20230506

 対象aについては、一般的にはそれは失われた対象であり、ウィニコットの移行対象と似た概念であると言われており(…)、その具体的な現れは乳房、糞便、声、眼差しであるとされる。こうした対象aが象徴化の残余であると言われるとき、重要なのはこの対象が「穴の現前、空の現前にすぎない」(…)ということである。このことは対象aは意味や中身のない空虚な対象であるということを端的に示しており、それはこの対象が「享楽(jouissance)の等価物として機能することができる」(…)現実的なものであるからである。ラカンの理論においては、シニフィカシオン(signification:意味作用)はシニフィアンの連接によって隠喩的に産み出されるということからわかるように、意味は象徴界によって保証されているが、現実的なものである対象aは意味が付与されない対象であって、象徴化という分析過程において主体が象徴界でいくら意味を見出しても意味づけできない点として残るものなのである。ラカンを引こう。

 「シニフィアンの場としての大文字の他者にしたがっているので、主体は割り算の商として印づけられます。主体は大文字の他者の領野においてシニフィアンの一なる印(trait unarie)によって印づけられるのです。(…)ある残余があり、それは割り算・分割の意味における残滓です。この残余、(…)それは「a」なのです」(…)。

 このように対象aは象徴化の分析における残余という地位を持っている。ラカンにとって、パロールの効果によって大文字の他者の中で実現される主体は「自身の半分に過ぎない」(…)。主体の残りの半分は象徴化の分析ではなく、「自分自身から永久に失われてしまった部分の探究」(…)、すなわち対象aの分析によって実現されるのである。
(赤坂和哉『ラカン精神分析の治療論 理論と実践の交点』より「第四章 ラカン第二臨床あるいは幻想の臨床」 p.83-84)



 正午前後に起床。一年生の(…)くんから昨日買ったアスカの置物の写真が届く。かなり気に入っている模様。今日の夜は(…)さんと(…)さんのふたりと(…)の名物である擂茶なるものを食いにいく約束になっていたのだが、同行者がいるらしくそのためのグループチャットが形成された。メンバーは先のふたりのほかに、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)くん、(…)くん、(…)くん、(…)くん、(…)くん。のちほど(…)くんも加わったので、こちらを含めて13人の大所帯になる。前回参加しそびれたピクニックメンバーより人数は多いのだが、そのときいたはずの(…)さんは今回参加しておらず、これは元カレである(…)くんがメンバーにいるからなのかもしれないし、単純に主催の(…)さんと(…)さんのふたりが彼女のことをあまりよく思っていないからなのかもしれない(これは完全にこちらの推測であるが、これまでの言葉の端々からなんとなくそういう印象を受けていたし、のちほど書くが、今夜またあらたにひとつこの疑惑を裏打ちするできごともあった)。こちらは(…)さんを高く買っているし、彼女もしばしばこちらとコミュニケーションをとりたがっている、というかなんだったら重大な何かを相談しようとしているという気配が見え隠れしているので、カフェかどこかで一度ゆっくり話す機会を設けたほうがいいのではないかという思いがずっとあるのだが、これまで授業外でろくすっぽ交流がないところで突然こちらとふたりきりで会うというのは緊張するだろうし、まずはこういう場からはじめてステップバイステップでと思っていたのだが、うーん、どうしたもんか。やっぱり相手が女子学生ということもあり、こちらからサシで会いましょうともちかけるのは、たとえそれがどのような文脈にある提案であったとしても、ちょっとおっかなびっくりになってしまう、というかこれはじぶんに禁じている。先日瑞幸咖啡でだべった二年生の(…)さんのように、サシでの約束というのがあくまでも相手のほうからの要望である場合は問題ないのだが。

