20230718

 朝方、目が覚めた。母がたちはたらいている物音のせいだった。そうだったなと思い出した。実家で寝起きするというのはつまりこういうことなのだ。以前ならばこれにくわえて庭先に出た(…)が吠えたり甘えた声を出したりするのがまじっていたわけだが、(…)は老化のせいでいまやほとんど声を出さなくなっている。実家での騒音避けのためにいちおう耳栓は持ってきているのだが、昨夜は装着するのを忘れてそのまま眠ってしまったのだった。
 いつのまにか二度寝していた。次に目が覚めると10時過ぎだった。階下に移動し、(…)をなでて、歯磨きをすませたのち、食卓に移動したのだったが、なにを食ったのかはおぼえていない。ひとまずたまっている日記を片付けねばならない。負債を帳消しにしないかぎり、執筆も授業準備も書見も語学もままならない。そういうわけでまずは13日づけの記事の続きを書いて投稿した。大学を出る前日の記事。それからウェブ各所を巡回し、2022年7月14日づけの記事を書いて投稿し、2013年7月14日づけの記事を「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。
 そこで作業をいったん中断しておもてに出た。めだかの鉢をチェック。母が春先に水替えをしてくれたらしいのだが、鉢のへりには藻がたくさんへばりついているし、落ち葉が水底につもっているし、ホテイアオイはありえないほど繁殖しているし、ちいさな葉っぱのような正体不明の浮草も異常に繁茂している(ググってみた感じ、おそらくアオウキクサというやつだと思う)。春先に水替えをした時点で稚魚が50匹ほどいたらしいのだが、以前鉢をのぞきこんでみたところ、まずまずの大きさになった成魚が10匹以上死んでいたというので、たぶん病気になって大量死したのだろう。まずはその病気が発生したとおぼしき鉢を洗うことにした。おもてにある水道のそばに運んでいき、ホテイアオイをよそに移し、浮草をすべて除去し、生き残っているものがいないかどうか慎重にチェックしながら水を捨てる。水は藻混じりで、そばで見ていた母曰く、ちょっとにおうとのこと。タニシがアホみたいに増殖していたが、そいつらは全部流して捨てた(こうしてカルマを負うことになる)。ミナミヌマエビも数匹見つかったので、そいつらは三つある鉢のうちいちばん大きいやつに移しておく。やはりいちばん大きな鉢は容積が大きい分、水質・水温ともに安定しやすいようで、めだかの成魚がたくさん生き残っていた。それで前々からそうしようかなと考えていたことであるのだが、中型の鉢ふたつはもう片付けることにして、大型の鉢をあらたにひとつ買い足し、大型の鉢×2で飼育を継続することに決めた。で、ひとまず中型の鉢ふたつの生体を保護しつつ、沈んだ落ち葉が腐葉土めいたものをなしているのを捨て、砂利を洗い、鉢を洗った。
 ホテイアオイは今年特に異常に繁殖したと母はいった。去年はそうでもなかったのだが、今年はちぎってもちぎっても新芽が出てくる。これまでどれだけ捨てたかわからないほどだという。バケツのなかにもいちおういくらかぶっこんであるというのだが、やはり生命力が異常に強いのか、水道水をただなみなみそそいだだけのバケツの中にゴミのように放りこんであるだけのホテイアオイがどいつもこいつもいちじるしく成長している。どうしようかというので、全部捨ててしまっていいといった(こうしてさらにカルマを負うことになる)。鉢に残すホテイアオイにしても、ひげ根にタニシのたまごのようなものをついているのでそれらをすべてはさみでカットし、いたんでいる葉っぱもすべて手でちぎり、だいぶコンパクトにトリミングしたのだが、それでもまだまだでかい。これだけ成長しているのに花を咲かせるところはまだ見たことがないと母はいった。
