20230915

 鏡像段階に達した子ども(生後六〜八カ月)は、他の子どもに対してはなはだ攻撃的な態度を取るようになる。この頃においてはまだ自他の境界ははっきりせず、他の子どもを叩いたあとで「あの子がぶった」といった発言がみられる。これは転嫁現象(transitivisme)と呼ばれているが、そこには自我の起源ともいうべき、他者のイメージとしての自我の性格が現れている。人間は自らの外部に位置する像に自分を同一化し、疎外的に自分自身を作りあげていく。鏡はその一つの媒体にすぎない。もっと具体的に言えば、この像は他者のイメージ、つまり生まれてすぐなら母親、そして兄弟、家族のイメージである。
 他者のイメージが自分のイメージとなるなら、反対に自分のイメージは他者のものだともいえる。そこで他者のイメージを巡って他者との間で争い、一つの決闘的—双数的(dual)な競合が始まる。私の見ているこのイメージは私のものだ——いや他者のものだ——いや私だ——他者だ……と。
(…)
 ラカンはこうしたイメージの構造を基本とした関係を「想像的なもの」(L’Imaginaire—本書では想像界、またはイマジネールとも呼ぶ)と呼んでいる。想像界はつねに「お前か私か」「自分か他者か」の二者択一の世界であり、絶え間なき不安定の支配する世界である。
(向井雅明『ラカン入門』より「第Ⅰ部第一章 鏡と時間」 p.25-26)



 7時45分起床。胃の調子がなんとなくおかしかった。吐き気がするというわけではない、胃もたれしていると断言できるわけでもない、しかしどうもうっすらと気持ち悪い、そういう感じがしたので、朝食は白湯だけにしておくことにした。歯磨きしながらスマホでニュースをチェックする。そういえば、きのうづけの記事に書き忘れていたが、昨夜は阪神タイガースが18年ぶりに優勝したらしい。道頓堀に飛び込んだファンもやっぱりいた模様。
 第五食堂の売店でミネラルウォーターを購入。軍事訓練中の新入生らを避けて外国語学院へ。階段をあがっている最中、先をいく(…)くんに声をかけられる。部屋の扉は閉まっている。鍵をもっているのは(…)くんなので、中庭を見下ろしながら彼がやってくるのを待つ。まず、(…)さんがやってくる。9時をまわったところでようやく(…)くんもやってくる。それでそろって部屋に入った。
 テーマスピーチの練習からはじめる。三人ともすでに暗記しているという話だったので実際に時間をはかってやってみた。(…)くんは原稿はほぼあたまに入っているふうだったし、発音もやっぱり三人のなかではダントツだったが、細部がけっこうあやしいし、感情の込め方がかなり不自然だったので、こちらの録音を参考にするようにといった。(…)くんは原稿後半の定着率がまだちょっとあやしい。発音は前回にくらべるとだいぶよくなっていたが、声量が小さすぎる(これは(…)くんもおなじ)。(…)さんはあいかわらず単語レベルでアクセントが狂いまくっていたが、原稿の暗記はほぼ終えている模様。しかしこちらに相談なく文章の一部を削っていたので、内容をいじるときはかならずこちらに連絡するようにと伝えた。即興スピーチも並行して行う。「経済」「アイドル」「スポーツ」など大雑把なテーマで、夏休み中の練習で使った「型」をここでも使ってやってみるようにという。即興スピーチについては、発音や文法のあやまりが多少あってもかまわないので、とにかく最初から最後まで口ごもらずしゃべり続けるのが重要だという話を、昨年のコンテストの結果をひいて説明したのだが、実際にやってみると、(…)くんのみならず(…)くんもボロボロ。