 第五食堂で炒面を打包する。食したのち、きのうづけの記事はあとまわしにすることにして、「実弾(仮)」第四稿執筆。13時半過ぎから17時過ぎまで。シーン25をちょろっと加筆修正。麻痺を解除するためにフォントを明朝体からヒラギノに変更した。
 作業中、(…)くんと引き続きちょくちょくやりとり。(…)大学で院生をしている(…)さんからは翻訳に関する質問。成語をはじめとする中国語に固有の表現については、無理に逐語訳するのではなく、ときには思い切ってバッサリと意訳する勇気も大切だということを解説しがてら伝える。名門大学にもかかわらず日本人教師がいないためだろう、(…)さんは(…)((…)のこと)に帰りたいと言った。
 17時をいくらかまわったところで出発。外はあるかなしかの小雨。気温はひさしぶりにかなり低下しており、この時点でたしか16度ほどしかなかったのではなかったか、こちらはヒートテックにセーターという格好で出たわけだが、帰路ではそれでも寒い寒いとなった、せめてヒートテックを極暖にしておくべきだと悔やんだ。フリースタイルしながら南門まで歩く。男子学生らが先着している。(…)くん、(…)くん、(…)くん、(…)くん、(…)くん、そして先のグループチャット結成時のメンバーには加入していなかった(…)くん。(…)くんと(…)くんのふたりはキャンパスで何度かすれちがっているが、あとの面々は今学期初顔合わせということになるか。先生かっこいいですねとこちらの服装を見ただれかがいうので、いつもかっこいいよと応じる。(…)くんの着ているadidasのナイロンジャケットがかっこよかった。黒字に蛍光緑と蛍光紫のラインが走っている、ちょっとvapor waveっぽいテイストのもの。
 ほどなくして女子らもやってくる。(…)さんと(…)さんのふたりはしょっちゅう会っている。(…)さんと(…)さんのふたりは今学期初。(…)さんと(…)さんのふたりはキャンパスですれちがったことがあるような、と、書いたところで思い出した、以前いっしょに東北式の火鍋を食べに行っている。
 目的地まではバスで移動するとのこと。(…)に通うときに乗るいつものバス停からいつも乗るのとは別のバスに乗っていつものように最後尾の窓際を陣取る。となりには(…)くんが来る。連休中はどうしていたのかとたずねると、南昌を旅行していたというので、うちの学生みんなあそこに旅行に行っているねと応じる。南昌市は浙江省の都市。(…)くんの故郷はおなじ浙江省の温州市であるので、ついでに帰省したのかとたずねると、連休は五日間しかなかったので故郷には寄らなかったとの返事。以前はもっと連休が長かったのにねというと、調休が導入されてから短くなってしまったというので、あれはでも割と最近の仕組みだよね、ぼくが中国にきた当初は国慶節も労働節ももっと長かった、だから中国は祝日が多くていいなと思ったけどいまでは日本より休みが少ない、あれはやっぱり経済的な理由で導入されたものなのとたずねると、主な理由としてはそうだと思うという返事。(…)くんは今学期祖父を亡くしたという(モーメンツの投稿でいちおうこちらは知っていた)。それで故郷に帰省した折、家族から大学院を目指すようにいわれたのでいまは勉強をしているというので、え? マジで? とびっくりした。先学期だったと思うが、自分の下にはまだ妹がいるしこれから学費も必要になってくるから、大学院には進学せずに働くことに決めたという報告があって、そのときは都市部出身のわりにはけっこう貧しい家庭なのかもしれない、両親からそうするようにほのめかされたのかなと思ったのだったが、もともと両親は(…)くんの大学院進学については特に意見を持っていなかったらしい、ただ彼自身の意思で進学はせず働くことにしようと決めていたという。(…)くんは高校一年生から英語の代わりに日本語を勉強している。院試には英語が必要じゃないのかとたずねると、(…)さんのいる(…)大学には入試に英語の必要ないコースがあるというので、あ、去年(…)くんが狙ったコースだなと思った。しかし死ぬほど勉強熱心であった(…)さんで口利き含めてのぎりぎり合格、将来は東大に進学すると勇みまくっていた(…)くんでは箸にも棒にもひっかからなかった(…)大学に、これまで決して熱心に勉強してきたわけではない(…)くんで太刀打ちできるかといえば、これは実際かなり厳しいだろう。というか毎年のように書いているが、うちの学生たちは院試に挑戦するのであれば、それ相応に事前調査をしろよと思う、志望校の絞り込みにはほとんど時間をかけずろくに調査もせず、ただ先輩が進学したという理由だけでおなじ大学院を受ける学生がマジで多すぎる、なんなんだろこれはと思う。(…)くんはいま日本語を勉強している。受験科目はほかに百科と政治。政治については最後の二ヶ月間取り組むだけでいいというので、それで間に合うのとたずねると、いま政治を勉強したところでそのあとになにか政治上の大きな動きがあって変更点など出てきた場合すでに勉強した分が無駄になってしまう、だから政治の勉強というのは受験勉強期間の後半に詰め込むのが一般的なのだという返事があり、あ、そんなリアルタイムな話題が出題されるんだ、とおどろいた。ま、学校で使う政治の教科書に、故人でも過去の偉人でもない現役の国家主席である「習近平思想」にそれ相応の紙幅が割かれている、そういう社会のそういう科目であるのだから、テストも当然そういうふうになるわけだ。
 会話中、(…)くんは何度もじぶんの「くちことば」能力が落ちたと嘆いた。こちらとしては特にそういう印象はおぼえなかった。彼はクラスのなかではたしかに口語能力の高い学生であるが、だからといって元々流暢というレベルでは全然なかったし、今日にしたところで、つまりながらどもりながら話すその口ぶりに、なんかなつかしいな、(…)くんってこういう不器用で優しい語り口の持ち主だったよなと思ったのだった。口語能力については、一度しっかり身につけたものであれば、錆びついたとしてもすぐにまた磨きなおすことができると受けあった。実際、そういうもんだ。実家で一年半ちょっとオンライン授業をしていたあいだ、英語なんてまったく使わなかったそのせいで、中国に再入国した直後は(…)とのやりとりになかなかけっこう苦労した、いまでこそ簡単な用件であればおたがい電話ですませるわけだが、上海の隔離ホテルにいるあいだにかかってきた電話になんてまともに対応できなかったのをおぼえている(あれはマジで凹んだし、じぶんのアホっぷりが情けなくなった!)。
 夏休みには日本旅行に行くという。友人が今年大学を卒業する、それで卒業旅行として日本に行くというのでじぶんも一年はやいが同行することにしたというので、あれ? (…)くんってもしかして浪人しているのかな? と思った。単純に年上の友人がいるというだけの話かもしれないが。滞在先は東京。一週間ほどの予定。本当は関西にも行きたかったのだが、新幹線代が思っていたよりも高かったので、東京や横浜などを中心にめぐることに決めたという。いっしょに旅行する友人たちはみんな高校時代から日本語を勉強しているオタク仲間だという。秋葉原は絶対にいくというので、中野ブロードウェイという場所もいいらしいよとすすめる。すすめておきながらアレだが、こちらはその中野ブロードウェイのことをよく知らない、ビルなのかモールなのかわからんが、サブカル的な店舗が密集しているそういう場所だというぼんやりしたイメージしかないので、その場でスマホVPNをかませてググり、あ、こういう商業施設みたいだねと彼に説明する。(…)くんは絶対にここに行くといった。一日中ここにいてもいいという。ウェブサイトのフロアマップを見ていたら、中国整体の店があったので、ちょっと笑った。
 スピーチコンテストの話にもなる。三年生はだれが出場するのだろうというと、じぶんの知っているかぎりは(…)くんと(…)くんだという。(…)くんはわかるけれども(…)くんは意外だと口にすると、だれも参加したがらない行事や催し事にたいしては学籍番号順にもちまわりで参加しなければならないというクラスのルールがあるのだと、(…)くんはかなりつっかえつっかえの言葉で説明した。だから校内予選にはいちおうそのふたりが出場することになっているが(だれも参加しないわけにはいかない)、本戦に出場することになるかどうかはわからないという。こちらとしてはそれこそ、このタイミングで(…)さんが参加してくれればいいのにと思わないこともないが、彼女はおそらく院試に挑戦するだろうからコンテストには参加しないだろう。
 バスの車窓外に友阿を認める。ということはあるんじゃないかと目を凝らすと、あった、セブンイレブンの看板がたしかに見つかったので、(…)さんと(…)さんのふたりにセブンイレブンがあるよと伝える。バスは次第に郊外に向かった。「老年大学」の門があったので、あれ、なんかこの言葉知っている気がするぞと思いつつ、学生らにたずねると、定年を迎えた老人らが勉強したり運動したりするようなところだという。それで、あ、市政府の依頼でやっていたニュース記事の翻訳でここの話題が一度出てきたなと思い出した。
 移動時間はかなり長かった。たぶん40分ほどバスに乗っていたことになるのではないか。始点から終点まで移動したかたちらしい。さらに終点は(…)のわりと近くだった。そこから目的地まで歩く。ひなびて荒れ果てた一帯。背の低い建物が舗装のぼろぼろになった道路沿いに点在している。風景に色味がとぼしい。自然の緑もなければ、人工物のあざやかかつカラフルな色彩もない、ただただ殺風景であるなかを小雨に降られて歩いている最中、いまでこそこのほとんど不吉に荒廃した印象すらもたらす郊外の風景に慣れたものの、はじめての入国後、(…)から(…)まで車で移動する最中に窓外に認めたこの手の風景にはけっこうびっくりしたよな、没落した社会主義国家の廃虚という印象を受けたんだよなと思いだした。
 歩いている最中、(…)さんが例によってスマホで動画を撮影しはじめた。あとでまたまとめてネットに投稿するつもりなのだろう。(…)さんからは、かなりいまさらであるが、おひさしぶりですとあったので、ひさしぶりだねと笑って対応。彼氏は今年卒業でしょうというと、そうですというので、どこに行くのとたずねると、浙江省という返事。じゃあ(…)さんも卒業したら浙江省に行くのとたずねると、たぶん(…)に行くという返事。だから遠距離恋愛になるわけだ。
 店の場所はだれも知らないわけだが、アプリを頼りにして歩いたところ、たぶん10分もかからなかったのではないか、無事に到着した。擂茶の看板はまずまず新しかったが、店そのものはかなりボロい。車の全然通らない道路の対岸にもやはり擂茶の看板を出している店が二軒ある。われわれの入った店には先客もけっこういた。13人の大所帯であるしだいじょうぶだろうかとちょっと心配したが、問題なかった、一階には大きめの中華テーブルが四つほどあり、そのうちの二つはすでに地元の老人らによって占められていたが、残ったひとつに椅子を追加してぎゅうぎゅう詰めになって座った。二階は店の人間の住居スペースらしい。
 いつ注文したのかはわからないが、店の女将さんがすぐに菓子類を盆にのせてあらわれた。前菜ということなのだろうか。それから複数のおかずが次々に運ばれてきたのだが、肝心の擂茶というのはどろどろのおかゆみたいな食い物だった。保温のきくピッチャーみたいなものに入っているそのどろどろのやつを碗にそそぐ。で、塩を入れるなり、砂糖を入れるなり、あるいは同時に運ばれてきたよくわからん調味料を入れるなりして食べる。もちろんおかずをそこにぶちこんでもいい。まずは調味料なしで食ってみたのだが、生姜の強烈な味がするほかはほぼ無味無臭(ちょっと甘酒っぽい香りがしたかもしれない)。その後、(…)くんのすすめで砂糖を入れて食ってみたが、これはなかなかうまかった。運ばれてきたおかずの大半は唐辛子まみれだったので、砂糖の甘さに助けられたというのもある。こちらの大好きなきゅうりとパクチーをにんにくとごま油と唐辛子であえたやつも出てきたのでバクバク食った。
 ちなみに、これを書いているいま、あらためて擂茶ってなんやねんと思ってググってみたのだが、日本語では台湾の情報がメインでヒットする。「たびこふれ」というウェブサイトの「【台湾】食べる健康茶「擂茶(れいちゃ)」とは?体験するなら客家文化の息づく集落へ」という記事(https://tabicoffret.com/article/75805/)には以下のようにある。

「擂茶(れいちゃ)」とは、その名の通り雑穀や豆などを擂(す)ったものにお湯を注ぎ、レンゲでいただくお茶のこと。中国大陸から、アジア各地への移住を繰り返してきた民族である客家民族の間では、お客様をおもてなしする時に用いられ、古くは薬として飲まれていたこともある伝統的な飲みものです。
薬と言うと、何となく苦いものをイメージしがちですが、ほんのりとした甘みがあり食物繊維も豊富に含まれています。うれしいことに身体のほてりを冷ましたり、美容効果があるとも言われてる擂茶は、女性にうれしい、いいことずくめなお茶なのです。

 以下は英語版のWikipediaによる説明。popular areasとして“Hunan, Jiangxi, Guangdong, Guangxi, Fujian and Taiwan.”が挙げられている。

The custom of lei cha began in the Three Kingdoms period or even Han Dynasty. It is very common among Hakka people in Hakka regions of Taiwan. It is brought by Hakka people to Taiwan, Indonesia, Malaysia, and any locales with a substantial Hakka diaspora population. Besides Hakka lei cha, lei cha is also traditional among Hunanese people in northern Hunan.
Lei cha is not the same as Taiwanese tea because there are always other ingredients. Ground tea consists of a mix of tea leaves and herbs that are ground together with various roasted nuts, seeds, grains, and flavorings.