 中くらいの鉢ふたつを片付けたところで母と買い出しへ。まずは市立図書館にいく。発売当初から気になっていたものの、結局いまにいたるまでおそらく10年以上未読のままでいた『野生の探偵たち』(ロベルト・ボラーニョ/柳原孝敦・松本健二訳)の上下巻を借りる。(…)市立図書館は田舎のくせしてラテンアメリカ圏の小説がかなりそろっているのがいい。図書カードにひもづけされている電話番号がつながらないと貸し出しコーナーの司書から指摘された。ふだん海外で生活しているので携帯がつながらないことが多いのだというと、携帯番号ではないようだというので、じゃあ実家の番号かとなった。実家の電話はすでに解約済みだ。とりあえず紐付けする電話番号を登録しなおせばそれで問題ないという話だったので、日本で使っている携帯番号で登録した。一年の大半はつながらないと思いますがといちおう伝える。たぶん問題ない。あとから母にきいた話によれば、延滞している資料の返却催促に使うためのものでしかないとのこと。
 セブンイレブンへ。7万円×2をおろす。アイスコーヒーを母の分もまとめて買う。ついでに父と弟の分の甘いものも適当に見繕って買う。それからバローに移動し、ペットコーナーを検分し、(…)を散歩するときに使う後ろ足用の補助具を買う。5000円ほどした。ほか、(…)のおやつ複数種類、めだか用の大きな鉢、あたらしい砂、あたらしい餌なども買って、レジで支払った合計金額はおよそ15000円。この数日でおそらく7万近く出費している。その後、スーパーで買い物などすませて帰宅。
 鉢の手入れを再開する。買ったばかりの鉢に買ったばかりの砂をくわえて軽く洗う。それからあらためて入念に手洗いしてトリミングしたホテイアオイをいくつか浮かべておいて、カルキを抜くべく一晩そのまま放置することに。
 日記の続きにとりかかる。(…)を発った日、すなわち、14日づけの記事。途中で夕飯を食す。食後は(…)を車にのせて(…)へ。買ったばかりの補助具をためしてみたが、いまひとつ歩きにくい。後ろ足を穴に通して尻に近い腰回りをマジックテープでしっかりとめる、とめたそこからのびるリードを飼い主が上からやや吊り下げるようにして後ろ足にかかる負担を和らげるという仕組みであるのだが、これがあればふつうのハーネスとリードはもう必要ないだろうと判断した、その判断がまずかった、前足付近を固定するハーネスとリードがないと歩行先を飼い主のほうで誘導することができないのだ。犬も飼い主もそろって慣れないアイテムの使用にくわえて、(…)は夜が嫌いである、そういうわけで橋の下周辺をちょろちょろ歩きすこし小便をしただけでドライブは終わりとなった。ちなみにこの橋の下は「実弾(仮)」に登場する重要な舞台のひとつなのだが、(…)の心配ばかりしていて取材をするのをすっかり忘れていた。(…)は運転中窓から顔を突き出して外のようすを見たがったが、二年前のようにあっちの窓にいったりこっちの窓にいったりひっきりなしに移動することはなかったし、帰路はくたびれたのか、後部座席の母の腿の上に顔をのせて居眠りしていた。最近はいつもそんな感じらしい。それでも「ドライブ!」や「散歩!」と声をかけると(耳がかなり遠くなっているので、声を相当はりあげる必要があるのだが)、うれしそうに準備しはじめるのだ。
 帰宅してシャワーを浴びる。パソコン用の冷却器は(…)に置いてきたので(スーツケースで持ち運びするとぶっ壊れる可能性がある、というか以前実際に壊れたことがある)、(…)で使うものとは別に実家用のものをポチってこっちに置きっぱなしにしておくことにしたのだ。しかしポチったのはこの日の日中だったはずなのでまだ届かない。二階の部屋は暑い。一階は(…)のためにけっこうキンキンに冷やしている。電気代もはねあがっているという話であるし(しかし中部電力はほかの電力会社とちがってずいぶんマシなほうらしい)、二階の部屋には就寝前まではあがらず、基本的に一階の食卓で作業をすることに決めた。そういうわけで夜遅くまでひたすら日記。14日づけの記事を投稿し、2022年7月15日づけの記事を読み返す。以下はすべて2022年7月15日づけの記事より。

