20230919

 一つの文を構成しようとするとき、まず初めに一言発せられるが、そのときにはまだ実際に、どのようなフレーズになるかは未定である。そこでは最終的な意味を予知しているにすぎない。そして、最後の単語が終わるときに初めて、最初に発せられた言葉の意味が確定する。これは句読点の遡及的効果である。一つのパロールが始まるとき、その意味はまだ固定しておらず、単にそれを予知しているだけなのだ。また一旦始まったフレーズを予知通りに終えるのは大変困難である。公衆を前にして話したことのある方は、この経験をお持ちであろう。言葉が予期した方向に進まず、最初の意図とは違ったことを言ってしまうこともしばしばある。この予知—遡及効果の間で、無意識の形成物の一つ、言い間違いが起こる。
(向井雅明『ラカン入門』より「第Ⅰ部第二章 言語構造」 p.60-61)



 8時45分にアラームで起床。歯磨きしながらニュースをチェック。トーストを食べるつもりだったが、食パンの賞味期限が切れていたので、かわりにこのあいだ(…)さんからもらったチーズのクラッカーを食った。
 半袖シャツ一枚で外に出る。今日の最高気温は37度。あいかわらずクソ暑い日々が続いておりマジでたいがいにしろよという気分になるわけだが、予報によれば、明日から雨降りで一気に気温が下がる。明日の予想最高気温は25度、明後日と明々後日は21度で、常人であればようやく秋が来るぞとかまえるのだろうが、(…)暮らしの長いこちらは理解している、こいつはフェイクだ、30度オーバーの日がこれから先もくりかえしくりかえしやってくるはずだ。
 第五食堂の売店でミネラルウォーターを購入し、第三教室棟に向かうわけだが、隊列を組んで道路に直接座りこんでいる軍服姿の新入生らが道の半分以上を常に占めており、そのせいで歩行者と自転車による渋滞が生じていてけっこう難儀した。C305へ行く。学生らはすでにそろっている。16度設定になっているエアコンの前に立って体を冷ます。そのようすをいつのまにか(…)さんが動画に撮っていたらしく、のちほど微信経由で届いた。
 10時から日語基礎写作(一)。「(…)」を返却したのち、「清書の方法」をグループチャットに送り、清書について説明。内容がちょっと複雑だったのか、(…)さんと(…)さんという、大学入学後に日本語を勉強しはじめた学生のなかではトップクラスに優秀なふたりからも再度の説明をもとめられたので、(1)間違いを修正してください(2)全文書きなおしてください(3)修正前の作文と修正後の作文を一緒に提出してください、と、要旨のみ箇条書きのかたちで板書したところ、それでうまく伝わったようだった。そういうわけで授業前半は清書。そして後半では「(…)」。前半も後半も続けて作文となると学生たちのテンションは下がるわけであるが、そのテンションを回復させるためにアホみたいな例文ばかり事前に用意しておいたので、それを使って趣旨説明。おおいに盛りあがる。学生らが「(…)」を書いているあいだ、こちらは教卓で「(…)」の清書をさらに添削。
 休憩時間中は、いつも最前列に座っている(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、それにエアコンの風を浴びるために教卓付近にやってきた(…)さんと(…)さんと雑談。(…)さんが(…)さんの背中をマッサージしているのを見て、きみたちは外でマッサージを受けたことがありますかとこちらがたずねたのをきっかけに、中国の按摩、針治療、お灸、あとはあの便所の詰まりを治すためのラバーカップの先端を透明にしたようなやつ——と書いたところで吸盤と表現すればいいのかといま思ったわけだが、その吸盤を使ったマッサージふくめてそういうもろもろについて話していたところ、先生これを知っていますかといって(…)さんが首をひっかいたり腕をつねったりするジェスチャーをしはじめた。指圧じゃないのかと思っていると、(…)さんが辞書アプリで調べた単語を見せてくれたのだが、まったくおぼえのない言葉だった。で、今度は(…)さんがネットで見つけた写真を見せてくれたのだが、キャミソールを着た女子の上半身の姿を写したものであるのだけれども、首元から胸元から露出している部分が真っ赤にそまっているもので、は? なんじゃこりゃ! とびっくりした。中国医学でそういう治療法があるのだという。つまり、指で皮膚をつまんで引っ張るということだと思うのだが、それにしてもかなり痛々しいというか、写真だけ見たら虐待やDVを受けたあとにしかみえない。これってどういうときにやるのとたずねると、どういう病気でもいいという返事。じゃあ風邪のときもしますかとたずねると、するという。ほか熱中症のときもするというので、きみたちもこの治療を受けたことはありますかとかさねてたずねると、(…)さんと(…)さんのふたりは経験ありとのこと。しかしかなり痛いらしい。
