20230816

 10時半に無理して起きた。またPURA VIDAで昼飯を食う計画になっていたからだ。階下に移動。昨夜は遅くからまた信じられないくらい激しい勢いで雨が降ってなかなかえらいことになっていたのだが、今朝はすっかり晴れていた。身支度を整える。新三年生の(…)さんから微信が届く。(…)先生からの助言を受けてあらたに原稿を書き直したのでチェックしてほしいとのこと。今回も文章それ自体の修正は不要で、とりあえず論旨だけ確認してほしいという。ちょうど彼女をはじめとするスピーチコンテストの参加者らが出てくる夢を見たばかりだったのでそれを伝える。うちの地元にあるラーメン屋のなかできみたちがスピーチ練習をしているのを、そばを自転車で通りがかったぼくが見つける、すると(…)さんが店の外に出てきて「先生、こんにちは!」とあいさつするのだ、と。(…)さんは新学期前に参加することが要請されている(…)先生によるスピーチの練習が「ほとんど役に立たないことを知っています」といった。まあ、否定はできない。というか、そのとおり! ともろ手をあげて賛成する。
 (…)ではピザとパスタを食ったが、どちらもまあまあという感じ。前回食った日替わりのほうがいい。帰りは(…)橋を渡った向こうにあるセカンドストリートに寄ってもらったが、なにも買わず、うんこだけして帰宅した。ここ数日、ずっと腹がゆるい。冷房のせいだと思うんだが。帰宅後はソファで小一時間ほど寝た。
 『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』(乗代雄介)の続きを読み進める。きりのよいところで中断し、食卓に移動してきのうづけの記事の続きを書く。投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年8月16日づけの記事を読み返す。「中国の若者たちはアメリカの「ゴミ」の向こうに何を見たのか」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/71295)という記事が引かれていて、おもしろかった。

 2018年初頭、中国は新しい輸入規制を施行し、廃プラスチックを含む24種類の固形廃棄物の輸入を中止した。
 長い間、主に先進国から輸入したゴミは、中国製造業の低コスト原材料の源であった。十数年前、私は温州にある企業を見学し、海外から輸入された廃プラスチックが洗浄、加熱、成型を経て、最終的にスニーカーの部品になるという全工程を見たことがある。
 廃プラスチックの輸入禁止は、当時ただの経済ニュースにすぎなかった。しかし、一部の中国人からすると、そこには海外の特別な文化の波及に関する歴史が隠されていた。
 中国は80年代から海外の廃プラスチックの輸入を開始した。90年代初めには、廃プラスチックの中にアメリカで売れ残った音楽製品が含まれるようになった。初めは全てカセットテープだったが、その後、CDが多くなっていった。アメリカから輸入したカセットテープはケースの1箇所に切り込みを入れられ、中のテープは切断されていた。CDには5ミリほどの小さな丸い穴が開けられていた。
 これらの廃プラスチックは、通常、広州とアモイ、汕頭の税関を通過して上陸した。一時は工業原材料として使用されていたが、その音楽価値に気付いた人がいたのだろう。カセットテープはケースを分解し、切れたテープをセロハンテープでつなげれば、命を吹き返す。CDは、穴が空いた部分の1~2曲が聞けないだけである。徐々に多くの人がこのようなカセットテープやCDの音楽を聴くようになり、これらは「打口(ダーコウ、「穴あき」という意)」と呼ばれた。

 90年代中期、私は中国西部の都市で中学時代を過ごした。海岸から2000キロ以上離れた場所にも「打口」は入ってきており、路上では若者が「打口」のカセットテープを並べて売っていた。
 アメリカで売れ残ったカセットなので、タイムラグがかなりあった。最初は、ビートルズ、ドアーズ、ボブ・ディランピンク・フロイドローリング・ストーンズイーグルス等といった60~70年代の音楽が入ってきて、その後、ガンズ・アンド・ローゼズニルヴァーナレディオヘッドなど80~90年代のロックも徐々に露店に並んだ。こうした人気ロックアーティストのほか、クラシックや日本のポップスなども出回り、「打口」は60年代から2010年くらいまでの間にアメリカで発売された全ての音楽ジャンルをカバーしていた。
 私は、当初はカセットテープのさまざまなジャケットに目を引かれたが、これらの音楽が中国で当時流行していた音楽よりも魅力的であることに気付いてから、「打口」を聴くようになった。
 私がよく通った「打口」の店は、当時1つのカセットテープを5元(現在のレートだと約100円)で販売していた。毎月広州まで買い付けに行っていた店主によると、広州の卸売商は、大量の廃プラスチックが堆積する港の倉庫の中から「打口」を選び、その代金は重さで決まっていたという。
 これらの音楽製品は中国のあらゆる都市に浸透し、徐々に「音楽好き」の巨大な集団が出現するようになった。最初にこの層に目を付けたのは、中国の海賊版業者だ。彼らは洋楽に詳しい人物にコンタクトを取り、当時流行っていたアルバム(全てCD)を大量にコピーして販売した。海賊版の価格は、3枚で10元(約200円)。これにより海外の音楽を聴くコストはさらに安くなり、ロックファンがますます拡大していった。

