20230924

 一つの言表が命令形で行われるとしよう。例えば「ミルクを飲め」である。この言表を聞く人には、単にミルクを飲むことだけが要求されているのであって、言表の彼方に何があるかは問題にならない。命令形ではそれを受け取る者に対し、何の疑問ももたずにそれに従うことのみを要求する。命令の次元は言表にすべて表される。「ミルクを飲め」は欲求を満たすに必要かつ十分な言表としてあるもので、その内容は、その言表と完全に一致する。ゆえに、命令形においては、いつ、誰が発するかは問題ではなく、主体的要因は捨て去られる。
 命令形の反対側に位置する言表形態は、疑問形である。
 「何が欲しいか?」と問いかける場合、言表の内容は、言表の次元ではなく、言表行為の次元に置かれる。疑問形においては、問いかけの言表とそれに含まれる欲望との分離がなされる。「何が欲しいか」の問いかけに対しては、その言表を発する行為の次元において解答が捜される。——「彼は私に、何を欲するか、と尋ねるが、一体、私に対して何を欲してこのように問いかけるのだろう」——ゆえに疑問形においてその内容は空であり、言表行為だけが問題になる。
 言表行為とは言表の彼方の次元を指す。それは通常の言表には表せない言表の残滓、または言表に対する過剰であり、そこには主体的次元が表れる。このように言表行為と言表のギャップは疑問形においては最大となり、命令形において最小となる。そしてこの両極端の間に様々な文法的様態を配列することができる。
(向井雅明『ラカン入門』より「第Ⅰ部第三章 欲望」 p.124-125)



 10時半にアラームで起きた。歯磨きしながらニュースをチェック。Appleから荷物が無事近所の快递に到着したというメールが届いていた。MacBook Airではない。USBの変換アダプタ。授業で使う資料をまとめたUSBメモリを教室に持っていく必要があるし、大学から配給されているプリンターは有線の古いやつであるし、こういうものもたぶん必要になるだろうと思ってMacBook Airといっしょにポチッたのだが、こいつだけ先に配送されたかたち。
 それでさっそくケッタに乗って快递へ。(…)楼の半地下にある顺丰快递。ここはキャンパス内にある快递で唯一セルフサービスを導入していない。カウンターにいるスタッフにメールを見せると、そこに記されているのとおなじ番号のシールが貼られた荷物をスタッフが奥から持ってきてくれるというむかしながらのスタイルで運営されているのだが、わりと高価な買い物をするとここの快递で荷物を受け取ることになるケースが多い気がする。セルフじゃない分、パクられにくいからだろうか?
 第五食堂に立ち寄る。中華(…)さんが先学期勤めていた店のとなりにある店でひさしぶりに打包する。今学期はじめての顔合わせとなるなじみのおばちゃんとも軽くあいさつ。
 帰宅して食す。食後のコーヒーを用意し、Robert Glasper Experimentばかり流しながら、きのうづけの記事の続きを書いて投稿する。iPadでもこうして日記を書いたり執筆したり授業準備を進めたりすることができなくはないのだが、やっぱり作業速度にだいぶ差が出るなという印象を受ける。VPNとの相性もあるのだろうが、ブラウザの展開が遅いし、Pagesにしてもファイルをひとつずつしかひらくことができないので数種類のファイルを行ったり来たりする必要のあるこちらにとってはかなり使い勝手が悪く感じてしまう。あと、BluetoothWi-FiVPNを常時オンにしていると、おそろしいはやさで充電が減っていくという問題もある。
 ウェブ各所を巡回し、2022年9月24日づけの記事を読み返す。ファラオ・サンダースが死んだ日。以下は2020年9月24日づけの記事より。

