20230923

 コジェーブの解釈によると、ヘーゲル現象学は、意識の単純な対象体験から始まり、絶対知に至るまでの過程の叙述である。そのなかで欲望は支配者と奴隷の弁証法の動因として作用している。
 まず初めに意識は対象として疎外化され、その結果、対象とは自分自身であることに気づく。次に意識は自意識に移行するが、そこでは自意識は自省することのない客観的事象を対象とすることをやめ、自らと同一水準にある他の自意識を捉え、それによって承認を得ようとする。言い換えれば、一つの主体はもう一つの主体に主体として認められることによってのみ満足を得るようになるのである。ここから一つの弁証法が展開される。
 
⑴ 一つの主体が、もう一つの主体によって主体と認められることを欲する場合、認める立場にある主体も、やはり主体として同じような認知を求める。
⑵ そこで二個の主体の間で、互いに相手によって自らを認知させようとし、二つの欲望の間に衝突が起き、闘争が始まる。
⑶ この闘争は、どちらか一方が死んでしまうか、もしくは他の一方に譲ることにより解決をみる。
⑷ 一方が死んでしまった場合、残された死体は一人きりとなり、自らの承認に必要な他者を失ってしまう。これでは欲望の満足は得られず、彼は袋小路に陥る。
⑸ 闘争において死の可能性を垣間見るとき、主体は死によってすべてが失われてしまうことを了解する。そこにおいて、生に執着する者は、死の危険を冒してまで他者から認められることを断念し、他者に勝利を譲る。そして彼は勝者を己の支配者と認め、奴隷となり、勝者に仕える身分となる。
 奴隷は死を恐れて勝利を譲る。
 ゆえに彼の真の支配者は死である。
 
 ここで、支配者と奴隷に関する弁証法の最初の契機が終わることとなるが、問題は真に解決したわけではない。ここでまた新しい矛盾が発生し、それが次の契機へと移行する動因となるが、それはどういった性格のものであろうか。
 勝利を収めた支配者は、生に執着し、相手に勝利を譲ってしまった奴隷に認められることになるが、奴隷は死を恐れる卑しい自意識であって、そのような相手による承認は、支配者にとって決して真の承認とはならない。彼は欲望の満足が得られないまま、奴隷の貢ぎものを消費しながら、無為に時を過ごす。一方、奴隷は支配者に仕える身となるのであって、彼は労働により、自然を改造し、生産物を得、それにより支配者を喜ばそうとする。彼は自らの生産物を通して支配者に認められることで満足を得る。
 勝者は不満のなかに取り残され、敗者のみ欲望の満たされる道が開かれるというのが、この弁証法の結果新しく構成される矛盾である。だが、奴隷にとって、このような満足は自意識の地位から脱落した末に得られるもので、真の満足とはいえない。奴隷に残された道は、自ら解放の道である。
 彼はその道を追って、次々と現象学の諸契機をさまよい歩くことになる。
(向井雅明『ラカン入門』より「第Ⅰ部第三章 欲望」 p.82-84)



 11時前に起きた。歯磨きしながらニュースをチェック。三年生の(…)さんから日語会話(一)の履修登録ができたという報告がとどいたので、授業には出席しなくてもいい、テストさえ受ければ問題ないと返信する。
 11年前にタイで買ったぺらぺらの長袖をひさしぶりに着た。第四食堂のハンバーガー店で打包。注文したものができあがるまでのあいだ、店のそばでひとり突っ立って本を読むわけだが、やっぱり目立つよなとあらためて思った。日本だったらまだそこまでめずらしい光景ではないと思うのだが、中国では外で本を読んでいる姿を見ることがまずない。バスでも電車でもカフェでもみんなスマホだ(もちろん、スマホで小説や論文を読んでいる人間は相応数いるとは思うが)。
 帰宅して食す。食後のコーヒーを飲みながら、きのうづけの記事の続きを書いて投稿する。途中、三年生の(…)さんから微信。最近ほとんど毎日のように連絡があるわけだが、例のセブンイレブンのオープンが週明けの月曜日、つまり、25日であるらしいとの報告。初日は割引もあるだろうし、おそらく店内が大混雑するだろうという。中国のコンビニは、というか(…)のセブンイレブンやローソンは、どれもこれも日本の店舗の三分の一くらい、いや下手をすれば五分の一くらいしかスペースがなくたいそうせまいので、あそこにたとえば軍事訓練を終えた新入生らが殺到することでもあれば、なかなかえらいことになるんではないか。
 記事を投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年9月23日づけの記事を読み返す。「「ニュー幹線はビッグチャンス」 ルー大柴さん(68) ロング崎への思い語る」というタイトルの記事(https://news.yahoo.co.jp/articles/273b1d008a455e610d2706eaa8a0e417e14771b7)が引かれていた。何回読んでも笑うわ。

