20231024

 そこで現在の問題を考えてみると、エリアスも示したように、文明化は感情の抑制を助長したが脱文明化は感情のコントロールを社会的レベルから個人的レベルに移動させる(感情についての社会的規範や統制が消失していく)ため、人々はより自身の感情について対象的・操作的にならざるをえなくなっている。この点で人々の困難は高まりセラピーへの関心は高くなっている。もともと治療のためのものであり初期の他者に問題がある人に他者を補償してきたセラピーは、現在主体や関係の再帰性をコントロールできない普通の人々にとっても処方箋として期待がかけられている。
 しかし、セラピーが示唆するのは、人は自分が望むようには自身や他者を支配できないということであり、むしろそのような欲望を認識し断念することで、他者に依存している自身のありようを受容するということでもある。それは自然なものとされていた愛などについての感情を普遍化し絶対化するのではなく、その被拘束性、いわば限定性を自覚することである。自分の感情の自然性を脱構築するということは、感情を自由に操作・支配できるようになるということではない。操作・支配への欲望は逆に自分の欲望を絶対化しているわけで対象化できていないことをさすのである。自身の感情の自然性を脱構築したからといって人に愛されたかったり自分が弱いと感じる感情は依然変わらないだろう。しかしそのような感情をもつ存在であることを受け入れるとき、自然で自明であった感情は相対化され、そういった感情をもたない人々、例えば自閉症者たちとの交流の可能性を開いていくだろう。精神分析でいう「去勢」とはこのような「主体の脱中心化」を指すものであり、人が自己の欲望を克服するときには、結局この脱中心化をどこかで経るのである。
 ここで、現在ケア労働で問題になっている、感情労働についても見ておこう。介護の社会化などにより進むケア労働の合理化や制度化は「感情労働や魂の労働化・愛の労働化」と呼ばれ批判されている。しかし批判者たちはここで、感情や愛や魂の自然性を無条件に絶対的なものとして捉えている。人間関係をコントロールしようとする功利主義に対する彼らの批判は正当なものだが、一方これらを手つかずのものと考える彼らは彼らの考える理想がたかだか自分たちの被拘束的な構造の産物でしかないことを認識していない。愛を絶対視すれば、愛を感じる構造をもたない自閉症者や精神病者を結果的には排除してしまうこととなる。またこれら批判者たちは、ケアワーカーらが職業役割や倫理によって規制することなく自身が感じる感情や魂や愛といったものの自然性に依ることで暴力的になる可能性があることを考えているだろうか。精神分析は愛の背後に必ず憎しみを想定しうる。むしろケアワーカーたちは、分析化が教育分析を通じて自身の感情や魂や愛について徹底対象化するように、分析家ほどの強度ではなくても、それらを対象化する必要があるだろう。精神分析がもつ非対称性や制度性を批判するナラティブ・セラピーにも同じような関係のユートピア的想定がある点で問題があるだろう。
樫村愛子『「心理学化する社会」の臨床社会学』より「若者たちのポストモダン的共同性」 p.54-56)