 まず、フロイト (1927)以来の考えによると、文化とは、理想や力や善といった何らかの価値(=幻想的対象)を措定し、それを軸に共同体や家族の現実的関係を糾合し再生産していくものだが、文化の根幹をなすこの価値や理想は、性的なもの(性的充足、欲望)に源泉をもち、それを現実的な支えとしている。つまりこの価値や理想とは、意識の水準のみで構成されるものでなく、性的なものが、自らを表現していく一つの過程である。価値や理想をめざす幻想の働きは、無意識の性的なものが意識(文化)の中で、様々のねじれや抑圧をはらみつつ「再現」されていく、一つの能動的でポジティブな力動なのである。
 この「再現」という作用の中身を、まず精神分析の症例に沿ってみてみよう。例えばフロイトの見解では、ヒステリー神経症の女性(症例ドラ、フロイト1905)が聖母像の前で敬虔な感情にうたれ、恍惚となり、神を理想化する時、実は彼女は抑圧された性的欲望を、意識することなく感じ満足している。また、謹厳な紳士が、自らに律した厳しい「資本主義の精神」の中で快楽を永遠に延期して仕事に励む時、そこでは強迫神経症のメカニズムが働いており、すなわち彼はかつて愛と性的欲望を断念せざるをえなかった、という外傷をもち、その断念を日々の奮励を通じて反復し、しかもその反復において、断念された欲望を無意識的に再現し再活性化し、ある種の満足を受け取っている。さらに、精神分析がより力を込めて強調する所では、これら性的欲望の抑圧は、その根幹に幼児期の対象関係の問題があり、個々の恋愛関係の失敗からだけでは帰結しない。すなわち母との原初的—身体的な充足関係が暴力的に打ち切られて、他者と世界への敵意が無意識に構成され、あるいは母が密着しすぎて母の力への恐怖が培われるといったことが、成人後の性的関係(およびすべての社会行動)に大きな力を及ぼすのである。
 つまり、文化の中で再現されようとする性的なものとは、正確には幼児期の対象関係、母と主体との身体的—性的関係である。分節された意識以前の場にある幼児にとって、母とは絶対的な充足対象であり、これは言語で分節された意識の場では、不可能なものである(どんな素晴らしいものも意識の場では原理的に絶対たりえず、部分的な快楽でしかなく、いずれは飽きられ、失墜する)。そこで絶対的対象は、文化(意識)の中で幻想的な対象へと書きかえられ、宗教的な至福やイデオロギー的理想、あるいは素晴らしい生活や理想的な異性、といったものとなる。
 しかしここで重要なのは、理想化(幻想化)というメカニズムが働く際は、すでに幼児期の水準で抑圧が駆動していることである。つまり、完全な母との幸福な一体化、というのは、厳密にはそれ自体神話であり、実際の幼児は、常に母への欲求不満の危機にさらされ、母とは最初から部分的で不完全なものへと、絶えず失墜する危険をもっている。これは他者に向かう主体の本源的能動性(欲望)を、攻撃的な衝動に高め、時には破壊的敵意にまで組織化する。もちろんこの攻撃性は、母が与えてくれる現実的充足の中で、不断に良い母の像へ回収され、統合される。しかし豊かな記憶容量を持つ人間の子どもにとって、いったん形成された攻撃性は、不安や敵意と結びついた個々の表象として無意識に記載され、他方では消去—回収不能なものとして、抑圧され無意識に残っていく。そしてこの攻撃性、または常に生じる欲望と現実との亀裂を補うべく、充足を与えてくれた母の現実的記憶が、すでに幼児期から理想化された母親像として恒存的なものに書きかえられ、現実の彼方に設立—固定される。さらに、不完全な現実の母の彼方に理想的な父の力が想定されて、それが自我像として内化される。自我とは理想化された他者=力への一体化であり、それは常に抑圧を経由している。
 フロイトラカンによれば、この神経症的なメカニズムは、文化を普遍的に規定する(例えば前近代には抑圧がないと思うのは近代主義的偏見である)。つまり、対象関係に必然的に付随する亀裂が主体の能動性を攻撃的に組織化し、それが抑圧されると同時にさらに完全な想像的他者=力が措定され、希求され、しかもその力が価値=理想像として内化され、自我のもととなっていくこの過程は、別に否定的—病的(特殊神経症的)なものではない。例えば分裂病者を見ればわかるように、抑圧と理想化ができなければ、世界は圧倒的に害悪に満ちたものとなり、主体は他者—世界に働きかけ、それを現実に改変していく手がかりをなくしてしまう。この過程は文化が生成するための、不可欠でポジティヴなものなのである。
 このように、文化の中の幻想的対象は、幼児期の充足の再現物でありつつも、他方では最初から絶対的充足(の不可能性)の想像的代理物であり、充足の現実的欠落を隠蔽し、抑圧する作用をもつ。幻想には、この抑圧の働きが最初から付帯するので、価値や力(=幻想的対象)が幼児期の原初的満足(および不満足)に源泉をもち、それが無意識とつながっていることは、後々、意識ではわからなくなってしまう。つまり人は幻想的なものを、それ自体で自立した価値と考え、自らの現実的、身体的な満足に発するものとは認めなくなる。そして意識の中で自立した、この幻想—価値は、常にイデオロギー的観念や、強迫的行為となって、現実認識を歪める力を主体に行使する。主体の原初的—身体的場に発する幻想は、科学や芸術へと人を向かわせる能動的な要因であるとともに、常に無意識に発する正体不明な力(攻撃性—理想化)とつながって、認識を阻害する作用ももつ。例えば昨今、人が上九一色村で対面した化学プランとは、そこに傾けられた努力と、その目的(=価値)の奇想天外さにおいて、等しく感動的なものだったが、この両面性は文化に普遍的について回る。この例の場合、幻想は直接に絶対他者(教祖)の想像的措定とつながっているので、一見して見えやすいが、人が普通に科学的生産に励む場合も、社会的意義・評価への関心という形で、「絶対他者」(自分がそのために存在する、個々の具体的他者には還元できない抽象的な他者、ラカン1978)という幻想は、程度の差はあれついて回る。
 そしてフロイトがいったように、科学的観点からすれば、幻想の観念的内容そのものの優劣を論じること(例えば宗教団体と日本国家のどちらが与える名誉に価値があるか、といったこと)は馬鹿げている。必要なのは、幻想—価値が形成された過程を認識—意識化し、固着した幻想の力と価値を、限りなく失墜させることである(ラカン1986)。これは精神分析の用語で、「去勢」(ラカン1958a)といわれる。もちろん既存の幻想が失墜しても、主体がもつ根底的な無意識的力動により、常に新たな幻想が再生される。幻想は、他者を求め、他者に同化し、他者に依存—奉仕しようとする、主体のいわば動物的能動性に由来するからである。しかしその基本的な能動性は存続しつつも、幻想は去勢の持続的過程の中で、より分節された科学的認識と両立するものとなり、その結果少しずつ洗練され、弱められる。すなわち主体は、絶対的な力をもつ他者によって支えられ、かつその他者の役に立ちたいと思う幼児的—動物的な世界から、他者(および他者によって支えられる主体)をも認識の対象にする、言語で明晰に分節された象徴的—科学的思考の領域に、自らの存在の「軸足」を、少しずつ動かしていくのである。
樫村愛子ラカン社会学入門』より「性的他者とは何か」p.48-53)

