20230719

 10時半に自然と目が覚めた。階下に移動し、(…)をなで、歯磨きしながらニュースをチェックし、ソファにすわって『野生の探偵たち』(ロベルト・ボラーニョ/柳原孝敦・松本健二訳)の続きを読み進めた。昼飯は冷食の炒飯。食後は15日づけの記事の続きを書いて投稿し、2022年7月16日づけの記事を読み返した。

 これは「自分でコントロールしきれないものが大事だ」という現代思想の基本的な発想につながってきます。つまり、自分のなかの無意識的な言葉とイメージの連鎖は、自分のなかの「他者」であるということになります。
 この「他者」とは他人ということではなく、「他なるもの」という広い意味でとっていただきたいのですが、とにかく自分のなかには自分で取り扱い方がよくわかっていないような「他者」がたくさんひしめいていて、それによって踊らされるようにして意志的な行動を行っているのです。
 こういう意味において、フロイト的な無意識の概念は、自分のなかには他者がいるのだということとして言い換えられ、そしてそのことが現代思想における脱秩序的な方向性とつながってくることになります。
 その上で、無意識の何がポイントなのでしょうか。これは僕の解釈ですが、「偶然性」というキーワードをここで出してみたいと思います。
 精神分析で明らかになるのは、自分の過去のいろんな要素が絡み合い、ところどころ固い結び目ができてしまい、それが今の行動に傾向を与えているということです。ただしそれは、「人間はこういう経験をしたらこういう人間になる」などと一般法則のように言えるものではありません。精神分析はその意味で、個別の経験を大事にするのです。似たような交通事故に遭ったとして、そのことが大きなトラウマになる人もいれば、ならない人もいるでしょう。
 つまり、無意識とはいろんな過去の出来事が偶然的にある構造をかたちづくっているもので、自分の人生のわからなさは、過去の諸々のつながりの偶然性なのです。
 今自分にとってこれが大事だとか、これが怖いとかがあり、それについて物語を持っているとして、「それはあのときにああいう出会いがあったからだ」と振り返るときのその出会いは、たまたまそうだったというだけ、そしてそのことが深く体に刻まれてしまったというだけであって、その「運命」に意味はありません。たまたまです。
 でも人間はまったくわけもわからずに自分の人生が方向づけられているとは思いたくない。我々は意識の表側で必ず意味づけをし、物語化することで生きているわけですが、その裏側には、それ自体でしかない出来事の連鎖があるのです。
 ただそのことに直面するのが通常は怖いので、人はさまざまな物語的理由づけをします。しかし精神分析の知見によれば、まさにそのような物語的理由づけによって症状が固定化されているのです。むしろ、無意識のなかで要素同士がどういう関係づけにあるかを脱意味的に構造分析することで初めて、症状が解きほぐされることになるのです。
(千葉雅也『現代思想入門』)

 2013年7月16日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。その後、たてつづけに16日づけの記事に着手。16時になったところで作業を中断し、おもてに出て、カルキ抜きのすんだあたらしい鉢にメダカとエビをすべて移した。そのまま古いほうの鉢を洗う。砂をすべて出し、鉢の内側にへばりついている苔をスポンジで落とし、浮草やタニシの赤ん坊をぜんぶ流す(こうしてカルマを背負うのだ!)。生き残っているめだかは全部で15匹、エビは3匹だった。エビの数が少ないのでこのままだと苔が繁殖するかもしれない。弟に車を出してもらってちかぢか田んぼにエビ回収に出向かなければ!
 夕方になったところで(…)を連れてドライブ。(…)をかれこれ一ヶ月以上見かけていないと両親がいう。誕生日プレゼントも用意しているのだが、以前のように(…)でばったりでくわすということがたえてないのだ、と。(…)の旦那さんがのっている車は黒のワゴンで、(…)をおとずれる際はだいたいいつもおなじ場所に車を停めているらしいので、今日もそこをチェックしてみたのだが、やはり見当たらない。(…)は最近(…)付近ではあまり歩かない。(…)公園のほうがよく歩くという話だったので、そちらに向かうことに。
 到着したところで車をおりる。芝犬を連れている老人をよく見かける。補助具をあらためて試してみる。やってみてわかったのだが、はじめからしっかり補助するつもりで後ろ足を軽く持ちあげてやるというのはダメだ、そうではなくて基本的に自力で歩かせる、ただ後ろ足がぐねっとなりかけたときはリードを握ったこちらの手が支えとなって土壇場でひきとめる、そういう微妙な力加減で補助具のリードを手にしていたほうがいい。昨日とはことなり、散歩用のハーネスとリードもいつものように装着しつつ、後ろ足に補助用のベルトとリードをつけた二刀流のかたちだったのだが、力加減さえまちがえなければおおむね問題なし。あとは飼い主側と犬側、双方の慣れの問題だろう。うまく息を合わせることができれば、もっと快適に散歩できるはず。
 帰宅後、夕飯。食後はソファで三十分ほど仮眠。目の覚めたところで入浴し、ストレッチを経て、ふたたび16日づけの記事に着手。0時半になったところで作業を中断し、夜食としてはじめて目にする袋麺をこしらえて食ってみたが、これは全然だった。
 歯磨きをすませたのち、寝室にあがった。16日づけの記事を投稿すると、時刻は2時だった。ぼちぼち負債を返済できそうだ。
 ひとつ書き忘れていた、パソコン用の冷却ファンが届いたのだった。ELECOMの安物だが、そもそもこちらがパソコンでする作業といえば、99%以上テキストをただカタカタやるだけなので(一日のうち、いったいどれだけの時間、キーボードを叩いているのだろう?)、十分間に合う。とはいえ、こいつは荷物になるので実家に置いていくつもり。