「打口」世代の成長に伴い、中国でも、『非音楽』『自由音楽』『我愛揺滚楽(I Love Rock)』といったロック好きのための雑誌が登場した。これらの雑誌は、単に音楽を紹介するだけでなく、音楽批評の中で社会問題に対する批判を織り交ぜたり、民主や自由等の価値観に関しても言及した。
『我愛揺滚楽』の発行部数は一時期、毎号10万部を超えていた。価格も安くはなく、当時まだ学生だった私は、友人たちとお金を出し合い購読していた。見終わった後は、お金を出さなかった友人にも貸していたので、1冊の雑誌は毎号5人以上に読まれていた。個人的な感覚だが、中学から大学に至るまで「打口」音楽を熱心に聞いていた人は、同級生全体の10分の1を占めていたと思う。
「打口」世代は、西側の音楽と価値観の影響を深く受け、のちにミュージシャンとなった一部の人々もこの精神を引き継いだ。
 例えば、ピンク・フロイド好きな李志(リー・ジー)は、『広場』という楽曲で、天安門事件で亡くなった人を偲んだ。ボブ・ディランを愛する周雲蓬(ジョウ・ユンポン)は、『中国孩子(中国の子)』という楽曲で、1994年に新疆ウイグル自治区で発生した火災を歌った。当時、現地の教育機関の高官が、礼堂で小・中学生の出し物を観ていた際に火災が発生。誰かが「まずリーダーを先に!」と叫び、高官たちは真っ先に現場を離れたが、288人の生徒が逃げ遅れ、命を落としてしまったという事件だ。
 両者は共に中国で著名なシンガーソングライターだが、このような楽曲を制作したことで音楽活動が長期的に制限されるという大きな代償を払った。

 2006年頃、中国ではMP3プレイヤー等のデジタル音楽の視聴スタイルが徐々に広がりはじめ、多くの音楽サイトが出現した。CDなどを買わずに、デバイス画面上のボタンをいくつかクリックするだけで音楽が聴ける時代になった。
 音楽好きからすると非常に便利になったように見えるが、一方で中国共産党政府も管理しやすくなった。90年代より続いた、アメリカのゴミがもたらした「自由に音楽を聴く」という環境は、終わりを迎えたのだ。2014年前後、習近平政権発足から間もなく、ロックを紹介する中国の雑誌も全て休刊となり、今は電子版ですら存在していない。
 ここ最近、中国人は多くの問題において意見が分裂する。例えばアメリカに関しては、中国共産党政府のプロパガンダにより、大部分の人がアメリカは世界平和における最大の脅威であり、中国最大の敵であると認識している。
 今回、ナンシー・ペロシ米下院議長が台湾を訪問したことにより、中国共産党政府はアメリカ脅威論のプロバガンダをさらに強化し、中国人がアメリカを憎むよう扇動している。
 しかし、中国にいる私の友人に意見を聞いてみると、多くの友人が反米プロバガンダに対し反感を抱いている。面白いことに、これら友人のうち大部分がかつての「打口」世代であり、同時に日本のマンガ・アニメを好んで見ていた世代だ(本コラム「日本のアニメを見て育った中国『改革開放』世代の嘆きと絶望」を参照)。
 彼らは幼少期の頃からアメリカ文化や日本文化に慣れ親しみ、好感を抱いている。70年代中期~90年代初めに生まれた彼らは、現在30~50歳であり、まさに中国社会を支える中核世代と言える。彼らは自分の考えを持っており、中国共産党プロパガンダ服従しない揺るぎない強い心を持っている。
 遺憾なことに、習近平政権発足以来、海外の文化コンテンツは厳しく統制され、中国の門戸は再び閉められている。もしこのまま十数年の間に変革が起こらなければ、反骨の「打口」世代は年老いていき、中国社会に大きな反対勢力が現れることはおそらくないだろう。