 (…)で食パンを買って店を出たところで、新入生の男子に声をかけられているが、これは当時まだ名前を知らなかった(…)くんだろう。

帰路、パン屋に立ち寄る。食パンを三袋購入。店を出たところで「先生」と呼びかけられる。ちゃらちゃらした男の子。見覚えがある。一年生だ。以前会議後の教室で軽く自己紹介した時、教壇に立ったこちらから見て左側の最前列に別の男子学生と並んで腰かけていた男子学生、おそらく高校から日本語を勉強しているのだろう、こちらの発言をある程度聞き取りできていた男子学生だ。男子学生は通話中だった。なので「一年生だな?」と確認するだけしてそこで別れた。しかし日本語学科の学生らしくない身なりだ。背はそれほど高くないが、茶色い髪の毛をツイストパーマみたいにして、服装もちょっとダンサーっぽい感じ。こういうタイプの男子学生、(…)くん以来だと思う。

 日記を読み返す過程でこういう記述にでくわすと、おお〜という気持ちになる。時間の流れというよりはその厚みのようなものに触れた気がするのだ。当時は名前すら知らなかった彼は、一年後のいま、もっとも頻繁に交流する学生のひとりになっている。
 あと、一年前もやっぱり上の部屋の騒音に迷惑しており、住人を腐しまくっている。

上階でゴーレムがぎゃあぎゃあ騒いでいる。なぜ夜中にあれほどの声量で話すことができるのか理解できない。各都市でロックダウンが終わるたびごとに、なぜか共産党をたたえる歌をうたいながら小さな中国旗をふりつつ、列をなして英雄のように行進し街中に繰り出していく住民の動画が、中国国内のインターネットではしばしば(われわれはコロナに打ち勝ったぞ的な)プロパガンダとして流通しているわけだが、ああいうのに好んで参加するのもきっとこの手のバカなのだろう。

 2013年9月24日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。そのまま今日づけの記事をここまで書くと、時刻はすでに16時前だった。全然時間あらへんやんけ! クソイライラする!