 食事がすんだところで写真撮影。トイレに行っている(…)さんを待っているあいだ、(…)くんが店で飼われているやつっぽい灰色の猫を見つけてなでまわしていたので、こちらもくわわったのだが、こいつがもう信じられないくらいのデブ猫だった。しかし人間慣れしていておとなしく、みずから腹をなでろとその場にごろんとしてみせる始末で、なかなかふてぶてしい。それでせっかくなのでそいつを抱っこして写真撮影にのぞもうと思ったのだが、(…)さんがその猫は妊娠しているみたいなことをいうので、あわてて解放した。しかしこれは事実ではなく、(…)さんの勘違いだった、あまりにデブだったのでてっきり妊娠していると思ったらしい。
 店の外に出る。出た先で今度は(…)さんと(…)さんとこちらといういつもの三人でも撮影(撮影係は(…)さん)。会計は(…)さんが払ってくれたので、グループチャット上で割り勘機能を使って支払う。ひとり16元ほど。外はおそろしく寒かった。気温が低いだけではなく、風がびゅうびゅう吹いていたのだ。あまりに寒いので、みんなして風を背中で受けるべく後ろ向きで歩きながらバス停に向かう。バス停でバスを待っているあいだ、脳内ビートにあわせて小声でフリースタイルしていると、指をパチパチやっているこちらがダンスでもするものと思ったらしい(…)さんがとなりにやってきて、くねくねとふざけてダンスのまねごとをしはじめるので、それにあわせてこちらもくねくねやる。(…)さんはスマホの画面をこちらにみせた。英語の辞書アプリ。extrovertという単語が表示されている。先生はこれですというので、外向的であり社交的であるという意味だなと察する。学生のほとんど全員はこちらがそういうタイプの人間だと思っている。授業中は、というか学生と接するときはなるべくそういうふうによそおっているのだから、その印象は絶対に間違ってなどいないのだが、しかし彼女らはこちらが他人から誘われでもしないかぎり、一ヶ月でも二ヶ月でもひとりで部屋にとじこもり続けるようなタイプであることを知らない。コロナのせいで実家に滞在していたおよそ一年半の間、弟はこちらが全然外に出ないことにびっくりしていた。自分も相当出不精だと思っていたが、(…)ちゃんがまさかここまで出不精だとは思ってもみなかったと、ニート暦15年の男に言わせたほどの実力者である。社交は得意だが、だからといってことさら好きではない。いつだったか(…)さんに、(…)ちゃんはひとのたくさん集まるところに出かけたら主役になれる能力があるのに、そういうことを好んでしようとしない、それがじぶんのような人見知りでコミュニケーションの苦手な人間からすると信じられない、宝の持ち腐れにしか見えない、みたいなことを言われたこともあった。好きなことと得意なこととの食い違い、それは当人にとっての悲劇であり、他者にとっての喜劇である。
 バス停は始点。時間が時間であったので車内は貸し切り。しかるがゆえにみんなわーわー騒ぐ。このメンツで大所帯となると、毎度かならずそうなるわけだが、学生らは次第に中国語でしか会話しなくなる、というかこのクラスで日本語でまともに意思疎通できるのは(…)くんと(…)さんくらいである。で、女子学生でいちばんおしゃべりな(…)さんと男子学生でいちばんおしゃべりな(…)くんの会話にいったん火がつきはじめるともう止まらなくなり、だからといってそのやりとりをいちいち日本語訳してもらうのもアレであるし、それができる学生もかぎられているしというわけで、次第に置いてけぼりになる。(…)さんは空気を読むのに長けているので、そういうときに先生がつまらなくなってしまうみたいなことを言って気をつかうのだが、こちらとしては別にもうそれはそれでいい、こうしたお出かけが以前のように頻繁にあるのであればさすがにしんどいが(おれの時間を奪っておいておれを置物扱いするな!)、集団での会食なんていまはそれほど頻繁にあるわけでもないのだから、学生同士自由に楽しめばいいというわけで、今日は放っておく構えに。それに、食後に乗り物にのるとこちらはきまって眠くなるのだ。
 そういうわけで眠たい目つきで窓外の景色をしばらくながめて過ごした。友阿の前に到着したところでバスをおりる。セブンイレブンをのぞく計画だったのだ。(…)くんと(…)くんのふたりは先に帰るということでここでお別れ。セブンの店舗は以前おとずれたローソンの店舗よりは広かった。それでも日本のコンビニに比べると半分以下のスペースしかない。飲み物はほとんど中国メーカーのものなのだが、お菓子のコーナーには日本メーカーのものもちらほら。アイスのコーナーにはピノや抹茶モナカなどもあったが、当然すべて割高。おにぎりもあった。サイズは日本のものよりひとまわり小さいが、値段は4元ほどと安い。具材はやっぱりローカライズされており、肉入りのものが目立つ。そのなかでもまだ日本テイストの残っている海老マヨっぽいやつをせっかくなので夜食に買うことにした。あとはチョコレートのケーキ。レジ前にはホットスナックもおでんもある。こちらの前に並んでいる若い女子が会計を現金ですませていたので、ちょっとぎょっとした。中国人が現金で支払いをするところを見るなんて何年ぶりだろう。
 店の外に出る。(…)くんはこちらを真似ておにぎりをふたつ買っていた。その場で食べるために電子レンジで温めてもらったというので、日本では一般的におにぎりを温めることはないんだよと応じた。応じたところで、いやでもそうじゃないのかな、たまたまじぶんのまわりがそうしないというだけでコンビニでおにぎりを温めてもらうひとも一定数いるのかなと思った。ちなみに中国人にとって冷たいメシというのはありえないという話を聞いたことがある。だから日本旅行時、駅弁を買ったのに中身が冷たかったという理由でトラブルになったとかなんとか、そういう記事をずっと以前ネットで見かけた記憶もある。
 (…)くんはいちご味のハイチュウ、(…)さんはチロルチョコをひとつ買っていた。チロルチョコはいちばんベーシックなあのホルスタイン柄のミルクチョコのほか、きなこ味、すいか味など複数あり、先生どれがおいしいですか? とたずねられたのだが、チロルチョコなんて最後に食ったのは中学生のころではないか? いや、もしかしたら京都時代に食っているかもしれないが、仮に食っていたとしてもこちらが食う機会があるとすればそれは(…)で(…)になっているときに決まっているので、うまいもクソもない、味の違いなんてろくにジャッジできない。
 (…)でミルクティーを買っているという(…)さんが戻ってくるのをおもての広場で待つ。カートゥーンテイストのクマのオブジェに(…)くんがひとりもたれかかっている。その彼にむけて、(…)さんをはじめとする女子学生何人かが、やたらと甘ったるい、ちょっとぶりっこじみた声で彼の名前を呼びかける。(…)さんがその後中国語でほかの面々にその声の由来みたいなものを説明したが、そのなかに(…)さんの名前が聞き取れた。同時に出てきたほかの単語から推測するに、どうやら前回みんなでピクニックした際、(…)さんが(…)くんに写真を撮ってほしいとお願いした、そのときの悪意たっぷりの声真似らしい。それで、やっぱり(…)さんらと彼女との関係はあんまりよろしくないんだなと察したのだった。
 寒いので友阿の中に入る。(…)さんと合流し、すぐそばにある雑貨屋をのぞく。入浴具、洗面具、室内雑貨のほか、菓子類などが陳列されているのだが、日本製のものがかなり多い。ここでは(…)さんが大量に買い物した。ガラス張りの壁際にソファがあったので、買い物した学生らが会計をすませるあいだ、ほかの学生らとそこに座って待った。窓の向こうにあるビルに「武道」の二文字を含む赤いネオンが灯っていたので、あれはなんの道場かとたずねると、韓国のという返事があったので、あ、テコンドーかと察する。
 店を出る。大学までバスで向かうか、歩いて向かうかと問われる。正直バスに乗ってさっさと帰りたい気分であったが、学生らはまだまだ楽しみたい感じだったので、どちらでもいいと応じる。案の定、大学まで小一時間歩いて帰ることになる。だったら給油が必要だというわけで、すぐそばにあるスタバに立ち寄ってコーヒーを買う。唐辛子たっぷりのメシを食った直後であるし、今日は朝からちょっと腹の具合があやしかったしで、だいじょうぶかなという不安もあるにはあったのだが、長い帰路をコーヒーなしで歩くのはしんどい。そういうわけでホットコーヒー片手に歩き出したのだが、10分と経たないうちに、やばいきざしに見舞われた。(…)くんとならんで歩きながら、本当はインターンシップに参加したかったのだが、両親の反対があってうんぬんかんぬんと語る彼の言葉をさえぎり、(…)くん! ちょっとやばい! うんこしたい! トイレどこ? と言った。ほかの学生におなじようにたずねると、みんな周囲をのんびりしたようすで見渡すのみ。これはやばいと思ったので、(…)さんに通訳をお願いして近くにあるコンビニに駆け込む。レジに入っている若い女性から奥へ行くようにとうながされたのだが、扉をあけようとすると、別の年長の女性店員からなにやら声をかけられる。トイレはないといっているのか、貸せないといっているのか、どちらかわからないが、とにかくここはダメらしい。それで(…)くんといっしょに小走りになってトイレのありそうな店を探すことに。ほかの学生らは後ろからのんびりついてくる。(…)さんが後ろから「どうしよーかなー先生ー!」とこちらの窮地を茶化すような言葉を口にするのが聞こえる。いやただうんこしたいだけちゃうねん! 下痢やねん! マジですぐにでも漏れそうやねん! と心中で抗議する。レストランが目につく。カウンターに飛び込む。(…)くんが通訳してくれる。無事奥にあるトイレを借りることができる。小走りでそっちに向かうこちらに対して、先生! 紙ある? と(…)くんがいうので、ある! と応じる。便所の扉はふたつある。男女のマークがない。どっちがどっちがわからんが、とりあえず中に入る。個室がふたつある。そのうちのひとつに入ると、使用済みのトイレットペーパーが捨ててある屑籠のなかに血のついたものが混じっていて、女子トイレやんけ! と思うが、もうそんなことを考えている余裕などない。中国のトイレとしてはめずらしいことに、ここはトイレットペーパーが備え付きだった。
 なんとか助かった、ぎりぎりだった、危なかった。マジでもう唐辛子を食ったあとにコーヒーを飲むのはやめたい。先学期の終わり頃、(…)さんといっしょにカフェでメシを食った夜も、唐辛子たっぷりパスタにコーヒーのコンボでマジで死にかけたのだったし、とにかく唐辛子とコーヒーの相性は最悪だ。マジでやばい。ほぼ100%腹を下すことになる。
 店を出る。(…)さんにあずけていたコーヒーを受けとる。(…)さんもトイレを借りているとのことだったので、彼女がもどってくるのを待つ。合流したところで帰路の続きをふたたびたどる。歩道橋を渡る。階段をあがった先に小学生らしい男女が数人いる。日本語で会話するわれわれのほうを見て、外国人だと声をひそめて話すのが聞き取れたので、对啊! 我们是外国人! と言ってやると、学生らはみんな笑った。小学生らはちょっとびっくりしているようすだった。ぼくのこと鬼子だと思っているのかなというと、学生たちはまた笑った。
 残る帰路は(…)さんと(…)さんとならんで歩く。(…)さんはもしかしたらいちばん日本語能力が高いかもしれない学生なのだが、他人と交流するのが苦手で、こういう集団での場となると毎回かならず(…)さんもしくは(…)さんのそばにぴったりはりついて離れない。日本語もほぼ話さない。もったいないよなと思う。そのせいで、一年生当時はまず間違いなくいちばんだった会話能力も、今日話してみた感じ、(…)くんに劣るレベルになっている。(…)さんは反対に、日本語はクラス最下位レベルのからっきしだが、コミュニケーション能力自体は高く、こちらに対してもまったく物怖じする気配がない。友人からビデオ電話がかかってきた彼女の背後にまわりこみ、後ろから中国語で彼女の悪口をふざけて口にしたりすると、げらげら笑いながらもこちらにおもいきり肩パンしてみせるくらいアグレッシブなところもある。
 道中、(…)さんはかなり疲れているようだった。信号待ちになるたびにその場にしゃがみこんでしまうくらい。けれども周囲の学生らはあまり気にしない。ここからでもバスかタクシーに乗ればいいのにとこちらなどは思うのだが。それでもどうにか大学にたどりつく。南門の前で老校区に寮がある男子学生らとは別れる。残った一同で新校区へ。日本語の悪口を教えてほしいみたいなことを(…)さんと(…)さんがいうので、いまどんな言葉を知っているのとたずねると、「バカ」「アホ」「てめえ」「ゴミ」「クソ」という返事。「ボケ」「カス」「クズ」「ハゲ」をレクチャーする。それに続けて、日本人女性はみんなやさしいですか? と一年生みたいな質問をしてみせるので、やさしいひともいればそうでないひともいる、それは日本でも中国でも韓国でもアメリカでもイギリスでもおなじでしょうと諭す。こういう質問にはある種の社会的病理が見え隠れする。
 女子寮前に到着したところで別れる。ひとり寮にもどる。帰宅。どっと疲れた。ひとまずフリースタイルしてあたまのなかを洗濯することにするが、出てくる言葉にいきおいもないし意外性もないし、あーWPが枯渇しているなという感じ。
 シャワーを浴びる。ストレッチをする。二年生の(…)さんから微信が届いている。はやくも作文コンクール用の原稿を書きあげたらしい。作文のテーマは結局、日中友好条約うんぬんかんぬんという政治的な方面のものに変更したらしかったが、ざっと斜め読みしてみた感じ、一年前に類似のテーマで書いた作文よりもはるかに構成がしっかりしていたので、これはいいな、文章のミスだけ直したらそれだけで応募できるわ、と思った。内容にかんしてはテーマがテーマだけに当たり障りのないものにならざるをえない、だからこそ構成力がものをいうわけであり、一年前の作文はちょっとそこに難アリだったわけだが、今回はマジで手を加える必要がないほどしっかりしていたし、あとは単語のセレクトや表現なども一年前のものにくらべるとそれほど直接的ではない、ある種玉虫色ともとれるようなニュアンスが散りばめられていたので(一年前のものはいかにも愛国少女的な、日本を一方的に糾弾しまくるだけの内容だった)、うーん、大人になったな、とちょっと思った。
 きのうづけの記事の続きを書いて投稿する。"Look here, darling," he said. "The third and the ninth as usual. Twig?”の件について、(…)くんに続き、(…)さんがブログのほうにコメントしてくれていた。安藤一郎訳のものを写真に撮ってメールで送ったとのことだったので、確認してみると、やはり(…)くんの解釈と同じで、これはダンスのプログラムについての言及らしい。ちなみに(…)さんはChatGPTでも試しに質問してくれたらしく、その経緯は以下の通り。

