そのままかっ喰らったのだが、これがマジで驚くほどうまかったので、びっくりした。同時に、味噌汁だのお茶漬けだのうめぼしだの納豆だのをやたらとありがたがって食っては「やっぱり日本食は最高だぜ!」と口にしてみせるという、いちばんイタくてうっとうしいタイプの海外在住日本人にほかでもないじぶんがなってしまったことに強烈なショックを受けた。カルマを解消すべく善行を積みに積んだ三十七年目の終着点が、まさかこれほど俗気たっぷりのクソしょうもないシャバ僧だとは! しかしお茶漬け、数年ぶりに食ってみて思ったのだが、めちゃくちゃしょっぱいな。日本食が塩分過多ってやっぱマジなんかもしれん。(…)さんも初来日の日、空港で食ったラーメンのしょっぱさにびっくりしたと言っていたし。
 頭痛がひどすぎてなんもする気が起きず、その後ははやばやとベッドに移動した。しかし横になってみるとその頭痛がおさまるようだったので、The Garden Party and Other Stories(Katherine Mansfield)の続きを読む。“At the Bay”の序盤をちびちび読んだが、いや、やっぱりこれすごいわ、Mansfieldのこの少女Keziaシリーズは歴史に残る大傑作やわ。ほんまにやばい。ひさびさに小説を読んで気分が高揚し、瞳孔がひらいてなかなか寝つけへんという時間があった。
 Stanleyが早朝の海で泳ぐ。そこにJonathan Troutがやってくる。語りははじめのうちStanleyの内面につきしたがう。ひとりでゆっくり泳ぎたいのに、ほかの場所で泳ぐこともできるのに、いつもじぶんが泳ぐ場所にやってくるJonathan TroutのことをStanleyはうっとうしく思う。そういうじぶんの感情にもJonathan Troutは無頓着だ。馴れ馴れしく気さくに話しかけてくる。空気が読めず、無神経で、うっとうしい人物——そういうふうな印象を読者はJonathan Troutに対しておぼえるのだが、そうした彼の存在がうとましくなってStanleyが先に海を離れたあと、とりのこされたJonathan Troutのほうに語りは移行する。そして、実は、Stanleyがじぶんのことをうとましく思っていることをJonathan Troutのほうでも理解していること、そのことを理解していながらそのことに気づいていないふりをして彼のことをからかっているかのような内面が語られる。この落差がまずめちゃくちゃあざやかなのだ。Jonathan Troutは通常の小説の文法であれば、Stanleyの神経質で気難しい性格をきわだたせる対比的な人物として置かれるだけだと思うのだが(神経症的な内面の豊かさをもちあわせるStanleyに対して、無神経で内面のとぼしいJonathan Trout)、語りがStanleyからJonathan Troutに移行した途端、実はStanleyの視線経由で読者がそう見ていた人物とはまるで異なる、まさかそこにそれほど豊かなものがあるとは想像もしていなかった内面がいきなりあらわれる。
 同じ技法はStanleyが家を出発したあとの場面でも使われている。せっかちで、あわただしく、いくらか高圧的でイライラしている出発前のStanleyに対して、一家の女たちは一見するとみんなかいがいしく尽くしているようにみえる。しかし彼がいざ出発し、Stanleyの内面に沿うていた語りが家に残った女たちのほうに移行するやいなや、いつもイライラしていてうちの空気を悪くする存在である大黒柱がいなくなったことに心底ほっとし、よろこびまくる女たちの内面が怒涛のテンションで語られる。ここの落差にまたびっくりする。そして、この、厄介払いを果たした女たちのよろこびの描写、そこであふれだす多幸感の描写、これがまたすばらしいのだ!

 Yes, she was thankful. Into the living-room she ran and called "He's gone!" Linda cried from her room: "Beryl! Has Stanley gone?" Old Mrs. Fairfield appeared, carrying the boy in his little flannel coatee.
 "Gone?"
 "Gone!"
 Oh, the relief, the difference it made to have the man out of the house. Their very voices were changed as they called to one another; they sounded warm and loving and as if they shared a secret. Beryl went over to the table. "Have another cup of tea, mother. It's still hot." She wanted, somehow, to celebrate the fact that they could do what they liked now. There was no man to disturb them; the whole perfect day was theirs.
 "No, thank you, child," said old Mrs. Fairfield, but the way at that moment she tossed the boy up and said "a-goos-a-goos-a-ga!" to him meant that she felt the same. The little girls ran into the paddock like chickens let out of a coop.
 Even Alice, the servant-girl, washing up the dishes in the kitchen, caught the infection and used the precious tank water in a perfectly reckless fashion.
 "Oh, these men!" said she, and she plunged the teapot into the bowl and held it under the water even after it had stopped bubbling, as if it too was a man and drowning was too good for them.