 あと、今日は(…)さんが欠席していたのだが、運転免許の試験を受けるというのが理由だった。こういうことはときどきある。中国では運転免許の試験を受けるためであれば授業を欠席しても問題ないというルールがあるようなのだ。ちなみに(…)さんは大学入学前にすでに免許を取得したらしく(そんな学生これまでいなかった)、だから「(…)」のなかで、趣味のひとつに運転を挙げていた。その(…)さんはといえば、韓国留学を目標にしており、日本語のみならず英語と韓国語を並行して勉強している優秀な女子学生であるのだが、今学期から日本語学科に移ってきた(…)さんに日本語を教える役目も担っているようだ((…)さんが作文にそう書いていた)。
 授業が終わったあとも(…)さんと(…)さんの江西省コンビは教室に居残りをして作文を書き続けた。特に(…)さんがやたらとてこずっていたようなので、優秀な彼女にしてはめずらしいなと思ったのだが、のちほど提出された用紙を見てみると、わりとしっかりした落書きが残されていて、中国で有名な羊と狼のアニメに出てくるキャラクターがこちらに似ているということでそのキャラクターをわざわざ描いてくれたようであるのだが、結果、そちらに時間がかかって作文そのものは規定数に満ちておらず、そのことを(…)さんはバカですとからかっていた。まあ、日頃めちゃくちゃ熱心であるし、成績もこちらがこれまで担当してきた授業にかぎっていえば毎回トップクラスであるし、なによりサボろうという目的あってのことではないので、注意はしない。というか、こういう機会がないとなかなか伝えることもないので、ふたりとも大学入学後に日本語を勉強しはじめたとはとても思えない、本当に優秀であるとしっかり褒めておいた。同様の激励は、授業中、(…)さんにもしておいたし、(…)くんにもしておいた(もっとも、このふたりは高校一年生から日本語を勉強しているわけだが)。(…)くんといえば、こちらが女子学生らとマッサージの話をしているとき、持ち前の独占欲を刺激されたのだろう、わざわざ最後尾の座席からわれわれのほうにやってきて話に加わったのだが、その際に、おもしろい画像がありますといってスマホを差し出してみせた。習近平イーロン・マスクとこちらの三人がそろって自撮りしているクソコラ画像だった。あのな、(…)くん、これマジでネットにあげるなよ、ぼくもう中国にいられなくなっちゃうから! といった。そういえば、(…)くんは昨日だったか一昨日だったか、モーメンツで彼女ができたと報告しており、そのことを今日の授業中にもいじったわけだが、相手はたぶん例の英語学科の女子だろうと思う。
 授業中、(…)さんのことがちょっと気になった。彼女はいつもほかのクラスメイトと離れたところにひとり着席する。授業開始直前まで教室に入ってこないし、遅刻することもときどきあるのだが、そういう行動のひとつひとつが、うつ病になって休学したり授業を欠席しがちになったりしたこれまでの学生の姿とけっこうだぶるのだ。こちらとの相性は別に悪くない。(…)さん同様、勉強をしている節はまったくないがこちらには妙になついている学生で、実際、先学期もいっしょに『すずめの戸締まり』を映画館に観に行っている(そういう意味で、少なくともあのときいっしょに映画館に行った、ほかのクラスメイトとの関係は悪くないのだと思う)。
 教室を出る。キャンパス内はアホみたいに混雑している。それで今日もまた(…)にいくことにした。火曜日のこの時間はもう(…)で昼食をとるというルールにしたほうがいい。あの混雑のなかで食堂に出向く気になどまったくなれない。店に入るなり、厨房のおばちゃんから、不要辣椒吗? と笑いながら問われた。もちろんだ。いつものように牛肉担担面をオーダー。本を持ってくるのを忘れたので、注文したものが出てくるまでのあいだ、二年生のグループチャットで軽く雑談。学生たちはやっぱり大混雑している食堂で昼飯を食っているようす。パクチーを山盛りにした牛肉担担面の写真をのちほど送ると、「香菜、ダメ!」「香菜、おいしい!」という意見でクラスがまっぷたつにわかれた。昼時なので(…)の客入りもぼちぼちあり、厨房のおばちゃんふたりも忙しそうにしていたので、空になったどんぶりを自分でカウンターまで運んでいったところ、めちゃくちゃ感謝された。日本鬼子みんながみんな抗日ドラマの悪役みたいなやつではないことを知ってくれ。