ちなみに翻訳に続けて以下のように質問してみました。


先ほどの小説の一部である"Look here, darling," he said. "The third and the ninth as usual. Twig?"とはどういう意味でしょうか。当時のイギリスのBallの文化的背景に関わるものだと思われますが、教えてください。
ChatGPT
「Look here, darling," he said. "The third and the ninth as usual. Twig?"というフレーズは、Katherine Mansfieldの小説「Her First Ball」の一場面で、イギリスの上流社会におけるダンスパーティーの習慣に関係しています。
「The third and the ninth as usual」とは、ワルツのステップ指示の一つで、基本的なステップである「左足、右足、右足、左足、右足、右足」という順序を指しています。「Twig?」は、「理解した?」という意味で、ラウリーがローラにこのステップを踏むように誘っていることを問いかけています。
19世紀から20世紀初頭にかけてのイギリスの上流社会では、ダンスパーティーが一般的な社交の場とされており、ワルツは主流のダンスの一つでした。ダンスは、社交的なスキルやマナーを身につける重要な機会とされ、ダンスパーティーでは踊り方やマナーが厳密に規定されていました。そのため、このようなステップ指示は、上流社会で共通の言語として使われていました。小説「Her First Ball」では、ローラが初めてダンスパーティーに参加する若い女性として、このような文化的背景が描かれています。


安藤一郎の翻訳における解釈とは異なりますね。
ご存じのようにChatGPTは知らないことを知らないと言わないので、どこまで信用できるのか不明ですが、三拍子のダンスのステップ指示なら三番目と九番目というのも理解できますし、膝に手を置いていること点と符合しますね。
ただ三拍子目と九拍子目にしか足を動かさないとすると、動きが少なすぎますね。片方の足のステップのみ伝えているのか?でもそれだと上記のChatGPTの回答と一致しない。細かいところはよくわかりません。