 ロング崎は異国情緒豊かで、出島があったり、グラバー園があったりして、非常に好きな街です。欠点がないですね。港町っていう感じで、僕が好きな横浜と似通った部分があって、チャイナタウンとかも嫌いじゃないし。観光地としてすごくいい。父方の祖父が島原出身なので「第2のカントリー」と言うとおかしいかもしれないけど、ルーのルーツです。
 そこに、ニュー幹線が武雄スパ、嬉野スパ、ニュービッグ村、諫アーリーを通って来ることで、お客さんがいっぱい増えると思う。ロング崎はベリーフェイマス、つまり有名なんだけど、武雄スパや嬉野スパのことは僕は知らなかったんだよね。そういうところも、観光客が増えるんじゃないかな。
 テレビ番組で諫アーリーやビッグ村にも何回か行ったんだけど、すごくビューがきれいで、大村湾なんてすてきじゃないですか。お魚もおいしいし。(新幹線開業は)ビッグチャンスだと思いますよ。
 ロング崎は外国の観光客も多いし、元々住んでいた外国人の方もいらっしゃる。そういう文化があると、私はチャーミングだなと思う。「ザ日本」っていう京都みたいじゃなくて、いろんな文化がトゥギャザーになって、楽しめる街になってほしい。
 (開業を機に)やっぱり活性化してほしいね。経済的にもどんどんピープルが豊かになる。街のことを知ってもらう。それがインポータント、重要だね。
 番組収録のために月1回、ロング崎に来るのが非常に楽しいんですよ。どきどきするし、みんな優しいし。割と静かな方も多いようですけど。せっかくニュー幹線ができて、メニメニピープルが来るんだから、やっぱりスマイルフェイスで接して、明るい街にしていただきたい。ぜひみんなで楽しく発展していく街になるようトゥギャザーしましょう。