 8時半起床。トーストとコーヒー。今日の最高気温は30度オーバー。半袖一枚で外に出る。最寄りの売店で「お水」を買ったところ、なんであんたは微信で支払いできるんだと問われた。はてなと思っていると、(…)はいつも紙のお金で支払いをするというので、微信の設定方法がわからないのかなと思ったが、いやそうじゃないな、きっと個人情報がうんぬんかんぬんとまた言っているのだろうとひそかに推測した。
 10時から二年生の日語基礎写作(一)。冒頭で交通事故の話と(…)先生の話。学生らはやはり(…)先生に対してあまり良い感触を抱いていないようす。しかし年代的に彼が学生時代に受けてきた教育はいまの時代からは考えられないようなものだったというか教師の権威がアホみたいに強い時代を学生として過ごしたのだろうから、結果、彼自身その教師像を踏まえて教師然としてふるまってしまうのも無理はない。授業は「(…)」の続き。最後まで終わった。死ぬほど盛りあがった。おれはひょっとしたら天才なのかなと思った。あまった時間で中国に伝わる迷信をいろいろ教えてもらった。ごはんに箸を垂直に刺してはいけないというものがあった。これは日本と同じだ。(…)さんが右のまぶたがぴくぴくすると悪いことが、左のまぶたがぴくぴくすると良いことが起こるという迷信を教えてくれた。(…)さんが廊下に鏡を置いてはいけないという迷信を教えてくれた(幽霊が映り込むらしい)。(…)さんが夜道をひとりで歩いているときに後ろをふりかえってはいけないという迷信を教えてくれた(これもやっぱり幽霊関係らしい)。なにかの拍子に(…)さんが、中国はマルクス主義なので迷信はダメですみたいなことを冗談めかして口にして、みんな笑った。
 昼飯は(…)で牛肉担担面。食後は瑞幸咖啡に立ち寄ってココナッツミルク入りのアイスコーヒーを受け取る。帰宅後、午後の授業準備をし、きのうづけの記事の続きを書き進める。
 14時半から一年生2班の日語会話(一)。例によって枕として交通事故の話。授業は第1課。事前に教科書を持ってくるように伝えていなかったので、ほとんどの学生が手ぶらだった。単語のページだけ写真に撮って微信のグループに送る。きのうの1班の授業の反省をいかし、基礎練習は復唱中心でカッチリやる。そして後半でアクティビティ。死ぬほど盛りあがる。1班のほうでもおもいのほか盛りあがったが、モチベーションの高い2班のほうが当然さらにずっと盛りあがるわけで、ほぼパーティー状態だった。こちらがあらかじめ複数の選択肢を用意しておいた「国籍」「職業」「年齢」をグループごとに自由にチョイスして架空のプロフィールを作成したうえ、この課で習得する文型である「あなたは国籍/職業/年齢ですか?」でもって順番に他グループに質問して的中させたらポイントゲットみたいなルールなのだが、架空のプロフィールで国籍を「タイ」、職業を「暴力団員」にしたグループが二つもあった。最近の人民の間では、いったいなにがきっかけなのか知らないが、タイは物騒であるという認識がネットを介して行き渡っており、そのせいでタイに旅行にいく人間の数がめちゃくちゃ減っているという話をわりと最近どこかで見聞きした記憶があるので、たぶんその関係だろう(ちなみにこの認識もじきになんの反省もともなわずに消え去るとこちらは確信している)。
 帰宅。ひととき休憩したのち、第五食堂で打包。食後は30分ほど仮眠。シャワーを浴び、コーヒーを二杯たてつづけに飲みながらきのうづけの記事の続きを長々と書く。投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年10月24日づけの記事を読み返す。2013年10月24日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。以下のヴァルザーの一節、ちょっとひねりをくわえたバートルビーみたいでおもしろい。

目は考えごとを仲介して伝える、だから僕は時々、何も考えなくて済むように目を閉じるのだ。そんなふうにして何もしないでいると、突然、生きることはなんて厄介なのだろうと感じることがある。何もせず、なおかつきちんとした態度を守る、これはエネルギーを要する。それに対して、何かを創り出す人間は楽だ。
(ローベルト・ヴァルザー/若林恵・訳「ヤーコプ・フォン・グンテン」)

 それから、当時の日常を象徴する以下のくだり。

買い物に出かける気力さえなかったが、しかしだからといってありあわせのもので夕食をすませるとなると外の空気を吸う稀少な機会がうしなわれてますますどろんどろんになってしまうように思われたので男・無法松、ド根性出して家を出た。傘をさしながら片道十分の道のりを歩いてぶつくさやった。スーパーではじつにひさしぶりに豚肉を買った。殺人事件のあった家の前を通っているはずなのだけれどどの家が現場であったのかいまひとつ覚えていない。コンバースがボロボロすぎるせいで水たまりをどれだけ完璧に避けようとも雨の日に外出すれば必ず水がしみこんでうっとうしい。そろそろ買い替えないと。女性に好まれる男性のタイプとしてしばしば清潔感という要素があげられるけれど、靴はボロボロだしズボンの裾も黒く汚れてるし上着はほつれてるしそもそも390円で買ったものだしひげ面だし、部屋の畳は腐ってるし小蠅がよくわくし鍵はないし窓はないしそのくせ13万円の椅子はあるし、職場はダーティーだし同僚もダーティーだし上司もダーティーだし業界そのものがダーティーだし残りものと拾いものと貰いものでやりくりしてるそもそもの生活がやっぱりダーティーだし、と、ここまでくるともはや清潔感うんぬんの話ではない。