 あと、再読した「岬」(中上健次)の感想。

 「岬」は風景描写が全然ないのが意外だった。「枯木灘」は「岬」に比べるとぼちぼち風景描写もあるのだが、人物の外見に関する描写に関してはほとんどまったくといっていいほどない。秋幸——先日の記事でまちがって「秋吉(あきよし)」と書いてしまったが、そうではなく秋幸(アキユキ)だった——が男前で背が高く筋骨隆々としていることについてはたびたび言及されるのだが、そのほかの人物についてはほとんどまったくといっていいほどその外見が描かれない。しかしそのことに読み手であるこちらはまったく違和感をおぼえなかった、「岬」を読み終えてそのまま「枯木灘」に着手してようやく、あれ? そういえば全然外見の描写がないぞ? と気づいたくらいだった。これは登場人物らの密で複雑な関係性のためかもしれない。登場人物が固有名なり代名詞なり続柄なりで記述上にあらわれるそのたびに、あたまのなかでこしらえた家系図を参照してその出自や背景をいちいち確認する必要があるという一手間が、その人物の外見というかほのかなイメージのようなものを思い浮かべる自動的なあたまの働きを遮って必要なしとしてしまうというか、いやむしろそのように読み手のあたまのなかで構成されるイメージが読むというその行為のなかで果たす役割を、これらの小説においては各人物の関係性の束が代わりに果たしてしまうということなのかもしれない。
 文体も「岬」と「枯木灘」では全然違う。「岬」のほうが特徴的とはいえるかもしれない。一文が短く、そっけなく、そして読点が多用される。作中にて「秋幸」という名前は明示されているにもかかわらず、語りは「秋幸は」と語ることなく「彼は」と代名詞で語り、またその格助詞「は」のあとにはほぼ必ずといっていいほど読点が打たれる(「彼は、」「母は、」「姉は、」)。そこで生じる切断の(視聴覚的)リズムがもたらす一種のタメが、路地の人物らが(あるいは路地そのものが)抱える爆発寸前のなにごとかの気配と共鳴する瞬間もあると思う。
 「岬」のクライマックスにおける近親相姦のくだりは、はじめて読んだときのあの衝撃をこちらにはもたらしてくれなかったが、美恵が父親の法事当日に狂うくだりはすごかった。

 それまで台所の脇に坐り込んでいた姉が、ふらふらと立ちあがり、義父と入れ代りに奥へ行った。すぐ、物音がした。奥で硝子が割れる音がたった。「はなせえ」とかん高い声がきこえた。「われらあ」と姉が叫んでいる。彼と母は、あわてて奥の仏壇の間に行った。母が、「美恵」と言った。姉は、親方に後からはがいじめにされ、顔をねじり、親方の腕に噛みつこうとしていた。集まった客たちは、隅に体を寄せていた。姉は、仏壇を壊しにかかったらしい。仏具が散らばり、果物が転っていた。「美恵、なにやるんじゃ、美恵」親方は言った。その親方の手を振りほどこうと暴れ、姉は、うっうっと声をたてた。母が、坐り込んだ。「美恵よお、美恵よお」と言った。「殺せえ、殺せえ」と姉は顔を振って、どなった。

