20230416

 ラカンは子どもの自我を「小さな他者」と呼ぶ。なぜなら子どもの自我は、その子のまわりの「小さな他者たち」——幼い兄弟、姉妹、いとこ、隣人——をモデルにしているからである。転嫁現象 transitivism という現象——たとえば、ある状況においてひとりの子どもが倒れるとそれを見た別の子どもが泣くという事実のなかに見られる——が示唆しているのは、この水準においては、ある子どもの自我と別の子どもの自我のあいだには、はっきりとした区別はほとんどないということである。大文字で書かれる〈他者〉はここで、それが自分の母語の座であるかぎりにおいて、さらに、親や人生のなかで関わる周囲の他人がこの母語を用いて伝えてきたあらゆる理想、価値、欲望、矛盾する観念、曖昧な言葉づかいの座であるかぎりにおいて、無意識として理解することができる。
(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳『「エクリ」を読む 文字に添って』 p.242-243)



 11時過ぎ起床。今日も暑い。最高気温は32度。歯磨きと洗顔をすませて外へ。となりの棟の入り口、いつも(…)が守衛として陣取っているあたりに(…)がひとりでおり、(…)と遠慮がちに声をかけてくる。手にビニール袋をさげているので、なにもってんのとたずねると、袋をこちらに差し出してみせる。中国でよく見かける缶ジュース二本。(…)は半袖だった。
 菜鸟快递で荷物を回収する。淘宝で注文したキレイキレイ。第五食堂の一階で炒面を打包して寮にもどる。すれちがう男子学生の大半がTシャツにハーフパンツだった。完全に夏だ。
 部屋にもどって食す。卒業生の(…)くんから微信。「(…)は何処?」と。きのう会えないと伝えたはずなのだが、もしかしたら大学のそばまで来ているのかもしれない、ここで下手に返信すれば今から出てきてくれないかとしつこく食い下がられるおそれもなくはないのでいったん無視する。
 洗濯機をまわし、火曜日の授業で必要な資料を印刷し、食後のコーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、2022年4月16日づけの記事を読み返す。そのまま2013年4月16日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。『忘我の告白』はやっぱりいいな。

 捧げ物と、捧げ物を置く石と、捧げ物を供える人――この三つが同じ一つの存在から出てくるものであることが、私にはわかっている、私はそれを身をもって知っている。
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「ラーマ・クリシュナの言葉」)

 結婚するようにとハサン・バスリーに警告されて、ラービアは語った、「私の存在はもう長らく結婚のような関係によって結ばれています。だから申しますが、私の存在は私のなかでは消えて、あのかた(神)のなかでよみがえっています。そしてあのときから私はあのかたの力のなかで生きているのです、そう、私はすっかりあのかたなのです。このような私を花嫁に望むかたは、私を望むのではなく、あのかたを望むことになるわけです。」どのようにして彼女がこのような段階に達したのか、とハサンは彼女に訊ねた。「私が見いだしたすべてのものをあのかたのなかに失う、ということによってです」と彼女は語った。「どのようにしてあなたはあのかたを知ったのだ?」とハサンがさらに訊ねると、「おお、ハサン! あなたはある決まった仕方でものを認識されるのですね、けれど私は仕方なんぞなしにいたします。」
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「ラービアについて」)

 あと、この日はライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの『13回の新月のある年に』と『ケレル』を同志社で観た日らしい。もう全然内容をおぼえていないが、以下の感想をみるかぎり、けっこうおもしろそう。