ふたりとも10分の準備時間の大半を文章の作成に割いてしまっており、書いた内容を暗記するところまで余裕がない。だから本番中も書いた文章を思い出そうとして口ごもってしまう時間がたびたび出現する。ふたりとは反対に、(…)さんはわりと最初から最後までとぎれることなく話すことができる。アクセントはおかしいし、単語のチョイスも不自然だし、文法ミスも目立つのだが、それでも最初から最後まで口ごもらずに話し続けることができるのはたいしたものなので、その点は褒めておいた。ただし、三回とも規定時間に満たなかった、10秒ほど短かったという問題はある。
 練習中、軍服姿の新入生女子三人が扉をノックして部屋に入ってきた。(…)先生に用事があってのことだったが、彼女は不在だったので(ちょうど授業中だったのだと思う)、部屋のなかで待つようにといった。三人は日本語学科の学生。みんな日によくやけていたので、日焼け止めを塗らずに軍事訓練に参加しているのだろう、ということは都市部の出身ではなく田舎の子たちだろうなと推測した。(…)さんがこのひとがわたしたちの外教だよと中国語で説明すると、三人のうち一人が日本語でこんにちはといった。しかし三人とも強烈に緊張しているふうだった。たぶんはじめて生で見る日本人、というかもしかしたらはじめて生で見る外国人なんではないか。部屋のなかに入ってきたあとも、ずっと直立しているふうだったので、あいている椅子に座りなさいと途中で声をかけた。ほどなくして(…)先生がやってきたので、あいさつし、新入生の名前の日本語読みをきのう調べておいたので必要でしたら送りましょうかというと、お願いしますとあったので、では帰宅したら微信で送りますねと応じた。
 練習は11時半前に切りあげた。(…)くんから昼飯の誘いがあったので、だったらいつものように外卖するかとなった。授業を終えた(…)さんがやってきた。(…)さんといっしょに昼飯を食べる約束らしい。ふたりは国慶節に広東省を旅行する約束も交わしているらしく、いつのまにそんなに親しくなったのだろうとちょっと驚いた。(…)くんはひとりで去った。(…)くんのアプリで猪脚饭を外卖するつもりだったが、30元もするというので、だったら塔斯汀のハンバーガーにしようかと考えなおし、きみはなにを注文するのとたずねると、自分はほかのひとと食事をとる約束があるからというので、は? となった。だったらなんでこっちをメシに誘ったのか? というかまったく同じことが前回の授業終わりにもあったばかりでは? まったく意味がわからなかった。それだったらわざわざ外卖なんかする必要ないじゃん、だったらぼくはもう寮に帰るよと告げた。それで外国語学院をあとにするわけだが、ちょうど午前の授業を終えた学生らであたりはごった返しており、これが嫌だからわざわざはやめに練習を切りあげたのに、まったく無駄になってしまったではないかとイライラした。(…)くんはいつものようにこちらがケッタをひきながら地下道経由で帰るものと思っていたようだったが、ケッタで地下道の階段を上り下りするのはふつうに邪魔くさいしそっちは学生でごった返しているので、こちらは南門ルートで帰ると告げた。
 それで新校区のほうにもどった。この時間であると食堂はどこもクソほど混雑しているに違いない。マジでうっとうしいな、(…)くんなんだったんだよとイライラしながらケッタをこいでいると、後ろからやってきたスクーターに「先生!」と声をかけられた。三年生の(…)くんだった。これから図書館にいくという。彼女と待ち合わせだろう。