 帰宅。ペットボトルのアイスコーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回する。(…)さんの9月16日づけの記事、「みんなのうた」で流れていた玉置浩二の歌について、「思わず妻に、まるで詐欺師の誘い文句みたいな歌だなと言った。世間知らずの初心な相手に、ササっと巧みに近づいてきて、甘く囁くようないかにもな声色で上手いこと囁いて、相手をうっとりとさせて信じ込ませて、果ては喰いものにしてしまう…そんな詐欺師の声を作って下さいとAIにオーダーして出力されたかのような、いかにもな猫撫で声に自分には聴こえたのだった」という記述に続き、「ちなみに、ぼやっとしか知らないくせにこんなことを言うのもアレだがラッドウィンプスとか云う人の歌にも僕は同質の詐欺師性を感じるのだが、あれだとまだ手練手管の凄みには至ってないというか脇の甘さがかすかに感じられて、あれなら術中からの逃避を試みるにあたり、かろうじて付け入る余地のある気もするのだが」とあって、笑ってしまった。同時に、(…)さんはなにか腐すにしてもやっぱり上品だなと思った。こういうのがユーモアだよなとも思う。腐すにしても、それが本当にただ腐しているだけであるともいいがたいというか、記述の向かう先がガチガチに方向づけられているわけではないというか、読みようによってはそれを肯定的なものとして部分的には受け止めることができる、少なくともそういう余地もいちおうは残されている、つまり、そこには一種複雑なニュアンスがあるのだが(意味がガチガチに方向づけられていないというのはつまりそういうことだ)、ひるがえってじぶんの場合、なにかを腐すとなるとそれはもうおおぎょうに腐しまくるというか、そういうときのじぶんの手札には罵詈雑言しかほぼない感じで、たとえば、もう何年前になるのか忘れたが、やはり学生らに誘われるかたちで『天気の子』を映画館に観に行ったことがあり、映画自体は楽しめたのだがウェス・アンダーソンばりに連続でかかるRADWIMPSの音楽がこちらにはかなりしんどく、一時帰国中に(…)さんとその話になったとき、学生らはRADWIMPSの音楽が大好きみたいでテーマソングが流れ出すなり(…)さんなんていっしょに歌い出す始末だったけれどもこちらはマジできつく、あれだったら(…)小学校と(…)中学校の校歌がメドレーで流れているほうがどれだけいいかわかったもんじゃないみたいなことを言った記憶もあるのだけれども、そういうわかりやすく極端な腐し方がじぶんと物語とのある意味相性のあらわれであって、と、そんな話はまあどうでもいい。
 2022年9月19日づけの記事を読み返す。『リアルの倫理——カントとラカン』(アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳)については、一年前に通して読んだときよりも、抜き書きを部分的に読み返している一年後のいまのほうがずっと理解できる感じがする。2013年9月19日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。

 今日づけの記事もここまで書くと時刻は15時半だった。写作の課題添削にさっそくとりかかる。まずは「(…)」清書の添削残りをちゃちゃっと片付ける。そのまま「(…)」の添削にもとりかかるが、17時になったところで中断。第五食堂で打包。
 食後もまた添削。全員分を終えると20時だった。誤算がひとつあった。理由を告げる「なぜなら〜からです」という構文をどうやら二年生の大半はまだ理解していないらしい。具体的にいえば、「からです」の前には普通形の文がくるということを理解していない答案がほとんどだったわけだが、一年前ほぼ同じタイミングでやった当時二年生の授業ではそんなことなかったはずなので、これもひょっとしたら基礎日本語の担当が(…)先生から(…)先生に変更になった影響かもしれない。来年は課題を出す前にもうすこししっかりこのあたりの文法の説明をしたほうがよさそう。ちなみに「(…)」では任意の「教師および同級生」そして任意の「授業」について比喩を用いて短い文章を書くようにという指示を出しているのだが、(…)先生および彼女の担当する基礎日本語の授業を「地獄」と形容する学生が非常に多く、モーメンツでもたびたび基礎日本語の授業がつらいと漏らしている学生らの声を目にするわけであるが、なかなか評判が悪い。(…)先生はとにかく授業を進める速度がはやいらしい。そして学生をしょっちゅう当てる。