20230914

His body felt like a great heavy bell whose clapper swung from side to side but made no noise. Once up, he remained standing a moment, swaying until he got his balance.
(Flannery O’Connor “Judgement Day”)



 4時ごろだったと思うが、手の指やふくらはぎのかゆみで目が覚めた。どうやら眠っているあいだに蚊に刺されたらしい。こんなにすずしい夜にかぎって蚊なのか、いやむしろすずしいからこそなのかと思いつつ、いったんベッドから抜け出してスプレーを噴射し、トイレにたったり白湯を飲んだりした。なんとなくそうなるだろうなという気はしていたが、二度寝は困難だった。それでベッドにもぐりこんだまま、あたまのなかで「実弾(仮)」のシーンを最初から最後まで通して追ってみるということをしてみたのだが、1000枚以上あるにもかかわらず途中で迷子になるようなこともなくスムーズに追うことができたので、やっぱり人物にも場所にもモデルがあるし、執筆中は常に映像を意識しているから、それで記憶に定着しやすいのかなと思った。
 5時半ごろだったと思うが、これ以上ねばったところで仕方ないだろうとベッドを抜け出した。睡眠不足ではあるが、今日は朝イチの授業がひとつあるきりなので、そのあとにたっぷり昼寝をとればいい。歯磨きをすませ、トースト二枚を食し、コーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書いた。投稿はせず、そのまま今日づけの記事もここまで書くと、時刻は7時だった。おもてではすでに軍事訓練の掛け声が響いている。よーやるわ、ほんまに。

