20230729

 11時起床。階下に移動して歯磨きし、めだかに餌をやる。鉢にはまたアシナガバチがやってきている。先日ネットで調べたのだが、連中、巣に水を運ぶ習性があるらしい。しょっちゅう見かけるということは近場で巣をこしらえている可能性も高いというのだが、そういえば、以前父が弟の部屋のベランダに蜂が巣を作っているかもしれないと言っていた。要チェック。
 (…)がめずらしくボールをくわえて持ってきたり、バスタオルで引っ張り合いをしろとけしかけてきたりした。引っ張り合い用のおもちゃを出してきて、無理のない程度で遊ぶ。父が帰宅したところで手土産のネギトロ寿司を食う。それから(…)の肛門周囲を専用の泡で洗浄する。今日は途中でうんこを漏らさなかった。

 父が職場から持ち帰ってきたネギトロ巻きを食したのち、食卓でそのままきのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、2022年7月29日づけの記事を読み返す。以下、初出は2020年7月28日づけの記事。

来学期もオンライン授業ですませたいという気持ちが日に日に増している。これはちょっと面白い変化だ。あれほど実家住まいは嫌だといっていたのに、なぜこうなってしまうのか? 結局じぶんは環境に対する順応性が高すぎるということなのだろうか? 住めば都すぎてしまうということだろうか? これをネガティヴにとらえるのであれば、移動を億劫がる、環境変化をめんどうくさがる、現状維持的な傾きが強烈であるということになるだろう。だからこそ、そんなじぶんの性質にたいするアンチテーゼとして、「感染」だの「変身」だのいうタームをあれほどむかしから多用していたのかもしれないし、引越しや転職のメリットを周囲に語ってきたのかもしれない(実際は引越しも転職もそれほど回数を重ねていないにもかかわらず!)。いや、しかし、順応性が高すぎるということは、むしろ、「感染」や「変身」能力が高いということになるのだろうか? 環境を変えまくっている、分裂症っぽいひとたちというのは、順応性に欠ける、つまり、「感染」や「変身」能力が低いというふうにとらえることができるのではないだろうか? はじめて『構造と力』と『逃走論』を読んでスキゾとパラノという概念を知ったとき、それらの本が出版された80年代にスキゾがもちあげられていたのだとすれば、それから数十年経過した現在、その可能性はおおむね汲み取られつくしており、鉱脈があるとすればむしろパラノの再評価という方向にあるのではないかと戦略的に考え(というような考えをすることがじぶんはすごく多い)、それで分裂症的主体をことごとくことほぐような言説には一定の距離をとるようにしてきていたし、それはラカンに対する理解を深めれば深めるほどドゥルーズガタリの提示した見立てのすばらしさに感嘆せざるをえない現在にあってもやはりそうなのであるが(そしてこのような、ある意味では中途半端でどっちつかずのアンビバレンツな立ち位置を概念化してくれたからこそ、『動きすぎてはいけない』は素晴らしい書物だと思うのだが)、というかこうして書いていて思い出したが、こんなことずっと以前にくりかえしじぶんは何度も書いていたではないか! 順応性の高さによって固着しがちなポジションを、徹底的な受動性(外圧=偶然性の受け入れ)によって切り崩してもらうという、その二人三脚的なふるまいで、じぶんはいわば「移動」を重ねてきたのだ。そしてその際、受動性に徹しきる——外圧=偶然性を「移動」の契機として利用しつくす——そのためのキーワードとして、「でっちあげられた啓示」と、たしか「S&T」にも書いたのではなかったか? 書籍はブックオフ以外で購入してはいけないという「ブックオフ縛り」を実行していたのも、そのような「受動性」の徹底だったということもできるのでは?