 あと、この日は風俗ホテル事件のあった日だった。この夜は本当にたくさん笑った。楽しかった。

 手ぶらで店を出る。以前三人でおとずれた果物店が横断歩道を渡った先にあるのでそこにも立ち寄る。ドラゴンフルーツや梨などを試食をする。しかし果物は買わない。代わりにスタバのロゴマークが記されているラテを買う。(…)さんはレモンをふたつ買う。(…)さんは何も買わない。会計をすませて外に出る。腹の調子がおかしくなる。脂身のせいかもしれない。これ、大学まで絶対もたないぞ、と思う。というか下手に我慢すれば、途中で漏らしてしまうことになるんではないか? そういう懸念があったので、ちょっとお腹痛いんだけど、うんこしたいんだけど、どっかトイレない? とふたりにたずねる。ふたりとも知らないという。どこかで借りることはできないのとたずねると、わからないという。さっきの果物店は? とたずねると、やはりわからないの一点張りで、いや、じゃあもし街中で腹痛に見舞われたとき中国人はどうするんだよと思う。とりあえず横断歩道を渡る。そのまま行けるところまでと思ったが、いやこの腹痛は下痢のやつだから下手に我慢するとやばい、来るときは一気に来るはずだと察し、もうその辺にある店に入ろうと考える。さっきのスーパー、銀行、ホテル。ホテルしかないな! と思う。見るからに高級な店舗。われわれ三人が入るのは相当場違いであるが、選り好みしている場合ではない。そういうわけでやや及び腰の学生ふたりを引き連れて突入。フロントの女性に学生が事情を話す。二階にトイレがあるという返事。助かった。それで三人してエレベーターに乗り込む。
 二階に到着する。ドアが開く。だだっぴろい高級感あふれるロビーが目の前にあらわれる。そしてそのロビーに露出度の高い服装の若い女性がおよそ20人ほどずらりと横一列になってエレベーターからあらわれるわれわれを迎える。唖然とする。スーツのボーイがあらわれる。(…)さんが見るからに緊張した様子で事情を話す。ボーイが先導してトイレまで案内してくれる。背が高い。中国的な基準でいえば、かなりのイケメンの部類だと思う。さっきの女性らも含めて、これどう考えても普通のホテルではないよなと思う。広い廊下の左右にそれぞれ部屋がある。部屋の前には「VIP」の看板がある。廊下ではかなりうるさい音楽が流れっぱなしになっている。部屋でなにがおこわれていてもその声が外に漏れることはたぶんない。トイレに到着する。個室が四つか五つあるが、男女共用らしい。先に入ってクソを垂れる。出る。次に(…)さんが入る。待っているあいだ、(…)さんにここってもしかしてすごい高級店なの? とたずねる。わからないと(…)さんがいう。(…)さんが戻ってきたところでエレベーターホールまで引き返す。途中で一列になって歩く若い女性の集団とすれちがう。どう見ても水商売。コンパニオンの雰囲気がぷんぷんする。エレベーターホールではあいかわらず同種の女性が横一列になって立っている。逃げるようにエレベーターの個室に入り込む。扉が閉まったところで、女子ふたりが声をひそめながら興奮した早口でぎゃーぎゃーいいはじめる。悪い店! 悪い店! というので、あ、やっぱりそういうことなんだな、と察する。
 ホテルの外に出る。そこでようやく息がつけるとばかりにふたりがぎゃーぎゃー本気で騒ぎはじめる。噂では聞いたことがあった、友達から聞いた話としても知っていた、しかし実物を見るのは初めてだと(…)さんがいう。横一列の女子たち、やはり風俗嬢であるようだ。たぶんエレベーターで二階に案内された男性客が、あの中からお気に入りの子をその場でピックアップして部屋に連れこむシステムになっているのだろう。ホテルの外観からはまったくそういう店だとわからなかったとふたりは言った。受付の女性も断ってくれたらいいのにとこちらも思った。中国はでもそういうのは禁止なんでしょうというと、政治家や警察にお金を払っているのだろうという。ああいう店ってでもどうやって情報を得るわけ? インターネットで調べるの? とたずねると、インターネットでもたぶん情報はない、紹介だと思うという返事。それにしても(…)のような田舎で、それも大学に近いこのような場所で、あそこまでの規模の風俗店があるとは思いもよらなかった。(…)や上海ならまだわかるけれどもというと、ふたりとも心底から同意した様子。とにかくふたりは恥ずかしくて気まずくて仕方なかった様子。ボーイのひともやたらとかっこよかったよねというと、たぶん女性客は彼を指名することもできるとふたり。ゲイもいけるかもしれないという。ほかに男性はいるのかなというと、奥のほうに隠れていると思うというので、あ、もしかして三階が男性のそろっている場所なんじゃないの? というと、絶対そうだとふたりは納得した様子。こんなレアな経験できるとは思わなかった! こんな面白エピソード滅多にないぞ! と興奮するこちらをよそに、中国内陸の田舎で育ったふたりにはやはり相当刺激が強かったのか、とにかくああいう場に足を踏み入れてしまったことをひたすら恥ずかしがっており、今度の授業でこの話をしようよ! と言っても全然気乗りせず、最終的には「先生! もううんこするな! 馬鹿!」と言われた。しかし、ボーイの男性にじぶんたちはただトイレを借りにきただけだと告げたときの(…)さんの真似をしたときは、ふたりとも爆笑した。あんな滑稽な場面はまずない。