 そのまま北門を出て(…)でメシを食うことにした。厨房にはいつものおばちゃんがいる。大盛りの牛肉担担面を注文する。今日は飲み物はいらないのかというので、いらないと手元のミネラルウォーターをみせる。こちらが指定するよりもはやく唐辛子は抜きだなというので肯定する。すっかり顔馴染みになった。厨房にいる別のおばちゃんに、彼は日本人だと説明するおばちゃんの声がきこえた。おばちゃんはのちほどわざわざこちらの席の近くまでやってきて、辣不辣? といった。不辣! と応じる。食事をしながら(…)くんに微信を送った。前回もそうであったが先約があるにもかかわらずこちらを食事に誘うというのはやめてほしい、と。彼のあたまとしては、食事の約束は別にあるとはいえ、その食事の約束の時間がくるまでこちらに付き添っておしゃべりしたいというのがあるのかもしれない、そういう計画でのメシの誘いだったのかもしれないが、はっきりいってこちらはわざわざひとでごった返した食堂だのなんだのにいってメシを食いたいと思わない、というか可能なかぎりはやく寮に帰りたい。(…)くんからはすぐに謝罪の微信が届いた。もともと食事に誘ったつもりはなかった、こちらが彼のアプリ経由で外卖したものを外国語学院のそばで受けとり寮に持ち帰るという展開を想像していたみたいなことをいうので、そんなわけわからんことするかよと思ったし、というか前回もそうであったが、英語学科の女子と約束がある日にかぎってメシの話をこちらに持ちかけてくるそのふるまいの奥底に、あわよくばその英語学科の女子とこちらを引き合わせたい、というよりむしろ日本人と日本語で流暢にやりとりしているじぶんの姿を見せつけたいという彼の魂胆がわりかしおもいきり透けてみえるので(彼にはマジでそういうかっこつけな側面が強烈にある! というか女子学生はそうでもないのだが、男子学生はじぶんの口語能力をやたらとほかにひけらかす一面がある——そしてそれが外教に対する排他的な独占欲にもつながっている——、そして結果的にクラスで浮いてしまうことがよくあるので、そういうのマジでやめろと老婆心ながらたびたび思う)、これは十中八九、bad excuseだろう。
 食後、となりにある(…)に立ち寄って、出前一丁と红枣のヨーグルトを購入。帰宅後、ひととき休憩してから「実弾(仮)」第四稿。13時半から16時半まで。シーン42をいろいろいじくる。ここはちょっとどうしたもんかなと思う。まるっと削除しても問題ないし、そうするべきかなとも思ったのだが、一部これはいいなという記述があるし、なによりあってもなくても全体の構造に大した影響を与えるようには思われないというこのシーンの立ち位置が、このシーンで描かれている場面の内容とちょっと響き合うところがある。だからそういう方向性で加筆修正をすすめていけば、これはある意味裏切りというか前言撤回みたいになってしまうかもしれないが、別の水準で非常に重要で意味深なシーンになるのではないか。

 夕飯を打包しに第五食堂へ。門前では軍事訓練中の新入生たちがまた隊列を組んで直立不動している。今日はおもてから野太い声の合唱がよくきこえてくる。軍歌とか、共産党関連の歌とか、あるいは一種のスローガンに節をつけたやつとか、そういうものを教官の指示にしたがって復唱しているのだと思う。管理人の(…)と(…)がそのそばにいて話しこんでいるふうだったので、Helloと軽くあいさつ。(…)がいつも着席している椅子のそばには巨大な荷物が三つほど積み重ねられていた。だれか引っ越してくるのかもしれないと思ったが、いやそうではなくてアレか、もしかして(…)さんが以前住んでいた部屋にあった不用品をまとめたものか?