 母は15時から歯医者の予約。図書館で本を借りたかったので同乗することに。先に元町珈琲でおろしてもらい、母が治療を受けているあいだはそこでゆっくり書見する。元町珈琲をおとずれるのはおそらく二度目。土曜日の昼下がりということもあって店内はかなり混雑しており、空席もぎりぎり見つかったという塩梅であったのだが、着席して水出しアイスコーヒーを注文し、さてと周囲をなにげなく見渡したところ、少なくとも視界の範囲内にかぎっていえばじぶんがいちばん年齢の若い客であることに気づき、マジかよと思った。中年というよりもはるかに老年に近い年齢層の客で席がほぼ埋まっているのだ。これは京都の喫茶店やカフェであれば考えられない光景だよなと思う。京都は大学生の街だけあって、やはり若いひとの姿がどこでも目につく。(…)も中国のなかではワースト50だかワースト100だかに入るほど高齢化のいちじるしい地方都市であると以前(…)先生から聞いたことがあるが、それでもたとえばスタバにいる客の年齢層がこれほど——と書いて気づいたが、そもそも中国の老人(それも田舎在住の老人)はコーヒーなど飲まないか、ここは単純に比較できないか。しかしこうして周囲が全員じぶんよりも年上であるという認識の成立した状態で、チェーン店のカフェでいちばん安いコーヒーをおともに書見していると、じぶんがまだ二十代そこそこの若者であるという錯覚がおこってくるというか、そういう生活をしていた当時の身体に現在の身体が輪郭のずれなくぴったり重なるような感じがある。じぶんはきっと死ぬまでこんなふうな生活を送るのだろうなとひさしぶりに思った。もちろん、それはよろこばしくワクワクするような予感である(と同時に、そうした甘い見通しをぶちこわすものとして、戦争や災害の予感もよぎるわけであるし、そう遠くないうちに四十代になるという事実も、病に倒れるじぶんの姿をうっすらと想像せしめるわけだが)。
 老人らに囲まれながら『野生の探偵たち』(ロベルト・ボラーニョ/柳原孝敦・松本健二訳)の続きをもりもりと読み進める。母から電話のかかってきたところで席を立ち、レジで精算をすませ、店の外に出る。その後、先日おとずれたドラッグストアのコスモスに行き、冷食だの(…)のお菓子だのを購入。最後に(…)図書館に立ち寄り、『ヤンキーと地元』(打越正行)と『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』(上間陽子)を返却し、『震災裁判傍聴記』(長嶺超輝)と『震災日録――記憶を記録する』(森まゆみ)を借りる。車にもどると、母が爆笑している。図書館から出て駐車場に停めてある車までまっすぐ歩いているこちらの後ろを、こちらとほぼおなじペースで歩いている同年代の男がいたのだが、その男がこちらの服装をじろじろじろじろ見まくっていたのだという。とはいえ、今日のこちらはそれほど派手な格好をしているわけではない。スイカの皮みたいな模様のシャツ+黒のイージーパンツ+黒のカンフーシューズという格好で、シャツの模様はたしかにこの田舎では目立つほうかもしれないがそれにしても——と思ったが、しかしあれはもう何年前になるだろう、中国で働くようになってほどなくだったと思うが、一時帰国中に(…)から中学時代の同窓会の写真を見せられたことがあって、もちろん(…)もそんな催しには興味がなく写真はFacebookに流れてきたものだというのだが、そこに写っている同級生の、特に男たちが、ちょっと信じられないくらいおっさんで、というのはつまり、みんながみんな日曜日のお父さんみたいな服を着ていたということなのだが、これにはけっこう絶句したのだった。
 帰宅。弟がなぜか居間でごろりと横になっている。夕飯までの時間は『野生の探偵たち』(ロベルト・ボラーニョ/柳原孝敦・松本健二訳)と『震災日録――記憶を記録する』(森まゆみ)を交互に読む。
 夕飯後、ソファで三十分ほど寝る。父は土用の丑本番ということで今日は21時に家を出た。入浴し、ストレッチし、さらに書見を続ける。大分の(…)さんとやりとり。仕事には慣れましたか? 困ったことはないですか? と安否確認の連絡をした流れでいろいろヒアリングしてみたわけだが、先輩たちも女将さんも普段はそうでもないが、仕事中はたいそう厳しいと(…)さんはいった。「一番辛いのは時々私は先輩たちの話を聞き取れません、外来語が多いんです、一度も勉強した事がありません。多くの場合私は推測に頼っています。そして私はまだ挨拶に慣れていません」「先日、私はちょっと悲しい。先輩は一度ならず私の目の前で他の同僚たちと私は何も分からない私は聞き取れないこのような話を言って、私はこのような話が好きではありません、まるで私は彼らの一員ではなくて、私の加入も彼らに何の助けにならないようです」とのことで、先輩たちというのは例の日本在住歴が長い東南アジアの若者だと思うのだが、うーん、けっこうしんどいようだ。一ヶ月も働けば仕事にも慣れるだろうし、仕事に必要な言葉もほぼ頭に入るだろうから、そうなったらまた状況も変わってくると思うのだが、やっぱり職場にいる同国人が彼女ひとりであるというこの状況は、二十歳そこそこの海外経験のまったくない農村出身の女の子にはかなりつらいんではないか。最悪のケースとして考えられるのは、このまま彼女と先輩たちの仲がちぢまらず、それどころかハブチにされたまま残り期間を過ごすことになるパターンで、マジでそうなってほしくないわけだが、だからといってこちらからなにか働きかけることができるわけでもない。うーん。
 背中が凝りつつあったので腕立て伏せをする。夜食は冷食のペペロンチーノ。(…)がめずらしく、すでに深夜にもかかわらず庭に出たいというので、スマホのライトで足元を照らしながらいっしょに出ると、すぐに小便とうんこをして、あ! 夕食後散歩に行くのを忘れていた! と思った。
 こっちにいるあいだに買っておくべきものを、ちょっといまさら感があるが、スマホにちゃんとメモしておこうと思ったのだが、といってもお土産のほかには服くらいのもので、その服をまだ買っていない、夏は柄物のイージーパンツにユニクロの白のTシャツという格好でふらふらしていることが多いし白のTシャツは寝巻きとして着ることも多く重宝しているのだが、その白のTシャツがけっこうぼろぼろになっていて、日本にいるあいだに新調しておかなければならないのだった(中国のユニクロは高い)。どうせだったらワイドパンツも一本か二本買っておきたい。ユニクロでいいものが見つからなかったら、HAREとかZARAとかあのへんの安いやつを適当に見繕ってもいい。
 歯磨きをしながらジャンプ+の更新をチェックしたのち、間借りの一室に移動し、『野生の探偵たち』(ロベルト・ボラーニョ/柳原孝敦・松本健二訳)の続きを読み進めて就寝。