 それから以下は2020年9月23日づけの記事より。

 精神分析が基本的に確認するところでは、文化的な価値や理想は、幻想とよばれる、主体が自らを支えるための本源的な作用の、一形態である。幻想とは、主体が自己、あるいは自己と世界の関係についてもつ、一つの固定した「良い」イマージュ(像)であり、また、そのイマージュを維持し続ける作用である。このイマージュは、主に言語を通じて形成される自己や世界についての現実認識とは別の場に起源をもち、過酷な現実認識から主体を防衛する。つまり文化的な価値や理想は、本質的に意識や言語とは別の領野、すなわち主体の無意識的・原始的な部分に根ざしており、単にイデオロギー的・社会的なものではない。
 幻想を基礎づける、この無意識的な領野は、フロイト以来、基本的に性的な領野として把握されてきた。ただし精神分析で「性的」というときには、身体諸器官を媒介とした、母との原初的=性的な対象関係も重要な一部である。簡単にいえば、幻想とは、母との密着した関係に支えられ、そこでの充足を再現しようとするような運動だといえるだろう。例えば、人が何かを考え、それを語るとき、厳密に意味や了解可能性の観点から見れば、相手にそれが伝わっているかどうかは確かでないにも関わらず、常に相手の〈好意〉を無意識で前提とし、伝わったつもりになっている。これがまさに「幻想」である。そして一人で考え、行動する際にも、人は必ず、それを認知し、行為を持ち、迎え入れるような抽象的な他者(のようなもの)を想定している。この他者—幻想の根底にあるのが、母との原初的関係であり、それは意識や意味以前の身体的—性的な関係で、幻想はその関係を再現し続けることによって、主体の意識と存在を「裏側から」ずっと支える。そしてこの幻想を、明示的な意味—意識の領野に翻訳したものが、狭義の文化的な価値や理想である。
 したがって、このような精神分析的知見からすれば、例えば、幻想を単に蒙昧なものとする啓蒙主義イデオロギーは、幻想を支える意識以前の力動を看過するゆえに、全く非科学的である。幻想は、啓蒙という意識の水準では解体できないし、そもそも啓蒙とは、意識の水準にすべてを包摂しようとする抑圧の作用であり、それ自体一つの幻想である。他方、すべての知—科学を幻想とみなすようなポストモダンイデオロギーも、同様に批判されるだろう。すなわち意識—言説と無意識の力動の関係を無視する限りで、このイデオロギー近代主義の一類型である。ただし啓蒙主義が性的力動をいわば神経症的に抑圧し、その結果、無意識の力動は科学や政治的改革に向かう欲望=力として、意識の中に症候的に再現されるのに対し、ポストモダンでは性的力動はより根底的に、いわば分裂病的に意識から排除される。そのため意識は、科学的・政治的認識を支える外部世界から完全に切断され、ある種の言説(意識)万能論によって科学さえも不可能となる。これは幻想の最も高度な自己完結的状態である。
樫村愛子ラカン社会学入門』より「性的他者とは何か」p.45-47)

 2013年9月23日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。それから今日づけの記事もここまで書くと、時刻は15時半だった。