 「(…)」の紹介資料を作成する。学生らがウケ狙いで書いて寄越した面白作文やよく書けている作文を、どの順番でどういうツッコミをはさみつつ紹介すればもっとも盛りあがるかを考えつつ脚本を練りあげる。ここのところをうまく盛りあげることができれば、学生らは次の課題でより自由によりふざけた文章を書いて寄越すようになる。
 17時にひとまず作業を終える。第五食堂で打包する。帰宅して食したのち、快递で回収した変換アダプタをiPadでぶっさそうとしたのだが、しくじった、先端がlightning対応でないやつをあやまって購入してしまったようだった。くそったれ! というわけで明後日の授業にどうやってデータ(授業で使う資料)をもっていくか、そしてPagesで作成した書類をどうやって印刷するかという難問にとりかかる必要があるわけだが、こちらとして必要な資料をすべて微信で(…)くんに送ったのち、微信がきっとインストールされているだろう彼のパソコンを経由して必要なファイルをUSBメモリにインポート、そのまま近所の印刷屋にもついてきてもらって配布資料も印刷という流れを元々は想定していた。しかしLightningからUSBへの変換アダプを持っている学生がいれば話はもっとはやい、それを二、三日借りればいいだけなので、三年生と二年生のグループチャットで質問してみた。三年生の(…)さんからすぐに返信が届いた。第五食堂のすぐそばにスマホショップがある、そこであれば売っているかもしれないというので、あ、そっか、店で普通に買えばいいのかとなった。中国にいるとなんでもかんでも淘宝で買うという習慣がついてしまうので、ふつうに店頭をおとずれて買い物をするという発想がどうかすると失せてしまう。それでくだんの店をたずねてみることにした。
 店に入るなり、ちょっと(…)さんに似ているめがねの若い女子店員が近づいてきたので、あらかじめ淘宝の販売ページでダウンロードしておいた画像を見せてからカタコトの中国語で、「オデ、コノ道具、欲シイ。オデ、iPadUSBメモリ、使イタイ」と伝えたところ、苹果吗? というので、そうそうと受けたのち、念のためにバッグに詰めて持ってきておいたiPadUSBメモリを取り出して、往年のピコ太郎みたいに、つまり、りんごにペンをぶっさすようなジェスチャーで(Appleだけにな!)、これをこう、ドゥーン! ってしたいんやが! と訴えたところ、没有! の返事。くそったれ!
 それで店を出た。(…)さんに事情を告げると、库迪咖啡を知っているか、あの近くにも携帯電話の店があるというので、このあいだ(…)くんといっしょにコーヒーを打包したあそこかとなった。それでそちらにも行ってみることにしたのだが、ちょっと距離があることであるし、いったん寮にもどってケッタに乗ったところ、立ち漕ぎでペダルを踏み込んだ一発目でチェーンが切れた。おいッ! マジか! おまえマジか! マジでそんなことあるんか! 絶望した。この一週間で、というのはちょっとおおげさになるだろうから二週間で、いや二週間ということもないか、間をとって十日でということにしておくが、この十日間でスピーカーとパソコンと自転車がたてつづけにぶっ壊れたことになる! 最近なにかカルマを背負うようなことでもしただろうか? 一時帰国中には墓参りにだってちゃんと行ったし、水子の兄だけではない、(…)の墓にまでちゃんと手を合わせたのによー! あるいは、先日読み返した10年前の記事に以下のような記述があったが、これが原因か? 10年越しに祟られたのか?