 おもしろいなと思った。これが単にいわゆるhallucinationでしかないのか、あるいはそういう読みも実際に可能であるのか、こちらにはそれを判断する力量はないのだが(なんとなくだが、そういうふうに読めないこともないが、ややこじつけに近い感じになるというのが実際のラインではないかという気がする)、いずれにせよ、このくだりをどう解釈すればいいのかわからずに困ってしまったという経験が、Mansfieldモダニズムの作家であるという文学史的な事実をちょっとこちらに意識させるきっかけになったことは確かだ。ひとところに落ち着かず、浮遊し、風景をながめ、登場人物らの内面をときにすりぬけながら、あちらこちらに漂いだしていく語り。読者に対する説明ではない、浮遊する目(カメラ)と口(言葉)によって、風景と内面が権利上ひとしいものとして、ほとんど機械的に描写されていく、その出力の蓄積が、結果として、小説というかたちをとってしまっている、そういう印象をMansfieldの小説の一部から受けることがある。ただ、“Her First Ball”の語りはそこまでふらふらしておらず、むしろ特定の少女のもとに付き従い、その内面にとどまりがちである。それでもおそらく、説明を必須とするモダニズム以前の作家であれば、この場面ではプログラムの記載された紙切れにきっと言及しただろう。こうした気づきは、すでに解釈のほどこされてある——というより、英語と日本語の言語的差異のために、どのように訳してもある程度の解釈が含まれざるをえない——和訳を読んでいては得ることのできないものだ。翻訳ではどうしても死んでしまわざるをえないMansfieldのひそかなテクニックをここでひとつ発見した気がする。
 それからウェブ各所を巡回し、2022年5月6日づけの記事の読み返し。以下は2021年5月6日づけの記事より引かれていたもの。

 ASDの診断基準を見ると、「社会的コミュニケーションの障害」と書いてあります。コミュニケーション障害というのは、例えば誰かと私とのあいだに発生するトラブルや誤解、すれ違いのことですが、それが診断基準の中核にある。では、このコミュニケーション障害というのは、皮膚の内側にある障害なのか、それとも外側にある障害なのか、どちらなんだろうと考えました。
 私の場合に置き換えて考えてみれば、「私は移動障害をもっている」と表現することがあります。移動に困難があるという意味ですね。でも、スロープがあったりエレベーターがあったりすれば、移動の障害は発生しません。つまり私の移動障害は、私の皮膚の内側に常時存在し続けている障害ではなくて、環境と私との相互作用によって発生したりしなかったりするものです。簡単に言えば、環境との相性ということですね。そして社会モデルでは、そのような環境との相互作用で発生したり消えたりする障害のことを「ディスアビリティ」と表現します。
 それに対して、皮膚の内側にある障害、例えば足が動かない、とか手が曲がっているといったような、どんな環境に身を置いてもあいかわらず私の身体の特徴として存在し続けている障害、環境からは独立して存在している障害は、「インペアメント」と表現されます。ディスアビリティとインペアメント、日本語にするとどちらも「障害」になってしまうのですが、まったく異なるものなのです。
 では、コミュニケーション障害は、インペアメントなのかそれともディスアビリティなのか。素朴に考えてディスアビリティですよね。なぜなら、気心の知れた相手なら発生しにくいけれど、相性の悪い人とならコミュニケーション障害は発生しやすいからです。あるいは共通前提がない人や、文化的背景が異なる人であれば発生しやすく、そうでなければ発生しづらい。他者は私にとっての環境の一部です。そして、環境である他者と私の間に発生する相性の悪さであるコミュニケーション障害は、先ほどしめした移動障害と同じく、ディスアビリティだと考えられます。
 しかし身体障害と違ってASDの場合、その診断基準に「コミュニケーション障害」と明記されているわけですね。ここで注意しなくてはならないのが、一般的に、診断基準というのは建前としてインペアメントを記載するはずの文章だということです。なぜなら環境とは関係なく、本人の特徴を表すのが、診断基準という文章が果たすべき役割だからです。実際、ASDの診断基準はあたかもインペアメントを表しているものとして世界中で解釈され、使われています。しかし、何かがおかしいと思いませんか。
 私たちはこうした状況を、「ディスアビリティのインペアメント化」と呼び、批判をしてきました。本来はディスアビリティ次元の現象が診断基準に混入しているにもかかわらず、それがインペアメント次元の身体的特徴であるかのように解釈されている。これは非常に怖いことです。例えば、横暴な上司との間にコミュニケーション障害があるとか、問題のある職場のなかで周囲とのコミュニケーションがうまくいかないとか、家父長的でDV傾向のある夫とのコミュニケーションが取りづらいなど、コミュニケーション障害といっても、本人より環境の側にこそ変わるべき責任がある場合はあります。にもかかわらず、コミュニケーション障害を永続的に私の側に帰属される性質だとしてしまうと、そうした状況における周囲とのうまくいかなさがすべて私の責任になってしまいかねません。言うまでもなく、そんな解釈をされたらたまったものではないわけで、医学モデルに逆戻りしていると言わざるを得ません。ディスアビリティのインペアメント化とは、社会モデルで対応すべき範囲を医学モデルで対応するという過ちを導きます。これがASDの現場で起き続けていることなのです。これが綾屋さんと私が行ってきた研究の大前提の一つめです。
國分功一郎/熊谷晋一郎『〈責任〉の生成——中動態と当事者研究』 p.51-54 熊谷発言)