 身支度を整えて部屋を出る。第五食堂の売店でミネラルウォーターを買ってから外国語学院へ。図書館の手前でスクーターに乗った(…)とすれちがう。外国語学院の階段を6階まであがる。途中、三年生の(…)さんと(…)さんと一緒になる。日本語のまったくできないふたりなので、中国語でいまからなんの授業かとたずねると、(…)先生の高级日语だという。彼女らの教室は5階。6階にあがる前にちょっとだけ教室をのぞく。廊下に面した窓際の席に(…)さんの姿があったので、おい! 勉強しろ! とあいさつも抜きにいきなりおどろかす。教卓の(…)先生にも軽くあいさつする。
 8時から二年生の日語会話(三)。第22課。大半の学生が教科書を持ってきていなかったので(使わないものと思っていたらしい)、単語の確認は飛ばす。衣類まわりの表現に特化した教案をこしらえてあったので、それに即して「着ています」「履いています」「穿いています」「かぶっています」「つけています」などなどひとつずつ確認していく。それからこちらの用意した人物の画像をスライドに映してその服装を日本語で説明するというのを基礎練習として前半いっぱい使ってやったわけだが、これはちょっとしつこかったかもしれない、もう少しボリュームを減らしてもよかったかもしれないので、来年にそなえてそのあたり教案にメモ書きを残しておいた。後半は前半の応用問題としてのアクティビティ。37人もいるのでアクティビティをやるとなるとどうしてもグループ分けする必要があるのだが、そうするとグループのなかで熱心に参加する子としない子との温度差みたいなものがどうしても生じる。日本語にもともと興味のない子もいるわけであるし、そういうのは仕方ない、というか勉強したくない子を無理やり参加させる必要はないと思うのでそこはもういいのであるが、単純に、この子とこの子はたぶん仲が悪いんだろうなというのがグループワークの過程で透けてみえることがときどきあり、そういうのはちょっとめんどうくさいなと思う。あとは自意識過剰な男子が、女子のグループのなかでふてくされたようにスマホをいじっていたりするのを見ると、そういうのは高校生までにしておきましょうやとも思う。いや、別にかまわないのだが、なんとなくこちらまではずかしくなってくるというかいたたまれなくなってくるというか、おめーいまのうちにそのクールなよそおい解除するっちゅう方向に舵切っといたほうがのちのちの人生絶対ずっと楽やぞと、思春期のじぶんの失敗を踏まえて助言してやりたくなるのだ。
 休憩時間中、最前席にいた(…)さんと(…)さんとちょっとおしゃべりした。後者は勉強にまったく興味がなく日頃ゲームばかりしていると公言している女子であるが、外見がちょっと中村佳穂に似ているし、なんとなくユーモアのある子だというのが普段の言動で理解できる。前者もやっぱりしっかり勉強しているふうではないのだが、しかし日本語はわりとできる、少なくとも聞き取りはそこそこできる、というのは日本の漫画とアニメを愛好するオタクであるからで、ファッションや化粧や髪型なんかにもそういう影響が見て取れるのだが、今日彼女のスマホの待ち受け画面——というのはもう死語なのだろうか? なんといえばいいのだろうか? 壁紙もやっぱり死語か? わからんがとにかくその画面に見覚えのあるアニメキャラが表示されていたので、あれ? それもしかして『ハイキュー!!』じゃない? とたずねると、肯定の返事。日本語学科の女子、『ハイキュー!!』が好きだという子がけっこう多い気がする。それこそおとといの夜、(…)さんは『ハイキュー!!』のアニメを見ていたし、卒業生の(…)さんも最近鹿児島から帰国した(…)さんもわざわざ『ハイキュー!!』の単行本を日本から割高価格で取り寄せて購入していたのをおぼえている。あと、先学期に万达で知り合ったコスプレ女子の(…)さんも『ハイキュー!!』のコスプレ写真をモーメンツに何度か投稿していた。
 授業を終えて教室をあとにする。五階の廊下で教室移動中の三年生らとまた遭遇する。(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)くんなどとあいさつ。教室入り口で(…)さんとも遭遇したので、ちょうどいいやということで、彼女が班导として担当しているクラスの名簿をあとで送ってくれとお願いする。学生らの名前の日本語読みをチェックする必要があるのだ。もうひとりの班导である(…)さんの姿がなかったので、同様の旨を彼女にも伝えておいてくださいとお願い。
 帰宅。班导ふたりからさっそく名簿が届いている。どちらのクラスもぴったり30人。二年生や三年生のクラスにくらべると少ないし、若干やりやすくなるかな。対日感情も底の底まで落ちている現状、今学期いっぱいでさっそくほかの学部に移動する学生たちもぼちぼち出てくるだろうし、なんだったら25人ずつくらいになってくれないかなと思う。それだけでもだいぶやりやすくなるはず。
 ひととき休憩したのち、11時になったところで第四食堂へ。美声のおっちゃんとあいさつし、ハンバーガーを二個打包。できあがるのを待っているあいだ、『蜜のように甘く』(イーディス・パールマン/古尾美登里・訳)の続きを読み進めていたのだが、ほどなくして軍事訓練を終えた軍服姿の新入生の集団がぞろぞろと食堂方面にやってきて、店の前にも行列ができた。打包したものを片手に寮にもどろうにも、道路が軍服姿で完全に埋まっている状態が続き、こちらの前にいたスクーターの女子とそろって、集団が去るまであいだ無理に割り込むことはせずその場で待機した(女子はスクーターにまたがったままスマホをいじり、こちらはケッタにまたがったままKindleをいじった)。
 帰宅。食後はすぐにベッドに移動し、二時間以上寝た。目が覚めたところで洗濯機をまわし、コーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、2022年9月14日づけの記事を読み返す。以下は2020年9月14日づけの記事より。