レッドブルをキメてカフェインたっぷりのガムを購入したのち同志社の寒梅館へ。ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『13回の新月のある年に』と『ケレル』。前者は非のうちどころのない傑作。これまでに観たことのあるファスビンダー作品の中でいちばん面白かった気がする。とくに食肉工場の解体作業を背景にして元ネタが何なのかはわからないけれど何かの戯曲のセリフを一人二役絶唱しつづけるあの序盤のシークエンスはやばかった。頭をガツンとやられた。これはもう駄目だ、参った、完璧だ、と諸手をあげた。キャンドルのゆらめく地下室のような一室でゲイの男性が語る夢で見た墓場のくだり(そこで目にすることのできる墓碑に刻まれている生年から没年までの年月はどれほど離れていてもせいぜい二年程度でしかない、墓場にいた管理人らしき老人に事情をたずねてみると、墓碑にきざまれているのは生年と没年ではなくそのひとが本当の友人を持っていた期間であるとの説明が返ってくる)もやばかったし、たしかオリヴェイラのなんかの作品だったように思うけれど、そのなかでワンカットだけ舞台として映し出されていたのと瓜二つというかまったく同じロケ地なんではないかと思われるとても美しい教会の回廊でくりひろげられるエルヴィラ/エルヴィンの出生の秘密がシスターの饒舌によって語られるくだりなんかもすばらしく、ほかにも赤いあやしげな光がたっぷりと間を置いて点滅するビルの一画にて首つり自殺をこころみる男が語る「意志」についての挿話(さながらドストエフスキーの小説の登場人物であるかのような思想とたたずまい)であったり、そのビルの社長室というにはあまりに殺風景な一室にてくりひろげられるこの作品の白眉といってもいいかもしれない爆笑ものの、しかしやたらと胸にせまりくるダンスシーン(古いテレビ画面に映し出される女学生(?)たちのダンスをなりふりかまわぬ全身全霊っぷりで真似ることによる女性化の儀式)であったり、くりだされる挿話のひとつひとつがどれもこれも圧倒的な魅力に横溢していて、たとえば終盤でカフカの『城』にたいする言及があったりもするそのことにひきつけていうならば、ほとんどカフカ的な連鎖性とでもいうべきものに則って挿話から挿話へとシークエンスの移動していく水平性の感触があるのだけれど、ただそれでいて(たとえば『アメリカ』のごとく)ある挿話と次なる挿話とがほとんど完璧に独立した無関係性によって逆説的に関係しているというほどのアレでもなく、挿話の内容にせよ挿話から挿話への手続きにせよ、いくらか荒唐無稽であったり飛躍やブランクがさしはさまれていたりはするものの、基本的には性(ジェンダー)と実存(これらはファスビンダーにとってはほとんど同義語だ)周囲を経巡るものになっていて、ひとつのシークエンスにつきひとつの舞台が用意されひとりの人物が現われてひとつづきの言葉が語られるという大雑把な見取り図を踏襲していうならばこの作品はある種「巡礼」の形式をとっているともいえるかもしれない。ほかにもカフカとの関連でいうならばやはりあの「門番」の存在に言及しないわけにはいかないだろうし(「門番」が登場するシーンはひとつの例外もなくすべてがカフカ的な様相をおびる、たとえば正しい合い言葉を前にしたときの手のひらを返したような態度であったり、あるいは緊急事態にもかかわらず持ち物検査をすると言い張ってやまぬ頑なその使命感とそのような門番の態度をなにひとつ不自然であると思わないどころかむしろ当然と見なしているかのごときほかの登場人物らの態度から逆照射されて見えるその特権性)、あとは音楽の使い方もかなり特徴的だった。さまざまな音楽をこれでもかというくらい多用しているにもかかわらずまったくもって下品でない。ゴダールのように「楽曲」を「(効果)音」のごとくぶつぎりにして「鳴らしている」のではなく、楽曲を楽曲のままにきちんと「流している」にもかかわらず、ぜんぜんうるさくない。このバランス感覚は特筆すべきものだと思う。
ケレル』のほうはジュネの原作ありきで展開されるという束縛があるがゆえに前者のようなぶっ飛び具合を期待すると肩すかしを食らってしまうけれども、ケレルがはじめてオカマを掘られるシーンのほとんどギャグかよみたいなキラッキラに美化された官能性(これはアラン・レネ『戦争は終わった』におけるナナとの性交シーンの記憶に結びつく)であったり、殺人犯とお別れるするまぎわのケレルが隠れ家代わりの路地を右往左往する姿を天井の高さの上空から俯瞰して映しとったシーンであったりが印象に残った。ケレルの兄(名前忘れた。ロベール?ロバール?)役の俳優のだらしのない色気と男前っぷりに魅入られかけたが、劇中さいごまで同性と関係を持たずにいる唯一の主要人物がこの兄であったりするというのは奇妙な皮肉だ。あと『ヴェロニカ・フォスのあこがれ』で散見せられた過剰なハレーションはこの作品にも認められた。
『13回の新月のある年に』と『ケレル』の両作ともにアーケード機のレースゲームが登場し、そのプレイ画面が映し出されるのだけれど、そこで頻繁にくりかえされる車両のクラッシュは『マリア・ブラウンの結婚』のクライマックスと響き合う。じつに不気味だ。重苦しく痛ましく救いなどかけらもないカタストロフィの予感(そこにはゴダール『軽蔑』のような無言の詩情も凍てついた感傷も認められない)。