それが学生らにとってかなり強烈なプレッシャーになっているようであるのだが、その(…)先生自身、前回こちらとサシで火鍋を食った際、あれは基礎日本語ではなく翻訳ないしは言語学の授業についてだったと思うが、学生から質問されたらどうしようといつもハラハラしている、授業中はいつもめちゃくちゃ緊張しているみたいなことを語っていて、このキャリアでもそんなふうに思うものなのかと驚いたのだったし、というかこれを書いているいまふと思ったのだが、授業を進める速度がはやいというのはもしかしたら学生らからの質問を受け付ける余地をなくすため、あるいは学生らのあたまが理解→疑問という経路をたどりきるまえに次の単元に進むためだったりするのかもしれない。しかしいまの二年生、けっこう見所のある学生が多い分、最重要科目である基礎日本語が(…)先生でないというのはかなり痛手であるなと思う。基礎日本語の担当教員がだれであるかというだけで、実際、学生のレベルはおおきく左右されるものだと思うから。
 作業中、三年生の(…)さんから微信。昨日だったか一昨日だったか忘れたが、女子寮にしょっちゅうやってくる野良猫のために餌を買ってやってあたえたという報告が写真付きで届いたばかりであるが、今日は今日でまた前回とは別の野良猫がやってきたので餌をあたえたという。女子寮の敷地内を根城としている野良猫は何匹かいるのだが、野良とはいいつつも半分は野良ではない、というのも学生らからこうしてしょっちゅうメシをあたえられているし、本当は禁止されているのだがときには内緒で部屋に招かれて一晩明かしたりしているからだ。
 午前中に四年生の(…)さんから作文の添削依頼が届いていたので、それもついでに片付けて返信した。途中、今度は二年生の(…)さんから微信。「背」という漢字の読み方について、テキストには「せ」と「せい」の二種類があったのだが、どちらが正しいかというので、どちらも読み方としては正しい、意味も変わらない、しかし一般的には「せ」と読むことのほうが多いと返信。「せい」の読みの代表的な例として「背比べ」という単語を教えようかとも思ったが、これにしたところで「せくらべ」でも間違いではないようであるし、余計な混乱を招くだけだろうから、それ以上の補足はやめておいた。今日の授業中、(…)さんがじぶんの趣味として車の運転と書いていた件をとりあげ、二年生の段階で免許を取得しているというのはかなりはやいのではないかと口にしたところ、大学入学前に取得したという返事があって、それはすごい、いままでそんな学生はいなかったと驚いたのだったが、その件について、先学期だったか先々学期だったかにもおなじ話題が出た、先生はそのときも驚いていた、でももう忘れてしまっていたようだというので、え? マジ? となった。まったく! おぼえ! とらん! もう四十歳近いので記憶力が悪いのです、すみません、と謝罪。
 シャワーを浴びる。ストレッチをする。『小説の誕生』(保坂和志)の続きを読み進める。(…)さんから微信。無事に広州にもどったという報告。こちらといっしょにメシを食った翌日は(…)に旅行にいき、野生の猿をたくさん見てきたという。いつも本当にありがとうございます、これからもお世話になりますというので、こちらこそどうもと受ける。何年も会っていなかったはずなのに、まるで授業終わりにいっしょに裏町でごはんを食べていた当時のような気分で楽しくおしゃべりすることができた、こちらとしても良い気分転換になったしたいそう愉快だったよ、と。
 プロテインを飲み、(…)さんにもらったクッキーを食す。日付の変わる前にははやばやとベッドにもぐりこんだのだが、ひさしぶりに上の部屋のカスに対してブチギレた。寝床に入る前からババアの声がうるせえなとイライラしていたのだが(マジで「叫ぶ」としかいいようのない声の張り上げ方で会話するのだ)、それについては耳栓でカバーできるので問題ない。ただ、こちらの寝床のちょうど真上の天井を、杖でコツコツ叩くような音が何度も何度も続いて、それは耳栓でカバーできない、骨伝導じゃないけれども天井から壁を伝ってこちらのあたまに直接響くようなやかましさがあり、それで寝入りばなをくじかれることが何度も何度もあった。うるせえ! と叫んでも伝わっているのかいないのかわからない、ようやくおさまったと思ったらまたはじまるみたいなことを何度もくりかえし、それで最終的に完全にあたまにきて、デスクの前に置いてある四本足の椅子を頭上にもちあげてベッドにたちあがり、その足で天井を三十回くらい連続で叩きつけてやった。それでもまた何度かコツコツする音がたった。マジであたまがおかしいんじゃないか? というかこんなふうに暴力的な訴えをするのではなく、ふつうにDeepLを使って抗議の手紙書いて渡したほうがはやいのか? そういうあれこれがあったせいでひさしぶりに就寝が2時をまわってしまった。死ねバカ! おまえには地獄すらなまぬるい!