朝、水場にたつとシンクにコオロギが一匹いたのだけれどかまわず歯磨きしたり洗顔したりして、逃がしてやる気にどうしてかなれないまま残酷な愉悦すら感じながら排水溝のほうに流れていくのをながめていたのだけれど、労働を終えて帰宅し夕食をとってから洗い物をするために水場にむかうとそちらのほうからコオロギの鳴くコロコロいう音が聞こえてきて皿を洗いはじめてしばらく、おそらくは排水ネットの中にひそんでいたのだろうけれどそのコオロギがシンクにまた飛び出してきたのも束の間洗剤をたっぷり含んだ泡まみれの水を何度もかぶっては苦しそうにもがき、それを助けようとしないじぶんがいて、コオロギはじきに硬直してふたたび排水溝のほうに流されていった。死というのはこのようにして唐突に、無慈悲に、あっけなく、なんの思いやりもなければ重みもないかたちで各人にひとしくおとずれるのかと思った。一難去っても死。
ここまで書いたところで歯磨きをするためにみたび水場をおとずれると、排水溝の奥から性懲りもなくコロコロと聞こえてきた。

 「悪いことは続く」というクソみたいなクリシェに実感が込められてしまうという胸糞悪さを抱えながら歩きだした。库迪咖啡そばの携帯ショップに入る。カウンターの向こう側で若い男がスマホのゲームをしている。先とまったくおなじやりとりをくりかえす。「オデ、コノ道具、欲シイ。オデ、iPadUSBメモリ、使イタイ」と伝えてから、往年のピコ太郎を演じる。若い男はちょっと待ってくれという。いまゲームがいいところらしく、中断できないようす。それで壁にかかっている商品を検分していたところ、あれ? これちゃうけ? というのがあった。ゲームを中断した男がやってきたので、これじゃないのとたずねると、ちがうという返事。それから、渾身の一撃ともいうべき「没有!」。くそったれ!
 店を出る。二年生のほうのグループチャットでいろいろ意見が出ている。(…)さんがこれですかといって写真を送ってくれたが、片方がlightningで片方がUSBになっているただのケーブルだったのでそれじゃないと却下。学習委員の(…)さんがこれでどうですかと送ってくれたものはたしかに変換器にみえたが、先端がlightningなのかどうかわからないし、(…)さんがそれではないと中国語で指摘していたので、たぶんそれではないのだろう。そうこうするうちに(…)さんから個人的に画像付きメッセージが届いたのだが、(…)さんが写真で送ってくれたのとよく似たブツであるのだけれどもこちらははっきりと苹果対応と記されていた。ハブというかタコ足というかそういうかたちはしておらず、USBメモリを三分の一くらいのサイズにちょんぎったようなかたちをしているブツ。たぶんこれだったらいけるんではないかと思われたので貸してほしいとお願いする。いまは自習室にいるというので、そうか日曜の夜も自習(という名の強制授業)があるのかと思う。自習が終わるのは20時40分。じゃあ21時ごろに女子寮に向かいますと告げる。