 「(…)」の文集作成にとりかかった。添削済みの作文をあらためてチェックし、ひとりにつき二篇ずつピックアップして手打ちしていく。めんどうくさい仕事であるし、こうして作成した文集にいったい何人の学生が目を通すのかも不明であるが、こういうときだけは手垢のつきまくった投げ便通信の比喩に都合よくすがりたい。
 第五食堂で夕飯を打包。食後も文集作成の続き。ひとまず片付きはしたが、ここからさらに授業中に紹介してツッコミをいれる文章を選別し、その紹介の段取りを考える作業も必要になるわけだが、それは翌日にまわすことにした。今日はここまでだ。
 シャワーを浴びる。ストレッチをする。その後、「実弾(仮)」第四稿執筆。21時前から23時半まで。シーン44を途中まで進める。今日はダメだった。全然集中できなかった。BGMも定まらないし、学生らから続々連絡が来るしで、けっこうイライラした。やっぱり作業中はすぐに返信しなくてオッケーということにしようかな。
 連絡があったのはまず(…)くん。(…)くんと一緒に火鍋を食っている写真が送られてきた。ふたりともいまは西安であるし、それでようやく顔合わせがかなったという展開なのだろう。二年生の(…)くんからは一緒にゲームをしないかという誘い。『Left 4 Dead 2』というゲーム。ググってみたが、ゾンビ系のFPSっぽい。悪いけどゲームには興味がないと断る。ゲームを一緒にするひとが見つからないので(…)くんの案で先生を誘ってみることにしたのだとあったので、ややげんなりする。(…)くん、ちょっとかつての(…)さんみたいになってきているんではないか。つまり、こちらが普段よろこんで彼らの遊びに付き合っているものとなんの疑いもなく思いこんでいるのではないかということで、こちらとしては学生らからの誘いを受けるのも(本人らにそう直接告げてはいないが)仕事の一環と見なしている。じぶんの読み書きの時間を割いてまでいっしょにだべりたいという気持ちは正直まったくないのだが、そういうこちらの内心にまったく気づいていないのは当然にしても、そこに対する疑いや遠慮のようなものが全然ないのではないかという印象を最近はちょくちょく受ける。もうちょっとだけ突き放したほうがいいかもしれない。突き放すというのはつまり、こちらが日頃忙しくしているということをちゃんと印象づけておいたほうがいい、そうしてこちらになにかしらの誘いをかけるときの敷居をもう少し高くしておいたほうがいいというわけだが、独占欲の強い彼のような学生というのはそういうところのあつかいがちょっとむずかしい。仮に一時的に遠慮するようになったとしても、その間にこちらがほかの学生といっしょに過ごしていたことを知ると、その分を取り返そうとせんばかりにまた距離を詰めてくる、そういう一種の嫉妬が見え隠れする瞬間ほどげんなりすることはない。
 そして最後に鹿児島の(…)さんからも微信。卒論代わりの翻訳について、宮下菜都という作家の『緑の庭で寝ころんで』を対象に選んだという報告。しかしおなじグループのほかのメンバーがこれは簡単すぎるのではないかと意見しているというので、ググってみたところ、文学界新人賞で佳作をとってデビューしている作家で、比較的最近の著作は本屋大賞直木賞の候補になっているようであるからいまは純文学をフィールドとしているわけではないのだろうけど、『緑の庭で寝ころんで』は育児エッセイらしくて、となると難しすぎるわけでもなければ簡単すぎるわけでもない、(…)さんの能力にちょうど見合ったテキストなんではないかと思うのだが、そもそもクラスメイトらがなぜそのチョイスを問題ありと見ているのかが理解できない。(…)さん曰く、作品のタイトルからして児童文学作品だとみんな思っているのかもしれないというのだが、いや周囲がどう判断しようが(…)さん自身がその本を読んで卒論でとりあげる対象としてもふさわしいと判断したのであるからタイトルしか知らないクラスメイトになにを言われようが気にする必要はないという話であるし、それに過去の卒業生のなかには児童文学をチョイスした学生も多数いるしそれで問題ありとなったと聞いたことはまったくない。だからその旨告げた。正直、なにをそんなに気にしているのか、よくわからない。
 その後は寝床に移動して就寝。週末なのでクソうるさいババアが階段をあがって上の部屋に入っていく気配をひさしぶりに察知したのだが、しかしここ数日はそのババアのやってこない日であるにもかかわらず上の部屋でババアがとんでもなくでかい声でさけびまくっているのがしょっちゅう聞こえてくるので、もしかしたらこれらのババアは別々のババアなのかもしれない。そして上の部屋のバカはあいかわらず椅子や机をひきずりまくる。こちらの神経をかきむしる騒音おばさんの末裔どもは、だからもしかすると三人いるかもしれないわけで、ひとりは椅子や机を夜中にもかかわらずひきずるアホで、こいつはほぼ常時真上の部屋にいる。たぶんこちらが「爆弾魔」と名付けた中国人男性がその正体。で、それとは別に、ここ数日、マジで毎日のように夜中にクソでかい声で叫ぶようにして男と会話しているババアがいるのだが、こちらはこいつのことをずっと「爆弾魔」の恋人だと思っていたのだが、そうではないかもしれない、これまでずっと真上の部屋にいる人間であると思いこんでいたわけだが、もしかしたら全然遠い部屋にいる住人なのかもしれない、声がでかすぎるせいですぐ上の部屋にいるとこちらが勘違いしているだけかもしれない。仮にこいつを「ババア(呪)」とする。(呪)としたのは、夜中にこいつが張りあげる狂ったような声色や泣き声というのが東南アジアのシャーマンすなわち呪術師を思わせるからだ。で、この「ババア(呪)」と同一人物であるのか別人物であるのかわからないもうひとりのババアがいて、こいつが「ババア(週末)」だ。週末の夜になるとかならずクソでかい声で男と会話しながら階段をあがってこちらの上の部屋にいくタイプのC級妖魔で、そのときいっしょに階段をあがっていくのが「爆弾魔」であるのか別の男であるのか、正直よくわからない。上には部屋がふたつあるので、真上の部屋と斜め上の部屋には別々の男が住んでいる可能性は大いにある。
 と、ここまで書いたところで、なんでこんなことまでいちいち日記に書かなあかんねんとなった。アホらし。もうやめや、やめ。椅子の脚で天井ぶったたいとるおれ含めてこの棟に住んどるやつは全員アホ。全員ホブゴブリン。全員沼インプ。十中八九、ろくな死に方せんわ。来世はそろって便所コオロギやっとけ。