20230913

Long views depressed Parker. You look out into space like that and you begin to feel as if someone were after you, the navy or the government or religion.
(Flannery O’Connor “Parker’s Back”)



 アラームは10時に設定してあったのだが、またそれよりもはやく目が覚めた。そして二度寝に手こずる。ジジイやんけ。歯磨きと洗顔をすませて街着に着替える。きのうにひきつづき、今日もまたすずしい。ケッタに乗り、軍事訓練中の隊列を避けて(…)をおとずれ、食パンを三袋購入。帰宅して食し、コーヒーを飲み、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回する。2022年9月13日づけの記事を読み返したのだが、記事のあたまに引かれていた『リアルの倫理——カントとラカン』の一節と、2021年9月13日づけの記事から引かれていた『リハビリの夜』の一節とが、この日の記事を書いた一年前にはおそらく気づいていなかったと思うのだが、見事にリンクしていた。

ジャック・ラカンが時折指摘していたように、真の「理論的唯物論」は、「無からの創造」という契機を受け入れて初めて可能となる。ラカン自身の「行為への移行」という概念自体、このようなカントの論理を基礎としてはいなかったか? 「行為の名に値する唯一の行為は自殺である」とラカンが言う時、要点は他でもない、この行為の後、主体はもはや以前の主体ではないということ、主体は「再生」し、全く新しい主体になるということである。
(『リアルの倫理——カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳 p.26)

 歩行という健常者にはありふれた運動の学習一つとってみても、地面の起伏には無限のバリエーションがある。あらゆるバリエーションをあらかじめ内部モデルに作り込んでおき、予測的に歩行運動を制御するというのは現実的ではない。だから、そのつど地面との交渉によって即席の運動を立ち上げる「教師なし学習」の系列は、健常者においても常に無意識に行われている。
 ロボット学者の岡田は、「二足歩行ロボットの研究では、「静歩行」から「動歩行」へのシフトが一つのターニングポイントになった」と述べる。岡田は二つの歩行の違いについて、「静歩行とは、その重心を常に身体を支持する足底の範囲に保持しながらの歩行であり、その重心移動を確認し静的なバランスを保ちながら、他方の足を前に進めることをする。いっぽう動歩行では自ら静的なバランスを崩して倒れ込む。倒れ込みながらも、その大地から受ける抗力を使って、動的なバランスを維持する」と説明する。
(…)
 岡田は動歩行について、「自分の身体の繰り出す行為なのに、自分の中でその意味や役割を完結した形で与えられない。その行為に対して必ずしも最後まで自分で責任をもてない」という特徴を挙げ、これを「行為の意味の不定さ indeterminacy」と呼んでいる。私たち人間の身体はこの不定さを前にして、「行為の意味や価値を見いだすために、その意味や価値をいったんは環境に委ねる」ことをするという。この思い切って何かに自分の行為をゆだねてしまおうという、投機的ともいえる身体の振る舞いを岡田は entrusting behavior (=ゆだねる振る舞い:熊谷注)と呼び、いっぽう地面やモノなどがそうした投機的な行為を支え、意味や役割を与える役割を grounding (=支え、受け止め:熊谷注)と呼んでいる。そして「何気ない行為では、この「ゆだねる」「支える」という二つの振る舞いがいつもぴったりくっついている」のである。これは本書でいう、《ほどきつつ拾い合う関係》に相当する概念と言えるだろう。
 どんな運動でも、内部モデルを指針とする「教師あり学習」の側面と、その場その場で環境との《ほどきつつ拾い合う関係》に委ねる「教師なし学習」の側面の、両方から成り立っている。それなのに、なぜリハビリテーションの現場においてはおもに「教師あり学習」のみが強調されたのかという、シンプルな疑問が立ち上がる。
(熊谷晋一郎『リハビリの夜』 p.200-201)