 象徴界に入った主体はもはやジュイッサンスが失われてしまっている(搾取されている)。これはこれまでも何度も述べられてきたことであるが、ラカンはここで新しく、原初的ジュイッサンスの断念によってもはやいかなるジュイッサンスもなくなってしまうのではなく、別種のジュイッサンスが手に入ると考えるようになった。この別種のジュイッサンスが剰余享楽である。
 (…)このように剰余享楽には二つの側面がある。これはそもそも plus de jouir という語の中に示されていることである。「plus」は「もっと、より多くの」という肯定表現として使われることもあれば、「もはや……ない」という否定表現としても使われる。「plus de」というように「plus」の後に「de」が来た場合、肯定表現として使われる際には「プリュス・ドゥ」と発音されるが、否定表現の場合は「プリュ・ドゥ」になる。つまり plus de jouir は「もはや享楽しない(プリュ・ドゥ・ジュイール)」と「もっと享楽する(プリュス・ドゥ・ジュイール)」という二つの意味を含んでいるのだ。ラカンは例によってその両義性において語っている。つまり人は言語の世界に入ることでもはやジュイッサンスを失ってしまうが、それによって他の種類のジュイッサンスをもっと得るのだ。
 対象 a の導入以降、シニフィアンとジュイッサンスは〈もの〉の時代のように正反対のものとして対置されなくなってきたと述べたが、ここではついにシニフィアンはジュイッサンスを失わせるのではなく、剰余享楽という別種のジュイッサンスを可能にするのだと考えられるようになった。だがそれは、原初的ジュイッサンスと比べればとても小さなジュイッサンスに過ぎないから、やはり十全なジュイッサンスは失われているのである。「剰余享楽」という言葉は一言にはその二つの意味が凝縮されている。
(…)
 ラカンはまた、対象 a と剰余享楽は同じだとも言っている。これはどういうことなのか。
 疎外と分離をジュイッサンスの観点から考えることでそのことがわかろう。疎外において主体は固有の存在を失ってしまうが、これはジュイッサンスの観点から考えれば、原初的ジュイッサンスの喪失と考えられる。疎外というのは母親の世界の外に出て〈他者〉の世界に入ることだが、その際に母親から受けとっていたジュイッサンスを失うこととなるからだ。だがその後分離を行い、対象 a を見出すと、失ったジュイッサンスを部分的に回復することができる。この回復されたジュイッサンスが剰余享楽である。主体が〈他者〉の中の欠如を自分の場所にすると、ある程度自由が利くようになると述べたが、それと同時に、ある程度のジュイッサンスを得ることも可能となるのだ。たとえば恋愛においてもたらされるジュイッサンス(性的満足など)は、かつて母から受けたそれに比べたら劣るものの、それでも残余の満足をもたらしてくれる。対象 a は、このようなある程度の剰余享楽をもたらす対象である。それゆえに対象 a と剰余享楽は同じものだと考えられるようになったのだ。対象 a の項で対象 a は断片的なジュイッサンスをもたらすと述べたが、この断片的なジュイッサンスを剰余享楽と考えていいだろう。
(片岡一竹『新疾風怒濤精神分析用語事典』 p.140-141)

 そのまま2013年9月14日づけの記事を「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲し、今日づけの記事をここまで書くと、時刻は17時前だった。

 第五食堂へ。門前で軍服姿の新入生らが整列している。気をつけの姿勢のまま直立不動を維持する練習中だと思うのだが、その隊列と隊列のあいだをひとり外国人であることのバレバレな服装で歩いていく必要があるわけで、これちょっとした罰ゲームやなと思う。打包して寮にもどると、電動スクーターに乗った(…)にばったり遭遇する。中国にもどってきてはじめての顔合わせだ。Welcome back! と迎えてくれる。第四食堂においしい店があるという。第三食堂と第四食堂は両方ともリニューアルしたよねというと、肯定の返事があり、第四食堂の二階に「(…)」という店があり、そこの牛肉とパクチーの料理がとてもおいしいのだというので、じゃあ明日行ってみるよといった。処理水の話はやっぱり出なかった。
 メシ食う。ひととき休憩したのち、新入生の名簿をチェックして、全員の名前の日本語読みを調べる。一部調べても漢音の読みが不明なものがあった。姣と滢の二字。前者は「コウ」、後者は「エイ」で、たぶん問題ないと思うのだが。以下、名簿。まず、(…)班のもの。担任は(…)先生。班导は(…)さん。

(…)

 はじめて見る苗字だけピックアップしても、匡(きょう)、侯(こう)、黎(れい)、苏(そ)、龚(きょう)、成(せい)、姚(よう)とけっこうたくさんある(侯に関しては侯孝賢ホウ・シャオシェンがいるわけだが)。 担当クラスこそ異なるものの、班导と同姓同名の(…)さんがいるのはちょっとまぎらわしいな。
 以下は(…)班。担任は(…)先生で、班导は(…)さん。

(…)

 はじめて見る苗字は、谌(しん)と蔡(さい)のみ。しかしこうして見ても、男なのか女なのかわからない名前というのはやっぱりけっこうある。
 シャワーを浴び、ストレッチをし、コーヒーを飲みながら『蜜のように甘く』(イーディス・パールマン/古尾美登里・訳)の続きを読み進める。(…)さんにもらったお菓子を食ってプロテインを飲み、23時前には寝床に移動して就寝した。