20230728

 10時半起床。階下に移動して歯磨きし、めだかに餌をやる。ほどなくして父が帰宅したので、職場から持ち帰ってきた寿司を食う。食後、ソファに寝転がって『ヤンキーと地元』(打越正行)の続きを読んでいたところ、メシをねだるだけねだって満足したあとは食卓の近くでこちらに尻を向ける格好で伏せていた(…)の、その尻尾の向こうからのぞく尻の穴が不意に拡大し、あれよあれよという間に奥からうんこが出てきたので、うんこうんこ! うんこ出てきた! とソファから飛びあがった。食卓の両親もすぐに立ちあがり、(…)もすぐさま立ちあがって庭のほうに移動したが、その最中にもうんこのかたまりが三つも落ちた。(…)は庭に出たが、結局、うんこはすでに出し切ったあとだったようで、小便だけして部屋にもどってきた。(…)は常に快便であり下痢になることが滅多にないので、たとえうちの中でこうして漏らされることがあっても処理に苦労することはさほどない。
 食後のコーヒーを飲みながら書見を続ける。帰国してからというもの、コーヒーの摂取量がめちゃくちゃ減っている。一日に二杯、場合によっては一杯しか飲んでいない日もある。ちょっと信じられない。意図しているわけでは全然ないが、徐々にカフェイン断ちをしているような状態だ。断つつもりはまったくないが!
 『ヤンキーと地元』(打越正行)を読み終える。「打越正行 x 岸政彦 相手の10年を聞くために、自分の10年を投じる」(https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/5967)という記事も読んだが、「なぜここまでしっかりと、対象者と信頼関係が築けたのでしょうか」という質疑応答の場面で、「敬意ですよね」「あと長い付き合いなんで人として魅力を感じます」「めちゃくちゃなことをしちゃう人もいますけど、そういうのも含めて尊敬してます」と打越正行が返事していて、それなんだよな、(…)で働いていた五年のあいだにこちらが同僚らに対して抱いていた感情、彼らとのあいだに築きあげた関係も、こうしたある種の敬意がベースだったんだよなと思う。要するに、一種の転移に基づく関係なのだ。そしていわゆる実りある議論や理解にいたる対話、あるいは(叱責ではない)説得などは、転移に由来するそのような関係性なしには(時間=単純接触効果の積み重ねなしには)、ほぼ成立しえない。
 しかし同時に、こうした転移ベースのコミュニケーションには問題も生じる。

打越 敬意ですよね。贔屓目なしに、彼らの一つひとつの具体的な技術や実践感覚が卓越してるのと、あと長い付き合いなんで人として魅力を感じます。
岸 いいですね。敬意。
打越 めちゃくちゃなことをしちゃう人もいますけど、そういうのも含めて尊敬してます。この前、この本に出てくる、男の子から「いま、彼女と別れそうで、俺このままいったら彼女の家に乗り込んで、暴力ふるいそうな勢いだ」って相談の電話がきた。
 私はですね、ちょっと落ち着けと。でも最終的になにを話したかっていうと、お前が警察に行っても、俺は毎日面会に行くし、帰ってきてもまた飲みに行くからな、でもやらんでほしいよ、とは言った。
 でも、このまま電話を切っちゃうと、行くこと込みで話しちゃったな。この展開はヤバいんで、一緒に調査をしている上間陽子さんに電話して「彼が、ちょっとヤバいんで、なんとかならんですか?」って。そしたら上間さんがその後、2時間くらい話したみたいで。
岸 はー。
打越 結局、彼は殴りに行かなかった。上間さんは、「このまま殴りに行っちゃうと、あなたにも子どもがいるよね。名前が新聞に出ちゃうよね。また子どもが悲しむよね。これまでの期間、殴らんかったよね」みたいな感じで説得した。今までの歴史とか、彼を大事に見てる人たちの話を、ひとりひとり、丁寧にお話ししてくれたようです。さすがです。
岸 上間さんも打越さんも、フィールドワークで出会う人たちと、すごい信頼関係を作っている。それには根底に、相手への尊敬がある。
打越 そうですかね。私の場合は彼の行為を尊重しすぎて、暴力という行為を否定できずに理解しようとしてしまうんです。上間さんと私のスタンスはだいぶ違います。
岸 これには難しい面もあるんだよね。相手を尊重して、親身になって、中に入り込んで、パシリとしてやってきたわけでしょう。でもその男の子たちは、自分の妻や彼女を殴る男でもあるわけよね。その暴力の部分は肯定できないよね。