 十年前のこうした日々の生活の記録を読み返していると、いいな、またああいう生活をしたいなと思う。一週間の半分以上はだれとも会わずだれとも口をきかずに過ごす、そういう静けさがやっぱり必要だよなと思う。いまは毎日必ずとだれかと会うしだれかと話す(それが仕事なのだから当然であるのだが)。たとえそれが一日のうち二時間か三時間程度でしかなかったとしても、ひとと会ってひとと言葉を交わすことで破れてしまうものがある。ひとつながりの沈思黙考と、そんなおおぎょうな言葉を使う必要はないかもしれないが、それでもたとえば執筆中の小説のことであったり読んでいる本のことであったり、そういうものをずっと抱えたまま生活する、日々のよしなしごとを片付ける、その抱え込みが他人と接触することによって不可能になってしまう、そういうところはあるんじゃないかと思う。
 それから、以下は大西巨人について(いま、大西狂人とタイポしてしまったのだが、これはある意味まちがいじゃないかもしれん)。「世界にもてあまされている」というのはいい表現だな。

ずいぶん早い夕飯を食したのち大西巨人をぺらぺらやって仮眠をとり、18時に起きてからシャワーを浴びた。それからふたたび大西巨人をぺらぺらやったりしつつ徐々に推敲へのモチベーションを高めようと努めたのだけれどしんどいものはしんどいしつらいものはつらいし背中だって痛いものは痛い。ゆえにとりあえずの助走というかストレッチとしてこうしてブログを書いているのだけれど、大西巨人のあの独特の文体ってなにかこう癖になるところがあるというか、遊び・隙・弛み・だらしなさみたいな(「物語」に対置すべき概念としての)「小説」的要素をまったくもたない文体でしかしその小説を書いてしまっているというか、いま読んでいるものはエッセイなのだけれどたとえば『神聖喜劇』(大傑作!)なんかはある意味脱線に次ぐ脱線でなりたっているというかそもそもの脱線という概念を無効化してしまう細部が細部のままに無機的に積み重なって構築された全体としての小説になっていてすなわち完璧な小説でありその完璧さが非小説的文体と折衷しているのが妙味になっているのだけれど、それが『深淵』なんかになると細部もクソもない骨組みだけの図式がごろりと投げ出されているような按配でそこに加えて肉をもたないやはり骨組みだけとでもいうべき例の文体が加わるわけであるのだからいったいこれは何なんだという異様な相貌をていしてこれはまたこれですごい。ぜんぜん名前負けしていない化け物じみた孤高の書き手であると思うし、文学賞のたぐいを一度も受賞していないところがハクになるのもこのひとくらいだろうと思う。完全に世界にもてあまされている。

 アーロンチェアの導入によって、死にかけていた腰や背中の痛みがずいぶんやわらいだらしく、「ペンネームにミドルネームとしてアーロンを入れてもいいのではという程度にはハーマン・ミラーに感謝している」という言葉も残されていた。アホすぎてちょっと笑った。
 読み返しを終えて、そのまま今日づけの記事もここまで書くと、時刻は23時半近かった。

 BUCK-TICK櫻井敦司の訃報に触れた。BUCK-TICKの楽曲はあんまり聞いたことがない。ただ評価が高いというのは知っている。夜食はトースト。なんとなく1月の航空チケットを調べてみたところ、往復で6万円台のものがあったので(直行便ではない)、だったら冬休みに帰国するのもアリだなと思った。寝床に移動後、Bliss and Other Stories(Katherine Mansfield)の続きをちょっとだけ読み進めて就寝。