 この日は2012年2月の記事をまとめて読み返しているらしい。『S』の元ネタになった戦争体験談もたくさん引かれている。まずは2012年2月8日づけの記事より。

11時半起床。朝食をとっていたところ(…)さんから電話があり、行きつけのお店からいまさっき連絡があって戦争体験を語ってくれる方が来店中だと報せてくれたのだけれど、行ってみればどう? とのこと。夜からバイトがあるし何より執筆する気満々だったものだから正直少し戸惑ってしまったのだけれど、でもまあじぶんからお願いしたことであるし、このチャンスを逃すとうんぬんと悪い予感のしないこともないので、ひとまずお店のほうに電話を入れて、(…)さんから紹介していただいた例の者ですけれど今から三十分後くらいにうかがってもいいですかと許可をとり、それで急いで支度をして家を出た。店はわりと近所にあって、中に入るとカウンター席におじいさんがひとりいたので、あ、きっとこのひとだと思って声をかけ、自己紹介し、それで当時のことを教えてほしいのですがとお願いしたのだけれど、なにをしゃべっていいかわからないからとりあえずきみの質問に答えるよみたいな流れになって、まさかのインタビュー形式にこれだと色々とりこぼしてしまいそうだと懸念を抱きながらも、しかし色々とおたずねした。
で、お話のお相手は(…)さんという方で、生まれも育ちも京都、19歳のときに赤紙ならぬ白紙で召集されて、これwikipediaによると訓練招集命令書というやつらしいのだけれど、当時軍事工場だかに勤めていたものだからこれはきっと機械の整備士みたいなかたちで配属になるのだろうと思っていたところが実際は工兵で、すでにその当時たいそうな物資不足だったらしく兵隊なのに銃も持たされないわ飯を食うための飯盒すら支給されないわで、かわりにスコップを持ち、それで四国の太平洋側の海岸でひたすら穴を掘りつづける土方のような日々を送ったのだという。その穴というのはもちろん塹壕で、敵軍が海岸から上陸するのに備えてその穴にもぐりこみ、頭上を通過する戦車にむけて先端に爆雷を設けた竹槍を突き刺す、そういう作戦の予定で作られたものらしいのだけれど、当然のことながら実際にそんなことをすればまず間違いなく穴の中の人間も死ぬ。幸い、作戦が実行されることなく終戦を迎えたのだけれど、玉音放送にまつわるエピソードがすごくて、その日(…)さんの部隊は12時間歩きづめでどこかの集落にむかっていたらしいのだけれど、いざ到着してみると村人たちがみんな万歳を連呼している。けれど訛りがひどいものだから何を言っているのかぜんぜんわからない。四国出身者の兵士が村人らの話をヒアリングしてみるに、どうやら日本が戦争に勝ったらしいと、さきほどラジオで特別な放送があった、ノイズではっきりとは聞こえなかったもののどうやら戦勝記念らしく聞こえた、そういう話になって、それでもうそこからは村をあげての宴会となり、白米はなかったから稗と粟で、ありったけのお酒をみんなで夜通し飲んで騒いだらしいのだけれど、おそらく当時の戦況にある程度通じていたのだろう部隊の上官はやはりなにかおかしいと感づいていたらしく、宴会にも参加せずにすぐさま正確な情報を取得しに元来た道を引き返し、それで翌日ふたたび戻ってきたときに、勝ってねーよ! 負けちゃったよ! と、真相が明るみに出たという話で、これいくらなんでもできすぎだろというくらい面白い話なのだけれど、そのときどんな感じだったんですか、と問うてみると、いやそりゃもうね、ワーってなってたのがシーンてね、ということで、(…)さん自身、戦時中は日本が勝つと思ってましたかという質問には、思ってた、僕みたいな小学校しか出てないようなのはね、やっぱりそういうのが行き届いていたね、日本が勝つだろうって、でもおそらく上のほうのひとたちは知ってたんだろうね、いま思い返せば思い当たる節がいくつか、と返答があった。かといって敗戦が判明したときにショックを受けたかといえば存外そういうものでもないらしく、号泣する者なんてひとりもいなかった、ただもう唖然としただけだ、とあった。
で、戦争も終わっちまったしとりあえず京都に戻ろうかということになったのだけれど、汽船が停止しているものだから本州に渡れず、一ヶ月ほど四国にとどまることになったらしい。部隊では緊急時の食料として牛を一頭引き連れて移動していたのだけれど、それはこの一ヶ月の待機期間に食った。それでも食料はやっぱり足りない。だから近くの村へ徴発に出かけることになったのだけれど、男はみんな兵隊にとられているものだからだいたい玄関に出てくるのは若い娘さんになる、だから気をつけろよ、惚れちゃ駄目だぞ、むこうも跡取りがいなくて困ってる、いちど関係結んじまえばもう京都には戻れなくなるからな、と上官からたっぷりと言いきかせられたということで、もらうものだけもらうと、みんな大急ぎで逃げるように部隊のもとに帰ったらしい。徴発にいくのは立場の上のひとたちの役目だったのだけれど、(…)さんの部隊にいた下士官というのが(…)さんの父親の実家の近所に住んでいたとかなんとかで、(…)さんの部隊配属が決定した直後にご両親が早速そのあたりのところに根回ししてくれたおかげでずいぶん助かった、優遇してもらえた、徴発にも同行させてもらったし寝泊まりも下士官らにまじって少しいいところでできた、とのこと。上官が四国出身だったらしく、その関係から一ヶ月の四国滞在期間中には防空壕を埋めるなど勤労奉仕に励むことになったとも言っていた。
それでいざ汽船で本州に向かうことになったのだけれど、その日は船の揺れがけっこうすさまじかったらしい。それでいちど大きな揺れが起きたときなんか部隊にいた誰かがその機に乗じて上官の荷物を海に捨てたりしたようで、上官の理不尽なふるまいをこらえにこらえてきたのが終戦をむかえて爆発したみたいなアレなのだろうけれど、本州に到着してから今度は汽車で京都にまでむかうその道中も、途中の駅で上官をひきずりおろして便所にでも連れていってそれでボコボコにやっちまおうかみたいな物騒な話が持ち上がりかけたらしい。ところで(…)さんはその部隊の任務で四国にいく以前にもいちど四国をおとずれていて、そのときはひとりだったのだけれど、というのも(…)さんが勤めていた軍事工場というのは全寮制の軍事訓練付きのアレだったものだからたいそうきびしく、それにたえられずいちど脱走したことがあり、そのときの避難先というのが叔父だったかの住む四国だったということで、このあたりもやっぱりちょっと出来すぎているというか、軍事訓練が嫌で逃げたその果てにたどりついた四国に、それから数年後、ひとりの正式な工兵の訓練ではない任務としてふたたびおとずれると、この構図は正直ちょっと使えるなと思った。寮生活時代は外部と連絡をとることができなかったのだけれどそれでもやっぱりみんな色々と考えたもので、たとえばじぶんの親とどうにかして会いたくなったとき、その旨と実家の電話番号か住所を記しておいたメモをお札でぐるぐる巻きにして寮の窓から近くの道路にむけて投げる、するとお金が落ちているぞと思って拾った通行人が中のメモに気づいて、(…)さんの場合は三度試みて一度成功したという話であったけれど、そのメモをきちんと実家のほうまで届けてくれると、そういう抜け道みたいなのはあったらしい。ほかにも違反をして営倉にぶちこまれた仲間を励ますため、夕飯に出た米を仲間たちみんながちょっとずつ出し合っておにぎりをひとつ作って内緒で差し入れしたり、あとはなんだっけな、どういう基準なのかよくわからないのだけれどたとえば江戸川乱歩の小説なんかは読んでいけないことになっていたみたいで、見つかったら没収されるものだからみんな部屋の屋根裏とか畳の下に隠していたみたいな話もあった。あとこれ書いていいのかどうかという気がせんでもないというかまあいちおうどこに書こうが誰に言おうがけっこうですよという許可を最初にいただいているので書くけど、(二度目となる)四国行きが決まったとき、(…)さんはもちろんもうじぶんが死ぬもんだと思っていたから、それで最後の記念にというか上官に引っ張られてやむなくみたいな言い方はしていたけれど、とりあえず風俗で筆下ろしをしてもらったらしいのだけれど、その最初の一回でいきなり性病をうつされたということだった。淋病に罹っているのは部隊の中にも数人いたらしい。
とまあだいたいそんなとこかな。なんかお話の後半は戦争体験というよりかは道徳の授業めいた訓話というか若者批判みたいな話になって、とくに最近の子はみんな楽ばかりしようとしてる、まったく苦労をしてない、わしらは違った、わしらはとにかく働いた、文句ひとつ言わずに黙々と働いたものだ、みたいなのが続くものだからとても週三日労働ですとか言えない雰囲気でちょっと気まずかったけれど、玉音放送のくだりとかお札ぐるぐる巻きの手紙のくだりとか徴発のくだりとか、このあたりが聞けただけでも満足、十分な収穫だった。玉音放送のエピソードの突き抜けた感じというかこの力強くて巨視ののぞけるユーモアというのはどこか希望に通ずる感触さえあるし、徴発のエピソードに認められる「女」たちの強さなんかはラテンアメリカ文学を思わせないでもない。

 以下は2012年2月9日づけ記事より。『特性のない男』第三巻の一節。

ところで目標と目的という名詞は、元来射手や猟師の用語である。それゆえ、目標や目的がないということは、その大本をたずねれば、殺害者ではないということと同じではなかろうか?

「それにはまず、習慣とは何かをはっきりつかんでおかなければね、アガーテ」とウルリヒは、たちまちにして人の心を奪うこの考えを、冗談をいって制動しようとつとめながら説明した。「習慣とは、この牛の群れが草をはむ牛肉としか写らないということさ。あるいは、牛の群れが背景のある画題だということ、あるいは、ほとんどそれに気づきさえもしないということだ。山の道の脇にいる牛の群れは、その光景の一部と化している。だから、それを見て経験することは、牛の群れの代わりに、そこに電気時計とかアパートとかがあったとすれば、はじめて気づくようなものだ。いずれ習慣からすれば、この場合、人は立ちあがるべきか、それともこのまま坐っているべきかと考える。牛どものまわりにたかる蠅を、人はやりきれないと感ずる。牛どものなかに牡牛がいはしまいかと、人は調べる。道はどこに向かっているのかと、人は考える。こんなふうに、無数の細かな意識、不安、計算、認識が行われる。そsてこれらが、いわば牛の絵が描かれている紙を構成する。人は、この紙については何も意識していない。人はただこの紙の上の牛の群れのことしか意識していない……」
「そして突然、その紙が破れるのね!」とアガーテが口をさし挟んだ。
「そうだ。つまり、ぼくたちのなかにある習慣の織物が、破れるんだ。すると、もう食べられるものが、草をはんでいるのではなくなる。画題となるものでもなくなる。きみの道を阻むものでもなくなる。きみはもう『草をはむ』だの『放牧する』だのという言葉をまるで想像できない――なぜなら、こういう言葉は、いまきみが突然なくしてしまった多数の有益で目的にかなった観念の一つなのだから。ではまず画面に何が残るのかといえば、高まっては沈む感情の大波、あるいは、生き生きと光り輝やく感情の大波が、まるで輪郭もつかめないほどに全視界にみなぎるかのようだとでも言わなければならないだろう。もちろん、この画面のなかにはまだ、なお無数の個々の知覚が含まれている。色、動き、角、匂い、そして現実に属しているすべてのものが。だが、これらはまだ認識されているとはいえ、すでに承認されることはないのだ。ぼくはこういいたい――個々のものが、もはやぼくたちの注意をあくまで引こうとするエゴイズムをもたず、兄妹のようになり、文字どおり『衷心から』たがいに結び合っている、と。そしてもちろんもう『画面』なぞというものはなくなり、ともかく何もかもが、際限なくきみのなかに流れこんでくるのだ」