打越 うん。できない。私も当初甘く見過ぎていったところもあって。男同士が勝手に殴り合う分には……って最初は思っていたんです。でも実際はそうはならない。結局、男たちの暴力って、女、子どもやその生活を壊す方に向かう。暴力がどこに向かうのかは、絶対に外しちゃいけない。
岸 話を少しもどすと、調査対象者と、すごく信頼関係は保ってるんやけど、そこで愛情というか、尊敬の念とも、一言では言えないぐらいの複雑な関係が、その人たちの間にもある。尊敬しているけれども、手放しで彼らを美化しているわけでもないし。
打越 うん、はい。そうです。「俺は暴力はやってほしくない」としか言えないんですよね。

 こういう微妙な距離感、複雑かつ繊細きわまりない機微、戸惑いやためらいがたえずともなう感じ、ものすごくよくわかる。ものすごくよくわかるのだが、そういう環境に長時間身を置いてそういう関係性を長期間にわたって持続したことのない人間には、決して理解できないのだろうということもやはりよくわかってしまう。そういう連中は、たとえば、國分功一郎Twitterで排外的言説を垂れ流すアカウントをフォローしているからという理由だけで彼のことを袋叩きにする。両者のあいだに築かれているかもしれない、いずれ可能になる「説得」のための礎になる関係性の萌芽を、ことのはじめから「説得」を視野に入れていない連中がぞんざいにぶち壊してしまう。そういう連中はおそらくこの本を読んでも、ここに出てくる男どもは全員バカだと切り捨てるか、ある種のオリエンタリズムにもとづく放言を口にしてコンテンツとして消費するだけだろう。
 きのうづけの記事の続きを書いて投稿後、ウェブ各所を巡回したのち、2022年7月28日づけの記事を読み返す。そのまま今日づけの記事もここまで書くと、時刻は16時だった。

 日語会話(三)の授業準備にとりかかる。第27課は先学期の反省をいかして半分だけにカットする。それだけではさすがに一コマもたないと思うので、「(…)」の説明をしたあとに余った時間でやることに。第28課は一から教案を作る必要があるわけだが、ある程度こしらえたところで、この課はやっぱりつまらんなと思いボツにすることにした。代わりに第31課の教案をいくらかいじる。
 父の出勤がはやいので今日の夕飯もはやめの17時にすませる。食後、母とそろって(…)の散歩に出かけたが、今日もうちの前の道路に出ただけで満足。なぜか父の車のナンバープレートに小便をひっかけようとしたので(後ろ足があがらないので未遂で終わる)、ちょっと笑った。近所にビーグルを飼っているうちが二軒あり、うちの前の道路でそれぞれすれちがったが、一匹はアホみたいにきゃんきゃん鳴いてうるさかった。もう一匹はそうでもない。こちらのビーグルとコビィの関係はほどほどに良好らしい。オンライン授業をしながら自宅待機していた数年前、毎日毎日バカのひとつ覚えのように、うちの前の道路をキックボードに乗ってくるくるくるくるしていた小学生の男の子がいて、あの子いつもひとりでおなじ場所ばかりくるくるくるくるして飽きないもんだろうかと当時家族とよく噂していたその少年がいつのまにか仲間たちといっしょに道路にたまるような年頃になっているのを今日発見して、これにはなかなかびっくりした。もう中学生らしい。
 帰宅後はソファに横になり、ひさしぶりにスマホをいじくりながら延々とだらだらしてしまった。母は母でスマホゲーをしていたし、弟はおそらく自室でSteamで買ったインディーズゲームをしていたのだろうし、予定よりもはやく目が覚めてしまったという父もオンライン麻雀をしていて、一家そろってほんとうにどうしようもない。
 入浴し、ストレッチし、ふたたび授業準備。第31課の目処がたつ。ボツにすると決めた第28課についても、ひとつアクティビティを思いついたので、教案を改稿して採用するかもしれない。
 夜食は冷食のまぜそば。なんだかんだでもうすぐ8月であるし帰国もそれほど遠くない、けっこうあっというまのとんぼ返りであるなという印象をおぼえる。結局、「実弾(仮)」の執筆にも語学にも手をつけずに実家滞在を終えることになる気がするのだが、それはそれでいい、優先すべきは書見(資料収集)である。そういうわけで(…)図書館のウェブサイトをおとずれ、「震災」や「3・11」で蔵書検索した。結果、『震災裁判傍聴記』(長嶺超輝)と『震災日録――記憶を記録する』(森まゆみ)を借りることに。中身をチェックしていないのでまだなんとも言えないのだが、おそらく「実弾(仮)」のヒントになる記述がいくらかはあるはず!