 質料すなわち物質や身体の側が要するにディオニュソス的でヤバいものであり、それを形相すなわちカタが抑えつけている。
 ニーチェのこうした図式は、ショーペンハウアー(一七八八〜一八六〇)の影響を受けています。ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』(一八一九)において、世界が秩序立った「表象」として見えている一方で、世界とは本当はひたすら邁進していく「盲目的な意志」であり——自然の運動もすべて「意志」だと呼ぶのが特徴的です——、我々はそれに振り回されるという議論を展開しています。そのどうにもできない力に対して、人間が向かうべき「涅槃」、「無」の思想が語られることになる(ショーペンハウアーはヨーロッパで初の、本格的に仏教思想を念頭に置いた哲学者でした)。
 ショーペンハウアーの思想は初めは理解されなかったのですが、晩年に再評価が起こり、ワーグナーニーチェにも影響を与えました。この普遍的な意志概念、しかも「何かをしたい」という目的的なものではない、ただの力、非合理的な意志というものをはっきり概念化したのがショーペンハウアーのすごいところで、ニーチェディオニュソス的なものも、あるいはフロイトにおける無意識の概念もその影響下にあるのです。
(千葉雅也『現代思想入門』)

 ここを抜書きしていてふと思ったのだが、そもそも合目的な神の意志という観念をデフォルトで持ち合わせていない日本人が西洋哲学を理解するためには、まずヨーロッパにおける「目的的」な意志にもとづく世界観(キリスト教およびヘーゲル)をインストールした上で、いわゆる「現代思想」以降その解体がはじまったことを理解する(先にインストールしたものをアンインストールする)という二重の手間が必要になる。この事実をもって、東洋は西洋のような回りくどい理路を経過することなく、そもそものはじめからここにいたのだと主張する手合もいるかもしれないが、それはしかし端的に愚かなふるまいだろう。はじめからそこにいたのであれば、その「はじめ」を説明する言葉を持つことはできないからだ。これは日本語ネイティブが日本語を自由に操ることができるからといって(むしろそれだからこそ)、日本語の文法を自由に説明することなどできないという現象と同じ構図だ。われわれはわれわれの位置を言語化するためには、その位置を一度離れる必要がある。

 2021年7月15日づけの記事にはその一年前、すなわち、2020年7月15日づけの記事からけっこう長々と文章が引かれている。象徴的父と〈父の名〉の違いについて、「簡単にいえば、象徴的父とは、主体から〈母〉(千葉雅也の用語でいえば「親1」)を引き離すさまざまな事情のことで、〈父の名〉とはそのような事情の抽象的総体およびその受容(内面化)のことだ。さらに単純化していえば、象徴的父とは「(現実を)思い通りにさせてくれない諸事情」であり、〈父の名〉とは、「(現実が)思い通りにならないことを知ること」だといえるだろう」と簡潔にまとめた文章に続けて、コンタルドカリガリス『妄想はなぜ必要か——ラカン派の精神病臨床』に記載されている症例を解説する片岡一竹の文章を引いたあと、「「自分」という投錨点が作用している」ということは、換言すれば、主体に自己同一性(首尾一貫性)が(ある程度強く)与えられている状態のことだろう。つまり、主体に(強い)自己同一性(首尾一貫性)を与える/強化するのも、〈父の名〉の効果であるということだ。千葉雅也のタームを借りていえば、接続過剰性を生きる主体は、そのような自己同一性(首尾一貫性)が安定していない。なぜなら、そのような主体は常に何かに接続し、過度に生成変化をくりかえしてしまうからだ(精神分析的にいえば、「想像的同一化」の作業をはてしなくくりかえしてしまう)。(…)その効果としてある過度の生成変化を抑止し、主体にある輪郭を与えることになる有限性、主体を接続過剰なその平面から切り抜く切断性こそが、〈父の名〉である。〈父の名〉がもたらす「諦め」とは、このような有限性や切断性のことである——そういうふうに総括することもできるかもしれない」と書いており、なるほど、そうすると主体というのは、換言すれば「諦め」や「断念」のかたちということになる。そしてこの観点は、カフカの小説のおもしろさをその個性的な失敗のかたちにあるものとみなすこちらのカフカ観(「カフカの作品の大半は失敗作である。ただし、それらの作品は彼以外のいかなる書き手も達成したことのないかたちで失敗している。その失敗のかたちに、カフカカフカたらしめるものがある。彼の天才は、彼以前にはだれも目にしたことのない失敗のかたちをあみだしたという一点にある。」)にも通ずる。

 就寝は2時ごろだったと思う。冷房のタイマーをいれて、耳栓を装着して寝た。
 と、書いたところで思い出した、移動期間中もふくめて学生らといろいろやりとりも交わしていたのだった。まず(…)さんの彼女である(…)さんからあらためてよろしくお願いしますという連絡があった。それから(…)さんからも連絡があり、8月上旬に関西にもどってくる予定になっているので、そのときにいろいろ引き渡すべきものを引き渡すという話もした。あとは長野でインターン中の(…)さんからもわりと頻繁に連絡があったのだが、彼女は現在いっしょにインターンシップに参加中の(…)さんとは別の部署で働いているとのこと。(…)さんは和食担当、(…)さんは洋食担当。同僚はやさしい? いじわるなひとはいない? とたずねると、「それはちょっとね」という返信があったので、ああ最悪だ、レイシストのおっさんおばさんがいるんだとげんなりしかけたが、そうではなかった、おなじインターンシップ生のことだった。ふたりのほかにネパール人の男性と黒人の男性がいるというのだが、前者はとても優しい、しかし後者は(…)さんにけっこうアプローチをかけてきておりそれがうっとうしいとのこと。(…)さん、たしかにきれいな女の子だと思うのだが、大学内でも留学生の黒人らからやたらとナンパされているようであったし、アフリカ系の人間にとってとりわけ魅力的に映じるタイプなのかもしれない。ちなみにそのインターンシップ生の黒人男性は妻帯者であるのだが、別の女性と不倫関係にあり、それにくわえて(…)さんに接近してきたとのことで、貞操観念についてはかなり保守的な中国の田舎出身のふたりからすればありえない、マジで気持ち悪いしおそろしい、そんな人物に映っているようだ。日本人の同僚については問題ないとのこと。ひとり仕事にやや厳しいおじいさんがいるが、仕事熱心な彼の態度は理解できるという。