 まずこの出来事自体が突発的に生じる。それまで姉(美恵)の発狂は予感されていない。だからこのくだりは、読み手にとって非常に驚きをともなうものであるし、ここでいったいなにが起こっているのか、一読しただけでは理解できない(出来事は理解できるが、その背景や因果がこの時点ではまったく読めない)。そのような混乱に読み手を踏み込ませないためにも、一般的な書き手であれば、十中八九、彼(秋幸)の戸惑いを書くだろう。上の引用部に彼(秋幸)の戸惑いが記述されていれば、読者もこの出来事が突発的な性質のものであると理解することができるし(秋幸とともに「戸惑い」という反応をとることでこの出来事をいったん消化することができる)、それゆえにすんなりと先を読み進めることができるのだが、中上健次はここで意図的に彼(秋幸)の内面に踏み込まないし、また、この出来事が姉の発狂であるとすぐに理解できるような便利なマーク(比喩や修飾)も残さない。しかるがゆえに、読者はこの出来事の突発性、その純粋な速さに、取り残されてしまうことになる。
 「それまで姉(美恵)の発狂は予感されていない」と書いた。しかし同時に、前言撤回のようになるが、たびかさなるストレスとこじらせた風邪で長らく寝込んでいた美恵のその寝込みが、肉体的なものよりもむしろ精神的なものに由来していたものだったかもしれないことを、読者はここで推測することもできるようになっている。その意味で、この出来事は磯﨑憲一郎的な突拍子のなさとは、やはりまったく性質が異なる。背景も奥行きもないときっぱりひらきなおることのできる性質ではなく、いわれてみればあのときからという遡行をうながすものすごくなまなましいものになっている。やばいやつがキレちまうときのあのやばさが完璧な精度で再現されているといってもいい。
 「岬」は秋幸と腹違いの妹の近親相姦で終わる小説だが、今回読んで思ったのは、秋幸と種違いの姉である美恵との近親相姦的関係もこの作品にはしっかり描かれており、そのふたつの関係がペアになっているということ。これは間違いなく中上健次が狙ってこしらえた構図だと思う。序盤、夜道をそろって歩く場面で美恵が秋幸と手をつなぐくだりもそうであるし、美恵が入浴しているところをたまたま目撃してしまったというかつてのできごとを思い出すくだりもそうである。なによりも狂った美恵が踏切で飛び込み自殺しようとするのを制止するときの「姉は、足をばたばたさせた。スカートがめくれあがった。白い太ももが、彼には不愉快だった」というくだりがすごい。ここで「不愉快」という言葉をチョイスするはやはり天才だと思う(こちらとしては「うっとうしかった」でもいいと思うが)、この一行ほど近親相姦のキワを描いたものもないのではないかという気すらする。

 それから2013年8月16日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲し、今日づけの記事をここまで書くと、時刻は17時半だった。