 ほか、片岡一竹『新疾風怒濤精神分析用語事典』の一節(初出は2020年9月13日づけの記事)とそれに対する注釈もあった。

 このことをジュイッサンスの観点から考えてみると、倒錯者は去勢によるジュイッサンスの喪失を認めず、それを回復させようとする存在である。もちろん「想像的父を倒して剥奪された母のファルスを取り戻す」的な思考を持つ神経症者も、どこかで去勢を受け入れておらず、ジュイッサンスを回復することを欲望している。だが神経症者の場合も、去勢は抑圧されているだけであり、つまり是認はされている。だから神経症者の場合は「もう取り戻せないとは分かるけれど、でもあわよくば取り戻せるんじゃないか、それともだめかなぁ、どっちだろうか」というような葛藤のうちにあるわけだ(…)。他方倒錯者の場合はジュイッサンスの喪失はあり得ない話であり、「そんなわけないだろう、絶対に回復できるはずだ」とばかりに迷いなくジュイッサンスの道に突き進もうとする。
 そのため倒錯者はパートナーなどの他者を想定されたジュイッサンスの主体 Sujet upposé Jouissance として位置付ける。神経症者の場合は〈他者〉の欠如を是認しているため、パートナーはジュイッサンスを失った、欲望する主体となり、自分がその欠如を埋めようとする。だが倒錯者は〈他者〉におけるこの欠如を否認し、それを〈他者〉の不完全性(何かの間違いや不足)と捉えて、自分がジュイッサンスを回復させようとする。そのためパートナーは欠如のないジュイッサンスの主体となり、倒錯者はそのジュイッサンスの対象となろうとするのだ。
(片岡一竹『新疾風怒濤精神分析用語事典』p.137)

二段落目の「倒錯者は〈他者〉におけるこの欠如を否認し、それを〈他者〉の不完全性(何かの間違いや不足)と捉えて、自分がジュイッサンスを回復させようとする。そのためパートナーは欠如のないジュイッサンスの主体となり、倒錯者はそのジュイッサンスの対象となろうとするのだ」という箇所、「〈他者〉におけるこの欠如」を「世界精神の不在」「神の死」と読み替えると、倒錯者とはいわばそのような絶対的意味が存在するとしたうえで、その回復に自分自身を捧げるものというふうに理解することもできるのかもしれない。神経症者が、そのような絶対的意味が不在であることをしぶしぶ認めつつも、仮構した意味(ファンタスム)によって生き延びるのに対して、倒錯者はみずからをその素材(対象)として提示することで、絶対的意味の不在を否認する(しかるがゆえに倒錯者は〈父〉と共犯関係を取り結ぼうとする)。

 それから2013年9月13日づけの記事を「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。(…)が部屋を出ていった日。ものすごく清々しているのが書きぶりでわかる。