 2012年2月18日づけの記事。別の戦争体験談。

そんなこんなでお話をしているうちにも何人か来店客があったりしたのだけれど途中でひとり、なんかアラン・シルヴァみたいな白髭におしゃれな民族衣裳みたいなのを羽織ったおじいさんがやって来て、すると(…)さんがまたもやここでこのひとが前言ってた小説書いてて戦争体験を聞きたがっているってひとなんですけどと紹介してくれて、というかじぶんの知らないところでじぶんについての話が少なからずどこかで交わされていたのだという事実のたびたびにわたる開陳にちょっと自意識のくすぐられるようなところがあるのだけれど、それでそのひとは(…)さんという方でパッと見からしてあきらかに何らかの物作りにたずさわっていることに違いはないのだけれど結局最後の最後まで正体を明かしてくれなくて、タクシーに乗って帰っていった後になってはじめて(…)さんの口からデザイナーだと教えられてなるほどと思った。それでひとまず自己紹介などしてよろしければ当時のお話を聞かせていただきたいんですけれどと切り出し、すんなり了承していただけたので、では早速と耳を持つものは聞けモードに入ったのだけれど(…)さんのお話はけっこうむごいというか生々しいところがあって、静岡の磐田出身らしいのだけれど終戦をむかえたのは6歳だったかで、その前年か前々年、病気の母親が病院から無事に退院したその快方祝いに赤飯を炊いて、というのも(…)さんの母親方だったと思うけれど実家が農家で食べ物にはそれほど困らなかったからそんなことができたらしいのだけれどその赤飯を親戚に配るべく浜松のほうに父親とふたり汽車に乗って出かけたその日に(…)さんは空襲に遭遇したのだという。当時は浜松くらい大きな街だと駅前の広場なんかにはきまって防空壕が設えられていて、ただ防空壕といっても地下に掘った穴なんかではなくてむしろ掘り出した土を盛って固めたでかいかまくらのようなものらしいのだけれど、空襲警報が鳴ったのですぐさま父親とふたりその防空壕の中に駆け込んだ。中はぎゅうぎゅうのすし詰めだったものだから父親が手にしていたこうもり傘を握ってはぐれないように必死で、それで空襲が過ぎて外に出てみると、焼夷弾のためにあちこちに火の手があがり何が焼けているのかわからないなんともいえないにおいがして、今でも嗅いだら絶対にわかる、あのときのにおいと一緒だと確実に言える、と語っていたのが印象的だった。駅そのものは無事だったらしいのだけれど途中の鉄橋が崩れたり線路に瓦礫が積もったりで通常ならば15分もあれば到着する浜松から磐田までの帰路に何時間もかかって帰宅すると、磐田もまた焼夷弾によってものすごい被害を受けていて(…)さんの実家を含めてその周囲の住宅すべてが全焼していたらしい。元々はアルコール工場だったかを狙っての米軍による爆撃だったらしいのだけれど軌道が少し逸れてしまった結果としての住宅区域全滅で、助かったひとたちにたずねまわってもだれひとり母親の行方を知るひとはおらず、病み上がりの身体のことだからおそらくはもう無理だろうと覚悟を決めながらそれでも被災者の集まる場所を探しまわり、結局その日は駅前だったかに当時あった見知らぬ乾物屋の中で一泊させてもらった。それで翌日焼け落ちてしまった家から一里ほどのところにある母親の実家をたずねてみることにしたところ、幸いなことにそこで母親と無事に再会できたということで、安否を心配した親戚だかが駆けつけて実家まで連れてきてくれたらしいのだけれど、いずれにせよ住む場所もなし、その日から終戦後しばらくにいたるまでは母親方の実家の鶏小屋に一家で住むことになったのだという。鶏小屋といっても粗末の代物なんかでは全然なくてとても立派で、広い敷地を半分にくぎってその片方に鶏たちを集めてもう片方にて一家が寝起きすると、だいたいそういう案配だったらしいのだけれど、その鶏小屋から見た夜景だったかそれとも焼け落ちる前の家から見た光景だったか、いちど隣町に空襲があって焼夷弾がどんどんどんどん落とされて火の手が燃えあがりそこに敵機の姿を探す探照灯が地上から幾筋も走る、それらすべてが遠い距離ゆえに無音で展開されるのを目にした記憶が(…)さんにはわりとはっきりと残っているらしく、とてもきれいだった、美しかった、ナイアガラの滝の花火のようだった、と語っていた。鶏小屋の前にあったおおきなおおきな木蓮の樹の美しさもはっきり目に焼き付いている、とも。焼夷弾といえばこれはじめて聞くようなアレなのだけれど、当時は軍部からの命令で民家の屋根は瓦だけ残してあの屋根裏の地にあたる天井の板みたいなのはぜんぶ取り外すように言われていたらしい。民家に直撃した焼夷弾が屋根裏に引っかかるなどして手の届かないところに残ってしまうとそこからたちまち火の手があがって家が全焼してしまうからだと、だから屋根は瓦だけの最低限度の構えにしておいて直撃した焼夷弾が居住スペースに落下するようにせよと、それでいざ焼夷弾が落ちた場合にはすぐに箒で叩くなりして被害のひどくならないうちに火を消し止めろと、そういうことであったらしい。そして事実、(…)さんの母親はその空襲の際にも病み上がりの身ながらじぶんの家に落下した焼夷弾の火をすべて自らの手で消し止めたということでこれすごすぎだろという話なのだけれど、ただやっぱり誰もがみんなそんなに強気でいられるわけもなくて空襲となった途端に家など構わずに逃げ去ったひとたちもたくさんいたらしく、そういうところからあがった火の手によって結局そのあたりの一帯の民家がすべて焼け落ちるということになってしまった、皮肉なものだけれどよその家からあがった火の手を消すべく助けにむかったひとたちの家のほうが結局全焼してしまうみたいなこともたくさんあった、ということだった。得体の知れないにおいの漂う焼け野原を歩いていると、ところどころ焼け残った廃材とか電柱なんかに人間の髪の毛だけがぐるぐるに巻き付いて残っているのを目にしたと、これがいちばんビジュアル的に強烈な話だったかもしれない。あと、(…)さんはもともとよそのお宅からもらわれてきた子だったらしく、というのも当時はよくあったこととそれはじぶんも色んなところでよく目にし耳にするけれど、子宝にめぐまれない夫婦が近所に住んでいた仲良し子だくさんの夫婦から産まれたばかりの(…)さんを引き取ったとかなんとかいう話で、それで(…)さんの産みの親は子供が十人以上いるような大家族の長だったようなのだけれど東京のほうに出かけていた長女ひとりだけを残して二度にわたる空襲でその一家はみな焼け死んでしまったらしい。(…)さんの母親は防空壕の中で幼い子供をひっしと抱きかかえながら死んでいたのだという。たまたまよその家に出されていたから助かったのだと考えると妙な気持ちになると(…)さんは語っていて、たとえばじぶんの祖父にしても満州に滞在していたとき当時は死の病だった結核に罹ってしまったもののたまたま同じ部隊にいた軍医が日本でも有数の結核のエキスパートで日本ではまだそのひとしか扱うことのできない治療法のおかげでどうにか一命をとりとめることができたり、あるいは上官に付きそうかたちで日本に新兵をむかえにいったそのときに終戦を迎えたものだからシベリア抑留をぎりぎり免れることができたとかそういう奇跡としかいいようのない偶然の綱渡りで助かったのだと身体感覚で納得のされる命みたいなのがあるわけで、やっぱり戦争を実地で経験している人間とそうでない人間とではかなり死生観みたいなのが変わるのも無理はないと思ったけれどそれら先の世代からやはり偶然の綱渡りで継承されるじぶんのこの命、いまここにあること、ここでこうして書いていること、そういうことを考えているとなんなんだいったいこれはと変な気持ちにもなってくる。むごい話もたくさんあったようだけれど当時の生活に関する愉快で美しい挿話もいくつかあって、たとえば(…)さんの家は鰻屋だったらしいのだけれどその関係から遊女らとも顔をあわせる機会なんかがよくあったという。今ではとても考えられないことだけれど(…)さんの通学路にも遊郭がいくつかあって、はなばなしいその建物の前を通るたびに赤い襦袢や布団なんかが干してあるのが目につき、幼心ながらになにかエロティックで美しいものを感じたとかなんとか、なかでもひとりの遊女が(…)さんをかわいがってくれたらしく、母親の身に着けているのとはぜんぜん違う着物の懐からがま口を取り出し、細くて白い指先で小銭をつまみだしてそれを紙にひょいひょいと包んで小遣いをたびたびくれたという話なんてとても素敵で、あと(…)さんの家には123部隊みたいな数字は忘れちゃったけれどそういう部隊の軍人が三人下宿していて、夜なんかその軍人の腰に下げたサーベルのかちゃかちゃと鳴る音と連れ立って歩く遊女のからんころんがよく響いて、そのたびに家のひとたちはまーた◯◯さんったら遊んでるわとか口にして、幼い(…)さんにはその意味こそよくわからないもののやっぱりなにかしら官能的な気配を敏感に察知していたといっていて、なんかこんなふうに書いていると中勘助銀の匙』みたい。あと、これは当時よくあった話として聞いたのだけれど、兵隊にとられた夫の戦死の通知が送られてきたものだから家を継ぐために新たな婿をとらなければならないとなって実際にとって暮らしはじめたところ当の夫が帰ってきて死んでなかったのかよみたいな、そういう話は少なからずあったみたいで、(…)さんの聞いた話ではけっきょく戦地から帰ってきた夫に家を継がせて別の嫁をあてがり、元の嫁とその二番目の夫には別の家を用意してそこに住ませたという処理がなされたらしいのだけれど、これが通例なのか特例なのかはわからない。(…)さんの同級生の父親に兵隊として家族を日本に残して満州に渡りもう日本に戻ることはできないだろうからと現地で新たに別の嫁さんをむかえたはいいものの命を落とすこともなく終戦、しかたなく二番目の嫁さんを連れて日本に戻ってきたという事件があったらしくそのときはわりと大変な騒ぎになったらしい。結局その一件については満州からひきあげてきた旦那さんと二番目の嫁さんに別の家をあてがい、本家は元の奥さんとそのひとり娘((…)さんの同級生)、それに奥さんの兄の三人で継ぐことになったという。