 モーメンツをみていると、新四年生の(…)さんが成都かどこかの美術館をおとずれている写真を投稿していた。(…)さんは耳にも鼻にも舌にもピアスをあけているし、右腕の二の腕にタトゥーもいれているし、全然日本語学科らしくない学生であるのだがそれはともかく、普段そんな服を着ているところなんてまったく見たことのない、背中の大きくあいた、体のラインにぴったりと沿った大人びたドレスを着用し、すずしい顔で展示作品のとなりにならんでポーズをキメている、そんな写真ばかりまとめて投稿しているそのようすを見て、やはり多少げんなりしてしまった。(…)さんだけではない、ほかの学生らも美術館をおとずれるたびに似たような趣向の写真をSNSに投稿しているし、それは自称芸術を愛する(…)くんであってもおなじであるのだが、美術館というものが結局映えるスポットとして完全に消費されているし、そうした消費行動に対する罰の悪さであったり後ろめたさであったりも彼女らの表情からはいっさいうかがえない。こうなってくると、作品そのものも評価も、結局、その作品が自撮りのつけあわせとして映えるかいなかという基準になってくるのではないか、少なくともある程度は資本の論理で動かざるをえない美術館側(キュレーター側)は、そうした基準を内面化せざるをえなくなってくるのではないか。とはいえ、こうしたことは別にいまにはじまったわけではない、展示作品の写真撮影がほぼ禁じられている日本であったとしても、作品それ自体を鑑賞している人間というのはごくごく稀であり、ほとんどが大作家の名前をただ単に消費しているにすぎない。そうであるからこそ、比較的名前の売れている印象派の展覧会は毎回盛況になるわけであるし、文学の世界でも芥川賞受賞作品はふしぎにベストセラーになる。こうした軽率さをただ単に批判するのではなく、そこにこそ誤配のチャンスがあるのだと擁護するほうがむしろ建設的なのかもしれないが(「本物」との偶然的な接触の機会=母数をとにかく増やすことこそが教育環境の整備なのだという意見もあるだろう)、それでも、たとえ体面だけでも作品そのものと正面から向かい合うというその体面すらないがしろにし、作品そのものに背をむけてそのかたわらでモデル顔負けのポーズをとり表情をこしらえるのにやっきになっている、そうした学生らのふるまいを見ていると、やっぱりここに作品や作家への敬意というものは一ミリもないよなと思ってしまう。これは断言できるのだが、彼女らはそのかたわらで自撮り写真を撮った作品の作品名および作家名を絶対におぼえていない(そもそも確認すらしていない)。ゴッホゴーギャンというビッグネームにひかれてなんとなく展覧会に足を運んでなんとなくすばらしかったと口にしているひとのほうが、権威(美術史)を尊重している分、まだかわいげがあるんではないかという気がする。もちろん、自撮り写真に対する強いこだわりから、当日のじぶんの服装や髪型にマッチする作品はどれであるか、その作品を自撮り写真のどのポジションに位置付けるか(構図の計算)、光の加減をどう調節するか、ポーズと表情をどのように組み合わせるかという一種の美的判断を働かせている分、むしろ展覧会に通うという行為そのものを消費しているにすぎない有象無象よりも、彼女らのほうがよほど作品制作に近い位置にいるという擁護も可能だろうが。
 ちなみに、こちらは生涯にただ一度、美術館の展示作品といっしょに写真を撮ってもらったことがある。五年ほど前に学生らとおとずれた広州の美術館に展示されていた、習近平が笑顔の人民らに取り囲まれている油絵という、それまで北の将軍様のものしか見たことのなかったガチガチのプロパガンダ作品で、せっかく先生が喜ぶと思って旅程に美術館を組み込んだのにまさかこんな最悪な展示会をやっているとは思わなかったと嘆く(…)さんに、いやいやこれはこれでけっこうおもしろいからといって、我らが偉大な領袖であるところの习大大のとなりで敬礼しているところを写真に撮ってもらったのだった。
 歯磨きをすませてから間借りの一室に移動し、ジャンプ+の更新をチェックしたのち、『野生の探偵たち』(ロベルト・ボラーニョ/柳原孝敦・松本健二訳)の続きを読み進めて就寝。