 (…)を連れて(…)ペットクリニックへ。駐車場で車を停め、(…)を車から父が抱きおろすわけだが、地上に足が着くなり、(…)は細い路地をはさんだ向こうの駐車場まで小走りで移動した。そこで長々と小便。病院のほうに連れていこうとすると、足を止めて抵抗してみせたので、やっぱり嫌な記憶が残っているのかな、それで車からおりるなり病院とは逆方向に駆けたのかなと思った。
 それでもリードをやや強めに引っ張ったら、(…)はおとなしく院内に入った。診察室へ。父が抱っこして体重計をかねた診察台にのせる。体重は24キロ台まで落ちていたので、これには両親もこちらもびっくりした。老い先短いわけであるし、やっぱり好きなものを食べたいよなというわけで、むかしよりけっこう(…)に対して甘々になっているというか、パンだのアイスだのヨーグルトだの(主に両親が)わりとしょっちゅう分け与えているので、絶対に太っているだろうと思っていたのだが、全然そんなことなかった、むしろ以前より痩せていた。いちばん太っていた時期で27キロあり、そのときは獣医からももうすこしダイエットしないと股関節に負担がかかるといわれたわけだが、今日はほぼベストコンディションだったといってもいい。ひとまずワクチンを打ってもらう。(…)は以前のようにうなり声を出したり牙を剥いたりしなくなった。ずいぶん丸くなったものだ。それから足腰について相談。車椅子の導入も考えていると伝えると、先生はほうとややおどろいた様子。あとになって母がいうには、飼い犬のことをそこまで熱心に世話をしてやろうとする人間はなんだかんだでやっぱり少ないのではないか、だからだれにすすめられるわけでもなくみずから情報を手に入れ先手先手で車椅子を導入しようとするわれわれの態度にやや驚いていたのではないかとのことだが、実際はどうだかしれない。先生は最近出たばかりのあたらしい注射があるといった。効能としてはいま服用しているサプリ(アンチノール)と同じで、関節の炎症を止める効果があるらしい。ただこちらが(…)の最近の具合として訴えた、後ろ足の感覚がなかばなくなっているようにみえるという点、踏ん張りがまったくきいていないし足と足の間隔のせまいときが目立つ、ひどいときには立ちながら後ろ足が交差していることもある、まっすぐ歩こうとしても酔っ払いのように斜めに歩いてしまうこともたびたびあるという諸々については、脊椎に起因する症状である可能性が高く、その場合は注射をしても無駄になるだろうとのことだったが、車椅子を導入する前にとりあえずの様子見もかねてやってもらおうかということに。注射は基本的に一ヶ月に一度。ちょっと高いですよというので、三万円か四万円かかるのかなと思ったが、一万円ちょっとだった。問題ない。脊椎に原因があるのだとしても、犬種柄、股関節の具合が加齢とともに悪くなっているのは間違いないわけであるし、それが毎月一万円で少しでも楽になるのであれば万々歳だ。
 受付には若い女性が入っていたが、いわゆるマスク美人だったというか、いやマスク美人というのは悪口になるのか? マスクをつけていると美人にみえるがはずすと案外そうではないという女性のことをマスク美人というのだろうか? そうだとすれば、彼女のことをマスク美人と呼ぶのは間違いということになる、なぜなら彼女がマスクをとったところを見る機会がなかったわけだが、いずれにせよ、とにかく、マスクを装着したきれいな女性がいて、目元の化粧がちょっと地雷系っぽかったのだが、こんなタイプの子をこの病院で見るのははじめてだった。カウンターには水槽が置かれており、ネオンテトラのほかにエビが数匹いた。さらにヒメタニシも数匹いたので、これどこで捕まえてきたんだろう、教えてほしいなと思ったのだが、あとで聞いたところによると、母は以前先生にその水槽についてたずねたことがあるらしい。しかし水槽は先生の手になるものではなかった、すべてひとにやってもらったものだという返事があったらしく、もしかしたらインテリアコーディネーターみたいひとが一式準備したものだったりするのかもしれない。待合室には中型犬を連れた女性がひとりいた。犬種は忘れた。犬はフロアに力なく横たわっており、母が近づいてもまったく逃げようとしなかった。だらけきってそうなっているのではない、たぶん病をわずらっているのだと思う。病院の入り口にはトロ箱が置かれており、中にデカい亀が一匹入っていた。こいつのことは微妙におぼえている。二年前はまだ子亀だったはずだ。先生には市内で犬用車椅子を用意してくれる施設や工房はあるだろうかといちおうたずねたが、やはりこの田舎にそんなたいそうなものはないようだった。犬飼っとる家庭こんなに多いのによー!
 車に乗りこむ。これでサプリや食料とは別に毎月の注射代10000円がさらに必要となったわけで、やっぱり生命保険を解約したのは正解だったなと話した。帰宅後、夕飯。そのままソファで爆睡。目が覚めると23時半で、なにかしら興味深い夢を見たはずだったのだが、すっかり忘れてしまった。入浴とストレッチをすませ、『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』(乗代雄介)の続きを読む。「創作」は昨日読み終えたので、今日は「ワインディング・ノート」を少し。乗代雄介は「本からの引き写しを並べたノート」を10年近く書きためているらしいが、やっぱりこういうことをするひとはたくさんいるんだなと思った。