 帰宅して打包したものを食す。食後、ベッドで30分ほど寝る。浴室でシャワーを浴び、ストレッチをし、コーヒーを淹れる。日本語学科の教師らが所属するグループチャットに新入生の名前の日本語読み一覧を送る。必要であればお使いください、と。それからきのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年9月15日づけの記事を読み返した。

 私はこの章を、カントの実践哲学の中枢にある駆動力(動因、または誘因)という概念を紹介することから始めたが、この駆動力とは、意志をその対象に向かわせる衝動に他ならない。確かにカントは、倫理的行為は駆動力を欠くと言っているが、同時に彼は、「真の駆動力」、純粋実践理性の「真の動因」なる概念を導入してもいる。そして、この意志の真の動因を駆動力の欠如としての純-形式として定義している。このように考えると、これはラカンにおける対象aという概念とあまり変わらない。対象aが表すものは、対象の不在あるいは欠如であり、欲望がそのまわりを循環するような虚空である。主体が要求していたものを手に入れ、身体的・心理的に満たされたとしても、欲望は欲望しつづける。それは要求が満たされた後でも消えない。主体がその要求の対象を手にした途端、まだ手にはしていないものを表す対象aが現れ、そして欲望の「真の」対象となるのである。
 ラカン精神分析における対象aと形式の関係については、欲望とは要求の純-形式であること、つまり要求からそれを満たすすべてのもの——「内容」——をとり除いた後に残るものであることを指摘すれば十分であろう。対象aとは形式を得た虚空である、と言ってもいい。ラカン曰く、「対象aは存在をもたない。対象aは要求の前提となる虚空である……。『それじゃない』[ザッツ・ノット・イット]という言葉が意味するのは、すべての要求の下に隠された欲望の中には、対象aを求める声以外の何物もないということである」。
(『リアルの倫理——カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳 p.33)

 そのまま今日づけの記事も書く。(…)大学で院生をしている(…)さんと明日会う約束になっているのでその件で昼間から断続的にやりとりしていたのだが、とりあえず明日の正午に第五食堂前で待ち合わせすることになった。メシは外で食べる。店は彼女が探しておくとのこと。長野の(…)さんからも微信が届く。テレビで月見バーガーのCMがやっていたといって動画が送られてきたのだが、そうか、彼女は向こうでテレビを見ているのか、ちょっと意外だなと思った。いや、意外でもなんでもないか、外国で生活するのであれば普通テレビくらい見るものなのか? しかしこちらは中国に来てからというもの一度もテレビを見ていない。見ていないどころか画面の電源すら入れたことがないし、というか到着後ほどなく(…)からオーストラリア土産としてもらったバンクシーの作品が印刷されたスカーフというか薄手のタオルというか布切れみたいなやつをポスターがわりにテレビの画面を覆うかたちで飾っている。(…)さんの話が出た。彼女はネパール人の先輩との関係がまずくて苦労しているみたいだというと、(…)さんのところにもネパール人の同僚がいるという。しかし外国人たちはみんなおたがいに優しく仲良くやっているという。日本人の同僚も外国人に優しい、しかし日本人同士はけっこうおたがいの仕事に対して厳しい、それにびっくりしたと続いた。それから日本人と外国人らがいっしょにテーブルを囲んで雑談している写真が送られてきた(笑顔の(…)さんが写りこんでいた)。「みんないつもいっしょに遊んでいます」「本当に楽しいです」とのこと。この分だと(…)さんと(…)さんの口語能力、めちゃくちゃ高くなっているんではないかという気がする。
 上の部屋の爆弾魔がいつにもましてうるさかったので、今日はひさしぶりに何度も何度も吠えた。なぜ夜中に椅子や机をアホみたいに遠慮なくひきずってみせるのか? それからあのクソ下品きわまりない女の笑い声! あたまにきたので何度もクローゼットをぶん殴るはめになってしまったし、もう少しでひさしぶりに椅子をもちあげて天井をガンガンやるところだった。マジで越していってほしい。玄関に塩撒いたろかいな。いや、買い占め騒動でいま塩は貴重品なのか?
 寝床に移動したのち、『蜜のように甘く』(イーディス・パールマン/古尾美登里・訳)の続き。最後まで読み終わった。冒頭二篇の「初心」と「夢の子どもたち」が良すぎたので、それ以降の作品は正直ちょっと肩透かしを喰ってしまった感があるのだが、それでもやっぱり高水準の作品がそろっていたとは思うし、ほかの著作も読んでみたいとは思った。しかしじぶんは英語圏の女性短編作家にやたらとハマるな。キャサリンマンスフィールドフラナリー・オコナー、そしてイーディス・パールマンか。