 万达にまで買い出しに出かけるという選択肢もあたまになくはなかったが、そもそもブツを置いている店があるかどうかもわからないし、ケッタが壊れたいま片道20分以上はかかるし、これ以上ピコ太郎を演じ続けるのも精神的にきつい(国際的にブームになった母国発祥のキャラをそのブームのとっくに終わったあともなお異国で演じるというふるまいはまったくもって狂った愛国者のようではないか?)。とりあえずは(…)さんのブツでしのぎつつ、淘宝で注文するべきものはしておこうというわけで、帰宅後にlightning対応のハブになっているやつをポチった。どれもこれもアホみたいに安いのでかえって不安になる、粗悪品なのではないかという疑念は拭えない。使い捨てくらいの気持ちでいこうか!
 21時前になったところでふたたび寮を出た。徒歩で女子寮に向かう。バスケコートの脇を歩いている途中、向こうから歩いてきた女子に「先生!」と呼びかけられる。背が高く、マスクを装着している。だれ? だれ? といいながら近づいていくと、マスクをはずして「(…)です」という。近くで見てみるとたしかに三年生の(…)さんであるが、胸元のあいたちょっとゴージャスなドレスみたいな服にカーディガンをはおっており、なんや? パーティーけ? という見慣れないいでたち。ひとりでなにをしているの? とたずねると、こちらがあとにしつつある方角を指差し、「友達!」という。
 (…)さんと別れて女子寮前へ。(…)さんに到着の微信を送って待っていると、また「先生!」と呼びかけられる。今度は二年生の(…)さんと(…)さんの二人。ふたりとも小さな買い物袋をさげている。なに買ったのとたずねると、(…)さんが袋から串にささった红枣を取り出す(どうでもいいのだが、これを見るたびにこちらはかつてのバイト先である(…)や(…)で販売していたアナルパールを思い出してしまう)。おいしい? とたずねると、ちょっと……と言い淀むので、酸吗? と重ねたところ、对! という返事。(…)さんはセブンイレブンのチラシをもっていた。オープンは明日のはずであるが、たぶんビラ配りかなにかをしていたんではないか? そこにいた女性店員がものすごくかわいかったとふたりとも興奮したようすでいうので、店のあるほうにダッシュするふりをして笑わせる。そうこうするうちに(…)さんがやってくる。ブツを受け取ったお礼に、日本土産のクッキーを三枚手渡す。これはいま必要ですか? 明日か明後日まで借りてもいいですか? とブツについてたずねる。(…)さん、完全に聞き取れていたようすだったが、とっさの返事が韓国語になっていたので、ふたりして笑った。
 女子寮をあとにする。第四食堂の前を迂回して寮にもどる。ベンチに座った男子学生ふたりのうちひとりが、片手にスマホ、片手にマイクで中国語のラップを歌っている。キャンパス内でもキャンパス外でもこうして路上ミュージシャンみたいなことをしている若者の姿をちょくちょく見かけるけど、みんなかならず片手にスマホをもっている、つまり、歌詞を暗記していない。さらにこのラッパーもどきのように、友人といっしょにベンチに普通に腰かけたままパフォーマンスするタイプも多い。ステージもオーディエンスもまったく仮想されていない、だからこそ自分自身プロフェッショナルなふるまいをとる必要もない(がゆえに歌詞の表示されたスマホに視線を落としたままただ歌う)。
 帰宅。(…)さんに貸してもらった変換アダプタをためす。こちらの手元にはUSBメモリがふたつあるのだが、あたらしいほうはうまく差し込むことができない、しかし古いほうは問題なく差し込むことができるしiPadのほうでも認識する。USBの規格がうんぬんかんぬんとかこちらはほとんどまったく興味をもたずこの年までやってきたので詳細は不明であるが、しょせんは一時しのぎ、とりあえず対応しているものがひとつあれば十分だ。
 シャワーを浴びる。ストレッチをする。プリンターとiPadもためしに接続してみる。接続はできるのだが、認識はしない。調べてみたところ、有線のプリンターというのは普通タブレットに対応していないものらしい。となると必要な資料をUSBメモリにぶちこんで印刷屋をおとずれる必要があるわけだ。明後日の日語基礎写作(一)については、あとは配布資料を印刷すればいいだけなのだが、28日の日語会話(三)についてはまだ最後の詰めが終わっていない。しかしこの詰めの作業というのが、授業で配布する資料、こちらの手元に置いておく資料(授業の脚本)、授業中にスクリーンに映す視聴覚資料、指定教科書をいっぺんにひらいて授業の簡単なシミュレーションを行うというものなので、ファイルをひとつずつしか開くことのできないiPadではかなりやりにくい。それでやる気をなくした。もう明日でええわとなった。時間も23時半だった。今日はほとんどなにもできなかった一日だったなと思った。自転車もぶっ壊れたしよォ!
 その自転車のようすをのちほど、たしか夜食のトーストを食い終わったあとだったと思うが、一階までおりて確認しにいった。というのもチェーンの修理をどうにかじぶんでできないだろうかとググってみたその流れで、自転車のチェーンが切れるということはあまりない、普通はチェーンが外れるだけだという情報に行き当たったのだ。実際、自転車を購入したのは去年の夏休み前でまだ一年ちょっとしか経過していない。走行距離にしたところで微々たるもので、(…)中学校の中坊のほうがずっと長い距離を走っている。それでチェーンが切れるのはおかしいだろうと思って確認しにいったわけであるが、勘違いではなかった、外れているだけではなかった、マジでがっつり切れていた。クソ粗悪品が!