 今日づけの記事もここまで書くと時刻は16時半だった。作業中はリリースされたばかりの『NO MOON REMIXES』(D.A.N.)を流した。リミックス陣のなかにSILENT POETSの名前を見つけ、まだ学生だった時分に一枚アルバムをどこかで借りた記憶があるなとなつかしくなり、そのまま『Dawn』(SILENT POETS)と『Another Trip From Sun』(SILENT POETS)も流してみた。なつかしい音楽といえば、今朝見た夢のなかで、あれは学生らの自習かなにかを見守っているというシチュエーションだったのだろうか、薄暗い教室のなかでECMっぽい静謐な音楽が流れているのを、教卓のコンピューターをいじってなぜかINO hidefumiのSpartacusに変更しようとする場面があった。
 30分ほどでちゃちゃっと日語会話(二)の第19課の残りを詰める。これで来週にひかえている一年生の授業二日分はどうにかなる。その後、第五食堂で打包。帰宅して食し、ベッドに移動して20分ほど仮眠。覚めたところで身支度を整え、ケッタに乗ってスタバへ。今日はさすがに暑かったのでアイスコーヒーを注文し、ひさしぶりにソファ席に腰かける。空席をはさんだとなりの席には、たしか先々週も見かけた記憶がある四年生の(…)さんに雰囲気のどことなく似た女性がおり、やはり先々週と同様、パソコンをずっとカタカタやっていたのだが、あれは学生なんだろうか? 時期的に卒論に追い込まれているパターンなんだろうか? しかし都市部であればどうか知らんが、少なくともうちの学生で日頃カフェに通って作業をしている人物なんてほとんどいないと思う、というかカフェで読書なり書きものなりしている人間をこの町で見る機会はほとんどまったくない、だから余計にこの女性の存在が目立つわけだが、もしかして小説を書いていたりするのかな? (…)さんと同様、服装のテイストがちょっとアニメキャラっぽいので、もしかしたらBL小説を書いているのかもしれない。いや、なにもかも勝手な想像にすぎんが。
 店ではひたすら『「心理学化する社会」の臨床社会学』(樫村愛子)の続きを読み進める。クソおもろい。『ラカン社会学入門――現代社会の危機における臨床社会学』にも似たような論考があったが、自己啓発セミナーに関する分析がとにかくあざやかで、すげー! となる。精神分析の知見をこれほど流暢に使いこなすことができるんだ、と。精神分析の勘所を「欲求の遅延・禁止システム」とまとめたうえでそれを「文化(システム)」の一語に圧縮してぶんぶんふりまわしているところとか、マジですごい密度の議論だよなと思う。決めた、日曜日はスタバで樫村愛子の日にする。日本で買った著作はすべてこっちに持ってきているし、ちょうどいいや。Mansfieldの再読は平日の手隙に進める。
 店には22時前までいた。(…)さんそっくりの女性客も去り、スタッフが店内を本格的に清掃しはじめたので、たぶん22時が区切りなんだろうと察し、こちらもそのタイミングで席を立った。帰宅後、『「心理学化する社会」の臨床社会学』をきりのよいところまで読み進め、ひとときだらだらしたのち、浴室でシャワーを浴びた。ストレッチをし、腹筋を酷使し、プロテインを飲んで冷食の餃子を食し、歯磨きしながらジャンプ+の更新をチェック。その後、今日づけの記事の続きをここまで書いた。

 時刻は2時だった。ベッドに移動し、The Garden Party and Other Stories(Katherine Mansfield)の続きを読んだ。寝巻きはエアリズムとハーフパンツだけだったが、それでもまったく問題ない、エアコンをつけるほど暑いわけではないが、布団をかぶりたくなるほど肌寒いわけでもない。しかしこれから九月中旬ごろまで、最高気温が30度を切らない日々がずっと続くのかと考えると、なかなかげんなりするな——と思って週間予報を見たら、22日(土)にまたぐっと冷え込むらしく、最高気温が12度になっている。めちゃくちゃ。もうなんでもありやな。この土地に越してきてからいったい何度書きつけてきたかわからんが、マジで衣替えするタイミングが難しすぎる。気分屋の意味で「お天気屋」という言葉があるが、この土地に住んでいると、そのニュアンスが五臓六腑にしみわたる。