 2012年2月22日づけの記事。(…)の常連客から聞いた話。このひとの話はいつもおもしろかった。

店に到着してわりとすぐこの日((…))のお客さんがやって来た。ちょこちょこ店のほうには来てくれていたらしいのだけれどどうもじぶんのシフトに入っていない時間帯や曜日ばかりであったらしい。ひさしぶりの再会となったそのためなのかどうかはわからないけれど今日はたっぷり一時間半にわたって立ち話をした。強烈な話を山ほど聞いたのでひととおりメモしておきたいのだけれどまずそのひとの友人知人まわりがぜんぶ面白すぎて、たとえば新聞や雑誌の片隅に募集広告の載っているようなエッセイであったりコラムであったり作文であったり川柳であったりポエムであったりするさまざまな公募のその賞金だけを稼ぎとして生活しているひとがいるらしいのだけれどこんなのは序の口で、そのひととは別にクラブやディスコの店内装飾というかデザインというかデコレーションというかその界隈では知らないひとなんていないというくらいとても有名なひとと一緒にタッグを組んで同じ業界で若いころから活躍していた芸大上がりの友人というのがいて、むろん将来超有望だったのだけれど仕事をやっていくうちに何かしら人間関係でトラブルがあったりやりたいようにできない葛藤があったりで早々と引退してしまって以来十数年間ずっとパチプロとして生活しているらしいのだけれど、何年か前の夏にとうとうお金が底をついてしまっていよいよどうしようもなく、ちょうど祇園祭の時期だったらしいのだけれどひょっとするとあれだけ多くのひとが行き交うのだから財布のひとつやふたつ落ちているかもしれないと思いそれで祭の中を何時間も歩き回ってみたものの収穫はなし、あきらめて鴨川の河川敷をひたすら北上し続けていたところ暗闇の中に黒光りするものがあり近づいてみるとなんとそれが見事に財布で、この時点でもう出来すぎているような話ではあるのだけれどそれで拾って中身を確かめると現金6000円とキャッシュカードがあって、けれど6000円じゃどうにもならない、生活費に充てるにしてもパチンコの軍資金にするにしてもとにかく少なすぎる、というわけでこれはもうカードを使うしかないとニット帽にサングラスとマスクを装着してATMの機械の前に立つこと三度、しかし結局犯罪に手を染める最後の踏ん切りがつかず結局その6000円を片手に一世一代の大勝負という感じでパチンコ屋へ行ったらしいのだけれど、そこから三日で50万円稼いだ。息を吹き返した。流れを呼び込んだ。それで最終的に貯金を200万近くまで増やしたらしいのだけれどそこから流れが変わって、たった二、三ヶ月の間にものの見事にどん底へUターン、数日前にひさしぶりに会ってみたところとにかくもう悪事を働くしかない、犯罪に手を染めるしかないとぶつぶつ言い続けていたらしい。で、そのひとと最近よくつるんでいるひとというのがいてもちろん現在ギャンブル三昧でやはりどん底という点では同じ、何かの慰めのように銀行強盗の計画ばかり建てているひとらしいのだけれどそのひとの経歴というのがもう無茶苦茶で、元々ヤクザだったらしいのだけれどあいつは頭がおかしいということで破門か何かされてしまって、頭おかしいってクスリか何かのやりすぎか何かですかとたずねると、そういうのにもそれ相応に手を出してはいただろうけれど根本的にぶっとびまくっているのだという返事があって具体的なエピソードを幾つか教えてくれたのだけれど、たとえば30歳のときそのひとは毎日着流しに木刀を差して町中をうろつきながらすれちがう通行人ことごとくにケンカを売りまくっていたらしい。それでいちど50歳くらいのおっさんにケンカなら買ってやる、けれどここじゃ人目につく、うちに庭があるからそこでなら相手してやる、さっさとついてこいと言われて、まんまとついていったところ現場に到着するなりものの数分で足腰のたたなくなるほどボッコボコにされまくったらしく、というのもそのおっさんというのが空手と少林寺拳法の師範だったらしいのだけれど、そこでまたすごいのが木刀を杖がわりにしてふらっふらになりながらどうにかして立ち上がったその元ヤクザのひとが立ち去るまぎわに言い残した台詞というのが「い、一年後……もう一度、ここで……」だったという奇跡のようなエピソードで、ていうかなんすかそのひと、漫画か何かにかぶれまくってたんすかとたずねると、うん確かにそいつその当時むちゃくちゃ『バガボンド』にはまってたなぁとあって絶対それじゃん! 間違いないじゃん! と死ぬほど笑った。それでそのひとはそれ以降はたけぞうスタイルのライフをやめたようで一時期はヒッピーにかぶれ、たけぞう時代とは打って変わりいつもニコニコしてラヴ&ピースだったらしいのだけれどそういうキャラにも行き詰まってしまったのか、40歳になったのを契機に総合格闘技パンクラスをはじめて、元々体格はいいほうだし根性は座ってるしケンカ慣れしてるしという利点はあるものだからそんな歳からはじめたにもかかわらずけっこうすんなりとプロデビューしてしまって、けれどいざ実際にリングにあがってみるとやっぱり若いころから英才教育みたいなのを受けている連中には勝てず、それでそちらの方面も諦めてしまっていまではギャンブラー、先に紹介した芸大上がりのギャンブラーとつるんでひたすら悪事を企む毎日を送っているらしい。で、そのふたりとはまた別に、世界中を渡り歩きありとあらゆるドラッグをキメまくったひとというのがいて、ネイティヴアメリカンの儀式なんかにも参加したことがあるとかなんとか、どこの国の部族だったか忘れてしまったけれどフックのようなものを胸の一部に引っかけてそれを思い切り引っ張って肉の一部をぶちっとひきちぎるみたいなハードSMな通過儀礼まで体験済みで、でもそのひとはただのジャンキーではないらしくて「壁を突き破りたい」「悟りを開きたい」が口癖のインテリらしい。知覚の隅々まで味わいつくしたい、それによって次元を上昇させたいみたいなことも言っていたというその伝聞から察するにどうもニューエイジの嫡子らしい。現在は日本で生活しておりダウン症自閉症の子供たち相手に絵を教えているとのこと。

 その後、2013年5月6日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。今日づけの記事も途中まで書いたのち、残りは明日ということで、記憶を辿りながらだいたいのあらましを下書きとして殴り書きしておく。作業の合間にはおにぎりを食し、チョコレートケーキを食し、ジャンプ+の更新をチェックした。(…)さんに作文の感想を書き送ってベッドに移動。