 今日づけの記事もここまで書く。時刻13時半。明日の日語会話(一)に備えて必要な資料を印刷したりデータをUSBメモリにインポートしたりする。14時半になったところでそのまま17時まで「実弾(仮)」第四稿執筆。プラス9枚で計792/1040枚。シーン41、片付く。すごくよくなったと思う。
 軍事訓練の学生たちは今日はバスケコートに集合してなにやらやっているようであるのだが、ときおりマイクを通して男性の声が響いてくる。まるでステージで司会進行を務める人間のような調子であるので、もしかしたら一種レクレーションじみたなにかをやっているのかもしれないなと思っていたのだが、そのうち、加油! 加油! という掛け声まで聞こえてきたので、なんや? 綱引きでもやっとんけ? と思った。しかし詳細は不明。
 夕飯は第五食堂で打包。学習委員の(…)さんに資料の印刷をお願いしたついでに、昨日添削した彼女の作文について、修正箇所がほとんどないくらいすばらしい出来栄えだったと褒めておいたのだが、(…)さんは作文には実は全然自信がないといった。というのも、高考で受験科目として選んだ日本語の作文問題が30点中11点しかとれなかったからだというのだが、高考の作文問題については採点基準がどうもあやしいというか、内容そのものとは無関係に、採点者の心象をよくするために字をきれいに書くべきであるみたいなアレが有効なテクニックとしてごくごく一般的に流通しているみたいな状況を以前(…)先生から聞いたことがあるし、まあ、正直あんまりあてにならないんじゃないかという気がする。あと、日本語の問題は英語にくらべると簡単であるというアレから、作文問題ではかなり渋めの点数がつけられがちであるという事情もあるらしい。
 メシを食う。食後、ひとときだらだら。四年生の(…)さんから質問が届く。「登り詰める」というのは自動詞であるのか他動詞であるのか、と。辞書アプリによって自動詞扱いされていたり他動詞扱いされていたりするというので、ちゃちゃっと調べてみる。「を+目的語」をとる動詞は基本的に他動詞である。ただし、「走る」「行く」「歩く」など移動に関連する動詞である場合、「を+場所」をともなって使用されるものの、これらについては自動詞であるという説明が見つかる。なーるほど、そういう仕組みになっているのね。「登り詰める」は「登る」と「詰める」の複合語みたいなものであるし、「登る」は当然自動詞であるので、その旨簡潔にまとめて説明する。といっても、自動詞と他動詞の分類にかかわる試験問題といえば、たいてい「壊す」と「壊れる」みたいなペアになっているやつとか、「(ドアを)開く」と「(店が)開く」のような自動詞も他動詞もおなじかたちをとるやつとか、そういうわかりやすいやつしか扱われないんではないかと思われるので、基本的にはそういう代表的なやつだけ押さえておいて、あとはあたまの片隅に移動にかかわる動詞のあれこれを補足程度にとどめておけばいいと思うよとアドバイスした。しかし学生に質問されてはじめて文法事項を確認してみずからも理解するという、こんな調子でいいんだろうかと思いながらもなんだかんだこの仕事を五年以上続けているわけで、(…)さんがよく言っていたけど、ほんと、世の中って思っていた以上に適当ででたらめなんだな。
 浴室でシャワーを浴びる。ストレッチと懸垂。途中、長野の(…)さんから微信。毎日お風呂に入るのは最高に気持ちいい、と。「私は今帰りたくないです」「日本で幸せです」と続いたので、これにはちょっとびっくりした。学生たちはみんなこちらを気遣ってか、現在日本にいる子たちもふくめて污染水wu1ran3shui3について言及しないわけだが、壁の内側の情報にどっぷり浸っている彼女らにとってはやっぱりその点が死ぬほど心配なはずで、だからたとえ多少のリップサービス(?)込みとしても、「私は今帰りたくないです」なんて絶対に言わないだろうと思ったわけなのだが、しかし(…)さんの同僚はけっこう多国籍だったはずであるし、もしかしたら壁の外の情報をそういう同僚らの口から聞いたりしたのかもしれない。いや、しかし最近の若い子たちはガチガチの愛国教育を受けている子たちばかりであるし、(…)さんなんて不良っ気のまったくない、ものすごくまっすぐまじめなタイプの子であるから、壁の外の情報を多少聞かされたところで中国政府がそれは間違いだといっているのだからきっと間違いですぐらいの信念を抱いていても全然不自然ではないのだが、いやしかし、おなじようなタイプにみえた(…)さんですら三年生、四年生、そして院生となるにつれて、なんというか、知的不良性ともいうべきものを身につけていったわけであるし(この国においては政府の意見に疑念を有すること自体が不良性であるのだ)、案外そういう変化があったのかもしれん。
 四年生の(…)さんからも微信。日本の漫画の一コマ。先生にそっくりなひとがいますといって画像を送ってくれたのだが、こちらがふだんかけているのとおなじようなめがねをかけ、こちらがふだんかぶっているのとおなじようなベレー帽をかぶり、さらにあごにひげをたくわえている男性美容師が客と会話しているシーンで、これはたしかにちょっと似ているなとおどろいた。そのまま少々やりとり。てっきり院試組だと思っていたのだが、彼女は大学院は受けずにこのまま卒業して働くつもりだという。クラスメイトたちもみんなじぶんが院試に参加すると思っているようだが、「私は先に働いてお金を貯めたいと思っています。そして仕事中に私の趣味を探してみます。実は私はあまり計画のない人です」とのことで、「でも、今の計画は頑張ってお金を稼いで、後で日本に研修に行くことですよ」と続いた。

 やりとりしながら今日づけの記事をここまで書くと、時刻は22時半をまわっていた。(…)さんは現在中学の日本語サークルで日本語教師をしているという。実習としてらしい。実習先が決まっていない学生もまだまだいるらしいなか、彼女ははやくも働きはじめているのだ。はじめて先生と呼ばれたとき、たいそうふしぎな気持ちになったという。
 せっかくなので彼女が送ってくれた漫画の画像をモーメンツに投稿。先週だったかに鹿児島から中国に帰国した(…)さんから突然「なんで!」という微信が届く。なにがだよと思ってたずねかえすと、じぶんも先生にそっくりなひとの画像を以前送ったのにそのときはモーメンツで紹介してくれなかったみたいなことをいうので、そんなことあったかと思ってやりとりをさかのぼってみると、大阪旅行中に見つけたというハゲのおっさんが変顔しているポスターかなにかの写真が出てきたので、アホと返信。(…)さんは三日間ほど武漢を旅行していたという。でも(…)のほうがおもしろいと続いたので、意外だなと思った。うちの学生に質問したらたぶん90%以上は武漢のほうがいいというだろう。いまは故郷の福建省にいるが、明日からは上海旅行の予定らしい。
 寝床に移動後、『小説の誕生』(保坂和志)の続きを少しだけ読み進めて就寝。