 この描写! このくだり! ここを読んでいるだけで、マジで目がうるみそうになる! 本当にすばらしい!
 あと、少女Keziaシリーズ——というかBurnell一家シリーズというべきなのかもしれないが、こちらはMansfieldの分身であるらしいKeziaがいとしくてたまらないのでいつも少女Keziaシリーズといっている——における最大のすばらしさはやっぱり子どもの描写だろう。今日読んだ部分だけでもほんとうにため息をつきたくなるようなくだりがいくつもあった。ぜんぶ引く。

 At that moment the door opened and the three little girls appeared, each carrying a porridge plate. They were dressed alike in blue jerseys and knickers; their brown legs were bare, and each had her hair plaited and pinned up in what was called a horse's tail. Behind them came Mrs. Fairfield with the tray.
 "Carefully, children," she warned. But they were taking the very greatest care. They loved being allowed to carry things. "Have you said good morning to your father?"

 "Oh, Kezia! Why are you such a messy child!" cried Beryl despairingly.
 "Me, Aunt Beryl?" Kezia stared at her. What had she done now? She had only dug a river down the middle of her porridge, filled it, and was eating the banks away. But she did that every single morning, and no one had said a word up till now.
 "Why can't you eat your food properly like Isabel and Lottie?" How unfair grown-ups are!
 "But Lottie always makes a floating island, don't you, Lottie?"
 "I don't," said Isabel smartly. "I just sprinkle mine with sugar and put on the milk and finish it. Only babies play with their food."

 "Wait for me, Isa-bel! Kezia, wait for me!"
 There was poor little Lottie, left behind again, because she found it so fearfully hard to get over the stile by herself. When she stood on the first step her knees began to wobble; she grasped the post. Then you had to put one leg over. But which leg? She never could decide. And when she did finally put one leg over with a sort of stamp of despair–then the feeling was awful. She was half in the paddock still and half in the tussock grass. She clutched the post desperately and lifted up her voice. "Wait for me!"
 "No, don't you wait for her, Kezia!" said Isabel. "She's such a little silly. She's always making a fuss. Come on!" And she tugged Kezia's jersey. "You can use my bucket if you come with me," she said kindly. "It's bigger than yours." But Kezia couldn't leave Lottie all by herself. She ran back to her. By this time Lottie was very red in the face and breathing heavily.
 "Here, put your other foot over," said Kezia.
 "Where?"
 Lottie looked down at Kezia as if from a mountain height.
 "Here where my hand is." Kezia patted the place.
 "Oh, there do you mean!" Lottie gave a deep sigh and put the second foot over.
 "Now--sort of turn round and sit down and slide," said Kezia.
 "But there's nothing to sit down on, Kezia," said Lottie.
 She managed it at last, and once it was over she shook herself and began to beam.
 "I'm getting better at climbing over stiles, aren't I, Kezia?"
 Lottie's was a very hopeful nature.

 読んでいるあいだ、胸がひたすら高揚した。やっぱり少女Keziaシリーズはじぶんの手で翻訳すべきかもしれないと思った。At the BayとPreludeとAloeとThe Doll’s Houseの四篇。はっきりいって、いまの日本で、Mansfieldのことをここまで高く評価している人間は自分以外にいないんではないか? ヴァージニア・ウルフを高く評価する人間は無数にいるだろうが、キャサリンマンスフィールドなんてたぶんほとんどの人間がすでに賞味期限の切れた作家だと思っているんではないか? こちらにとってはチェーホフより重要な作家なんだが!
 それでふと思ったんだが、Mansfieldの小説は翻訳でも原文でもすべて読んでいるわけだが、日記や手紙はまだ読んでいなかったはず。で、原文であればKindleで出版されているんではないかと思って調べてみたところ、「The Collected Letters of Katherine Mansfield: Volume Four: 1920-1921 (English Edition)」というのが33399円、「The Collected Letters of Katherine Mansfield: Volume 5: 1922 (English Edition)」というのが20244円で、おめーな! たいがいにしとけよ! ムージルの日記や書簡集より高いやんけ! さすがにこれは買う気にならんわけやが、「Katherine Mansfield and Virginia Woolf(Katherine Mansfield Studies)」(Gerri Kimber)というのが2871円であり、これはちょっと気になるかも。