こちらも本を読みはじめた当初から、ということは二十歳ごろからということになるわけだが、きっかけはたしか(…)が誕生日プレゼントにくれたノートだったと思う、それに読んだ本の印象に残った部分をとにかくボールペンで抜き書きしまくっており、あれは5年ほど続いたことになるのだろうか、ノートの冊数としてはたしか七冊くらい続いたと思うのだが、そのタイミングで手書きをやめて当時まだ日本語圏で紹介されはじめたばかりだったと記憶しているEvernoteに移行したものの、どうせキーボードでカタカタやるのであればEvernoteでなくてブログでいいじゃんとなり、当時すでにいまのように日々の由無し事を毎日つけるようになっていたブログに抜き書きもまとめて投稿するようになったのだったし、さらにその後、いま現在もそうしているように、抜き書きはいっぺんにまとめて投稿するのではなく毎日の記事の冒頭にひとつずつストックしたものを投稿していくというスタイルになったのだった。あと、大学入試について「センター利用入試という簡便な制度」を利用したのも同じ。ただし、こちらは読み書きする時間を確保するためにそうしたのではなく(そもそもこちらは大学入学前まで読書の習慣はまったくなかった、思春期はジャンプと刃牙くらいしか読んでいない)、サボりにサボった高校三年間のツケを手っ取り早く支払うもっとも効率的な方法がそれだったからというしょうもない理由にすぎないが。
 あと、このあいだ(…)くんと通話した際、いまどきスタインベックの『怒りの葡萄』を翻訳のみならず原文でまで読んでいる人間なんてじぶんしかいないのではないか、そもそもスタインベックなんてノーベル文学賞受賞者として文学史にその名こそ刻まれているものの、現代においてはほぼ評価されていないというかまったく読まれていないんではないかと口にしたのだったが、「ワインディング・ノート」でほかでもないそのスタインベックが言及されていたのでびっくりした、それも『怒りの葡萄』ではなく『チャーリーとの旅』という作品で、これはかなり面白いらしい。気になる。
 それから、サリンジャーの『フラニーとゾーイ』の出てくる「太っちょのオバサマ」という概念が紹介されている箇所を読んだとき、『出会って4光年で合体』の著者のペンネームである「太ったおばさん」の元ネタってもしかしてこれなのかなと思った。
 書見を中断し、(…)さんのテーマスピーチ用原稿をチェックする。テーマは「紐帯」であるが、故郷の東北地方からはるばる南方の大学までやってきた自身の境遇について、両親とは遠く離れて生活しているものの毎日連絡をとりあっている、これこそがほかでもない家族の絆であるうんぬんと、いまどき信じられないほど表面的なきれいごとを作文にもとめる中国の教育方式の影響——これは何度も書いているが、中国の作文には「正解」があるのだと学生たちはしょっちゅう口にする——を差っ引いてなおつまらないし説得力に欠ける文章が書かれていたので、「子は鎹」ということわざを紹介しつつ、夏休み中に彼女がこちらに語ってくれた彼女の家族の歴史について書いたほうがずっとおもしろいのではないかと提案した。つまり、(…)さんの両親は彼女が小学生だったか中学生だったかのころに離婚しており、父親とは一時期ほぼ音信不通だったわけだが、いまは復縁こそしていないものの、共通の心配のタネである(…)さんを鎹とすることで、元夫婦は良好な関係を保つことができている——それこそ「紐帯」というテーマを家族の話に結びつけたものを原稿としたいという彼女の意向にぴったりくるものではないかと思われたので、そのように提案したわけだが、もちろん、両親の離婚という話は中国においてはけっこうナイーヴな話題のようであるので(実際、(…)さんは自分の両親が離婚していることをクラスメイトのだれにも話していないと言っていたし、それは(…)さんもおなじだった)、以前はそれほど仲良くなかった両親が、自分の大学進学をきっかけに——共通の心配事の獲得をきっかけに——歩み寄るようになったと、離婚の事実を伏せてそのように書き進めるのもいいでのはないかと、けっこう長々とした文章で書いて提案したのだった。
 書いたものを送ると、時刻は2時前だった。冷食のカレーピラフを食いながら、ジャンプ+の更新をチェックした。『NARUTO』の続編である『BORUTO』が第二部連載開始記念かなにかで第一部全話無料キャンペーンを行っており、それでちょっとだけ読んだ。作画を担当している池本幹雄はこちらがまだ小学生だった時分だったと思うが、ジャンプ本誌で「COSMOS」という読み切りを発表していて、それがたいそうおもしろかったのを記憶している。バドワイザーという名前の不良少年が鉄パイプ片手にスラムで暴れ回るみたいな内容だったと思うが、とにかく絵が魅力的で、何度も何度も読み返した記憶がある。『BORUTO』でも当時の絵柄の名残が若干うかがえる。頭身の低さというか、少年少女の頭部が身体に対してやや大きく、意図してバランス悪く描かれている——少年少女の脆さや危うさといったものが絵として表現されている——ところが特に。
 間借りの一室に移動。「偽日記」の2023年8月15日づけの記事が印象に残った。特に以下に引いた最後の一行。

最近思うのだが、二十世紀(後半)美術をいつまでも「現代美術」と言ったり、二十世紀(後半)思想をいつまでも「現代思想」と言ったりするのは、流石に二十一世紀の五分の一が既に過ぎた今ではズレてきていて、違うのではないか。もちろん、新しければ良いとか、二十世紀のものはもう古くなったとか言いたいのではない(ぼく自身、どうしようもなく二十世紀に根を持つ人間なのだし)。ただ、それを「現代」とするのは違うのではないだろうか。たんに、二十世紀美術とか二十世紀思想とか言えばいいのにと思う。
なんというか、それを「現代」と言い続けることで、それに次いで、それとは異なる在り方で存在しているはずの「実質的な現代」を抑圧して(見えなくして)しまうのではないかということが気に掛かっている。
(文系的な知において「アカデミズムがそれを扱うのを躊躇う」ということが「現代」と呼ばれる何かの条件だと思っている。)