20230920

 換喩的機制が隠喩的機制と区別される点は、隠喩がまだ明白に成立してはいないシニフィアンうしの関係から、新しい関係が生まれるのに対し、換喩は、シニフィアンの間ですでに存在する関係によって結びつき、隠喩のように違反と承認の減少は見られないということである。
(…)
 精神病患者の妄想においては、この換喩があからさまに露呈してくる。それに反し、隠喩的機能は失われてしまう。
(向井雅明『ラカン入門』より「第Ⅰ部第二章 言語構造」 p.73-74)



 10時起床。上の部屋のカスのせいで生活リズムが乱れてしまった。明日は朝一で授業があるというのに! 歯磨きしながらニュースをチェックする。今日の最高気温は22度。きのうから一気に15度も下がった。ありがたい話であるのだが、きのう淘宝で夏物の半袖シャツをポチってしまったじぶんはなかなか間が悪い。
 ワイヤレススピーカーが到着したという通知が届いていたので、Tシャツにテーラードジャケットを羽織り、13舎近くにある菜鸟快递へ。スピーカーの入ったダンボールを回収して外に出たところで、前から歩いてくる二年生の(…)くんとばったり遭遇。瑞幸咖啡にコーヒーを飲みにきたらしい。それでそろって店に入り、コーヒーを打包。今日はスピーチの練習はない。いま起きたばかりだというので、こちらも同様であると応じる。(…)くんはこちらがさきほどあとにした快递に行きたがった。どうやら元々の用件はそっちにあったようす。CDを買ったという。中国で有名な歌手のものだといったのち、林なんとかと中国語で名前を発音してみせるので、ああ、なんかモーメンツでしょっちゅう見かける名前だなと察した。CDを回収して歩き出す。水曜日の午前中は授業がないのかとたずねると、あるという返事。基礎日本語と聴解。ただ、彼はスピーチの練習をするという口実でサボったらしい。
 寮の前で別れる。部屋にもどり、さっそくスピーカーを起動する。思っていたよりも小ぶり。音質は以前使っていたBOGASINGのものとそんなに変わらないかもしれないが、こちらの耳はそれほどよくないのでわからん。(…)や(…)くんなどがきいたら、月とすっぽんやねえか! というかもしれない。本体に紐がついているのがちょっとありがたい。壁の高いところにフックを設けてそこにひっかけるようにすれば、上海の隔離ホテルで体験した天井のスピーカーから音楽がふりそそいでくるというあの最高にチルな環境をある程度再現できるかもしれない(残念ながらスピーカーを二台つなげてステレオにすることはできないようだけど)。ということで、これを書いているいま、さっそく、ずっと以前に買ったフックの残りをデスクの目の前にある壁に接着剤でくっつけた。日本のアパートだったら壁にフックをはりつけるなんてことは勝手にできんが、たぶんこっちでは問題ない。(…)が以前住んでいた部屋にしても(…)一家の部屋にしても、わりと好き放題しているようにみえるし(というか画鋲穴ひとつで文句をいわれる日本の常識のほうが異常なのだろう)。

 今日づけの記事をここまで書くと、時刻は14時半だった。明日の授業にそなえて必要な資料をまとめたのち、まだかなりはやい時間だったが(たしか16時前だったと思う)、第四食堂に出向いた。(…)に教えてもらった一品香でメシを食ってみようと思ったのだが、昼飯期と夕飯時のあいだだったからだろう、店が閉まっていたので、しかたなくとなりの店で辛くないやつだけ適当に見繕って打包した。
 帰宅して食す。仮眠をとり、浴室でシャワーを浴びてストレッチをしたのち、さて今日は書見の気分であるなと思ったのだが、執筆はそうでもないのだけれども読書はなぜか自室では集中できない。それで夕飯がはやいせいで小腹がすいていたこともあるし、また第四食堂で夜食を食ってそのついでに書見すればいいかと思った。前回第四食堂で書見したときは(というか(…)さんとおしゃべりしたときは)けっこう蒸し暑かったが、今日はすずしいだろうし、まずまず快適なんではないかという見通しもあった。
 それでケッタに乗って第四食堂へ。ハンバーガーを注文。ブツができあがるのを待っているあいだ、(…)くんからクラスのグループチャット経由でメッセージが届く。アメリカかヨーロッパの映画かドラマのワンシーンだと思うのだが、ひげもじゃでサングラスの男性の顔が映ったもので、(…)先生? というので、ぼくにはそんなにたくさん髪の毛はありませんと返信。
 ハンバーガーをもって食堂内へ。入り口にいちばん近い席を陣取る。夜風が通り抜けるおかげでかなりすずしい、というかTシャツ一枚では寒いくらいなので、ジャケットをはおったままハンバーガーをほおばり、『小説の誕生』(保坂和志)の続きをもりもり読み進める。なかなかいい環境。おそらくもう二週間もすれば今度は寒すぎて仕事にならないのだろうが、いまの時期はちょうどいい。しかしこんなふうに、金のかからない快適な読書ポイントを見つけるたびに、ひと目を気にせずそこをじぶんのテリトリーとする(食堂で本を読んでいる学生なんて実際これまで一度も見たことがない!)、こういうふるまいを平気でとってしまうのはやっぱり京都時代の名残だよなと思う。エアコンのなかった円町のあばら屋時代、本を持って近所のミドリ電化にいき、そこのベンチで書見していたところ、おなじ考えのホームレスらしい姿を見かけて、そりゃそうだよな、やっぱりそうするよなと思ったものだった(ちなみにそのミドリ電化は後日ベンチの置いてある一画のエアコンを切るようになった、そういうしょうもないことをするなバカ!)。
 21時ごろに食堂の照明がひとつふたつ落とされて、周囲がやや暗くなったので、潮時であるなと帰宅。二年生のグループチャットに明日教科書をもってくるようにという通知を送り、寝支度をととのえたのち、ベッドに横になってまた『小説の誕生』(保坂和志)の続き。名詞的な記述を避ける、というよりもむしろ名詞的に省略して経済的に記述してしまいたくなるところを、むしろ述語的に因数分解して書くという方針をあらためて自覚した。「実弾(仮)」には少なくともこの方針が必要。そうしないと、登場人物や舞台背景などのある意味キャッチーな部分だけが前景化し、クソつまらなくクソくだらなくなってしまう。
 部屋にいるあいだはずっとスピーカーで音楽を流していたのだが、やっぱりBOGASINGのものよりもずっといいわ。モーツァルト弦楽四重奏曲を流したときに、あ! 全然違う! と思った。